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浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2013年11月
越後に流されて四年、建暦元年(けんりゃく 1211年)に親鸞聖人は、師法然上人とともに赦免をうけられました。しかし、聖人は京都にはもどられず、建保二年(けんぽ 1214年)四十二歳のとき、家族と共に、関東に移られます。それから六十歳を過ぎて京都に帰られますが、四十歳代、五十歳代という生命力の最も充実した壮年期の二十年を、この関東の地で、本願念仏の教えを縁ある人々に伝えることをみずからの使命として、この地に生きられました。
何故、関東に新天地を求められたのかはっきりしたことは分かりません。然し妻子を伴っての移住ですから、聖人をして決心させる明確な因縁があったのでありましょう。
もともとこの関東は早くから法然上人の教えにご縁の深い人々が多く、特に各地の有力者で法然上人に帰依する人が多かったとも言われています。その関東の人たちが、法然上人が亡くなられた後、その教えの後継者として親鸞聖人にその期待をかけた人が多くあったことは充分考えられることであります。
関東における聖人二十年の心血を注ぐ教化は、常陸(ひたち 茨城県)下総(しもふさ 千葉県)下野(しもつけ 栃木県)の三国を中心に、ひろく関東から東北にまでおよび、後に歎異抄(たんにしょう)を著わした唯円(ゆいえん)をはじめ、二十四輩(高足の門弟二十四人)と呼ばれる、聖人帰洛後、またその滅後もその教えを後世に伝えるために力を尽くす代表的な弟子達は、みな聖人の関東時代の教化によって生まれた念仏者です。そして、それらの人々を中心とした念仏者の僧伽(さんが 集団)が次々生まれてゆきました。
しかしそのご苦労が容易なものでなかったことを示す事件も同時に伝えられています。聖人は関東滞在中二・三住居を変えられているようですが、ほぼ稲田(いなだ)の草庵(茨城県笠間市)と呼ばれているところを拠点にして広く各地におもむかれたようです。現在その場所は西念寺(さいねんじ)という寺院になっています。
ところでその事件というのは、聖人が布教のために常に往復される板敷山という山があり、そこに弁円(べんねん)という修験道の僧(山伏)が住んでいました。彼はその地方の村々を回って、因果応報を恐れ、吉凶禍福(きっきょうかふく)に迷う人々の為に加持祈祷(かじきとう)をして、彼の修行の霊力で悪霊を払い、鬼神を折伏(しゃくぶく)して、病を治したり、幸運を齎(もたら)してやるということで村人から大変頼りにされていました。
現在でもそうですが、当時の一般庶民は、宗教は人間の力をはるかに超えた神仏に祈って、この世の災いを除き、幸運をもたらすものと考えていたのです。ところが親鸞聖人の念仏の仏法を聞くことによって、すべて人間の考えている吉凶禍福は、愛憎(あいぞう)と利害(りがい)に左右される人間の迷いの心が造りだしているもので、人間の外に人間の運命を左右する悪霊や鬼神などは存在しないという道理に目覚めてゆきました。然しその為に弁円の加持祈祷を信ずる村人が少なくなり、彼にとっては一大事の出来事でした。そこで彼は聖人の存在を憎むようになり、遂に聖人の殺害さえ考えるようになったのです。その為色々策を講じたようですが果たせず、結局彼は意を決して聖人の草庵に押しかけます。御伝抄〈ごでんしょう 聖人の伝記〉には、その時の様子を次のように述べています。
「よって、聖人に謁(えつ)せんとおもう心つきて禅室に行きて尋申すに聖人左右なく(何のためらいもなく)出会いたまいにけり。すなわち尊顔(そんがん)にむかいたてまつるに、害心〈害を加えようとする心〉忽(たちまち)に消滅して、剰(あまつさえ)後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、有(あり)のままに、日来(ひごろろ)の宿鬱(しゅくうつ 抑えに抑えたうらみ)を述(じゅつ)すといえども聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭(きゅうせん 弓矢)をきり、刀杖(とうじょう)をすて、頭巾(山伏のかぶる小さな頭巾)をとり、柿衣をあらためて、仏教に帰しつつ終(つい)に素懐(そかい)をとげき。不思議なりし事なり。すなわち明法房(みょうほうぼう)これなり。聖人これをつけ給いき。」とありますから弁円は聖人にお会いしただけでその徳に触れその場でお弟子になったというのです。
これは一つの例ですが、弁円に限らず「ただ念仏して」という専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えは、人々の中にある吉凶禍福を祈る宗教心を超克(ちょうこく)せしめる真実の道でありました。聖人は京都に帰られたその晩年もこの明法房のことを心にかけられ、彼の往生を知り彼との因縁を懐かしんでおられるお手紙が残されています。
浄土真宗の歴史
33
紙面掲載年月:2014年1月
親鸞聖人は四十二歳の時、家族と共に関東に移られました。そこで縁ある人々に本願念仏の仏法を伝えられましたが、越後から関東(常陸ひたち―茨城県)に向かわれる途中、上野(こうずけのくに)佐貫(さぬき)(群馬県、邑楽郡(おうらぐん)佐貫)というところで、聖人にとって後々までも忘れることのできない大きな出来事があったことが伝えられています。
そのころ、関東一円は大変な飢饉(ききん)に襲われていました。聖人は共に歩んできた人々、あるいは行く先々で出会う人々が、飢えや病のために、その日その日の命をつなぎながら、やがて力つきて次々と倒れてゆく。その姿から目をそむけることができず、浄土(じょうど)三部経(さんぶきょう)を千部読誦(どくじゅ)し、その功徳でその人々の苦難を救おうと発願(ほつがん)された事が伝えられています。あの大部な経典を千部読み抜くというのですから、昼もなく夜もなく、ただ一室に籠(こ)もって一心に経を読み人々の平安を祈られたのです。そしてそれこそが僧侶である自分のなすべきことと考えられたのでありましょう。
聖人が若いころ修行された比叡山では、例えば天皇や政治の中心にいる貴族が病に倒れられた時など、病気平癒(へいゆ)の祈願(きがん)をしたり、また飢饉や災害を悪鬼神(あっきじん)の障(さわ)りと考えて、降魔(ごうま)の祈願をするということがしばしば行われていました。人々は一切の欲望を捨てて日夜修行を重ね、人々の平安を祈っていてくださる聖僧(せいそう)たちが、人々の苦難を除くために一山(いちざん)をあげて、尊いお経をあげていてくださるということを知るだけでも、大きな心の支えになったのです。国家(こっか)安穏(あんのん)・五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)を祈ることが、国家仏教として受け入れられた日本の仏教の使命でした。そのような教団の中で青年期を過ごされた聖人が、人々の苦難の姿を見られ、止むに止まれぬ思いから浄土三部経の千部読誦を思い立たれのであります。
しかし、奥様の記録によりますと、聖人は「四・五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給(たま)わで」とありますから、まだ満願(まんがん)にならぬ途中でその三部経読誦をお止めになったのです。そのとき「思いかえして」とありますが、それについて聖人は「念仏を自ら信じ、ひとにも教えて信じさせることが、本当に仏のご恩におこたえするものであると信じながら、南無阿弥陀仏の外に、何の不足があって、一途に経を読もうとするのか」と気付かれ、経を読むことを止められたといわれています。
親鸞聖人が比叡山での一切の学行を捨てて法然上人の説かれる本願念仏の仏法に帰されたのは、皆様ご存知の通り聖人二十九歳の時であります。そして、その本願念仏の教えは、出家・在家・老若男女・善人・悪人を選ばれない、すべての者の上に働いておられる、阿弥陀如来の本願のまことを信じて浄土往生を願う教えであります。そして親鸞聖人はその教えを信じ、結婚をされ、子供を持った、普通の人間の生活を始められたのです。僧依は着ておられますけれども、もう比叡山の上で修行しておられるような聖僧ではありません。
親鸞聖人は自ら名乗られた如く愚禿(ぐとく)親鸞なのです。飢餓(きが)に苦しみ、愛憎(あいぞう)にもだえ、死の不安におびえる人々と同じ凡夫の姿になっておられるのです。その聖人に出来ることは、その苦しみ、悲しみを人々と共にしながら、自ら深く如来の大悲をいただき、人々にその道を伝える事こそが念仏者の道であることにお気付きになります。そして、どこまでも捨てることのできぬ「指導者(しどうしゃ)意識(いしき)という自力(じりき)のこころ」の強い自分を深く悲しんでおられます。それ以来聖人はすべての縁ある人々を「御同行(おんどうぎょう)・御同朋(おんどうぼう)」といただいていかれました。
浄土真宗の歴史
34
紙面掲載年月:2014年3月
親鸞聖人は関東に約二十年間滞在され多くの人々と仏法のご縁を結ばれました。しかし、その教化のありかたは、聖人自身の長い間の学問と修行により体得された仏の教えによって、人々を教え導く「指導者」として人々に向かわれるということはありませんでした。むしろ妻子をもった一人の在俗の念仏者として、すべての人々の上に働きその救済を願い続けておられる阿弥陀如来の本願を自ら信じ、それによって救われた自らの喜びを人々に伝え、人々が同じ喜びに生きることを願い続けての御苦労を重ねられました。従って縁あってその教えを聞き信ずる人々が現れても、聖人は自分がそれを教え導く師で、聞く相手をわが弟子であると言われることは決してありませんでした。ともに念仏の仏法で結ばれた「御同行・御同朋」(おんどうぼう・おんどうぎょう)として、その相手を尊ばれたと伝えられています。同行というのは同じ「念仏の行」を行ずる者という意味であり、「同朋」というのは仲間とか友人という意味です。その人々をただ「同行」「同朋」と呼ばれないで「御同行」「御同朋」と呼んでおられます。
そうして念仏の教えは聖人を中心として次第に広まり、各地に「専修念仏のともがら」という「念仏の共同体」が形成されてゆきました。専修念仏(せんじゅねんぶつ)の人は、孤立した孤独な念仏者ではありません。専修念仏の旗印のもとに集い、選択本願(せんじゃくほんがん)の行信(ぎょうしん)によって「とも同朋」の縁に結ばれた人々でした。それは世間的な差別を超えた、念仏において共に「浄土の家族」という宗教による共同体でした。そして、それが親鸞聖人から深く信頼され、人々からも信頼を寄せられた念仏者を中心とした共同体として発展し、やがてその地区の名称を冠する、「高田門徒」や「横曽根門徒」また「鹿島門徒」と呼ばれるような共同体が数々生まれました。高田門徒は真仏(しんぶつ)。横曽根門徒は性信(しょうしん)。鹿島門徒は純信(じゅんしん)という、親鸞聖人からいただいた法名をもつ念仏者が中心になって、やがて、 親鸞聖人が京都にお帰りになった後もこれらの共同体を長く支えました。
口伝抄(くでんしょう)という書物にこのような事が伝えられています。先ほどから言っています中心的な立場の念仏者の中に信楽房(しんぎょうぼう)という人がいました。その信楽房が人々に教えを説いているのを親鸞聖人がお聞きになり、そこで説いている教えの理解について、間違いを聖人が注意されたことがあったようです。その時信楽房はその聖人の言われたことに納得せず、逆に聖人の考えに反対し、とうとう腹を立てて本国に帰ってしまったというのです。その一部始終を見ていた他の念仏者が信楽房の不遜な態度に腹を立て、聖人にあんな者は破門にすべきである。また、聖人が与えられていた本尊や書物も取り上げるべきで、あいつのことだから聖人からいただいたものも破り捨てるに違いないと聖人に迫りました。
その時聖人が「親鸞は弟子一人も持たず。みな如来様の御弟子である。師の自分に背いたから破門にするなどということは、とんでもない間違いである。この世のことはみな御縁で『つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る』(一緒にいる縁があれば共に歩めるが、しかし、離れねばならぬ縁がはたらけば離れねばならぬのがこの世の定めである)ものである。縁があれば彼とはまたどこかで会えるであろう」とおっしゃったと伝えています。また実際、信楽房は後に聖人に詫びをいれ以前の如く、念仏者の中心で大きな働きをしました。