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​正信偈に聞く

 38-

​平成23年8月24日

 今日は。

 今日は新しい方が数人お参りなっておりますので、今までの学習の流れを聞いて頂きたいと思います。

 正信偈は、親鸞聖人がお書きになったものです。親鸞聖人には書物がたくさんございますけれども、その中で根本聖典と言っております書物に教行信証があります。この教行信証の行巻の終わりに「偈文・げもん」という七文字の漢字で書かれたうた(偈)の形式になっているものがあり、それを「正信念仏偈」といっておるわけです。

 この偈の部分を切り離して、それを朝晩のお勤めに使えるようになさったのは、本願寺第八代目蓮如上人という方です。御門徒の中から朝晩のお勤めをしたいという希望が出たといわれます。それに答える形で、親鸞聖人の教行信証の中から偈(うた)の部分だけを切り離して、それに念仏と和讃を添える形でお勤めをするという、現在のお勤めの形式ができたのが本願寺八代目の蓮如上人の時でございます。

この方の時に本願寺教団は爆発的に大きくなったといわれます。

 

 この「同朋の会」で、正信偈を話して欲しいという皆さんの要望がございましたので、正信偈を順を追ってお話しをしております。かつて本願寺から出ております正信偈のテキストが有ったのですが、専門的すぎて難しいという話でありました。それで今回は、九州大谷短期大学の学長をしておられました古田先生が、熊本の市内のある寺で『正信偈』をお話なさっておられた時に使っておられた、レジメを纏めたものを基に皆さんと一緒に勉強をして来たわけです。

 

 初めての方が来ておられますので、今までのことを少しお話をしておきます。正信偈は大きく分けて「依経段」と「依釈段」に分かれます。そして、始めの「帰命無量寿如来・南無不可思議光」は総讃(そうさん)といって全体にかかる言葉です。

 次に「依経段」というのは、お経に依ってという意味です。ですから前半分は浄土の三部経、中心は大無量寿経ですが、三部経に依って本願念仏のいわれを書いておられる部分です。

「依釈段」というのは釈に依ってという意味です。釈というのは、お経の解釈をなさったから釈です。その教えに基づいて、インド・中国・日本と三国に渡って親鸞聖人は七人の高僧を選んで、その七人の高僧が浄土三部経の心をどのように讃め、その教えがどのように説かれているかを高僧ごとに述べられているのが後の半分になるわけです。

 今までずっと「依経段」、つまり浄三部経に基づいて本願念仏の仏法のおいわれが説かれておる部分を読んで来ました。それが終わりまして、今は「依釈段」の天親菩薩のところに入っておるわけです。

「依釈段」に七人の高僧があげられまして、インドでは竜樹菩薩・天親菩薩という方を、選んでおられるわけです。そのことについては、前回の平成二十三年七月二十四日の講義録を参照下さい。

仏教はインドで奥って、中国そして朝鮮半島を通って日本に来ました。

 インドに仏教の学者がたくさん出て来て、たくさんの「論書」が出来るわけですが、その中でインドの学者を代表する人が龍樹菩薩と天親菩薩という人です。だから親鸞聖人も真宗の教えの伝統ということを考える時に、竜樹菩薩と天親菩薩の二人を揚げられるわけです。その流れが自分の処まで来て、念仏一つでたすかるという教えになっていますということを「依釈段」では仰るわけです。

 竜樹菩薩は第二の釈迦と言われておる方です。もしも竜樹菩薩がインドに出られなかったならば、仏教がこれだけ大きな学問の体系にはならなかったであろうと言われておる人です。ですから竜樹菩薩を第二の釈迦と言われておるわけです。それでもお釈迦様が亡くなって七百年して出て来られた人です。

それからさらに二百年遅れて出て来た人が天親菩薩という人です。

 お二人とも大変な学者で、厳しい修行を重ねて、お釈迦様と同じような悟りの境地を得られた、当時を代表する学者が竜樹菩薩と天親菩薩です。竜樹菩薩は仏教を「難行道」と「易行道」の二つに大きく分けておられます。

「難行道」は、厳しい修行を経て悟りを開くという道。「易行道」は、仏様の真を信じて、信心一つに依って仏の悟りを得られるという「信仏の因縁」と言っておられますが、そういう二つの道がある。

そこで自分は、「信仏の因縁」に依る易行道を求めて行くと言うことを仰っておられます。その流れの中から真宗の教えが出てきたというのが親鸞聖人の仰る事でございます。

 竜樹菩薩は、念仏を申して阿弥陀仏を信じて救われていくのだということは仰ったのですが、お浄土に生まれるという表現は無いのです。ところが天親菩薩は浄土に生まれるという教えをインドの学問の中で始めて説かれます。自ら浄土を願って教えを生きた人が天親菩薩という方です。

ことをこの正信偈には仰っておられまして、このプリントの「浄土論」に、

 

世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。

我修多羅、真実功徳の相に依って、願偈を説いて総持して仏教と相応す。

 

という言葉が「浄土論」の一番始めにあります。それを正信偈には、

 

天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。

修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。

 

と親鸞聖人は書かれておるわけです。

お釈迦様が亡くなって九百年経っているわけです。この大無量寿経をずっと読んで読んで、読み抜かれて、そして浄土論を書かれたものですから、大無量寿経の精神を顕らかにした論文なのです。始めにこの大無量寿経を説かれたお釈迦様に向かって、天親菩薩が呼びかけられるわけです。

 

世尊よ」、私(我)は、尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に生まれんと願ず。と。

 

「安楽国」というのがお浄土です。阿弥陀仏の浄土を安楽国と言ってあるわけです。

だから「お釈迦様、解かりました、あなたが私たちに仰りたいのは、阿弥陀如来(無量寿如来)に帰命して、そのお浄土に生まれよと、それが全てのものの救済されていくたった一つの道だということをお釈迦様は仰りたかったのですね。」と、先ず表白されたのです。

ですから、ここでお釈迦様、私は一心に、二心無く、十方を尽くして障り無き光の如来に帰命しますと仰ったのです。それが南無阿弥陀仏です。

そして阿弥陀仏の浄土である「安楽国に生まれようと願じます。」こういうように天親菩薩は仰っておられます。そこから、天親菩薩の浄土論の教えが始まるわけです。

これを親鸞聖人は非常に尊んでおられます。そして私たちも、このことが私の人生においてはっきりと成り立つということ意外に私たちが、この迷い多い人生を超えて生き抜いていく道はないのだということを天親菩薩のこの言葉に頂かれたわけです。

 

 これは前回申しましたけれども、『帰命尽十方無碍光如来』というのは、皆さんのお宅のお内仏の、向かって右側に掛けてあります。左は『南無不可思議光如来』と掛けてあります。右側の「帰命尽十方無碍光如来」というのは、浄土論のこの文を書いてあるのです。天親菩薩自身がお釈迦様に、九百年経っておりますけれども、とにかく教えの上にお釈迦様は生きているわけです。だから九百年も離れておるから、お釈迦様の心が解らないということはないのです。

 親鸞聖人が亡くなられて七百五十年でしょう。七百五十年前に死んだ人の教えを、私たちが信ずることができれば、そこに親鸞聖人がいらっしゃるわけです。そういうところに教えというものの大切さと、私たちが本当に依り所にせねばならんものは何なのかということがあると思うのですね。

 

 今の世の中は、経済を主体にした世の中ですから、金がなければいけません。しかし金が全てかと言われたらみな躊躇するでしょう。金があれば便利がいいし、物があれば豊かということは思いますが、それがあなたの全てかといわれたら、やっぱり躊躇するでしょう。

「じゃ、あなたにとって大切なものは何か」と若い人に聞いてみると、愛情というようなことを言います。しかし我々のように年を取るとすぐに判ります。人間の愛情はあまり当てにならんということも、年を取ると判ります。相手が私を愛してくれるということも条件次第です。つまり都合の良いときは愛しても、条件が悪くなると愛してくれないという、又こちら自身が相手に対して愛情が動くということを我々年寄りは知っています。

 しかし若い人は純粋ですからね、我々もそういう時代がありましたから判る。わかりますけど、若い人は「愛情」と、こういうように言います。年寄りはどう言うかといえば健康といいます。なぜかと言えば、本人が健康な時は言いません。ところが年をとって健康が危なくなると健康と言いだすのですが諸行無常です。本当の依り所になるかということが問われておるわけです。それが、はっきりせねば私たちの人生は、結局は非常に空しい人生になる。ああでもないこうでもないと言ってうろうろして、しかも人間的欲望が基になっているのですから、いろいろな問題があるわけです。そして後悔もありますし、罪の意識も年を取ればとるほど強くなってきます。

 しかし、そうでしかない私が何処に帰っていくのかということになります。それが宗教の問題でしょう。それをここでは「安楽国生まれる」と。天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に生まれる道として南無阿弥陀仏が説かれているということがようやく解かりましたと言われるわけです。

 千部の論主といわれた天親菩薩が、晩年にそういう事を言われているわけです。これは大無量寿経に説かれたお釈迦様の心を頂かれた表現ですね。そこで、先ず天親菩薩の教え、お徳を讃められるのに、浄土論の、この最初の言葉が天親菩薩の中心だということを言われるために、親鸞聖人は正信偈の中に「天親菩薩無碍光如来」と、この言葉をもって押さえておられるということが非常に大切です。

 

 清沢先生の「絶対他力の大道」を皆さんとお勤めの後に拝読しておるのですが、このことについて今までお話をしたことはありませんが、少し具体的に、今日はお話をしてみたいと思います。

天親菩薩が「一心に尽十方無碍光如来に帰命し安楽国に往生せん」と仰る仏法を、清沢先生は「絶対他力の大道」と表現されているのです。今日、読みましたところでは最後のところで、

 

我、他力の救済を念ずるときは、わが世に処するの道開け、

我、他力の救済を忘るるときは、わが世に処するの道閉づ。

 

我、他力の救済を念ずる時は、我、物欲のために迷わさるること少く、

我、の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷はさるること多し。

 

我、他力の救済を念ずるときは、わが処するところに光明てらし、

我、他力の救済を忘るるときは、わが処するところに黒闇おおう。

 

とあります。

「他力の救済を念ずねときは」ということは、南無阿弥陀仏を申すということです。我々の日暮らしの中で自分の心を見ると、何でも出てきますからね。相手が家族であっても「やれやれ」とか、この人はいったい何を考えているのだろう」とか、何でも出てきます。

 しかし、そう思うのは私の心です。私の心で計った相手なのです。私の心に写った向こうですから、私の心が曇っておれば向こうも曇るわけです。だから問題はこちらにあるわけです。

 ですから、そういう私を私と気付かしてもらう鏡が南無阿弥陀仏です。それをここでは「他力の救済を念ずるとき」という表現で仰っています。つまり南無阿弥陀仏申すという意味なのです。その時に、「わが処するのところに光明てらし、」そしてそれを「忘るるときは、わが処するところに黒闇おおう」と仰います。そして、

 

ああ、他力救済の念わ、よく我をして迷倒苦関の娑婆を脱して、

迷倒というのは、迷って苦しみ悶えている。

 

悟脱安楽の浄土に入らしむるが如し。我は実にこの念によりて

現に救済されつつあるを感ず。

 

死んで極楽に行くとは言っておられないですよ。今、現に念仏申すところに「救い」そういうことを体験しておると仰る。

 

もし世に他力救済の教なかりせば、我はついに迷乱と悶絶と

免れざりしなるべし。

 

こういうことをはっきり言っておられます。

こういうところに「世尊我一心」と天親菩薩が仰る具体的な相があるということを私は思うわけです。

正信偈 38ー2

​正信偈に聞く

 38-2 

​平成23年8月24日

 清沢先生については、皆さんご存じの方もおられますけれども、この方は在家の出身です。お父さんは尾張藩(名古屋)の足軽頭と言っていますから下級武士の徳永永則という人の長男として生まれられました。明治になって武士の時代が終わり、そしたら、その地位に応じて退職金が出たそうです。

 ところがその退職金はすぐに無くなって、それでお父さんはお茶か何かを行商して歩いておられたそうです。ところが武士の商法で騙されたり威張っているものだから買ってくれなかったりして、実際生活が苦しかったそうです。

 その中で先生は、非常に頭がいいし、ご両親は息子の教育に大変熱心で、先生は当時創設されたばかりの愛知外国語学校に入学し、そこで語学力の基礎を培われたようです。当時から神童と噂されるほどに優秀でしたが、家庭の経済状況が貧困のため、それ以上の勉学に専念することができず、満たされない向学心を持て余しておられたようです。

 そのころお母さんは、近くの大谷派のお寺にいつも参って聴聞しておられたのですが、「お念仏の教えが、紙一重のところが解からん」ということをよく仰っておられたそうですね。そういう非常に篤信なお母さんだったと言われます。そういう関係もあって、その寺の若院さんと満之さんはお友だちだったそうです。

 明治に入って、東本願寺は近代化を進めます。そして本山は人材養成ということを考えて、主に宗門の子弟を中心に、一種の英才教育によって次の世代の宗門を担う人材を育てるということで授業料や生活費を支給する制度を作っていました。

 そのお寺の若院さんが「徳永君、君お坊さんにならんか。そしたら本願寺が金出してくれて勉強できるぞ」と言ったらしいですね。それで清沢先生はお坊さんになるのです。本山が先程の目的で開教した「育英教校」に入学されます。これが先生と真宗大谷派との縁の始まりです。そして東京大学に本山の費用で入学されるわけです。西洋哲学を専攻されます。

 何人学生がいたのか知りませんけれども、東大で西洋哲学を学びます。哲学の中心はカントだったと言われております。東京大学の先生は全部外国人です。

 司馬遼太郎さんの本を読んでおりましたら、正岡子規は松山の人です。その人が小学校に入って国語の時間と言うたら国語の授業はどうしたらいいのか判らんのだそうですよ。そしたら神主を呼んできて、神主さんが祝詞(のりと)の勉強をさせたそうですよ。それぐらいしか日本には、近代教育のシステムというか、やり方が判らなかったのだといわれます。

 だから東京大学は欧米から全部先生を呼んで来たそうです。日本に来た欧米の先生は歓んで来たそうです。世界一給料が高かったそうですよ。これは司馬遼太郎さんの話です。その先生たちは日本という国をほとんど知らなかったそうです。中国は大きな国ですから知っていても、あの大きな国の片隅にこんな小さな国があるということは知らなかったそうです。学校の生徒は、ほとんど武士の子どもだったでしょう。

 非常に向学心が強いということと礼儀正しい、そして信義に厚い、こういう国があったのかと日本に来た欧米の先生たちはびっくりしたそうです。ですから非常に歓んで教育してくれたそうですよ。ところが国は金がかかるでしょう。だから日本政府にしてみたら学生が早く卒業して留学して戻って来て、先生が入れ替わってくれなければ困るという、そういう格好だったそうですよ。

 数年前に東京大学の先生が、この清沢満之先生のことについて発表なさった論文がありまして、それ読んでみましたら、古い倉庫の中から清沢(徳永満之)先生の学籍簿が出たそうです。授業料は一文も払っていないそうですよ。なぜかといったら特待生だったそうです。ずっと一番だったそうです。考えられない程の秀才だったそうで、東京大学を卒業後、大学院を終えられてから第一高等学校の先生をされます。経済的にも独立された先生は東京に居を構え、ご両親を迎えられたようです。その時に政府は留学をさせたかったようです。それを聞きつけて本願寺が先生を連れて帰るのです。

 当時、京都府が運営していた京都府尋常中学校が経営難で困っていたようです。ですから東本願寺に相談して、本願寺が京都中学校としてそれを引き受けるのです。そして校長に潜沢先生を据えるのです。ところが学校長に赴任して、わずか一ヶ月後、先生は三河の西方寺に養子として入寺され、徳永姓から清沢姓になられるのです。

 どうかして先生を宗門につなぎ留めたい力が陰で強く働いていたと伝えられています。とにかく、そのころ文学士というのは京都に三人しかいなかったそうですよ。だから文学士が中学校の校長になるというのは考えられないわけです。

 周囲の人はみなヨーロッパに留学して、みな戻ってきて博士になっている人達が清沢先生の学友です。その人達が「徳永君は、日本で優秀な哲学者になると思っていたのに、本願寺に帰っていくということを我々には相談がなかったというて、長い間、我々は残念に思っておったと」と言ったそうですね。その時に一言、「恩義がある」と言ったそうです。やっぱり武士の子なのですね。だから出世するとか、日本の国のためということではない、恩義があると言って本願寺に戻って来られるわけです。

 本願寺には僧侶の学校(学院)があるわけです。その学院に先生が頭を丸めて出てきたら背も低いし風采も余りよくない人だったそうです。その人がべらべら英語で話して、ものすごい頭が良いというので、「その人が有名な清沢先生という人であった」ということを暁烏敏さんの書物に書いてあります。それで本山は、人材養成という事で、今までのような学院では駄目だと。大学を造らねばならん。しかしそれを引き受けてくれる人はいませんから、清沢満之先生に頼むのですね。「一切は引き受ける、費用は引き受けると。だから貴方が思うような大学を作って欲しい」と言って頼んだそうですよ。

 それで清沢先生は、今からの日本は京都ではない、東京だと。東京に巣鴨というところがあります。今は拘置所がありますが、巣鴨に本山は土地を買ってそこに真宗大学という大学を作るのです。これは政府も期待したそうです。外国語・哲学というようなものを非常に重要視した真宗大学で、それの学監、つまり学長に清沢先生がなられたのですね。

 学生の大部分が寺の息子なのですね。日本も近代化が進んで学校もいたる所にできるわけです。それで、ここを出たら中学があっちこっちで出来ていますから、中学校の一級教諭の資格を出してくれと、そういうものを政府と折衝して、そういう資格を貰えるようにしてくれと言って学長室に言って来たそうですね。そしたら学長の清沢先生が怒ったそうです。

 南無阿弥陀仏一つでいい人間をつくるのがこの学校なのだと、お前等は何を考えているのかと言ってはねつけたそうですね。それで学生がストライキを起こして、結局は学生の要求通りになったのですが、そういうストライキを起こした学生と、清沢先生を支持してストライキを起こした学生もいて、学校が二つに割れて大騒ぎになって、その責任をとって清沢先生は真宗大学を辞めるのです。

 そういう意味では非常に残念ですね。それでこの真宗大学を東京に置いておったら危ないと思って、京都に移転させるのです。それが今の大谷大学です。

 それから清沢先生は教団改革ということを特にするのですね。つまり江戸時代と同じように法主が殿様で、それを取り巻く古い形の官僚しかおらない。だから、そこに議会制度というものを作って、そして人材養成のシステムを作らねばならないという事を「上申」して、教団改革運動を起こすのです。そのために清沢先生は教団を追われます。一年間追われます。そしてまた復帰するのです。なぜかと言えば、あの人がいなければどうにもならないという事がいっぱいあったのでしようね。

 そして新門さんを東京に出して勉強をさせる。その方の守り役をしたりしますけれども、とにかく教団改革に因って、本当に多くのものを成したのですが、そういう中で親鸞聖人の教えというものは世界に誇れる哲学だということをはっきりさせるわけです。それを西洋哲学の方法で親鸞聖人の教えを書き直すといいますか、そういうことをこの方はするのですね。そういう書物があります。

 その中でも「宗教哲学骸骨」は有名で、これには日本語版と英訳版があり、英訳版は米国シカゴで開かれた万国宗教大会のために発行されたもので、多くの注目を浴びたといわれます。そして先生の大きな事は、宗門内の一部でしか読まれていなかった「歎異抄」を自らの信念の依り処とされると共に広く世間に広開され、多くの人々に読まれるようになったのです。

 しかしこの人は結核になり、明治三十六年に四十一歳で亡くなります。この方は、親鸞聖人の教えを学問的に顕らかにして、それ西洋哲学の仕法で教えたということだけでなくて、自分自身に回心があったといわれます。そういう中で親鸞聖人の教えを「絶対他力の大道」と表現したのです。

 

 私たちの物の考え方は「相対」なのです。絶対じゃないのです。必ず善いか悪いか、損か得かでしょう。こういう形で私たちがもの心ついた時から、私たちの上にはたらいておるものは相対です。人間の考えは全部相対です。そして相対の中で絶対化が始まるのです。

 清沢先生は宗教を「有限と無限との対応」と、こういう言い方をされます。有限というのは限りある物、つまり形のある物ということです。これは人間で言えば我々です。しかし一切の存在というのは、みな有限です。無限というのは形がありません。形があったら無限ではありませんからね。私たちが思う観念も有限です。そういうものを超えたものが無限です。

 

 ここで「帰命尽十方無碍光如来」というのは「アミタ」(無得光)という言葉が無限という意味です。インドの人は無限ということを「アミタ」と表現しました。「ミタ」というのが有限です。「ア」というのは否定です。だから「アミタ・阿弥陀」は無限です。考えで握ったものは有限です。だから思想もみな有限です。人間の考えも有限です。そしたら無限はどういう形であるかと言えば「有限の自覚」というかたちである。

「あぁ、有限なのだと」だからそれを伝統的な言い方でしますと、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」の凡夫という意味です。凡夫だということが有限です。人間が凡夫と言っておるのではないのです。人間をして、どこまでも凡夫と知らせるはたらきが凡夫だと言わせるわけです。それが無限です。だからこれを真と言ってあるのです。「アミター」というのです。だから阿弥陀さんの方から言えば、我々は「罪悪深重の凡夫」なのです。

 私が「どうせ凡夫じゃけん」というのは凡夫ではありません。それは言い訳にすぎません。だから私が、わが身をわが身として、本当に凡夫と気付くということは無限なものに遇ったという意味ですから、遇った相が「南無」です。インドの言葉で「ナマス」です。

 私はインドに行ったことはありませんが、インドの人は挨拶をする時に「ナマスティー」と言うそうじゃないですか。人と挨拶する時に合掌するそうですね。日本人は「今日は」と言いますけれども、インドの人は手を合わせて「ナマスティー」と言うそうです。

 「ティー」は貴方です。「ナマス」というのは尊敬という意味です。「南無」の意味は「帰命」です。だから親鸞聖人は「南無」と「帰命」と二つ使っておられます。「帰命無量寿如来。南無不可思議光」と、これが南無阿弥陀仏の意味です。

 「命に帰する」と書いてありますけれども、普通「ナマスティー」というのは貴方を尊敬しますという意味ですが、親鸞聖人が「南無」と仰るのは、自分の存在全体を揚げて、それに依るという意味です。依るといっても、私たちは何のことか解かりません。それを何処までも私を否定して、これに依る以外に私の本当の救いはない、本当の依り所はないのだと、私をして南無せしめるものが無限の働きです。つまり「阿弥陀」です。

 阿弥陀のはたらきに依って、私たちは南無阿弥陀仏と、そこに私の本当の拠りどころがあるのです。そうすると私は、私を有限と言っていけるわけです。愚かですと。頭が良い悪いという意味ではありません。愚かですと、だから「あんたは馬鹿じゃ」と言われれば、「そうです」と言えればたいしたものです。ところが、人はあんたのことを馬鹿だと言っておると言われたら夜は寝れないでしょう。口では、「私は馬鹿です」と言っておるけど腹の中ではやっぱり偉いと思っている。

 だから本当に阿弥陀に遇った人の名告りが「愚禿親鸞」です。「愚」というのは「おろか」でしょう。頭が良い悪いということではありません。つまり有限の自覚を顕しています。

「禿」というのは「かむろ」という意味です。京人形には「かむろ」という人形があるそうですね。それは少女で頭をおかっぱ頭を「かむろ」と花柳界で花魁(おいらん)の身の回りの世話をする少女のことを「かむろ」と言ったそうですね。それが人形になって、今も京人形にあるそうです。だからおかっぱ頭を「かむろ」と言ったそうです。

 親鸞聖人は流罪になった後に「愚禿親鸞」と名告っておられるわけですね。おそらく流罪になられた以後、勿論奥さんもおられるわけですから、頭をきれいに剃った美しいお坊さんの姿ではない、髪を伸ばした普通の生活をしながら田んぼを耕す生活が始まったのだろうといわれています。

 当時の法律では流罪の人には一人について一日米一升と塩一勺支給されるそうですね。初めの一年間はそうして支給されるそうですよ。しかし二年目は、それに「籾」もくれるそうですよ。二年目からはこの籾を植えねばならんわけです。三年目から支給は停止される。

 親鸞聖人は貴族の生まれです。そして比叡山は大地主ですから、比叡山での生活は食べる物は心配ないのですよ。そして比叡山を降りて法然上人の所へ行かれますが、法然上人の最晩年ですから ものすごい大きな教団になっているわけです。そこでも食べることについては心配なかったと思いますよ。

 親鸞聖人は流罪になって、そこで二年目に「籾」を支給され田んぼを作ったわけです。流罪になられた時は親鸞聖人三十五歳です。流罪を許されたのは三十九歳です。そうすると四年でしょう。流罪が許された年に四人目の子どもさんが生まれているのです。

 これは奥さんの手紙(恵心尼文書)に書いてあります。それで親鸞聖人は、いつ結婚されたのだろうかということになるわけです。

 私が学生のときに習ったのは、奥さんは流罪になって、その土地に居た三善なにがしという豪族が居て、そこのお嬢さんと結婚したということになっているのです。ところが四人目の子どもが生まれたということが判っているわけです。それで今は、親鸞聖人は法然上人の所に居られたときに結婚されたというのが定説になっています。

 数年前、隣の寺が「大衆供養」の会場になったときに、その時の講師の先生が草野先生という大谷大学の先生でした。今は大谷大学の学長をなさっておられます。

 この先生は歴史の専門です。大衆供養のお説教の中で法然上人の所に居られた時に結婚されたという話でした。だもんですから私が講師部屋へ行って、草野先生に「罪人で流されたのに吉水で結婚していたら奥さんはどうなったのですか」と聞いたのです。

 そしたら先生が、「それは、問題はないです。その当時は家族を一緒に連れて行くというのが法律になっていた。」と言っておられました。そうしないと貴族が流罪になると戻って来てしまうそうですよ。家族を連れて一緒に行くか後で行くかは別にして、とにかく家族を連れて行くというのが、当時の法律になっているそうですね。「だから問題は無いのです」と草野先生は仰っていました。

 西田幾多郎という人がおられました。京都大学の哲学の先生でした。この方は石川県の方ですが、その方の書物を若い頃読みました。西田幾多郎という方のお母さんは非常に熱心な真宗の門徒だったそうですね。そういうことを西田幾多郎さんがお書きになった随想のようなものを読んだ事があります。「愚秃と名乗った聖者」という表題です。

 その中で「愚」というのは謙遜という意味ではない。全体を揚げて、本当に愚かなわが身だと言えるものに遇ったと言う名告りだということも西田幾多郎さんは書いておられます。やっぱり哲学の命題も同じなのでしょうね。

 そういうものがはっきりしないと、人間が人間として独り立ちができない。なぜかといったら相対の世界でそれを依り所にしていたら都合の良いときは、人間は自信を持ちますが悪くなったら崩れます。そうすると、自分で自分が、私は何なのかと言わんならんような事が起こるのですね。

 つまり有限を有限と知らないで、何か自分を絶対化して、自信を持っている時は自分ぐらい偉いものはおらんと思いますが、環境のせいやら自分の身体のせいで崩れた時に、自信を失うということになります。それは何かというたら宗教がないからです。そういう問題は全ての人間の課題です。そういう意味でしょう。

 だから本当に有限なものが有限と自己を知るということは絶対にない。だから有限は有限の中に絶対を求めてしまう。それの最たる物が原子力発電所です。有限な人間の知恵から出ている科学技術を絶対化してしまった。

 ここに「絶対他力」と書いてあるでしょう。「他力」というのは阿弥陀仏のはたらきということですから、それが絶対なのです。つまり無限なるものです。それが絶対なのです。それ以外に絶対はないわけです。ところが人間は有限の中で絶対を造ってしまうわけです。

 本当は絶対でないものを絶対と言うわけです。それが安全神話です。神話は宗教でしょう。宗教にしてしまうわけですよ。そしてこんどの原子力発電所の放射能漏れに関して、自分達がこの中に100パーセント安全ということはないということが判らんようになっていた。

 だから私は、福島原発の当事者、東京電力の人は現場の技術者は本当に絶対安全と思いこんでいたと思いますね。だからもしもこういうことが起きたときにはどうするかというマニュアルはなかったのだと思いますね。だからまったくどうしてよいか判らなかったのではないでしょうか。どうしていいかわからんということは、当事者も信じていた。そういうものは絶対ではないですよ。それを安全神話という言葉で日本国中が騙されている。

正信偈38-3

​正信偈に聞く

38-3 

​平成23年8月24日

 絶対というものは、この世の中にない。善いことの後ろには必ず悪いことがある、善いことばっかりということは絶対にない。善いことの後ろには必ず悪いことがある。

 健康ということは不健康との隣り合わせですからね。いつ、どう引っ繰りかえるか判らないわけです。ただそれを「俺は健康だ」と思って握っているだけで、絶対化しているだけで、それを仏教では我執というわけでしょう。執らわれというのですよ。仏教の課題はこれです。

 結局、人間は小さな我執にとらわれて、そして自分の依りどころという絶対を作り上げてしまう。そしてそれに寄りかかっていく。そのことによって、我も迷い人も迷わしていく、それの繰り返しが「流転」です。それは人間が始まって以来の人間の歴史です。

 その中でたった一つ、これは我執にすぎない、執らわれにすぎない。確かなものなど何一つないのだとはっきり言えるのは、無限なるものに触れて言えるのだと。その時にこの世の中で確かなものなんて何もない。だから起こるべくして事が起こった。しかし今度もこうして厳しいご縁に遇ったということですが、そういう姿が全然見えませんね。

 原発の近くの人は二年帰れないとか三年帰れないとか言うじやないですか。あれ、二年・三年経ったら帰れるようになるかどうかも判らないのではないですか。土地は売ってくれないから国が借り受ける形で土地代を上げればというような意見もあるようですが、しかし金を貰ったって生活の根本が崩れてしまったら人間は生きられないですよ。

だから政治の出来ることというのは、本当は知れているわけです。結局はみんなから集めた税金を配るというやり方だけしかできないわけですからね。その人の生き方までは政治はできませんから。そうすると一人一人の問題でしょう。出費が大きい人ほど後の立て直しが大変だと思いますね。そういう問題でしょう。

 だからこの世の中に何一つ確かな物はないと言えるということは、それは限りなき真の前に自己を投げる。そういうことがあって初めて、何一つ確かなものはないと言って、しかも落ち着いておれる。

「何一つ確かなものが無い」と、そんなことを言ったらどうするかと普通は思います。そうでなくて「本当にそうだった」と、事あるごとにそう言えるものは限りなき真、これが阿弥陀です。それをここでは「絶対他力」といっているのです。その他力に帰命するということなしにはあり得ません。絶対他力が阿弥陀の本願なのです、真なのです。

そしてこれは、鎌倉時代に親鸞聖人が言われたか、言われなかったかという問題ではない。

 清沢先生は、人間の根本的な問題だと言っておられます。親鸞聖人の教えというのは、死んだら極楽に行くとか行かんとかという話になってきているものですから、それだったらほんの小さいものになってしまうわけです。

そうでなくて、人間全体の大きな根本的課題、それが「絶対他力の大道」に遇えたか、遇えんかという問題なのだということを言っておられるわけです。それを浄土往生と。浄土往生というのは死んでからというよりも、無限なる世界に帰命し、それを依りところにする生き方という意味です。

 我々の受け取っている世界は穢土です。我執でもって握っている世界は穢土です。この世の中を生きている世界は穢士です。凡夫が寄り集まって穢士の世界を作っているわけです。その中で理想を夢見たりしているわけです。

だから有限を有限と知りませんから、有限の中に絶対というものを見つけ出して安心しようとする。だから現在の我々の一番頼りにしているものは人間の知恵です。それが具体的にはテクノロジーです。科学技術という形になっているわけです。

 

 原子力発電所の電力は、日本の電力の三十パーセントを持っているそうですね。今は、我々の生活は電気のない生活なんて考えられないじゃないですか。だからここで誰が悪い彼が悪いと言っても片づかないですよ。むしろこの問題の根本が南無阿弥陀仏の問題なのです。そう言ってしまうとすぐに解からんようになりますけれども、実はこういう形で問題を解明して貰うと「ああそうなのか」と言えるわけです。

 原子力発電を作った人も非常に苦労して作られたでしょう。そして今まで苦労なさったでしょう。そういうものも頭が良いとか悪いとか、偉いとか偉くないとかを超えて凡夫のわざなのです。だからこの世の中は、いつ何か起きて来てもおかしくない、どうしようもない世の中なのだとあらためて、我々一人一人の問題として、深く頂いていくということが出来るかできないかということにならないと、有ったらいいか無かったらいいかというかたちでは、非常に不毛な言い争いに成ってしまう可能性があります。

 つまり、私たち人間が頭で考える相対的なものの考え方で絶対はないのです。無いということをはっきりしなければいけないのです。だから私たちの日暮らしでも、何かある時に都合の悪い事が起きたって、昔の人は、「人生、諸行無常だ。善いことも長く続かんが悪いことも長く続かん」と言ってました。それは大事な受け止め方だと思いますね。何か悪いことがあると、いつまでも悪い事が続くような気になります。

 私は、他方からこの柳川へ来て詳しいことは知りましたけれども、「とうにんさんに参ってこんかん」、祓って貰うとか、ああいう言い方があったのではないですか。何か日本人はそういうかたちで人間を超えた実体的な神とか仏とかの繋がりというものを考えたのでしょう。

 仏教というのは「法」、真理というものを持っていますから、そういうものではないのです。人間の根本的な問題として、問題を提起してあるのだということを、清沢先生は「絶対他力の大道」と、それが親鸞聖人の仏教だということを仰ったのです。

 そして他力というのは如来の本願力です。それは無限なるもののはたらきということです。だから我々は、無限の働きの中に居りながら小さい自我に執らわれて殻をみな作って、それぞれが城を造ってしまっているわけです。そして相手が思うように成らんと言っているわけです。特に今は、個人主義が強くなってきましたから家庭が崩壊していくというのも判らないではないですね。昔はあまり我がままはできませんでしたから辛抱するよりしかたがなかった。みんな辛抱したでしょう。しかしただ辛抱しておるのでなくて、そこに真宗の教えを聞いた人もいたでしょうし、またいろいろ教えを聞いていった人もいたでしょう。そういうところから何を聞いたかと言えば「絶対他力の大道」ですよ。そこに人間の愚かさ、悲しみを聞いたのです。

 

かかる罪業にのみ ちょうせきまどいぬる われらごときの

いたずらものを たすけんという 弥陀の本願にてまします。

 

 蓮如上人はそういう言い方です。「かかる罪業にのみ朝夕惑いぬる」ということは、凡夫を凡夫と知らないから自分の考えを絶対化していくわけです。そうすると、自分の考えに反対する人は悪です。自分が善と思っていることに反対するものは悪なのですね。

 だから争いというのは善い人と悪い人がするのではないのです。善人同士が争うのが争いですから、戦争もみなそうです。正義の名においてどれだけの人が殺されていくかという問題です。戦争がおきるのは、人間は知恵があるからですよ。ライオンでも他の猛獣でも、例えば雌を争うて雄同士が喧嘩するでしょう。しかし相手が逃げたら追いかけんそうですよ。徹底的に追って殺すということはないそうですよ。それは人間の考えでは種の保存ということを考えているのだろうと、人間の考えで言うけれども、本能的なものでしょうね。向こうが逃げたら追いかけんそうですよ。

 ところが人間は考えますからね。逃げたってまた来るかも判らないと考えますからね。他の動物はその日食べたらそれでいいのですよ。ライオンがシマウマを食べる。ライオンは二十日ぐらい食べんでもいい胃袋をしているそうですね。ということは二十日も餌を食べられないことがあるわけでしょうね。だからそういう胃袋になっているそうですよ。

 牙と爪でシマウマを捕るでしょう。そういう姿を見ると何か残酷のように見えますけれども、人間はまだ残酷です。煮えたぎった鍋の中に生きたまま魚貝類をぽーんと入れます。そして旨いとか旨くないとか言って食べる。そしたら、ライオンが獲物を捕らえて食べるよりも人間の方がはるかに残酷と私は思いますけど。

 ライオンは腹一杯食べたら餌が残っていたって、そこを立ち去ってしまうわけですね。そして木の下で寝ているわけですよ。そしたらライオンより弱い動物がその残りのものを狙って、ライオンは戻って来ないと判っているわけですから、ハイエナがその残りの肉を食べる。ハイエナが食べているところをもっと弱い獣が見ているわけです。ハイエナが腹一杯食べたらまたどこかへ行ってしまう。最後は鳥がつついたりして、後の骨は大地に帰るわけです。生態系です。ということをきちっと守っているのが人間以外の動物です。だから滅びないのです。

 人間だけは知恵がある。それは我執の知恵です。自己中心の知恵です。それがいろいろとやっていくわけです。だから徹底的に殺すわけです。人間と人間の殺し合いをするわけです。それは知恵があるからするわけです。知恵がなかったらしませんよ。そういう意味でいったら自然から人間だけが立ち上がってしまった。だから人間だけが多くの罪を作っていくわけです。

 犬や猫には罪はないでしよう。奥さんが油断している時に魚を取って食べて、「私はなんと罪の深い猫でしょうか」ということはありません。人間はそういう意味でいうたら非常に面倒なものをもっているわけですね。それをどう超えるか、それが宗教の問題ですから、人間だけが宗教をもっているわけです。

 他力と言うのは我執を超える道です。それを人間の生き方を純粋にして、そういうことのない純粋な人間、つまり犬や猫と違うけれども、犬や猫にない人間の愚かな我執分別といいますか、我執の知恵というものを超えるための修行というものを修するのが真宗以外の教えでしょう。だから出家して修行していくわけですが、親鸞聖人の教えは、普通の日暮しをして、

 

あきないおもし、ほうこうをもせよ、猟すなどりをもせよ、

 

「あきない」は商売です。「ほうこう」と言えばサラリーマンでしょう。「猟」というのは生き物を殺す、野山に獅子や鳥を狩るのが猟でしょう。「すなどり」は海や川で漁をする。これは生き物を殺していくという事を具体的に言っているわけです。

 ところが他人が殺したものを知らん顔して食べているものがいるわけです。平安時代の貴族は、我々は貴族であると、そして魚を獲ったり漁するやつは卑しいやつだと。そういうかたちで人間の社会はできているわけです。

 今、鶏を肉にするシステムが農協にあるそうですね。佐賀県で聞きました。そうしましたらね、鶏を先ず殺して、なにか湯につけてシステムの中に入れたら、ぐるっと回って、そして終わりの所に来た時には肉の塊になって出て来るそうですよ。

 その時に一番初めに鶏を殺さねばならんのです。回転している刃物に挟むようにして首を刎ねるそうですよ。そしたらシステムで後の方で仕事をしている人が、殺す人を見て悪く言うそうですよ。「私はあんなことはできん」と。その人が殺さなければ、自分たちの仕事はできないのに「私はあんなことはできん」と言うそうです。

 生き物を殺すという罪の意識があるのだと思いますが、そういう形で社会ができています。人間が生きていること自体が罪でないものはありません。

 人間は有限なるものを有限と知らない。その中で自己の考えを中心にした世界観といいますか価値観を作って、そこの中で一つの社会のシステムができていくわけです。なかなか、人間の知恵で作ったシステムというのは、大きな問題を抱えておるわけです。しかし、それを抜きにして、私等が生きるということはないわけです。罪の有る無いというようなことは言えるようなものでないのね。「かかる罪業にのみちょうせきまどいぬる」と、どこまでも知らせるものが絶対他力です。それに出遇った人の感じ、自覚、喜びが具体的に書いてあります。

 

 清沢先生がヨーロッパに留学して、日本に戻って来たならば、東京大学の有名な哲学の先生になられたでしょう。しかしこの人はそういう道を選ばないで、教団の中で生きた方です。清沢先生が本当に親鸞聖人の教えと真向きになって、絶対他力ということに目覚められたのは、結核になってからだといわれます。哲学から入った人ですけれども親聖人の教えと真向きになって生きた人です。

 先生は教団に帰って来られて、ただ親鸞聖人の教えを学問的に探求されただけでなく、中学校長職に就いて二年後、突如として辞任して、それ以来極端なほどの禁欲生活をされ、自ら「ミニマム・ポッシブル」(可能な限りの最低線)と呼ばれ、真宗の教えを自らの実験によって確かめようとされ、それがもとで肺結核になられたと言い伝えられています。

 自力を尽くして他力に帰すという事の実験を自らに課せられたようです。そういう流れを受け継いでおられる人に大谷大学の曽我量深・金子大栄・そして宗務総長になられた暁烏敏という人達がいらっしゃいます。

 私が二十歳のときに教えを受けた藤解照海という人は清沢先生を大切になさっておられました。だから私はお坊さんになって一番初めに読んだものが清沢先生の書かれたものでした。藤解先生はこの「絶対他力の大道」を大事にしておられました。そして暁烏先生と親交があって、暁鳥先生が機関紙を出しておられました。

 初めは「広大会」という機関紙を出しておられました。途中で「香草」(においぐさ)という名前になりましたけれども、そういうものをずっと購読するように言われて、私たちもそういうかたちで親鸞聖人の仏教を聞きましたから、清沢先生の書かれたものは、夜寝ていても「絶対他力の大道」が出てくるのです。皆さん覚えてください。

 

 天親菩薩は、「世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国」と言うてくださった。二千年前ですけれですけれども言うてくださった。そこに原点がある。そこからいろいろな念仏者が生まれてきておるわけですから、原点です。

 それをなかなか人間は、言うたようで言わない。なかなか南無阿弥陀仏と言わない自分というものを正直に仰っておられたのが大石法夫という方です。大石先生は、人間魚雷の搭乗員で、それから一切を投げて道を求めて歩まれたひとです。しかしなかなか「世尊我一心」という世界が顕かになるのには非常にひまがかかられたということを聞いております。

 我々も日常生活は、これがなければ生きられんような日暮らしになっておるわけです。毎日の日暮しは、決して平坦な日暮しをしておるわけではありませんからね。やっぱり親子であれ、夫婦であれ、嫁姑であれ何処かで愛しあいながら裏切る。そして本当に愛しあいながら憎む、そういうものが出てくるわけです。その元は自我です。

 自己中心、その自分の考えを絶対化するわけです。知らない間にしているわけです。そうでしかない私を私と、凡夫よと呼びかける真が無限なるもの、その中にいるわけです。そして私たちは小さな殻の中で苦しんでおるのだという道理です。仏教の教えは単なる信ずるか信じないかという教えではないのです。道理です。

 

南無とたのとこに阿弥陀仏の救いたもう道理あり

 

 南無は機の方、阿弥陀仏は法の方、南無とたのむところに阿弥陀仏の救いたもう道理があると仰るのが蓮如上人の「お文」の一貫した教えです。

 そういう問題として、清沢先生は親鸞聖人の教えをお受け取りになって、これは一宗一派の小さな信心もらったかもらわんかという問題じゃない。人間のもっている根本的な問題を非常に的確に教えられているのが親鸞聖人の教えだということを清沢先生は証明された。

 理論的にも、また体験としてもそういうことをなさった。それが毎回読ましていただいている、この「絶対他力の大道」です。時間がきました。今日はこれで終わります。

ありがとうございました。

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