​正信偈に聞く

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​平成20年3月31日

 皆さんこんにちは。『正信偈』(しょうしんげ)はどういうことが書いてあるかということを、できるだけ簡単に話して欲しいということで、古田和弘先生が熊本の真宗寺でお話になったときに使われた資料を通して、もう一度『正信偈』の話をしてみようと思い立ったわけでございます。

古田先生は『正信偈』についての書物は沢山あるが、内容的に『正信偈』というよりも、むしろその先生の味わい方が多い。そのために筋道がかえって分からなくなっているというような本も結構あるような気がする。自分としては、むしろ味わいは大切なのだけれども、文字の意味を外れないで、その味わいを文字の意味にそってお話しすることができないだろうか。また、そういうことは大切ではないかということを、真宗寺のお話しの中で仰っておられます。この資料は言葉の意味というものを中心に作ってございます。

 私たちは普通『正信偈』と言っておりますが、正確な名前は『正信念仏偈』(しょうしんねんぶつげ)というのが正しい名前なのです。これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)がお書きになった『尊号真像銘文』(そんごうしんぞうめいもん・聖典P530)の中に、聖人自ら『正信偈』と言っておられるところがございますけれども、正式には『正信念仏偈』と言います。『正信偈』は七文字一句・百二十句の形式による「うた」であります。

 「偈」というのは偈頌(げじゅ)と言いまして、漢文で書かれた仏の徳、高僧の徳をほめられた「うた」です。和文で書かれたものもあるわけですが、それを「和讃」(わさん)といいます。お勤めの時に『正信偈』の後に、念仏の次に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」というでしょう。これを「和讃」と言います。「和」というのは和文で「讃」というのは、仏の徳・高僧の徳をほめられた「うた」です。それを和文で書かれておりますから「和讃」と言います。偈頌は漢文で書かれたものですから正信偈となっておるわけです。「うた」ですから、散文ではありませんから、細かいことは書いてないわけです。親鸞聖人が本願のまことに遇われた信心の喜びをうたっておられるわけですから、非常に感情豊かで、そして非常に内容が詰まっております。それだけに、この『正信偈』を読むというのは、親鸞聖人の深い思召しというものが詰まっているということがございますので、その深いお心まで窺い知るということは、非常に困難だということでもあると思います。しかし、いずれにしましても、親鸞聖人の喜びをうたっておられる「うた」だということが大事でございます。それが偈頌という意味でございます。

 親鸞聖人には書物がたくさんございます。しかし、その中で特に主著という、これは根本聖典というふうに言われております。立教開宗(りっきょうかいしゅう)という言葉を使われますが、教えを立て、宗を開くという。各宗の御開山が宗を立てていかれる時に、必ずその拠りどころとなる経典がございます。親鸞聖人は、浄土三部経(じょうどさんぶきょう 仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)を、宗の拠りどころとして根本聖典を書かれるわけです。その教えを立てて宗を開くことを立教開宗といいます。親鸞聖人の立教開宗の書物は『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)ですが、この書物の中の「行巻」の末尾に載っておるのが『正信偈』なのです。

 テキストに 2『教行信証』について と書いてあります。すぐその下に 『顕浄土真実教行証文類』(六) と書かれていますが、これが『教行信証』の正式な名前です。そこで、「浄土」という言葉は、聖道門の仏教に対して浄土門の仏教をあらわしておられます。「真実」というのは、「方便」に対する言葉でございます。「顕」というのは「あらわす」ですね。浄土真実の教行信証を顕す文類です。それが『顕浄土真実教行証文類』という題名の意味です。「文類」という言葉は、親鸞聖人のお述べになる言葉だけで書かれていない書物ということです。もちろん、親鸞聖人の文章が中心でありますが、しかし親鸞聖人の文章だけではなくて、むしろそれを単なる独断ではない、自分が今ここで述べることは、それだけの根拠、証明するものがある。それを「経・論・釈」(きょう・ろん・しゃく)で証明されるのです。  

 「経」といった場合は、お釈迦様の言葉です。だから『正信偈』のお勤めをするときに「お経を読む」と言いますが、これは正確な言い方ではありません。経と言ったときには、お釈迦様のお説きになったものだけが経なのです。現在、翻訳されているお経は五千余巻あると言われておりますが、その中で浄土の三部経を親鸞聖人は立教開宗の拠りどころにしておられます。そこで、この「文類」の中には、浄土三部経だけではなくて、いろんなお経の言葉が引文されております。また、お釈迦様の教えの中で問題を引き出して、その問題について論議された書物を「論」といいます。例えば七高僧でいいますと、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)という書物がございます。また天親菩薩が(てんじんぼさつ)書かれた『無量寿経優婆提舎願生偈』(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)という、略して『浄土論』といいます。そういうものを「論」といいます。その論をさらに解釈なさったのが、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)とか善導大師(ぜんどうだいし)とか源信僧都(げんしんそうず)とか法然上人(ほうねんしょうにん)などがお書きになったもので、それを「釈」といいます。そういう「経・論・釈」のお言葉を、自分の述べられた文章の後にずっと引いておられます。それが親鸞聖人の述べられたことの証明なのですね。そういう形式になっている書物です。だから、「文類」といいます。その次に 愚禿釈親鸞集 とあります。「著」と書かれません。「集」と書かれています。その次に 顕浄土真実教行証文類序 と書いてあります。それを「総序」といいます。全体にかかる序分です。それから次に 顕浄土真実教文類一 (教巻)とあります。つまり浄土真実の「教とは何か」ということが述べられております。次が 顕浄土真実行文類二 (行巻)ですね。浄土真実の「行とは何か」ということが述べられております。その行巻の一番最後に、この『正信偈』が載っています。『教行信証』のなかで「偈文」として述べられているものは、この『正信偈』だけです。他のところは全部「散文」です。いわゆる普通の文章です。次に、顕浄土真実信文類序 がはじめに書いてあります。これは信巻のために特別に書かれている序分です。だからこれを昔から「別序」といっています。そして、その「別序」の後に 顕浄土真実信文類三 (信巻)とあります。次が、顕浄土真実証文類四 (証巻)です。教巻・行巻・信巻・証巻と、これで『教行信証』となるわけです。

 他の仏教とは違って、それは、どれもみんな浄土真実の教・行・信・証なのです。この「証」は単に「さとり」という意味ではなくて「浄土のさとり」という意味なのです。次に、顕浄土真仏土文類五 (真仏土巻)、つまり真実の浄土、そしてその仏様。真仏土という仏と浄土のことです。何故この真仏土巻があるかといったら、次に「方便」ということがあるからです。だから次に、顕浄土方便化身土文類六 本、顕浄土方便化身土文類六 末 となっています。つまり、「真仏土」に対して「化身土」ということがあるわけです。つまり真実に対して方便ということがあります。そして最後に、結びの言葉なのですけれども、それを普通「後序」といっています。これだけのものを『教行信証』といっているわけです。『正信偈』は、『教行信証』の行巻の最後にある「偈頌」だということを理解していただければいいと思います。 

 親鸞聖人は『正信偈』を教行信証本文から切り離して、朝夕のお勤めに用いるということは考えておられません。どこを読んでみても、そんなことは書いてありません。ですから『正信偈』は、どこまでも『教行信証』の内容として書かれたものです。ただこれを切り離して、朝夕のお勤めに使うようになさったのは蓮如上人です。中興上人(ちゅうこうしょうにん)と教団では言っておりますけれども、本願寺八代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)です。何故『教行信証』のこの部分を切り離されたのかははっきりしないのです。ところで蓮如上人は親鸞聖人が亡くなって153年目に本願寺に生まれた人です。

 

1415年 応永二十二年

京都東山大谷で生まれる。父は本願寺第七世存如、母は存如の母に仕えた女性と伝えられる。(蓮如上人行実 P1)

 

蓮如上人は四十三才で、お父さんの後を継いで八代目の本願寺のご住職になられます。しかし、蓮如上人はお父さんである、本願寺七代目存如上人(ぞんにょしょうにん)の正式な結婚で生まれた方ではありません。お父さんがまだお若いころに、本願寺に勤めておられた女性との間に生まれた、今でいう恋愛関係の中で生まれた人が蓮如上人でございました。蓮如上人がまだ小さい時に、お父さんがさるところから正式に奥さんを迎えられます。ですから蓮如上人のお母さんは、その結婚の日取りが決まったところで、蓮如上人を残して本願寺を出ていかれます。

 

1420年 応永二十七年  十二月二十八日 西国の出身と伝えられる母が大谷を去る。

 

捨塵記

北堂は生所を不知人也。存如上人先妣の御方に常随宮仕人に侍りき。

兼寿法印六歳の時、かの六歳の寿像を絵師に侍しにかかせ取って、能似たる表保衣等まて悉くこしらへ玉に取持て、「我はこれ西国の者也、爰にあるべき身に非すとて、応永二十七年庚子十二月二十八日に常に住める所の妻戸をひらきて、供奉する人もなく只一人行方しらすうせ給ぬ。」依之其日を為忌日、上人つねに勤行しさせ給ひけり。 (蓮如上人行実 P2)

 このお母さんが出ていかれたのが十二月二十八日だったそうです。それで、お母さんはどこの人であるのか。名前さえ分からないわけです。ですから蓮如上人はその十二月二十八日をお母さんの命日にしてお勤めをなさっておられたといわれています。そういうかたちで蓮如上人は本願寺に生まれて、そして今度は後から来られた、つまり継母に子供ができます。はじめは女の子が生まれて、そして蓮如上人が十九歳の時に、異母弟の応玄(おうげん)という人が生まれます。

 

1433年 永享五年 蓮如異母弟蓮照(応玄)誕生 (蓮如上人行実 P2)

 

やがて、お父さんの存如上人が亡くなられます。その時、その応玄さんが本願寺の後を継がれるようになっていたわけですが、亡くなったお父さんの弟、つまり蓮如上人の叔父さんに如乗(にょじょう)とう方がおられます。その方は教団の中で非常に強い力を持っておられた方で、その方の強力な後押しで蓮如上人が、四十三歳で本願寺八代目を継がれます。蓮如上人は後を継げると思っておられなかった節があります。そうなった時、継母は足利将軍の側近で、海老名氏の娘だったといわれていますから、非常に見識の高い人です。腹を立てて、そして、本願寺の後を継がせようと思っておられた自分の子ども応玄を連れて、お母さんは本願寺を出ていかれます。そういうかたちで蓮如上人は八代目の住職になられたわけです。

古田和弘-1935年京都生まれ。大谷大学教授を経て、大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉教授授・同学元学長。専攻は仏教学。 

 

​正信偈に聞く

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​平成20年3月31日

 当時、蓮如上人が継がれた時の本願寺は比叡山(ひえいざん)の末寺というかたちをとっておりました。法然上人も親鸞聖人も、比叡山を捨てたわけでしょう。そして新たに浄土宗を法然上人が興されました。後を継がれたのは親鸞聖人です。しかし、親鸞聖人は関東から京都へ晩年帰って来られますが、寺を造るということはしておられません。親鸞聖人には自分の寺は無いわけですから、亡くなる時は親鸞聖人の弟さんで尋有(じんう)という方のお寺の離れで亡くなられます。

 

弘長二年壬戍十一月二十八日末剋親鸞聖人御入滅也

 

十一月二十八日 聖人舎弟尋有僧都の善法院にて入滅 翌二十九日洛陽東山に葬送

三十日門弟専信・顕智らが拾骨 なお聖人の息男益方人道も臨終に列する(親鸞聖人行実 P163)

 

 京都の東山に知恩院(ちおんいん)という浄土宗の本山があります。その本山の階段を下がったところに東山通の上ですけれども、平安神宮に向かっての道路があります。そこから知恩院に上がっていくわけですが、その知恩院の階段を下りたところ、向かって左側に小高くなったところがあります。そこに今も「大谷旧地」という立札が立っています。そこに親鸞聖人の墓があったといいますけれども、もともと親鸞聖人の墓があった場所はここじゃないんです。親鸞聖人の最後を看取った人が末娘の覚信尼(かくしんに)でした。覚信尼というお方は、親鸞聖人の血筋は貴族ですが、その血縁関係の方と結婚をしておられます。ところが子供が一人できて旦那さんが亡くなるんですね。ですから、親鸞聖人の晩年を末娘の覚信尼が世話をして臨終を看取ったわけです。親鸞聖人は弟さんの寺で亡くなられます。知らせを聞いたお弟子たちが駆け付けて臨終を看取って、そして東山の火葬場で荼毘に付して、その近辺は京都の共同墓地だったそうです。その共同墓地の一角に親鸞聖人の墓を造ったんですね。

 覚信尼は親鸞聖人が亡くなってもう一度結婚をします。男の子を連れて結婚します。二度目に結婚した人は普通の人ですけれども、そして子供ができます。そしてその主人が亡くなるのですけれども、その前に屋敷の権利を覚信尼の名前にしていますね。関東、名古屋あたりから親鸞聖人の御命日には、お弟子などが聖人を偲んで参って来られるわけです。そうすると墓ですからね。お茶ひとつ出す場所がないところですから、その屋敷はお墓から余り離れていなかったようですけれども、墓へお参りして覚信尼の家にみんな集まって来るというようなかたちをとったんだと思いますね。そして親鸞聖人が亡くなって十年目に、その屋敷の中に墓を移します。(1272年 文永九年)覚信尼はその晩年、その土地の権利を門徒の共有にされますが、そこに皆でお金を集めて六角堂の建物を造り、親鸞聖人の木像を安置して、それを墓にしたんです。「廟」(びょう)です。そうすれば、皆が寄って来た時に、親鸞聖人を偲ぶような場所として提供されるわけですね。それが本願寺の興りになっています。今でもご存じと思いますけれども、東西本願寺というのはないんですよ。ただ東にあるから東本願寺、西にあるから西本願寺というんです。あれは京都の人が本願寺が二つあったら困るから通称で言ったんです。両方とも本願寺です。

 本山の上には扁額(へんがく)といって額がかかっています。その額に本願寺とは書いてないんですね。「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)と書いてあります。気をつけて見てください。本廟なんです。おこりから考えて正しくそうなんです。大谷本廟には門が三つあるんですね。向かって右側に一つ小さい門があります。明治になって門ができました。これを「勅使門」(ちょくしもん)といいます。天皇の勅使のための門です。「真宗本廟」という額が掛かっている門は真ん中にあって、その正面奥にある建物が「御影堂」(ごえいどう)といいます。親鸞聖人の御木像を安置してあります。大師堂(だいしどう)ともいいます。親鸞聖人に大師号が朝廷から下ったもんですからね。最澄は伝教大師、空海は弘法大師、親鸞聖人は見真大師という大師号が下がりました。今はほとんど御影堂といいます。そして一番左側の門の正面奥に本堂があるんです。「阿弥陀堂」といいます。御影堂からするとちょっと小振りになっています。ここの本尊は阿弥陀如来です。普通の寺の本堂に当たります。御本山は二堂式になっているんですね。報恩講は親鸞聖人の御木像がある御影堂で勤めるんです。それが本願寺の興りの意味です。

 こういう形になる前、つまり知恩院の側にあった時、親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人(かくにょしょうにん)が東国の門徒の承認を得て、廟堂の留守職(るすしき)になります。そして廟堂を寺院として本尊阿弥陀如来を安置して「本願寺」という名前を付けます。しかし、あまりお参りがなかったようです。京都には仏光寺という親鸞聖人のお弟子さんが開いた寺がありまして、それは門徒市をなしていたそうです。しかし本願寺に参る人はいなかったそうです。そういうさびさびとした中に蓮如上人は八代目の住職を継がれるわけです。そこで蓮如上人がなさったことは、比叡山を捨てたはずの本願寺が、いつのまにか比叡山の傘下に入って、そして比叡山に属していました。そこで「聖人一流」という、親鸞聖人の教えは比叡山とは違うということを明らかにして、比叡山と手を切って独立した寺として、親鸞聖人の教えを掲げるために蓮如上人は努力なさったんですね。そのため比叡山から非常に排斥を受けることになります。本願寺は二度、比叡山の衆徒から破却されます。僧兵がやってきて、はじめは打ち壊すだけで帰ったようですけれども、二度目は火をつけて燃やしてしまいます。

 

1465年 寛正六年  一月十日 比叡山の衆徒 本願寺破却

 

金森日記抜

 蓮如上人の御勧化、一朝に比類なく御繫昌ひしかは、叡山の悪僧等無実理不尽の沙汰として 寛正六年太簇十日、三百余人大谷に押寄、御影堂宝物あまた奪ひとり、亦上様は御開山の御影像をおわせられ、くつの御しゆつとくを御召候ひておちゆかせられける。

道西ここかしこ尋ね、大津と云処にてあい奉り、仏法開け申すへしと申されて生身の御影像をあひ供え候ひて上様は近江の金森に御下向也。

寛正六年より文明元年迄、五年の間たは京都、近江に御経廻候。(蓮如上人行実 P37)

 

正月中旬、真影を室町、さらに金宝寺へ移す。(蓮如上人行実 P38)

 

本福寺由緒記

寛正六歳太 中旬之比、京都室町に御座ありて、それより金宝寺へ御移りなり。

(蓮如上人行実 P38)

1465年 寛正六年 

三月二十一日、比叡山の衆徒 再度本願寺を破却 (蓮如上人行実 P39)

 

 だから、蓮如上人は親鸞聖人の御真影を背負って逃げます。蓮如上人五十一歳の時です。蓮如上人は京都を逃げ出します。そしてはじめ近江金森の道西(どうさい)のところに逃げていきます。そこを拠点にして次第に親鸞聖人の教えを弘めていくんです。それから蓮如上人は二度と京都に帰っておられません。

 

1466年 文正元年  十一月下旬 金森で報恩講を修する。

 

金森日記抜

寛正六年の春大谷御退転の後は、野須・栗太の坊主と門徒を力に思召て金森に三年おはします。文正元年の秋の末に、栗太高野の善宗・正善の道場(福正寺のことなり)にわたらせおはします。(洛陽の御詠歌)安養寺村のこうし房(了法の父と云)の道場にもうつらせおわします。手原村の信覚房(京の正親町行忍の門徒なりける)の道場と云へるに上様おわしませり。野須の郡にあらみの性明の道場(聞光寺のことなり)かいほつ、中村に妙実の道場(蓮光寺のことなり)矢島南の道場(西照寺のことなり)赤の井慶乗の道場(西蓮寺のことなり)三宅了西の道場(蓮生寺のことなり)上様おわしましける。あらみにては上様あまこせも女性禅門もろともに此春よりは信をとらせ給へ。    (蓮如上人行実 P45~46)

 

 だから、親鸞聖人の御木像を滋賀に移します。そしてそれが寺のような形になっていきます。現在の琵琶湖というのは、小さな漁業と京都市民の上水道の水瓶という役目しかしていないように見えますけれども、当時室町時代は海運の中心でした。関東・北陸から琵琶湖を通って、そして大津に荷物が届いて、それから京都に荷物が入っていったんですね。だから琵琶湖というのは海運の盛んな場所だったんです。その漁師さんとか、いろんな人が親鸞聖人の御門徒になるんですね。堅田の法住(ほうじゅう)、この方は海運業の親方みたいな人です。金森の道西という人は農家の人です。こういう人たちが蓮如上人を支えます。その後、福井県と石川県の境に吉崎というところがあります。そこへ蓮如上人は移っていきます。

 

1471年 文明三年 四月 大津南別所から京都を経て、越前吉崎に赴く

 

金森日記抜

 文明三年四月上旬の頃、聖人の御旧跡ゆかしく思召されて、程なく近松を忍ひ出給ひぬ。

御門徒申しとどめ申されしほとに京都・近江御経廻あり。されとも北地御下向御志在て、つひに金森より道西・与治郎・与太郎・九郎治良御供申し、夜に入って堅田に御渡り候て、若狭つたへ越前の国にこへ、一宿在して吉崎と云う処ろに一宇御建立ありて、ますます御繁昌也。(蓮如上人行実 P61~62)

 

1471年 文明三年 七月 吉崎に坊舎を建立

 

ここの地所は比叡山が手を出せない場所だったようです。蓮如上人という方は、なかなか政治的なところがあったようですね。単なる坊さんじゃない。大変な人です。蓮如上人の奥さんは、足利将軍と非常に深い関係のある伊勢家の一族の平貞房の娘を奥さんにもらっているんですよ。ですから蓮如上人はかなりの政治的な力ももっていたんですね。奈良の興福寺との関係がつきまして、それの荘園があったところが吉崎というところだったと言われています。だから、比叡山は手が出せない。蓮如上人はここにお寺を造ります。蓮如上人五十七歳から六十一歳までここにおられます。御文(おふみ)もほとんどここで書かれています。そして正信偈もここで刊行されました。

 ところで、先程お話ししたように、蓮如上人は四十三歳で本願寺を継がれますが、その翌年四十四歳の時に金森の道西の要請によって『正信偈』についての解釈をした本を出しておられます。『正信偈大意』(しょうしんげたいい)といいます。蓮如上人は親鸞聖人のように多くの書物を書いておられません。布教(ふきょう)のために落ち着いて書物を書く暇はなかったのでしょうね。きちっとした本はこれだけです。あとは『御文』です。御文は書物というより教化ですからね。『正信偈大意』は真宗聖典にも載っています。道西は『教行信証』全体を読まなくても『正信偈』に概要はおさまっているということを知っているわけです。蓮如上人は、自分は学問がないから間違うといけないと断った。しかし、金森の道西があまりに頼むもんだから書いたんだということを、わざわざ『正信偈大意』の奥書きに書いておられます。

 

 奥書

右この『正信偈大意』は、金森の道西、自身才学にそなえんがために、蓮々そののぞみこれありといえども、予いささかその料簡なき間、かたく斟酌をくわうるところしきりに所望のむねさりがたきによりて、文言のいやしきをかえりみず、また義理の次第をもいわず、ただ願主の命にまかせて、ことばをやわらげ、これをしるしあたう。その所望あるあいだ、かくのごとくこれをしるすところなり。あえて外見あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ、

  干時長禄四歳六月日

  元禄三庚午年孟夏吉辰 (『正信偈大意』聖典P759)

 

それを書いておられるということが、やがて『正信偈』をお勤めに使われる、つまり親鸞聖人の聖典を一般の門徒に渡される決心をなさる因縁であったかもしれません。それがまず考えられます。 

 

​正信偈に聞く

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​平成20年3月31日

 蓮如上人(れんにょしょうにん)がはじめて『御文』(おふみ)を書かれたのは、四十七歳の時ですから、まだ京都におられるときです。その『御文』は五帖(じょう)八十通の中に入っております。金森の道西(どうさい)は本願寺に出入りして蓮如上人の教えを受けます。その教えを道西は金森へ帰って人を寄せて、今でいう同朋会(どうぼうかい)をしていたんだと思いますね。そこへ蓮如上人は行っておられたと思います。しかし来られないときもあるわけです。だから金森の道西は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えというのはどういう教えなのかということを、短い文章で分かりやすく書いて欲しいと頼んでおるんですね。それで蓮如上人が『御文』をお書きになりました。それが最初です。その時、金森の道西はこの『御文』を何と言いましょうかと尋ねたら、文とでも言おうかと言われたから『御文』になったそうです。その後、吉崎に入られてから蓮如上人は沢山の御文を出しておられます。

 蓮如上人が亡くなられて、この御文を本願寺が集めるんですね。それを五冊の書物にしたものを五帖の御文と言っています。内容は八十通あります。一冊目から四冊目までは年代順に入っています。五冊目は、日にちは入っているけど年代がわからんのがあるんです。そういうものを集めたのが五帖目です。皆さんのお宅にあるのはその五冊目です。「末代無知」「聖人一流」「白骨の御文」もあります。あれは年代がはっきりしないんです。だから年代がはっきりしないのは五帖目に寄せました。お寺は全部持っています。だからお寺は正月の一日から、一帖目の一通から読み始めるのです。ずっと読んでいきますと八十日で終わるでしょう。そうするとまたはじめに戻って読み始めるのです。それを「まわりくち」と言うんです。「まわりくち」の御文を拝読するというのが、お寺の習慣になっているわけです。

 本願寺教団は東西本願寺に分かれますけれども、分かれたのは江戸時代。徳川家康の時です。大谷派は一万カ寺百万門徒といいます。西本願寺はそれより少し多いと思います。併せて二万ケ寺二百万、三百万あると思います。蓮如上人は八十五歳まで生きられますけれど、この教団は蓮如上人の時にできたといわれるほどです。北陸あたりでは、禅宗とか真言宗の寺が、寺と檀家ぐるみ本願寺の門徒(もんと)になったといいますからね。一人二人が入信するというようなことじゃないわけです。それでなかったら十五・六年の間にあんな大きな教団になっていないでしょう。寺は血筋によって継承されてきました。しかし、単なる血筋ならば法と関係ないでしょう。法を通して血筋をいかした。これが難しいんです。結局仏法によって血をいかした。だから、後を継ぐ人が本当に仏法を喜ぶ人ならば、本当はそれが理想的なのです。ところが血というものが持っている問題があります。いわゆる世俗化の問題です。そういう問題が本願寺にはあったんです。それを蓮如上人は命かけで法によって血を生かしたわけです。それの見本です。それが本願寺教団のもとです。蓮如上人は六十一歳の時、吉崎を退去して船便で若狭小浜について、丹波・摂津を経て河内出口に行かれます。

 

 出口の坊舎に三年逗留する。

 

 本福寺次第章草案

  • 文明七年六十一歳ニシテ、去越而住干河内之出口、三年御逗留。

 本福寺由来記

川内国出口殿へ霜月報恩講に、法住、同与二郎殿・与太郎・二郎三郎・左衛門五郎・与五郎召しつれて参給ふに、御かけし御文をあそばされて被下。根本の御影像、近松殿に御座候へとも、報恩講出口殿にておはします。(蓮如上人行実 P110)

 

 金森の道西は、山科に本願寺の再興をすすめたという話があるんです。ですから吉崎を立って山科に本願寺を造ります。この山科は比叡山の麓でしょう。しかし比叡山は手も足も出ない。それだけの力を真宗教団が持ったのですね。蓮如上人が逃げていったのが五十一歳でしょう。山科に本願寺を造ったのが一四八〇年、六十六歳です。 

 話は変わりますが、善導大師(ぜんどうだいし)がおつくりになったものに『往生礼讃』(おうじょうらいさん)という書物があるんです。日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中に分けて、どういうお勤めをするかということを非常に詳しく書いておられます。蓮如上人当時は、それを日常の勤行にお坊さんは使っておったのでないかと言われていますね。ところがご門徒がだんだん増えてきまして、ご門徒といいましてもほとんど庶民ですからね。武士は少なかったですよ。そういう人たちはお説教を聞いているときは、確かに有難くいただくんだけれども、自分の家庭そのものが日頃の仏法の家庭にならない。その時、朝・晩自分たちでお勤めをして、家庭全体が教えの場になるには、お勤めが欲しいという要請があったと言われます。そういう要請に応えるかたちで、蓮如上人が『正信偈』に念仏・和讃をつけて、朝・晩のお勤めに使うようになさった。そしてお寺さんも『正信偈』をお勤めするようになったんですね。在家(ざいけ)の人もお寺も、みな門徒(もんと)ですからね。

 「門」というのは、教えという意味ですから、門徒というのは教徒・信者という意味です。

私はお寺、貴方は門徒と、そういう考え方は本来真宗にはありません。「門」というのは聖道門(しょうどうもん)・浄土門(じょうどもん)でしょう。「門」というのは教えという意味ですから、門徒というのは信者という意味でしょう。住職も在家なんですからね。皆さんもご存じのように、真宗以外のお寺が信者の葬儀をするときには引導(いんどう)を渡すでしょう。住職は亡くなった人を導くわけです。だから引導です。真宗は引導ではありません。真宗は常日頃、朝・晩『正信偈』をお勤めした同行が、この度お浄土にお還りになった。だから、その『正信偈』で、皆で亡くなった人をお送りするという行事でしょう。だから住職は導いているのではないのですよ。禅宗は引導を渡すというでしょう。「喝」(かつ)といいますよ。私のお寺の近くにお婆ちゃんがおられまして、それが禅宗の檀家(だんか)なんですが、お婆ちゃんは真宗から嫁いできておられたのかな。だから光善寺にもお参りに来ておられたんです。そのお婆ちゃんが亡くなったから、その家のご主人が市内の禅宗の寺で、お母さんの葬儀をなさったんですよ。会社に勤めておられましたからね。家は狭いと思われたんでしょう。寺の本堂でお葬式をされました。そうしたら、眞勝寺と光善寺に案内があったんです。だから行きました。式の時は横の方に邪魔にならんように二人座っていました。葬式が長いんですよ。そのうち引導というものを渡されるんですね。「その生ずるや如是(にょぜ)、その死するや如是。」と言われていた。生まれるということも如是だというんです。如是というのは法のままということです。法の計らいの中で、法のはたらきの中で命終わったんだから、何の執着があろうかということを、漢文的な言葉で仰っていました。最後に「喝」と。喝ということは「目を覚ませ」ということですよ。それが引導なんですよ。亡くなった人に言ったってはじまらんと思うけど、しかしそれは儀式ですからね。授戒をしているんですね。亡くなったことをご縁にして、亡くなった人に戒律を授けているんです。だから真宗以外の宗は戒名(かいみょう)というでしょう。戒名というのは授戒をするからですよ。真宗は法名(ほうみょう)といいます。これは非常に大事な問題ですよ。法の名ですね。 

 『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)は立教開宗(りっきょうかいしゅう)の書物であって、その中の「行巻」の最後にある『正信偈』を切り離して、朝・晩のお勤めに使うようになさったのは蓮如上人です。そして蓮如上人の思いたちもありましょうけれども、多くの人々の要請によって、念仏・和讃をつけて開版されたわけでございます。蓮如上人が吉崎におられた五十九歳の時に、蓮如上人は『正信偈』念仏・和讃の本を開版されたということを、年表を見ますと書いてあります。それが皆の手元に渡ったわけです。その時から表紙は赤かったそうですよ。私は、子供のころお寺に行ってお説教を聞いていました。勤行本の表紙の赤い色について、その時は情熱をあらわすとか、信仰をあらわすとかいって、非常に情熱的にお説教をしておられました。赤い表紙は汚れがたいですね。黒というのはあまり感じがよくないですね。薄色は汚れますもんね。赤色は汚れませんもんね。そういう意味があったんでないかと、私は単純に考えておりますけれども、赤かったということが言われております。現在どこの家に行ったって『正信偈』の本は二、三冊無いところはないでしょう。そして真宗門徒が小さいときから触れる聖典が『正信偈』ではないでしょうか。爺ちゃんも、婆ちゃんも、お父さんやお母さんの『正信偈』のお勤めの声を聞いて育てられてきたのではないでしょうか。こういうところに真宗門徒の姿があります。この『正信偈』という聖典は非常に大切な、またご縁の深い聖典だということを私は感じておるわけでございます。