​ 問題は常に内にあり 

 07 

「願海」2007年5月掲載

名な書家に「相田みつを」という人がおられました。もう早く故人になられましたが、この人は詩人としても有名な人でした。若いときから禅宗のすぐれた老師に師事され、仏教の影響を強く受けた人で、その詩にはその精神がよく表れています。「人間だもの」という詩集に「のに」という題のこんなものがあります。

  

「あんなに世話を してやったのに ろくなあいさつもない。 

あんなに親切にしてあげたのに あんなに一生懸命 つくしたのに。 

のに… のに… のに… 

(のに)が出たときはぐち。 こっちに(のに)がつくと 

むこうは「恩に着せやがって」と思う。

 庭の水仙が咲き始めました。 水仙は人に見せようと思って  

咲くわけじゃないんだなあ ただ咲くだけ ただひたすら…  

人が見ようが見まいが そんなことおかまいなし  ただ  いのちいっぱいに  

自分の花を咲かすだけ 自分の花を…。 花は ただ咲くんです 

それをとやかく言うのは人間。

 ただ… ただ… ただ…  

 それで全部 それでおしまい それっきり。

人間のように (のに)なんてぐちは 一つも言わない

 だから純粋で 美しいんです。」

 

この詩を読むと、座敷からでしょうか、水仙の花の前にしゃがみこんででしょうか、ともかく、じっと水仙と向き合って、水仙に語りかけている相田みつをさんの姿が目に浮かんできます。そして、その水仙の「ありのまま」の美しい姿に感動し、その姿を鏡にして、必ずといってよいほど恩にきせたがる、私たち人間の愚かさ、悲しさと向き合っています。

人間も水仙と同じように、自然を離れては存在しません。水仙の美しさは、水仙を生み出した自然の「いのち」のままを姿としてあらわし、その「いのち」のかぎりを生ききっている美しさです。しかし、同じ「いのち」を生き、その自然の「いのち」の中から生まれながら、人間だけが知恵を持ちました。そして自然から立ち上がって、その知恵を使って他の生物にはない文化を作りました。現代は科学技術が非常に発達し、以前からいえば考えられないほど便利な世の中になりました。しかし、その人間の知恵は、現に自分を生み出し、それの働きで生きている「いのちの親」の自然を自分の外に見て、それを恵みと考えないで、自然を人間の便利追求のための材料と考え、化学技術はその手段になっています。その考えによって環境破壊が進み、公害問題などが発生して、人間もようやく自然との関係を正すために、本気で考えざるを得なくなりました。われわれ一人一人の問題であります。

 盆栽が大好きな老僧がおられました。そして盆栽を作るので一番難しいのが「水やり」だとおっしゃいました。季節によって、またその盆栽の種類によって、何時、どれだけ水を与えるかが一番難しいので、それが身につくのに、昔から「水遣り3年」と言ったものだそうです。ところが最近出版された「盆栽全書」という本を見たら、「水遣り5年」と書いてあった。それだけ人間が盆栽の気持ちを受け取る心が退化しているのだとおっしゃるのです。人間は余り科学的なものに頼りすぎるようになると、本来人間が持っている純粋な本能が退化するのだということのようでした。そういえば、昔の篤農家の言葉に「稲のことは稲に聞け」というものがあったことを思い出します。しかし、稲どころではありません、今日は人間が人間の心をはかりかねている。自己主張ばかりが強くなり、相手の身になって考える気持ちが弱くなってきているのではないでしょうか。いろいろと考えさせられる詩です。

 

​ 問題は常に内にあり 

 08 

「願海」2007年7月掲載

江戸時代の禅宗の高僧仙崖和尚(せんがいおしょう)は、博多、聖福寺(しょうふくじ)の住職を長く勤め、その、人の意表をつく言行(げんこう)や、禅味(ぜんみ)あふれる小画と、そこに添えられた画賛(画の上に書かれた言葉)が、当時の博多の人々の心をひきつけ、多くの人に大変敬愛されたと伝えられています。 ところで、その画賛(がさん)の一つに有名な「老人六歌仙」(ろうじんろっかせん)があり、私も老人の仲間入りをして、ふとその一節を思い出して苦笑することがあります。

 

しわがよるるほくろがでける腰まがる

頭がはげるひげ白くなる

手は振るう足はよろつく歯は抜ける

耳は聞こえず目はうとくなる

 

聞きたがる死にともながる淋しがる

心は曲がる欲深くなる

くどくなる気短になる愚痴になる

出しゃばりたがる世話やきたがる

又しても同じ話に子を誉める

達者自慢に人はいやがる

 

前半はまさに「身の事実」そのままに、見事に老人の姿が詠(よま)れています。その的確さには思わず「そのとうり」と笑みがもれるほどです。仙崖和尚は88歳まで生きた人ですから、ここで詠れている老人には、ご自身も含まれているのでしょう。そこに、そうでしかない自分でありながら、その自分をも笑い飛ばしているような明るさがあります。それがこの歌の救いです。体の衰えが始まると、いやでもその事実と向き合わねばなりません。結局誰にも代わってもらえぬこの身を、どこで、どう引き受けるのかは、自分自身が決めることです。老いるということはこういうことだと、ありのままを、ありのままに引き受ける、明るい心が欲しいものです。

 

後半の、ここに詠まれる傾向は、すべてわれわれ老人によく見られる現象です。くどくなるのも、愚痴っぽくなるのも、達者自慢も、子自慢も、すべてこれらは若いときにはしなかったはずです。それらが人に好まれないことを知っていたからでしょう。しかし、それをしてしまうのは、我慢がなくなり、わがままがでるからに違いありません。云うならば、これは仙崖和尚の自戒(じかい)と、われわれに対する戒(いまし)めの言葉です。

ただ仙崖和尚はそういう自分を徹底して知り抜いていらっしゃった。だからこうして詠(うた)えたのでしょう。我々はややもすると、そういう自分を見失ってただ感情のままに流されているかもしれません。大切なことです。