浄土真宗の歴史
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紙面掲載年月:2017年7月
前回まで比叡山衆徒(しゅうと)による本願寺焼き討ち以来、蓮如上人(れんにょ)は京都を離れ近江(おうみ・滋賀県)を拠点に伝道されましたが、やがて越前(福井県)の吉崎に坊舎(ぼうしゃ)を建て、そこを中心にして北陸一帯の真宗門徒の教化に努力され、わずか二・三年の間にその吉崎御坊が北陸一帯の真宗門徒の中心になったことを述べました。
もともと雪深いこの地は、自己を見つめ、そして浄土を願う人々が多い地方で、本願寺関係でいえば三代目覚如上人(かくにょ)の時代から歴代の法主(ほっしゅ)の教化によって本願寺の末寺がいくつも存在していました。然し北陸には覚如上人以前から「三門徒・さんもんと」と呼ばれる真宗門徒が多く存在していたといわれています。
それは親鸞聖人最晩年の門弟に如導(にょどう)という人があり、この人はもともと平判官康頼(たいらのはんかんやすより)の子で八歳の時親鸞聖人の下で得度(とくど)を受けた人で、弘安(こうあん)八年(1285)越前の大町に専修寺(せんしゅうじ)という寺を建て人々に念仏の教えを伝えていました。如導は親鸞聖人が御作りになり、分かり易い言葉で教えが表現されている「ご和讃(わさん)」を通して念仏の心を伝え、専ら和讃を読誦(どくじゅ)していたので「讃門徒・さんもんと」と称し、それが「三門徒」と呼ばれるもとになったと言われます。
この大町如導とは遅れて越前教化に進出された覚如上人とは当然かなり深い接触はありましたが、覚如上人がその如導の教化の方法に深い疑問を持たれたということもあり、結局別々の歩みをされました。ところがそうした矛盾を乗り越えて真宗門徒全体を一つに結集されたのが蓮如上人の吉崎御坊への進出でありました。そこには蓮如上人の言い知れぬ御苦労があったことは言うまでもありませんが、その一番大きな理由は親鸞聖人の御影(ごえい)がここに安置されたということであろうと思います。
蓮如上人はそれまでのあらゆる苦難の中でも唯ひたすらこの聖人の御影を奉じ、それを護り続けてこられました。そもそも教団としての真宗門徒の始まりは親鸞聖人滅後、聖人の末娘であった覚信尼(かくしんに)さまが関東門徒とはかり聖人の御影を安置した祖廟(そびょう)を造り、そこに永遠に生ける聖人の恩徳をいただく場所として本願寺が生まれ、それが真宗門徒の帰依処(きえしょ)であったことは今まで詳しく述べてまいりました。
その聖人の御影がこの度不思議な因縁によって吉崎にお出ましになったのです。真宗門徒すべてがこの聖人の御影の前に身をすえ、聖人の御影に深く帰依したであろうことを思わずにはおれません。
また蓮如上人は門徒に対しては常に同朋・同行(どうぼう・どうぎょう)として交わられ、法話をされる場合も一段高いところから権威をもってするのではなく「平座・ひらざ」で阿弥陀如来の本願の要(かなめ)を明晰(めいせき)に、分かりやすく、そして力強く、相手の心を汲みとりながら伝えられました。然し上人の教化で一番大きな働きをしたものが「御文・おふみ」という文書による伝道方法をとられたことであり、当時としては画期的なことでありました。それは説教や法話の要点を凝縮し、分かり易く書かれているもので、蓮如上人の教化によって各地に出来た講(こう・聞法のグループ)の代表的門徒に送られたもので、その人によって講中(こうじゅう)に読み聞かせるために書かれたものであります。この御文の教えを通して今日でいう座談会の中でお互いの信心の確認がされました。今日残っている御文は二百二十一通ありますが、上人の吉崎時代四年三ヶ月の間に書かれたものがその三分の一の七十八通にのぼりますから、上人のこの地における熱意とその御苦労が強く感じられるのであります。
浄土真宗の歴史
57
紙面掲載年月:2017年9月
前回まで越前吉崎を拠点とした蓮如上人(れんにょ)の教化が、真宗門徒の信仰心を呼び起こし、わずか数年のうちに吉崎御坊(よしざきごぼう)を北陸門徒の本寺(ほんじ)とし蓮如上人を中心とした念仏者の大教団が生まれたことを述べました。
それは蓮如上人の教化がただ、御坊に座して門徒の参詣してくるのを待つというものではなく、常に自ら各地に赴(おもむ)き、その地の有力者を中心にした講(こう・聞法のグループ)をつくり、その講の教化に尽力され、席の温まる事は無かったといわれているのです。これは余談ですが、上人は八十五歳で亡くなられますが、亡くなられたその足に草鞋(わらじ)によってできた傷跡が残っていたと伝えられているのです。生涯親鸞聖人のみ教えを一人でも多くの人に伝えたいという願いにその一生を捧げられた方でありました。そして、その教化で一番大きな働きをしたものが「御文・おふみ」による、当時としては画期的な文書伝道であったことを前回述べました。御文は講(こう)の代表的門徒に送られたもので、その人によって講中に読み聞かせるために書かれたものです。説教や法話の要点を凝縮し、分かり易く書かれたものです。それを通してお互いの信心の確認がされました。
そして蓮如上人の教化において私達が決して忘れてならないことは真宗における勤行(おつとめ)を親鸞聖人の正信偈(しょうしんげ)をもって決めて下さったということであろうと思います。正信偈は親鸞聖人が御作りになった偈文(げもん)であります。偈文というのは漢文で書かれた仏の徳・高僧の徳を讃歎(さんたん)された歌と言う意味です。然しこの正信偈は勤行のために親鸞聖人が作られたものではありません。
親鸞聖人は多くの書物を書いていらっしゃいますが、その中で根本聖典(こんぽんせいてん)といわれているものが顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい・略して「教行信証」きょうぎょうしんしょう)というお書物です。即ち親鸞聖人の説かれた浄土真宗の根本を明らかにされたもので、全文漢文で書かれていて六巻あります。
正信偈はその中の第二巻目の行巻(ぎょうかん)の最後にある偈文(げもん)です。その偈文を引き出して、それに和讃(わさん)、つまり和文(日本文)で親鸞聖人が作られた仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)の歌を交えた、今日行われている勤行(ごんぎょう)のありかたを決定されたのが蓮如上人でした。それまでは中国の善導大師(ぜんどうだいし)の書かれた往生礼讃(おうじょうらいさん)というもので勤行がされていたと伝えられていますがよく分かりません。いずれにしましても善導大師の教えによるのでない、どこまでも親鸞聖人の教えによる勤行を確立されようとされたのでありましょう。
吉崎御坊は言うまでもありませんが、各地の講の法座(ほうざ)で蓮如上人ご自身が参詣したご門徒と共に高々と正信偈の勤行をされ、講の代表者によって御文が拝読され、それに続いて御文に明らかにされた親鸞聖人の念仏の教えを人々に説教された蓮如上人の喜びに満ちたお姿を想像することが出来ます。そしてその伝統が今日の寺院の法座に受け継がれていることに深い感銘を受けています。そして、それはご門徒の家庭における朝・夕の勤行(おつとめ)もそれに基づいていることは皆さまご存知の通りです。
浄土真宗の歴史
58
紙面掲載年月:2017年11月
前回まで越前吉崎を拠点とした蓮如上人(れんにょしょうにん)の教化によって、吉崎御坊を拠り所にした念仏者の大教団が生まれたことを述べてまいりました。そしてその教化において一番大きなお仕事が、正信偈・三帖和讃(しょうしんげ・さんじょうわさん)による浄土真宗における勤行(おつとめ)の制定であったことを述べました。
それについて、元龍谷(りゅうこく)大学教授の森龍吉(もりりゅうきち)さんの著書「蓮如」に森教授は「文明五年(1473)三月、蓮如は正信偈に三帖和讃を加えた聖典を開版刊行した。当時愚昧(ぐまい)と考えられていた在家門徒(ざいけもんと)対象に、かかる典籍(てんせき)の印刷刊行が行われたのは、大衆布教(たいしゅうふきょう)における画期的な事業であるだけでなく、日本の印刷文化史のうえでも注目すべき試みであった。」と述べられ、更に「キリスト教における宗教改革者ルターによる大衆の為の翻訳聖書(ほんやくせいしょ)が初めて印刷刊行されたのが、この「正信偈・和讃」の刊行より半世紀後の1522年であった」と述べられています。
当時の当時の印刷はいうまでもなく木版(木の板に文字を彫りつけた)印刷ですが、この技術は古く中国で発明され、それが日本に伝えられて、それまでも仏教の経典(お経)の木版は多く存在していました。然しそれらは総て寺院の奥深く蔵され、寺院で悟りを求めて修行する出家僧侶の学問と、その勤行(ごんぎょう)の為のもので、それは極めて神聖なものでした。
然し蓮如上人が開版された正信偈、三帖和讃は、一般の在家の真宗門徒(しんしゅうもんと)が日常の生活の中で勤行(おつとめ)するために印刷されたものであり、又聞法(もんぽう)の拠り所として、人々に伝達されたものでありました。それは当時としては全く画期的なことであったのです。その事のもっている重大さを、教授はキリスト教のルターによる宗教改革により、一般の信者が読める聖書が出版された時期と比べて、述べられていることに深い感銘を受けています。
現在、真宗門徒の御内仏の前に置かれた経机(きょうじょく)の上にこの勤行本の二冊や三冊置かれていない家庭は恐らく一軒もないでしょう。そしてそれによって今日まで朝・夕二回の勤行が行われて参りました。それが真宗門徒の本来のありかたです。
然し、そのことを何の疑いもなく当たり前の事として過ごしてきました。その伝統の発祥がいまから約五百五十年前の蓮如上人の英断にあったことを知らされ改めて深い感銘を受けています。