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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年11月

九歳で比叡山に登られ、受戒されて天台宗の僧となられた親鸞聖人は、常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の堂僧(どうそう)として、学行に励まれたと伝えられています。常行三昧堂というのは、常行三昧という修行をする特別なお堂のことですが、それは現在も存在し、そんなに大きな建物ではありません。四角い屋根の四角なお堂です。隣にある同じ形の法華三昧堂(ほっけさんまいどう)と廊下でつないであり、横から見ると、丁度昔の旅人が二つの荷物を棒にとうして担いでいるように見えるところから「荷い堂(にないどう)」と呼ばれていますが、とても美しい建物です。その堂は阿弥陀如来の像を四角な道場の中央に安置して、その周りを称名しながら回り歩くように出来ていて、その行を常行三昧といわれます。正式に行えば九十日に及ぶ非常に厳しい行ですが、三日・五日・七日と日を限って行う「不断念仏」(ふだんねんぶつ)もしばしば行われていました。不断念仏は、横になって休むことは許されず、疲れると、柱と柱との間に渡された竹にすがってしばしの休息をとり、細く割った竹で組んだ「きゃはん」で両足のすねをしっかりと締めつけて足のはれを防ぎ、ただ、ひたすら仏の名を称え、仏の周囲を歩き続けます。昼もなく、夜もなく、薄暗いお堂の中をただ一人歩き続けて仏を念じます。三昧というのは、そうして心が統一され、静かな澄み切った心の状態になることをいいます。常行三昧を別名「諸仏現前三昧」(しょぶつげんぜんさんまい)と言い、その三昧に入った精神に、諸仏がありありと現れる体験を目指しての修行でした。わがままで、わが身勝手な欲望のために、自ら苦しみ悩みながらもそのことに気付かず、更に悪業(あくごう)を重ねる人間を、深く大きな心で大悲(だいひ)されている仏の心を、わが心として、衆生救済(しゅじょうきゅうさい)のために、仏の行を自ら行ずる行者になろうとする、厳しい修行の実践です。しかし、それは単に修行によって、わが身だけが人並み優れた立派なお坊さんになるための修行ではないのです。

現在も比叡山に参詣しますと、境内に大きな御影石の柱がたっていて、「一隅(いちぐう)を照らす」と大きな文字が彫られています。これは、比叡山を開かれた伝教大師が、比叡山を「一隅を照らす国宝的人材」を養成する道場にしたいと願われたことを顕わしています。

「一隅をてらす国宝的人材」ということを、現代風にいえば、自分自身が置かれたその時、その場所で、精一杯努力し、明るく輝くことのできる人こそ、何者にも変えがたい国の宝であるという意味ではないでしょうか。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。ただ自分のためばかりでなく、人の幸せ、人類みんなの幸せを求めていく。「どんな人に対しても、優しさや思いやりのもてる心豊かな人」になることが我々すべての人間の目標であり、それが仏さまの心です。その究極の境地を求めて親鸞聖人の修学は、九歳から二十九歳まで二十年に及びました。

       

 

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2011年1月

親鸞聖人は九歳で出家し、比叡山横川(よかわ)で常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の堂僧(どうそう)として、二百五十戒といわれる戒律(かいりつ)を守り、厳しい修行に励まれました。日夜仏に向い、仏を念じ、仏名を称え、仏の心を心として生きる生活です。一切の欲望(性欲・財欲・名誉欲など)を捨てて、生きながらにして仏になるための修業でした。比叡山は今でこそ観光バスまであがる観光地になっていますが、嘗ては女人禁制(にょにんきんせい)の聖地でした。其の中で聖人は九歳から二十九歳まで二十年の間、この仏道を行じられました。その聖人が二十九歳のとき比叡山での学行のすべてを捨てて、京都の吉水(よしみず)で念仏をすすめておられた法然上人(ほうねんしょうにん)にお会いになり、その弟子となって、やがて、生涯念仏行者として生きられ、そこから浄土真宗という宗門が生まれたことは、皆様もよくご存知の通りです。ところが、その法然上人にお会いになるについて、聖人は京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう・おこもり)をされています。そして、その九十五日の暁に本尊(ほんぞん)・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の夢のお告げを受け、それに導かれて法然上人に会いに行かれたと伝えられているのです。つまり、なにか考えがあって比叡山を下り、真っ直ぐ法然上人の所に行き、そこで問答か何かをして、やがて法然上人の教えに感服してその弟子になられたというのではないのです。この六角堂の参籠が聖人の生涯にとって、非常に大きな意味をもっています。六角堂は現在も京都の中心、四条烏丸に存在し、その形から六角堂と呼ばれていますが、正式の名前は頂法寺(ちょうほうじ)といいます。もと聖徳太子の念持仏(ねんじぶつ)であった観世音菩薩を本尊として建立(こんりゅう)したという由緒のあるお寺で、仏法を敬い、世のために自分をすてて生ききられた聖徳太子を、観音さまの化身(けしん)として信仰を集めた寺でした。          

そのころの聖人の心境を考えてみますと、比叡山二十年の歳月は、九歳というまだ幼く純真な少年を、二十九歳という心身ともに成熟した一人の人間に成長させていました。そして、その出家教団としての比叡山総合仏教大学のもっている意味やその将来、そして、そこで修行している人々のすべて、また自分自身の能力や個性など、又比叡山の下では、うち続く飢饉や災害、長い政治の混乱などで、苦悩している人々の姿などが、はっきりと考えられる年齢になっておられました。そこで、聖人にとって比叡山二十年の学行は、その修行を通して体得された深い信念と、使命感に満ちて衆生救済の仏道を歩む自信を与えるものにはならず、むしろ、聖人にとってその二十年は、比叡山における出家仏教に対する疑問がいよいよ深まり、かといって、この道を離れてただ欲望に流されるという生き方を越えて、真に人間として生きる道が他にあるか、あるとすればそれは何かと、次第に解くことのできない問いをかかえて苦悩する結果をもたらし、ながい迷いのすえに、その解決を求めてこの六角堂に参籠され、聖徳太子に深い祈りを捧げられたのでありましょう。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2011年3月

親鸞聖人は比叡山二十年の修行の末、二十九歳の春、京都の六角堂に百日の間参籠(さんろう)され、聖徳太子に深い祈りを捧げられたと伝えられています。六角堂は聖徳太子の願いによって建てられた寺で、本尊の観音さまは聖徳太子の姿をうつしたものと伝えられていました。参籠ということは当時の高僧の伝記にはしばしば出てきます。しかし、これは現在でも形は違いますが、例えば画家とか彫刻家などの芸術家が、その仕事のうえで大きな行きづまりに遭遇したときなどは、アトリエに籠もりきりで誰にも会わず、一心に考え苦しむことは決して珍しいことではないそうです。そうしたことは何度もあり、それを突き抜けて初めて本物の芸術家が生まれてくるのでしょう。しかし、これはそうした特別な人に限らず、どんな人でも、その生き方が真剣であればあるほど、その人生において行きづまりを感ずる事は必ずある筈です。しかし、その時、それを避けたり、誤魔化したりする人には本当の人生は見えてこないのであろうと思います。

親鸞聖人は参籠して聖徳太子に祈りを捧げられましたが、聖人は聖徳太子を「和国の教主」(わこくのきょうしゅ)と呼ばれました。仏教の教主はお釈迦様ですが、聖人は特に聖徳太子を和国、つまり日本のお釈迦様と仰いでおられたのです。インドの教主お釈迦様は王位を捨てて出家され、日夜欲望にまみれて苦しむ人間を超えた立場から、苦悩解脱(くのうげだつ)の道を説かれて生涯出家の道を歩まれました。しかし、親鸞聖人にとっての、和国の教主聖徳太子は出家されず、叔母様の女帝、推古天皇の摂政として事実上推古朝の国政全体を担われました。そして、まだ朝廷の権力もそんなに強力ではなく、諸豪族とのバランスの中で政治が行われていた時代に十七条憲法を制定し、仏教による国造りを目指し、仏のまことによる国民の幸せを願われました。これは日本で最初に造られた憲法です。「和をもって貴(たっと)しとなす」と書かれた額などを時々目にすることがありますが、これは十七条憲法の最初に掲げられた言葉です。次に「篤く三宝(さんぼう)を敬え、三宝とは仏法僧(ぶっぽうそう)なり。即ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いずれ)の世、何(いずれ)の人か、この法を貴(とうと)ばざるべき」とあり、四生は民族のことですから、民族を越え、国家を越えて、すべての人間の帰すべき「まこと」としての仏教による平和憲法の制定でした。その第十条には「人皆心あり。心おのおの執(とらわ)れることあり。(中略)我必ずしも聖(せい)に非(あら)ず。彼必ずしも愚(ぐ)に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ」とあり、この「共にこれ凡夫のみ」というところに太子の尊い信念をいただくことができます。このお言葉は正に処を超え、時代を超えてよるべき至言(しげん)であります。太子はこうした理想を掲げて国政にあたられましたが、現在も法隆寺東院に存在する八角堂の夢殿に籠もられることもしばしばであったことが伝えられていますから、現実の政治の中で深い苦悩のあられたことが察せられます。しかし、太子は決して出家はされませんでした。そのときの太子は多岐にわたる釈尊のどの教えを自己の拠り所として十七条憲法を生み出され、その実現のためにご苦労されたのであろうか。それが太子を和国の教主と頂かれていた親鸞聖人の深い疑問であり、百日参籠による太子への祈りであったと思われます。