​正信偈に聞く

 9-1 

​平成20年12月26日

 皆さんこんにちは。

 この『正信偈・しょうしんげ』には、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が因位(いんに)の時、一切衆生のために本願をおこし名号を成就して、私たちに回向(えこう)してくださる。その成就なさった阿弥陀仏の功徳(くどく)を『大無量寿経・だいむりょうじゅきょう』では十二の光としてあらわしてあるわけです。つまり、光というのは、私たちの迷いの闇を破ってくださるはたらきということです。今日は「無対(むたい)・光炎王(こうえんおう)・清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)」という順番で、一緒に頂いていきたいと思うわけでございます。

 

5)「無対」(むたい)無対光 他の何ものとも対比できない光明

 

「無対」の対というのは、対比という意味で言われておるのだと、古田先生はおっしゃっておられます。つまり対比ということは比べるということです。だから、何ものにも比べられない。他のどのような仏様の光とも比べられない。そういう光が阿弥陀如来の徳であるということで「無対」といわれておるのだと。そして

 

「浄土和讃」「清浄光明ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば 一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ」

 

名畑先生の意訳は「無対」ということを、

 

「清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない。この光に「値遇・ちぐ」すればこそ」と。

 

「遇斯光」というのは、この光に遇うという、遇という字は「遇う」という字です。だから、この光に遇う。親鸞聖人は、この「遇」という字をよく使われるのです。「たまたま」という。ですから、私たちの方から言えば、阿弥陀仏の徳とか光といっても、具体的には私たちがご縁をいただいている先生。その光に遇っておられる先生の教え・言葉・生活が、私たちにとっては如来様のはたらき、お徳をいただくご縁になっているわけです。無碍とか無対というお言葉は『大無量寿経』の中にあるわけです。それを親鸞聖人が阿弥陀仏の無対なる光の功徳として、味わいを和讃にしておってくださるわけですから、私たちはそれを通して無対なる光に遇われた親鸞聖人のお味わいをいただくわけです。その時に「値遇・ちぐう」という。その光に遇うという「遇斯光」の「遇」ですね。それは、我々の方からいうならば偶然なんですね。私たちが何故この阿弥陀仏の教えに遇うことができたかということは、自分ではわからないわけです。たまたま親が非常に仏法を喜んでおったとか、そしてまた自分の周囲にそういうご縁を喜ぶ人がたまたまおられたと言う。だから、我われの方からいうならば偶然という、たまたまということです。ところが、如来様の方からいうならば必然だと。つまり、一切衆生を救いたいと阿弥陀如来が立ち上がっておられるわけですから、その立ち上がられた如来様の光の中に私たちはすでに包まれているわけです。ただそのことに、こちらが気づかない。それをたまたま気づかしていただという。そこに「遇」という。

 

「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。 一念多念文意 聖典P543

 

これは「もうあう」といわれますけれども、遇うという言葉に深い意味があることを教えておられます。この光に遇うことができれば、すべての繋縛(けばく)が除かれるわけです。「一切の業繋・いっさいのごうけ」という言葉があります。つまり業繋というのは、繋ぐという字ですから、「罪業に束縛されること」と名畑先生は書いておられます。この業繋というのは、我われの罪業に束縛されていることを業繋といわれるわけです。そういう光に遇うことによって、すべての繋縛が除かれると。そして、畢竟依に帰命せよと。この畢竟依という言葉が大事だろうと思います。畢竟依は阿弥陀如来のことです。他に平等覚といったり、難思議といったり、真実明とも親鸞聖人はいっておられます。阿弥陀如来のことを畢竟依といっておられるわけです。畢竟ということは究極ということです。だから、究極の依りどころが畢竟依という意味です。

私たちはいろんなものを依りどころにして生きております。お金もそうですいし、物もそうです。そして家族の愛情とか、また自分自身の能力も含めて、あらゆるものを杖にして生きているわけですね。しかし、そうしたものがすべて間に合わなくなった時に、私たちが究極において出遇う最後の依りどころ、それが阿弥陀如来だとおっしゃるわけですね。私たちが大切にしているものは無常なものです。だから、相対有限なものを依りどころにするならば、必ず人間は苦悩から免れない。だから、絶対無限者というのは阿弥陀如来という意味ですが、そういうものに依りどころを求めるべきだということが分かっておれば、私たちは裏切られたとか、あんな人とは思わなかったとか、なぜこんな病気で苦しまんならんだろうかということが起きても、起きたということが目印になるわけです。私は絶対無限を依りどころにしなければならんと教えられながら、相対有限なものを依りどころにしようとしている。そこに、私の迷いがあったんだということに気づかしていただく。それは絶対無限なる阿弥陀を究極の依りどころにしておれば、相対有限なものにすぐに頼っていこうとする自分が照らされるわけです。そうすると当てが外れたということも、何かご縁になるわけですね。あれだけ教えていただきながら、やっぱり当てにならんものを当てにしているから、当てが外れるんだなと言うておれるわけです。それは「畢竟依」を教えてもらっているからです。教えてもらってなければ大事(おおごと)じゃないですか。日本の自殺者が一年の交通事故で亡くなる人の数より多いと言いますね。自殺せずにはおれない人というのは、お気の毒な人ですけれども、結局は「畢竟依」を知らないというか、「畢竟依」が課題にならなかった。それを課題にして生きておれば気づくわけです。相対有限を相対有限と思わないで、それを絶対的なものとして生きて来た。それが行き詰まる。そうすると自殺ということにならざるを得ないわけです。先進国とか途上国という言葉がありますが、日本やアメリカやヨーロッパ等は先進国だそうですが、先進国の中では日本人の自殺者が一番多いそうです。日本人の心に何か欠陥があるのでないかということを、ヨーロッパの学者が言っておるそうです。宗教は絶対無限なるものを教えているわけでしょう。絶対無限というものがあるから、相対有限ということがあるわけです。相対有限を感ずるということは、絶対無限なるものを背景に持っているということですよ。寺の掲示板に、

 

仏は衆生によって仏になり、衆生は仏によって衆生になる  曽我先生の言葉

 

と書いてあります。絶対無限なるものというのが仏です。そうすると、私たちは自分を相対有限といただけるわけです。そうすると究極的に行き詰まるということはないわけです。むしろ絶対無限者に気づかされる機縁になります。だから「遇」という。たまたまと言いましたが、我われは絶対無限なるまことの中に生かされながら、そのことに気づかないということは、自分が相対有限であることを知らないでいる。それが、たまたま教えに遇うことによって、相対有限ということが凡夫だと知らされるわけです。親鸞聖人の言葉に「煩悩具足の凡夫」という言葉が多く使われます。それは、相対有限の自覚をあらわしておられるわけです。それは絶対無限の如来のまことに遇ったからいえるわけです。だから、愚かです。悲しい存在ですと言って自分を打ち出していけるわけです。仏様はたくさんおられますが、すべての者の上にはたらき、そしてすべての者が平等に救われていく仏様というのは阿弥陀如来だけです。他の仏様は善悪ということを言われますから。善悪をいわれれば、善を修められるものはたすかりますけれども、悪しか造れんものは救われないわけです。だから、どうしても阿弥陀如来以外の仏様は、人間の宿業の前で立ち止まられる。ああ、どうしようもないなと。ところが、阿弥陀如来はそういう者であればあるほど、その者を大悲される。我が名を称えて欲しいと呼びかけておってくださる。そういう仏様を我われは南無阿弥陀仏としていただいておるわけです。そうしますと「一切の業繋ものぞこりぬ」です。どんな罪も罪でなくなるわけです。皆ご縁になるわけですね。こういうことを「無対」というかたちで、阿弥陀仏の徳のひとつとして述べてあります。

 

​正信偈に聞く

 9-2 

​平成20年12月26日

 その次が「光炎王」です。

 

(6)「光炎王」(こうえんのう) 煩悩を焼き尽くすもっとも勝れた炎である光明

「浄土和讃」仏光照曜最第一(ぶっこうしょうようさいだいいち)  光炎王仏となづけたり

 三塗(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり  大応供(だいおうぐ)を帰命せよ

(注)三塗・三途とも記す。地獄・餓鬼・畜生の三悪道(さんまくどう)。塗(途)=道

 

「光炎王」と書いてあります。これは単なる光ではなくて炎だと。どういう炎かといったら、我われの煩悩を焼き尽くすという炎だと。それを「光炎王」と。「王」という字は、もっとも勝れたという、そういう意味で王という言葉が使われておるんです。名畑先生は、

 

この仏の光明の輝きは第一に優れているので光炎王となずける。

三途の迷闇をも照破される。大応供の弥陀を頼みとせよ。

 

と書いてあります。三塗というのは地獄・餓鬼・畜生を三塗といいますね。三塗の「塗(途)」という字は「道」という意味だそうです。だから「迷いの道」。それが三つあるわけですね。地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)と。我われの煩悩からいえば貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)。仏教では煩悩を百八数えてあります。我われの心身を煩わし悩ます心のはたらきというのを煩悩といいます。除夜の鐘は百八突きますね。それは煩悩を打ち破って新年を迎えようという行事です。

貪欲を具体的にあらわしたものが餓鬼だといわれますね。つまり貪という字は「貪・むさぼり」という字が書いてあります。単なる欲ではないんですね。貪欲というのは切りがないんです。人間の欲はそうだろうと思います。戦前は食べることだって、着るということだって、住むということだって、本当に貧しかった。ところが今は、食べるものでも、昔はお祭りのときにしか食べられなかったものを毎日食べている。今は本当に贅沢です。衣食住が満ち足りているわけですから。しかし、皆満足した顔をしているかといったら、そうでもないですね。人間は切りがないから不足不満が絶えない。だから今は、ひとつのものが手に入ればさらに五つのものを求める。そして、五つのものが手に入っても満足するのは三日間だと、仲野良俊(なかのりょうしゅん)という先生が言っておられました。そうでしょうね。そしたら今度は十欲しがる。また十になって喜ぶのは三日で切りがない。だから、貪欲が順境であれば満足があるかというたら、いよいよ貪欲は増えるというんです。ところが今度は逆境になる。この世の中は思うようになることばかりじゃありませんから。思うようにならんことが起きてくると「瞋恚」する。これは怒り腹立ちです。瞋の字の「目」は、相手を睨みつけている目だそうです。順境にあえば貪欲がいよいよ強くなり、逆境にあえば瞋恚、怒り腹立つ。そうなると、今度はあらゆる人間と人間の関係が破壊される。私たちの人生で怒りというのが一番怖いですね。腹を立てる、そうすると自分の平衡感覚を失いますから、相手との関係が毀れていきます。貪欲が思うようにいけば喧嘩にならんわけです。貪欲が思うようにいかんのは逆境でしょう。そうすると腹を立てる。なぜ腹が立つかと言ったら貪欲だからです。だから、先ほど読んだ「絶対他力の大道」の中でも、清沢満之先生はおっしゃっておられますが、私たちは他によって満足を得ようとする。だから、

 

「自己に充足して求めず争わず、天下何のところにかこれより強勝なるものあらんや。

いずれのところにかこれより広大なるものあらんや。」

 

と。やっぱり他に求めますからね。そうすると、どうしても腹を立てんならん。「愚痴」が煩悩の迷いの根本なんです。無明という迷いの根本です。真実の道理に暗いという意味なんです。道理に暗いという意味が愚痴ということなんです。ものの道理がわからないということです。だから、貪欲のために腹を立て、そしていよいよ愚痴をいうていく、愚痴で考えますから、また外に満足を求めていく。要するに堂々巡りで出口がないわけです。貪欲を具体化したのが餓鬼です。腹を立てて瞋恚を起こしたのが地獄だと言います。そうでしょうね。地獄というのはよく出てきていますね。閻魔さんがいて、閻魔さんは閻魔帳というものを持っていて、どんなことでも書いて忘れない。人間がそうです。自分が相手のことを何でも忘れないで憶えていて、そして思い出しては腹を立てる。そして、心の中では相手を徹底的に虐待していきます。鬼ですよ。閻魔さんと鬼がいるのが地獄です。

 畜生というのは牛とか馬とかを、具体的には畜生といいますけれども、前回そういうことについて話をしました。犬や猫というのは、ただ生きているわけですよね。意味の世界がない。ただ生きている。目的という意識はないわけですけれども、食べるということと、そして子孫を残すということが、生きていることの姿になっているわけですね。ところがあらゆる生物の全体が、それぞれに意識はないんですけれども関連しているわけです。そして全体としてひとつの生態系が成り立っているわけです。それを壊しているのは人間なんです。人間は知恵をもちましたから、人間が自然を思うようにすることで、人間の幸せを得ようとする。そして人間の思うようにしていこうとする。だから、現在という時代は、自然というものは人間の欲望を満足させるための材料になっているわけです。自然にあるものを使って、いろんなものを作っていく。そして、それを捨てる。捨てたものは自然に戻らないわけです。だから、どんどん自然破壊が進んでいくわけです。それは人間だけがそういうことをするんですね。他の動物はそんなことはしないわけです。自然と一緒ですから。ところが人間だけが、自然そのものから立ち上がって、人間の考えで生きはじめたわけです。その中でも自然を大切にして、自分も自然から出てきて自然に帰っていく。そういう観念が強かったのは、むしろ東洋人なんだそうです。ヨーロッパの人は、そこで科学を発達させた。科学が発達すると、どうしても人間の知恵をもって自然破壊が進んでいくわけです。こういうことを考えてみますと、畜生が愚痴ということは理屈に合わんところがあるわけですけれども、確かに人間の立場で考えると畜生には道理がありません。しかし、畜生は生きるままが、そのまま法に適っているわけですけれども、ここには道理に暗いということを畜生にあてているわけです。「馬の耳に念仏」という言葉があるでしょう。つまり、馬になんぼ念仏したって意味が分からないわけです。ところが人間だけは法に遇うと、それによって目覚めということが起きてくるわけです。だから、人間のことを仏教では「機」といいます。これは、機会というときの機はチャンス。そして機械という字の機は仕組みということです。だから法というものに遇うことによって、具体的には教えに遇うことによって、「馬の耳に念仏」ということでなくて、それによって、それをチャンスにして迷いを離れて悟りを求めていこうとする。だから、この機という言葉を江戸時代の人は、「可発の義・かはつのぎ」と言っています。これは可能性ということです。法に遇うことによって迷いを離れ、悟りを求めていこうとする力です。能力をもっている。可能性をもっているという意味で、この機という言葉があるのだということを教えられておるわけです。だから、人間を機といいます。そういう意味で畜生は機にならないわけです。宗教的な意味でいった場合に畜生というのは、ものの道理に暗い。暗いということは、教えによって動くということはないわけです。そういう意味で愚痴ということの具体的な姿として畜生にしているわけです。いずれにしても、こういうことが煩悩です。だから煩悩によって人間は、その思いを超えてあらん方向にどんどん生きていく。しかし、そこに法がはたらいていますから、南無阿弥陀仏というのは、法そのもののはたらきです。だから、そのはたらきに中に人間はおるわけです。

『仏説観無量寿経・ぶっせつかんむりょうじゅきょう』には、散善(さんぜん)の「下品下生・げぼんげしょう」の愚人が善知識のすすめで念仏に遇うという教えがあります。そこでは、臨終に自分の今まで生きてきた生き方を悔やむわけです。しかし、これはすべての人間に通ずることです。結局考えてみたら私たちの人生は、地獄・餓鬼・畜生を繰り返してきただけではないか。そして、そのために人間として生まれてきた意味を見失ってしまったという深い悲しみと、後悔が出てくることが人間には必ずあるわけです。そういう意味で、人間というのは単なる畜生ではない。やっぱりものの道理によって、自己に気づく可能性を皆持っている。そういう私たちを目覚めさせて下さる。決め手は善知識に遇えるか、遇えぬかです。つまり、仏の光を煩悩にあてて、「光炎王」という言葉をいわれ、そして「三塗の黒闇ひらくなり」といわれる。

そして今度は「大応供」という言葉がありますが、これも仏様のことを言っているわけです。「応供・おうぐ」というのは、供に応じると読みます。だから人々の供養に応ずる資格のある人という意味です。そして「大」というわけですから、阿弥陀如来のことを「大応供」と言っておられるわけです。私たちはご門徒の家にご法事に行ったりします。そうしますと、そこでお布施をいただくわけです。しかし、私たちは仏様の名代で行くのですが応供の徳がありません。何故かと言ったら、お布施を開いたときに貪欲が動くわけです。「布施」に財施と法施があるわけですね。私たちは法を施す力がないんです。ただお経をあげるしかない。お経というのがお釈迦様の教えですから、それを読誦(どくじゅ)しているわけです。「読誦」というのは、誦するということですが、ただ読むという黙読ではなくて声に出すという意味です。宗教はみなそうなっているようですね。イスラム教の寺院があるでしょう。そういうところに皆行って、礼拝しているのをテレビなどで見るじゃないですか。メッカに巡礼にきて、その礼拝の中で美しい声でコーランを読んでおられるわけですね。やっぱり読誦なんです。イスラム教は、私らが子供の時ころはマホメット教と言うておりました。漢字では回教と書いておりましたね。今は教祖をマホメットとは言いません。ムハンマドと言います。マホメットというのは日本流の読み方でしょう。今はイスラム教と言います。イスラムという意味は「帰依」という意味だそうです。偉大なるものに身を投げて依っていくという意味だそうですよ。イスラム教も読誦しておられるようですね。声を出して読んでおられるでしょう。だから仏教でも、お経はお釈迦様の教えですが、それを声を出して読む。それが法施になっているわけです。だから、亡くなった人の命日をご縁にして、また亡くなった人の葬儀をご縁にして法を施す。それに対して皆さんがお金とか物で財施をなさる。その布施を受ける資格があるかという意味が「応供」という意味なんです。だから、応供は仏様です。仏様は受ける資格があられるでしょう。我われは凡夫ですから受ける資格はないでしょう。しかし、私どもは仏様のお蔭で生活しておる格好になっているわけです。全ての者が仏様の前に自己を投げる。「帰命無量寿如来・南無不可思議光」と投げる。そのことによって帰命無量寿如来といった者がたすかるわけです。私が仏様に供えれば、仏様がたすかるのでなくて、仏に供養したこちらがたすかるわけですから、仏様は応供なんです。そういう意味で畢竟依とか大応供という言葉で如来様を表現してあるわけです。次に進みます。

 

​正信偈に聞く

 9-3 

​平成20年12月26日

7)「清浄」(しょうじょう)清浄光 汚れることのない清らかな光明。

「浄土和讃」「道光明朗超絶(どうこうみょうろうちょうぜつ)せり 清浄光ともうすなり

ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごうく)をのぞき解脱をう」

 

意訳 仏のさとりの道からはなたれる光が明朗であるから清浄光仏と申す。

   ひとたびこの光明に照らされると悪業煩悩が除かれ解脱・涅槃を得しめられる。

 

「道光」というのは仏道のさとりから放たれる光明であると、そして業垢というのは悪業と煩悩だと。悪業煩悩が除かれ、そしてさとりを得るのであると。このように言ってあります。

こういう中で「道光明朗」と、道と光と書いてある。道のさとりから放たれる光が明朗であると、こういうように言われていますけれども、現代という時代は、迷いとか覚りとか、そして、人間業の深さとか、人間の我執我慢の救われなさとか、そういうことが課題となっていない時代ではないでしょうか。だから、如来とか仏というのが、私たちの人生に意味をもってくるということは、私は迷いの存在だということでしょう。だから、私たちの人生が仏道として、この人生はこのこと一つに遇わせていただくための人生であったと言えるものとして、仏様の教えが説かれておるわけです。これは、誰が言われたのかもう忘れてしまったのですが、ご門徒の人が言われたんですよ。

 

「もうよかです。歳を取っていろいろある。しかしもうよか。ゲートボールと温泉と後はコロッと死ねるごと。」

 

と言われた。ゲートボールと温泉と後はコロッと死ねるごとということですが、七十年も生きてきたこの人の人生が、そんなかたちで終わってしまうという。私は悲しかった。その人は結婚して家庭を持ち、子も育てた。嫁ももらった。しかし、必ずしも自分が思うようにはならなかった。そしてもう人生に疲れた。もうようございますというこでしょうね。

ゲートボール。あれは健康法ですかね。藤代先生は「人間はどこかで賭博性を求めている。金持っているものはゴルフ。金のないものはパチンコ」と。そういう話をしておられましたけれども、お寺のご門徒の人が、ゲートボールの勝ち負けがもとでトラブルになって、そして喧嘩になった。片方が片方を押したらしいですね。そしたら側溝のようなところに落ち込んで、片方が亡くなったんですね。ゲートボールも勝ち負けがありますからね。「お前があのときに打たなかったから負けたんだ」と。そういうことなんだそうですよ。そうすると片方が「しかしお前、ゲートボールは年寄りの楽しみというじゃないか。そんなに勝ち負けにこだわらんでもいいじゃないか」と。だけど勝ちたいわけです。そういうことがトラブルになって肩を押したらしいですね。そしたら後ろ向きに倒れて、側溝に頭から落ちて、それがもとで死んだと。両方その寺の門徒で、本当にものの言いようがなかったと住職は言っていました。これは本当にあったことです。新聞にも載ったそうです。もう十年ももっと前の話です。ゲートボールは健康法でもあるでしょう。しかし、人間の勝ち負けを満足させる面もある。あとは温泉。温泉はストレス解消でしょうかね。女の人はよくいわれますね。「上げ膳据え膳でもったいない」と。しかし、そういう毎日をやっとったら勿体ないとは言わんでしょう。結局、人生の本当の目的というのがはっきりしないんですね。そういうことを世の中も教えないし、学校も教えないんですよ。仏様は人生の目的を教えてくださるわけです。そういうものがないと、ゲートボールと温泉と、あとは寝込んだらそれこそ大変だ。だからコロッと死ねるごとと。結局私はそこに来てしまうと思いますね。

この世の中は何もないということはないんですからね。またどうなっても問題です。そういう中で、そういうことを無視するのではなくて、そのことを全部包んで、このこと一つに遇うための教えだったと。それがこのこと一つに遇うというのが仏道だと。そして、そこに畢竟依をいただく道を頂いたということですよ。そういうことが、汚れのない清らかな光に遇うということです。救われようのない私たちの人生に、本当に光を頂戴できるという、そういうことをあらためて思います。次にいきます。

 

(8)「歓喜」(かんぎ)歓喜光 衆生に喜びを与える光明

「浄土和讃」「慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには

      法喜(ほうき)をうとぞのべたまう 大安慰(だいあんに)を帰命せよ」

 

この「歓喜光」が、私たちがこのこと一つに遇うことができたという法喜。すなわち法を聞き得て信心歓喜する心です。本当の喜びが出てこなければ、結局私たちの人生は愚痴になります。後はコロッと死ねるごと。これでは人生真っ暗です。

 

意訳 慈悲の光明が遠くどこまでも光悲したまう、はたらいてくださる。

   光のいきわたるところには信心の喜びを得ると説きたもう。大安慰の仏をたのめ。

 

ここでは仏様のことを「大安慰」と言ってあります。本当の安らかさ、そして本当の慰めです。それが歓喜光。この歓喜光は私たちの愚痴を止めさせるわけです。だから、やっぱり愚痴になるというのは、本当の喜びが見つからないからでしょう。たとえ、どのような境遇の中で生きておっても、本当に深いところから湧き上がってくるような喜びと、生かされていることの大きな感動が歓喜だと思いますね。「信心歓喜」と言ってあります。仏様を信じて、私は疑わないということでなくて、その仏のまことに遇うということは、歓喜を伴うということです。金ができたとか、何か思うようになったということで、私たちは喜びますが、そういう喜びと違う。本当に人生に生まれてきた真実の喜びを得るという。だから信心歓喜と言ってあります。大経下巻「第十八願成就文」に、

 

聞其名号 信心歓喜 乃至十念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

(その名号を聞きて 信心歓喜せんこと、乃至十念せん。心を至し回向したまえり 彼の国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て 不退転に住す) 仏説無量寿経 聖典P44

 

これが歓喜の内容なんですね。ただ喜ぶというんでなくて、その内容までお釈迦様は説いておられます。「その名号」は南無阿弥陀仏です。如来の徳ですね。はたらきです。「信心」というのは、ただ信心するということに止まらないんです。その名号のおいわれを聞いて信心歓喜する。信心には歓喜がある。その歓喜の一念は「至心に回向したまえり」と親鸞聖人は読まれるわけです。「至心」というのは阿弥陀如来の至心。阿弥陀如来が一切を救わずにはおかんと願われる。その阿弥陀如来の真心が回向された。これを他力回向という。どうにかして私たちを救いたいという如来様の真心が、南無阿弥陀仏として私たちに回向されている。それが私たちにとどいた。それを「値遇・ちぐ」という。もう遇うと。如来のまことに「もう遇う」と。その仏のまことが私にとどいた一念。それを信心と言われておるわけです。そうすると、「願生彼国・彼の国に生まれんと願ずれば」と。つまり、浄土を願うということが起きてくる。

いろいろな日暮らしの中にあるわけです。本当に情けないとか悲しいとか、なぜ私ばかりこんな目にあわんならんだろうかということがある。それは愚痴ですけれども、そういうものを目印にして、そこに私たちが如来様から呼ばれておる。そういう名号ですね。呼ばれていることにフッと気づかされる。「あっ、そうだ。こういう私のために如来様の大悲がはたらいておったんだ」と。大悲の中にいながら小さな自分の殻の中に入って、自ら自分で苦しんで、苦しむだけならいいけれども、人を悪者にし、邪魔ものにして悩んでおる。そういうものをほっておけない。どうかして如来の広い真実の世界に目覚めた心を与えたいと。そこに南無阿弥陀仏というものが成就されておるわけです。そういうものが私にとどいた心が信心なんですね。それは喜びだと。その時、私は浄土に生まれる身となる。もう浄土はそこにあるわけです。この世は浄土になりませんけれど、浄土はそこに見えているわけです。私たちはいつも迷っているけれども、迷い詰めということはないんですね。迷いを拠り所にして喜びに変わっていくわけです。だから「不退転」ということは、二度と迷いの世界に沈み込んで、訳のわからないということにはならんという意味です。退転しない、迷いの世界にもう沈み込んでしまわないということです。いつも呼び覚まされ呼び覚まされて、私たちは浄土へ向かっての歩みが、そこに与えられる。そういうことを、お釈迦様が『大無量寿経』の下巻のはじめに「第十八願成就文」としておっしゃっておられます。お釈迦様は、本当に私たちに教えたいと思われたことは、ここのところだと。親鸞聖人は法然上人によって、はじめて南無阿弥陀仏のおいわれを聞き開かれて、その体験といいますか、そこに一つの信心の歩みがはじまる。仏法の歩みがはじまる。親鸞聖人ほど「第十八願成就文」の言葉を常にいただきながら生きていかれた人はいないんじゃないでしょうか。私たちはいつも愚痴になります。分かっとるばってん愚痴になる。そういう心が歓喜の光によって何時も破られていく。それが信心歓喜となる。時間が来ました、今日はここまでにしておきます。