お寺の歴史

由緒

由緒の写真 (2).JPG

 「柳川光善寺由諸記」(やながわこうぜんじゆいしょき)によると光善寺本堂は寛永(かんえい)五年(一六二八)開基釈宗善(かいきしゃくそうぜん)により現在の地に建立されました。それは今年令和二年(二〇二〇)から数えて三九二年前になります。開基釈宗善はもと豊後大北村(大分豊後大野市)出身の十時次郎兵衛(とときじろうひょうえ)と名乗る武士でありましたが、仏縁により、当時、東本願寺柳川藩の「ふれがしら」(本山代行)真勝寺(しんしょうじ)の寺中として出家し、釈宗善と名乗ったと由諸記は伝えています。 

又、由諸記には十時次郎兵衛はもともと豊後の国には御縁が深く、由諸ある柳川立花藩への士官を望み、いささかの縁をたよって柳川に来た。しかしその望みはかなわなかったことも記されていますから、次郎兵衛のその半生には色々な心の曲折があったのであろうことがうかがえます。

そして釈宗善は寛文三年(一六六三)三月二十三日に亡くなっていますが没年齢は不明です。ただ光善寺本堂建立が寛永五年(一六二八)ですから釈宗善はそれから寛文三年まで三十五年間生存したことになります。本堂建立は師の壮年期における大事業であったことが分かります。

然し、その時その背景には、師のその大事業を支えられた多くの真宗門徒の人々が存在しておられたわけであります。それなくして本堂建立などという大事業が其の人一人の力で出来る筈はありません。それを思う時、改めて仏法不思議という教えを思い合わさずにはおれません。その人達が現在もこの光善寺を支え続けておられるご門徒皆さまのご先祖であったのでありましょう。

 そして、その開基没後年後の寛文十二年(一六七二)第二代の住職、釈梅塩(しゃくばいえん)の時、現在、本堂に掲げられている「親鸞聖人のご絵像(えぞう)」を京都の本山、東本願寺から下付(かふ)されています。当時の十五世門主(もんしゅ)、常如上人(じょうにょしょうにん)の御裏書きのある、光善寺で最も古い由諸あるご絵像です。これは、この光善寺が寺院としての格式を備え始めたことを証明するものであります。

前住職 十時舜悟

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