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​正信偈に聞く

 40-1 

​平成23年10月23日に「天親章」の最後の話があっているのですが、テープの録音が不十分だったのでしょう。15分程しか記録がありませんので未掲載としています。

​平成23年11月21日

みなさん今日は、

今日から曇鸞大師のとろに入ります。

本師曇鸞梁天子(本師曇鸞は梁の天子)

(意訳) わたしたちの祖師曇鸞大師には、梁の皇帝が、

 

常向鸞処菩薩礼(常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)

常に曇鸞大師に向かって、菩薩に対するように礼拝していた。

 

三蔵流支授浄教(三蔵流支、浄教を授けしかば、)

菩提流支三蔵が、浄土の教えである「観無量寿経」を授けられたので、

 

梵焼仙経帰楽邦(仙経を梵焼して楽邦に帰したまいき。)

曇鸞大師は仙術の経を焼き捨てて、阿弥陀仏の安楽国に帰依された。

 

 曇鸞様のお徳を讃(ほ)めた前半分です。

中国の高僧を三人「曇鸞大師(どんらん)・道綽禅師(どうしゃく)・善導大師(ぜんどう)」をあげて、お念仏の仏法が親鸞聖人のところまで伝統されてきた歴史について、その順次高僧の名前をあげておられるわけでございますが、インドの高僧の場合は「龍樹菩薩・天親菩薩」と、つまり菩薩と呼ばるわけです。

 菩薩というのは仏様に近いといいますか、そういう高僧という意味が強いと思いますが、ところが次に中国の高僧、「曇鸞大師」からは菩薩とは言わないで「大師」という言葉を使って、一応の区別をしておられます。

 しかし「本師曇鸞は、梁の天子様が常に鸞の処に向かって菩薩と礼したてまつる」と、こういうように書いておられますから、この方は菩薩様だと、仏様に近い方だと梁の天子が常に曇鸞様の方に向かって拝んでおられたというような事が曇鸞様について書かれたものの中にあるのですね。だからそのことを、この正信偈に親鸞聖人は述べて、曇鸞様を尊ばれておられるわけです。

本文の解釈の前に、もうすこし注釈を読んでみます。

 

  • 本師、本当の師。大切な祖師。本宗(仏教の根本である真宗)の祖師。

  • 「曇釁」曇露大師(四七六〜五四二)中国の北魏時代に浄土の教えを確立された高僧。

若くして出家され仏典はもとより、外典を広く学ばれ特に龍樹菩薩の教えに通じ、四論宗のすぐれた学者として、北魏の皇帝からも尊崇された。

五十歳の頃「大集経」という大部の経典の注釈を作ることを志されたが、その途中で病気になられ、長寿を得なければ学問が続けられぬことを痛感され、当時「長生不老」の道を教えていた陶弘景(とうこうけい)という道士を尋ね、その教えを受けて仙経を授けられた。喜び勇んで洛陽まで帰り、そこでたまたま天竺の菩提流支三蔵に会われ、三蔵に戒められて「観無量寿経」を授けられて「長生不老」は愚かな欲望に過ぎないことに目覚められ、大切にしていた仙経を惜しげもなく焼き捨てられたと伝えられている。

  • 「梁天子」―南朝の梁の皇帝。武帝(五〇二〜五四九在位)

曇鸞大師が「長生不老」の道を求めて、南方の陶弘景のところに行かれたとき、かねがねその名声を聞いていた武帝は、曇鸞大師を宮中に招き、あらためて、大師の人徳にふれて敬服した。

  • 「薩礼」―曇鸞大師に敬服していた南朝の武帝は、はるかに北方におられる大師を菩薩として敬い、常に礼拝していたという。

  • 「三蔵流支」―菩提流支三蔵、ボーディルチ(?〜五二七)北インド出身の僧。北魏の都、洛陽に来て(五〇八)、天親菩薩の「浄土論」をはじめ、三〇部余りの経や論を漢訳した。

  • 「授浄経」―菩提流文三蔵は、「長生不老」を求めていた曇鸞大師に、その誤りを指摘し、「観無量寿経」を授けて「無量寿」を説き、曇鸞大師を称名による本願念仏の教えに向かわしめる契機を与えた。

  • 「仙経」―「長生不老」を願われた曇鸞大師が陶弘景という道士から授けられた道教の経典の経。十巻の経であったと伝えられている。

  • 「帰楽邦」―曇鸞大師は「净土論註」を著わして、阿弥陀如来の安楽国に往生する教えに帰命された。願生浄土の信心を得られた。

 

 これまで勉強しました事は、天親菩薩が「無量寿経優婆提舎願生偈・むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ」つまり浄土論(じょうどろん)をお書きになって、そしてわれわれ一切衆生は、念仏申して浄土往生を願うべきであるということを勧めて下さったということを勉強致しました。

ここで私たちが思うのは、親鸞様の名前です。私たちは親鸞様と言っておりますけれども、親鸞という名前はどこから出てきたのだろうかということについて、すべての学者は天親菩薩の「親」と、そして曇鸞大師の「鸞」を取られて、自から親鸞と名のられたと言われておりますから、そういう事なのだと思います。

 名前は、現在我々が生まれたときに親から付けてもらった名前を一生名前にしているわけです。しかし、作家の人であればペンネームとか、他には雅号で自分を名のる人もおりますけれども、この「親鸞」という名は法名です。

 親鸞様は京都の人です。そして今も「日野の里」という所がありますけれども、日野の里に住んでいた日野有範(ひのありのり)という藤原家のお公家さんの長男として生まれられた人だということは、皆様ご存じの通りです。有範の子として生まれた方が九歳の時に出家され、そして比叡山に上られます。天台宗の僧侶として出家されて二十九歳まで、親磐聖人は比叡山で学間と修行を重ねられるわけです。

九歳で出家されたときに「法名」を受けられるわけです。その法名は範宴(はんねん)という法名だったと言われています。親から付けてもらわれた名前はよく判らないのです。私等は子供のころお寺に参って、お説教を聞いておりましたが、その時は「松若磨」というお名前だったと、こういうように聞いておりましたけれども、今では学者の方は、これは伝説だと言われておりまして、これははっきりしないと言われます。

 出家をされるということは、親を捨て、家を捨て、一切を捨てて出家するわけですから、当然名前も捨てるわけです。それで法の名前をお師匠さんから貰うわけです。その時の名前が範宴であったと。

そして二十九歳の時に比叡山を降りて、六角堂に百日のお籠りをなさって、九十五日の暁に聖徳太子の夢のお告げがあって、それに導かれるようにして法然上人のところに行かれて、法然上人のお弟子になられます。つまり天台宗を捨てて、本願念仏の仏法を依りどころとして生きられる念仏の行者となられます。その時に法然上人が範宴という法名を捨てさせて、純空(しゃっくう)と名前を与えておられます。

 だから親鸞聖人は、法然上人をお師匠様にしたわけですから、比叡山に上る時のお師匠様を捨てるわけです。そして法然上人をお師匠様にしたわけですから、法然上人から「法名」をもらわれるわけです。これは道綽禅師の「綽」と、法然上人は源空という名前ですから源空(法然)上人の「空」の字を合わせて法名としたと言われております。

 だから親鸞聖人は、「松若麿」から「範宴」になり、範宴を捨てて、法名「綽空」を法然上人から頂かれて我名とされるわけです。

 親鸞聖人は三十五歳の時に流罪になられます。その時には綽空から善信(ぜんしん)となのっておられました。これは自分自身の希望だったと言われておりますが、いつの時にか綽空から善信を名のっておられます。

 ところが流罪になるということは罪人ですから、罪人であるということはお坊さんであることを辞めさせるわけです。だから俗人に返されるわけです。還俗といいます。これは朝廷が還俗させるわけです。還俗させるということは法名は使わせないわけです。ですから藤井善信(ふじいよしざね)と。本当は藤原の出ですから藤原と性を名のるのでしょうけれども、藤原氏を使わせないで藤井と、この善信(ぜんしん)という字をそのまま使って(よしざね)と読み変えさせています。

 親鸞聖人は、三十九歳の時に流罪が許されるのです。そして流罪の間に自ら「僧に非ず、俗に非ず。愚禿釈親鸞」と、自らを愚禿と名のられます。公には俗人です。しかし、「愚禿釈親鸞」と、ここで親鸞と自ら名のられるわけです。「釈」というのは法名です。俗名ではありません。これはお釈釈迦様の釈の字を使うわけです。公的には俗人にさせられておるわけですが、自らそれを拒否して「釈」と。そして、念仏の行者として生きているこの親鸞こそが「真の仏弟子」だと言っておられます。

 

「真仏弟子」と言うは、「真」の言は、偽に対し、仮に対するなり。「弟子」は、釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。斯の信行に由りて必ず大涅槃を超証すべきが故に、「真仏弟子」と曰う。

(教行信証 信巻 二七八頁)

正信偈40ー2

​正信偈に聞く

 40-2 

​平成23年11月21日

 仏弟子ということはお釈迦様の弟子ということです。「釈」の字はお釈迦様の弟子だということで「釈」の字をつけておられるわけですから、真の仏弟子だと言っています。

これには裏がありまして、比叡山や奈良のお坊さんは、本当の仏弟子ではない。仮の仏弟子だと、中には偽もいると。なぜかというたら仏教のお坊さんでありながら加持祈祷をして、現世利益をしているような人は、これは仏教ではない。そういう事をして、いかにも仏教者のように言うておる人は「偽の仏弟子」だと、つまり看板に偽りありと。

 しかし比叡山にも立派なお坊さんはたくさんおられるわけですが、そういう人たちは「仮の仏弟子」だと。念仏行者として生きる愚禿釈親鸞は、「真の仏弟子」だと言っておられます。

これは大変な自信です。そして「仮」というのは「真」に入るための仮だという意味です。

 だから自分は比叡山で修行した分は仮の仏弟子になる。つまり念仏行者として真の仏弟子になるために比叡山二十年は必要だった。あれがなければ私は、念仏一つにはなれなかったと。そういう意味でいうならば、比叡山の修行は仮だと、つまり真に入るための仮の道だという名のりを親鸞聖人はなさるわけです。その名のりをなさるのに「愚禿釈親鸞」と。そして「真の仏弟子」と、こういうことを仰っているのです。

 その時に親鸞と名のられた「親」と「鸞」は、天親菩薩の「親」と曇鸞大師の「鸞」に依られたということは、浄土論・浄土論註に依られたということでもあるわけです。

天親菩薩は「浄土論」を書かれます。曇鸞大師は天親菩薩の浄土論に依って「浄土論註」を書かれます。そして親鸞様は仰っています。

 

天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまわず 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし   (高僧和讃 曇鸞和尚 五九三頁)

 

 もしも曇鸞様の浄土論註がなければ、私は天親菩薩の浄土論の本当の心は解らなかったと。曇鸞様の浄土論註があったおかげで浄土論の本当の心を知らせてもらったと、浄土論の中に他力回向の仏教というものがあるわけですけれども、その意味が浄土論註に依って知らされた。「他力」とか「回向」とか、「往相回向」,「還相回向」というのは親鸞聖人の教えの中心ですけれども、そういうことを親鸞聖人は浄土論・浄土論註から学ばれたわけです。

 そこに立って私は生きていけると。そういう在り方が愚禿だと。どこまでも徹底的に煩悩具足の凡夫として、本当に救われようのないわが身が他力回向の本願力に依って救われていく。そういう名前として親鸞という名前を名のられます。だから何となく名告ったというような名前ではないわけです。だから「親鸞」という名前は、そういう深いいわれがあるということを私たちは知っておかなければならないわけです。

 そういう意味でも曇鸞様の教えというものが、非常に大切な教えになるわけです。そして天親菩薩の教えをふり返っていくこともできるわけでございます。そういう意味でこの曇鸞様という方が非常に大切な方になるわけです。

 ところが曇鸞様のお徳をほめられるについて、人間的にいうならば、それだけはみんなに知って欲しくなかったという事を出してこられるわけです。それが「三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦」というところです。仙人の道に迷ったと、こういう意味ですよ。

 

本師曇鸞は梁の天子、常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。

 

 中国はそのころ「南北朝」という時代でした。北と南に分かれていました。しかし南は南でいくつもの国があったのですが、曇鸞様は北魏で生まれられた方です。五台山という有名な仏教に縁の深い山がありますが、その近所で生まれられた人だと言われております。

 

  • 曇鸞大師(四七六〜五四二)中国の北魏時代に浄土の教えを確立された高僧。若くして出家され、仏典はもとより、外典に広く学ばれ

 

「外典」というのは、仏教以外の学間のことを仏教から言えば外典というのです。だから仏教の学間だけでなくて、それ以外のいろいろな学間も多く学ばれた方です。

 曇鸞様は、龍樹菩薩に依って説かれた四論宗の僧でした。もしも龍樹菩薩がインドに出ておられなかったならば、学間的にも仏教としての流れもまったく変わってしまったであろうと言われるほどの人が龍樹菩薩です。だから日本では八宗の祖と言います。

 日本には八宗あるわけです。お釈迦様が教祖です。しかしその次にあげるのは必ず龍樹菩薩です。だから親鸞聖人も龍樹菩薩を七高僧の第一に挙げられます。龍樹菩薩の書かれた書物が「大智度論・中論・十二問論」です。そして、その弟子提婆の著わしたものが「百論」です。この四つの教えに依って宗が立っておるから四論宗です。要するに龍樹菩薩の教えが依りどころになっているわけです。

龍樹菩薩の教えは、一切はみな空であると教えられます。天親菩薩は人間の迷いを細かく分けていかれます。それに対して龍樹菩薩は一切を否定なさる。迷いだと。その流れを今の日本の宗派で一番端的に持っているのは禅宗です。

 「本来、善悪無し」と、禅宗の人ははっきりしています。善いじゃ悪いじゃ言えば、「本来、善悪無し」と言われます。そういう教えの依りどころは龍樹菩薩の教えが依りどころになっています。その龍樹菩薩の教えに通じ四論宗の優れた学者として、北魏の皇帝からも尊崇されて、曇鸞様を北魏の皇帝は神鸞(しんらん)と言っていたそうです。

 

魏の天子はとうとみて 神鸞(しんらん)とこそ号せしか

おわせしところのその名をば 鸞公厳(らんこうがん)とぞなづけたる

(高僧和讃 曇鸞和尚 五九二頁)

 

 菩薩として、北魏の皇帝も非常に尊敬され、大変な学者であり高僧だったという事です。ところが五十歳の頃「大集経」という大部の経典の注釈を作ることを志された。六十巻あるそうです。曇鸞様は西暦四七六年に生まれられて五四二年に亡くなられています。日本に仏教が伝わってきたのが五三八年ですから、曇鸞様の一生は日本に仏教が伝わって来たところと重なるのですね。

正信偈40-3

​正信偈に聞く

 40ー3 

​平成23年11月21日

 五十歳になられたということは、曇鸞様でもこれが最後の仕事だと思われたでしょう。またそれほど大集経というお経は大切なものとして考えておられたのでしょう。六十巻もあるわけですから、それについての注釈をなさろうと思い立たれたわけですから大事業ですよ。ところがその途中で病気になった。気疾(きしつ)といっています。

だから呼吸器か何かの病気ではないかと言われております。肺結核とか、または喘息のような病気でないかといわれております。ですから年をとってそういう病気ですから死を考えますよ。せっかくこれだけの大事業を学者として、生涯の総括といっていいかもしれませんね。なぜ大集経の注釈を思い立たれたのか、これは判りません。それを思い立たれたわけですから、大事業であり大きな望みであったわけです。

 ところがその途中で病気になられた。その当時の五十歳といったら今の七十・八十歳かもしれません。死んだら仕事は挫折ですから。そこで何を考えられたかといえば、長生不老です。「道士」と書いてありますが、これは道教です。この不老長寿の楽は、日本にも中国から伝わってきて流行ったわけです。

 中国の考え方はとにかく長生きをする。そうしなければ何もできないと。今の人も皆、健康第一と言いなさる。年寄りが寄って話すことは孫の自慢か健康法と言いますよ。日本人もみな不老長寿を望んでおるのでしょう。中国という国は、それを神秘的に抑えていくわけです。特に道教というのは。仙人というのがいるでしょう。あれは中国の伝統ですよ。だから中国の人はものの考え方が具体的ですよ。精神的ではない。

人間は年をとれば死なないわけにはいかんわけですけれども、それが不老長寿の道があるのだということを道教は説かれるわけでしょう。曇鸞様はその事を思いつかれたわけです。そうすると当時として、道教の一番有名な人が陶弘景(とうこうけい)という人で、山の中の宰相と言われていたそうです。

 「梁」という国は南の国です。陶弘景という人は、その南の梁の皇帝の武帝から非常に尊敬されていた人だそうです。そして政治のことでも、何かある時はこの人に尋ねて行ったり祈ってもらったりするわけですね。かつての日本もそういうことをしていたのでしょうけれども、軍隊を出すか出さんかというときに神に祈ったりしていたのでないですか。

 私等は子どもの時から政治という言葉を使わなかったですよ。政(まつりごと)と言っていました。今はそんなことを言う人はいませんけれども、祭りということは神様の仰せを伺うということです。中国から来たものには占いがあります。日本では神様のおこころを伺うということがありますよ。ですから政治のことを政(まつりごと)と言いました。

 基本的には、今の天皇も同じようなことをなさっているのでしょう。今は政治とは何の関係もない、象徴になっておられますけれども、天皇様の一番大きな仕事は、国民の幸せを祈って祭りごとをなさるのが今の天皇様のお仕事だと思いますよ。だから象徴です。だから政治自体というよりも、政治に直接はかかわれませんけれども、基本的には政という事が今の日本にも基本にどこかにあると思いますね。

 陶弘景は山の中の幸相人だったそうです。その人に曇鸞様が北から南に行かれて会われて、自分の願いを言って長生不老の道を尋ねられた。陶弘景が非常に喜んだそうです。そして陶弘景も年だと、だから後継者になって欲しいとまで言ったらしいですね。それだけ人格的にも能力的にも曇鸞様は優れておられたのでしょう。そこで道を学ばれてお経(仙経)を頂くわけです。仙人の書物です。そして喜び勇んで、曇鸞様が北魏の都洛陽へ戻って来られます。そして菩提流支三蔵に会われます。

 菩提流支三蔵は北インドから来たお坊さんです。そして北魏の都である洛陽に来て、天親菩薩の浄土論を始め、経や論を漢訳されます。訳経(やっきょう)というのです。

 北魏の皇帝が国家的な事業として中国人の秀才を集めて、その人たちに先ずインドの言葉を教えて、菩提流支三蔵は中国の言葉を覚えなければならないでしょう。そして、それ等の弟子にお経を部分的に分担させて翻訳させるのだそうです。インドの人の考え方と中国の人の考え方は違うはずですから、翻訳は大変だったと思いますよ。

北魏の皇帝から崇められるような方が洛陽に来られたのだから、曇鸞大師は中国の学者として菩提流支に会ってみたいと思ったでしょう。その時に曇鸞様がどのように言われたかといったら、「自分は今、『長生不老』の道を学んできた。ついては仏教にはこういう長生不老の道がありますか」と、菩提流支三蔵に尋ねられた。そしたら菩提流支が地に唾を吐いたそうですよ。

 「あなたはそれでも中国を代表する仏教学者か」と、こう言って非常に残念がったそうです。軽蔑したというよりも残念がったのでしょう。「お前は何を言っておるのか」と。その時、菩提流支は何を言われたのかというと、「量りなきいのち(無量寿)の世界を教えるのが仏教ではないのか、いくら長生きしたところで何歳まで生きようとしているのか。それで三有生死を超えられるのか、三有生死を超えるのが仏教の願いとするところではないのか」と。三有(さんぬ)というのは迷いの世界ということですね。

 

三界 ー 欲界・色界・無色界

 

 迷いの世界を三界(三有)と言って「欲界・色界・無色界」に分けます。要するに迷いの世界を仏教では三界と言うのです。その迷いの世界を、生まれたり死んだり生まれたり死んだりして、この度、人間としてここに生まれて来たのではないか。生まれて来たということは、何しに生まれて来たのか。

 その迷いを超えて真の悟りの世界に至るために幸いにして人間の生を受けた。あなたの言っている事はただ長生きするということだけではないのか、要するに迷いを超えるという仏教の一番根本的な問題を勉強しながら、その事をいつのまにか見失ってただ長生きしたいというのは、おかしいではないか」と言われて、初めて曇鸞大師は気がつかれます。その時に「観無量寿経」を菩提流支から授けられて、曇鸞大師は四論宗の学者であったのですが、転じてお念仏の教えに帰された。

 それから天観菩薩の浄土論について、「浄土論註」をお書きになった。そのおかげで親鸞聖人が親鸞と名のれる仏教を頂かれた。もとは法然上人です。法然上人の教えはどちらかといいましたら、「観無量寿経」が中心です。ところが天親菩薩の浄土論と曇鷲大師の浄土論註は『大無量寿経』が中心です。だから親鸞聖人は大無量寿経が真実だと、観無量寿経と阿弥陀経は方便の経であると、こういう親鸞聖人の教えが出てくるわけですが、とにかく曇鸞様と天親菩薩は「大無量寿経」が中心です。

 いずれにしても「三有の生死を超えるのが仏教ではないのか」、それが無量寿ではないのか。この世の中で長生きができるかできんかということで喜んでおるお前はいったいどういう根性なのだといって迷いを諭された。私たちは生に執着するわけです。執着は、死は生を否定するものとして考えてしまうのです。しかし生まれて来たということは老病死を免れないわけです。それがありのままに姿でしょう。

 ところが私たちはいつのまにか生に執着する。「死んでも命があるように」死んで命はないけれども、死んでも命があるようにというぐらい長生きしたい。どんなに年を取っても死にたくはない。だからそれが執着だと。死は生を否定するものとして死を恐れる。迷いを離れるということは、ありのままを、今・今、本当の現在を受け取るということです。私たちには現在はないのね。先ばかり見ている。だから本当の現在を知らないわけです。

 本当の現在を知らせるというのが、「信の一念」と親鸞聖人は言われる。私たちはきょろきょろして、どう生きるかと言ってうろうろしているうちに年をとって、それでも死にたくはない。それが迷いで、迷いのもとは我執煩悩にあると。しかしそれを人間が本当に徹底して気づき、それを超えることが人間にできるのか、そういう問題から「他力」の問題が、お念仏の問題が出てくるのですね。

 

 その前に、私たちがいったい何を考えているのかということが問題なのですが、曇鸞大師はあれほどの仏教の学者でありながら解らなかった。しかし曇鸞様が長生きしたいというのは、曇鸞様はただ長長生きしたいと思ったのではないのです。大きな願いを持っていた。「大集経」の翻訳を完成させたい。それを果たすための願いです。それでもやっぱり迷いだと教えられ気づいて、せっかくもらってきた六巻もある仙人の書物(仙経)を焼かれた。ああこれは本当に愚かなことであったという、一つの回心(えしん)といいますか、徹底した回心を顕しておるのでしょうね。「梵焼」と、焼くのですから。そういうことを親鸞聖人が曇鸞様の徳をほめるのに、このことを一番初めに述べられておられるということが一つ大事です。曇鸞様にしてみたら本当はあまり言って欲しくなかったかもしれないけれども、親鸞様にしてみたら、曇鷲様のお徳をほめるにはこのことが一番大事だと。曇鸞様の迷いを通して、実は私等が問われておる。

 つまり私たちは何しに生まれて来たのか。そしてこの生において、私たちは何を果たさねばならないのか。蓮如上人の言葉で言えば「後生の一大事」ということですが、何しに生まれて来たのか。そして何を果たさねばならないのか、そういうことが見失われて、仏教のお経ですけれども、自分がお経の翻訳の仕事を果たすために長生きしたいと。仕事自体は仏様の仕事ですけれども、仏様の根本精神が見失われて、長生きをする道を道教に求められた。

 そして、仏教には長生きできる教えはありますか、中国にはありますよというような話ですから、それを聞いて菩握流支三蔵は「何のために今まで勉強をしていたのだと、しかも『大集経』を翻訳しようというけれどもそれは何のためなのか。一番根本的な問題を見失っているのではないか」と言われて、初めて目が覚めたということがここに書いてあるわけです。

 

 どういうことか、みなさん考えてみてください。曇鸞大師はただ長生きしたいということではないわけです。目的をもっているわけですからね、そのためには病気の身では目的が果たせない。「大集経」の翻訳ができない。だから長生きする道を求めようとして仙人の教えを受けた。そしてそれを体得して戻って来たというのです。しかしそれを諭されて、これは間違いだったと曇鸞様は気づかれたということを、私たちはどういうふうに頂かねばならないのだろうかと。今日はここまでにしますので、来月までに考えておいてください。これは大事な問題なのです。

 

人身受け難し。仏法聞き難し。この身今生において度せずんばいずれの生においてかこの身を度せん。

 

何のために生まれてきたのか、この生において何を果たせねばならないのか、そして私たちはこのこと一つを知らしてもらえば、もう私はこの人生に生まれて来た意味が解決する。

安田理深という先生がおられましたが、その先生が亡くなられて、お葬式をなさった。その時の奥様の挨拶は、主人は若いときは、

 

「朝(あした)に教えを聞けば夕べに死すとも可なり。」

 

と言っておりました。そして晩年になっては、

 

「仏道は死することと見つけたり。」

 

と。この言葉は佐賀の「葉隠」の言葉に「武士道とは死することと見つけたり」という言葉をもじったのだと思いますけれども、主人は若いころは「朝に教えを聞けば夕ベに死すとも可なり」と言っておりあした。そして晩年は、「仏道は死することと見つけたり」と、そのことをいつも言っていましたということを奥さんが言っておられます。

 つまり『後生の一大事』ということがはっきりしなかったら生きたって生きたことにならないと。そして今度は死ねないと。そういう根本問題が私たちにはあるので、そのことを教えてくださっているのが仏法だと。その一点を外してしまえば、いくら仏法を聞いたって聞いたことにならないし、また仏法を知らないで人生をただ長生きして、ああもした、こうもしたと言ってみたって、結局は本当に人が人生に生まれて来て果たさねばならんことを果たきないままで終わったことになるのだと、こういうことを仏教は言おうとしているのです。こういうことが、人生の座りですね。

 このことは、曇霧様の教えはどういう教えであるかということを頂く前に、その問題をお考えいただけたらと思いまして、今日はざっとした話ですけれども、次回までに皆様がお帰りになって考えてみてください。どうでなければならんと決めないで、自分の考え、ああも思ったり、こうも思ったりという形で考えてくださったらいいと思うのです。

 そして、それがまたそのことを通して、仏教は何を言おうとしているのかということが頂ければいいのですから、そういう意味で十二月は座談の形で皆さんと一緒に問題を詰めていくのが一番いいのではないかというように思っているようなことでございます。時間が来ましたので、今日の話はこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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