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​正信偈に聞く

 11 -1 

​平成21年2月5日

 今月は(10)「不断」からになります。

 

(10)「不断」(ふだん) 不断光 断えることなく輝く光明

   「浄土和讃」「光明てらしてたえざれば 不断光となづけたり 聞光力(もんこうりき)のゆえなれば 心不断(しんふだん)にて往生す」

 

名畑先生の意訳を見てみます。

  

「光明が断える事なく照益したもうので不断光仏と申す。この光明の威力を信ずるから凡夫心も憶念の心として間断せずに往生する。」

 

と意訳をしておられます。「光明てらしてたえざれば 不断光となずけたり」ですから、光明が断えることなく照らし、そして利益したもうので、不断光仏と申すのであると。そして、「聞光力のゆえなれば」を、名畑先生は、「この光明の威力を信ずるから」と訳しておられます。「聞光力」という、光を聞くと書いてあるわけですが、光明の威力を聞くと。また本願を信ずると、こういうように言われていますから、意訳では。この光明の威力を信ずるから、「信不断に往生す」と。

 不断というのは断えないということです。心が断えない。ですから凡夫の心も「憶念の心」として書いてあります。憶念というのは、ずっと断えまなく思うということですね。ですから「心不断」ということは、憶念の心ということを言っておるのだと。だから、その憶念の心が断えないから往生ができるのだと。このように言われておるわけですね。この「不断」というのは、文字の通りでいきますと、謂わば断えないという意味でございますから、蓮如上人は『「正信偈大意』」の中で、

 

「不断光」というは、一切のときに、ときとして、てらさずということなし。

三世常恒(さんぜじょうこう)にて照益をなすがゆえなり。 正信偈大意 聖典P750

 

と解釈しておられるわけです。

「一切のときに、ときとして、てらさずということなし。」と、つまり「ときとして」ということですから、順境のときも逆境のときも、そして若い時も老いたる時も、つまりどのようなときであろうと、その南無阿弥陀仏の光明が一切のときに、照らさないということはない。常に私たちを照らし、利益ということは護ってくださる。それを「不断光」と言ってあるわけです。蓮如上人も、光明を十二並べてあるわけですが、

 

無量・無辺・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称光・超日月光

 

となっているわけですね。

「無量」・「無辺」というのは体をあらわすのですけれども、阿弥陀仏というのは我われの無明の闇を破ってくだるはたらき、つまり光明を離れて阿弥陀仏があるわけではないわけです。その光明ということですけれども、     

 「無量」は量りなし。「無辺」はどこまでもはたらいているということで辺なし。これを体と、こういうように言われておるわけです。如来の体をあらわす。「無碍」というのは障りない光ですね。「無碍」は用をあらわす。体というのは、ものそのもの。用というのははたらきという意味です。体・相・用と仏教ではいうんです。ですから光明のはたらきといった場合には、「無碍」で代表されるわけです。だから、帰命尽十方無碍光如来と言われますね。つまり阿弥陀仏の光を無碍で代表してあるわけです。それから後の光は無碍のはたらきを細かく分けていってあるわけです。

 「無対」は比べられない。「光炎王」は、炎というのは煩悩を焼き尽くすという意味です。そして特に次の「清浄」・「歓喜」・「智慧光」は、三毒の煩悩にあててある。煩悩の代表は貪欲・瞋恚・愚痴です。それを三毒の煩悩といいます。煩悩は一〇八ありますけれども、特にその一番根本にある煩悩が三毒の煩悩です。ですから「清浄」光は、特に貪欲を照らして、貪欲の闇を破ってくださる。「歓喜」光は瞋恚を照らす。瞋恚は腹立ちですから、腹立ちの心を照らして無明を破ってくださる。「智慧」光は愚痴を照らして愚痴の闇を破ってくださる。貪欲というのは単なる欲ではない。貪るという字ですから欲に切りがない。「もういい」ということは無いということです。人間の欲望というのは貪欲なんですね。限りなく求めていく。瞋恚という時は、貪欲は満足するかといったら、限りなく上を求めていく。しかし、順境ということはないわけです。必ず逆境がある。逆境のときは思うようにならんわけです。その時に怒り腹立つ心は、いよいよ愚痴を深めていく。これを繰り返すわけです。その時に清浄光は貪欲を、歓喜光は瞋恚を、智慧光は愚痴を照らしてその闇を破ってくださる。そして、「不断」ですね。はたらきが断えない。全体は無碍なんですけれども、その無碍は計り知れない煩悩を打ち破るものである。徳はひとつでいいわけですが、十二上げてあります。しかし、それは十二だけではなくて限りなくあるわけです。そのうちで代表的なものとして、大経には阿弥陀仏の徳を褒められるのに十二の徳として、お釈迦様は説いておられるわけです。順番もこの通りです。それを、そのまま正信偈の上にあげてあるということです。

 「無量」量りない、「無辺」辺ない。これが光明の体をあらわす。次は「用・はたらき」です。「無碍」は障りない。「無対」は比べられない。「光炎王」は煩悩を焼き尽くす炎である。そして、「清浄」は貪欲を、「歓喜」は瞋恚を、「智慧」は愚痴を、そして「不断」はそのはたらきが断えない。「不断光仏」ですね。それが衆生の憶念につながる。私たちが南無阿弥陀仏を忘れないということではないですね。寧ろ我われは何時も忘れている。何故忘れるかというと煩悩に振りまわされて生きているからです。

 藤代先生よく言っておられましたけれども、我われはむしろ物とか金とか健康とかを光にしておると。我われは健康な時は心が明るいですね。ところが身体が病気にでもなると心が暗くなります。お金がある時は何でもゆとりがあるけれども、金がちょっと少なくなってくると不安になります。旅行しとればすぐにわかります。お金を十分持って旅行しておるときは安心ですが、少なくなると不安になりますからね。つまり、無常なるものを常として、それに頼っているわけです。形あるものはすべて無常です。ところが私たちの心は、一番頼りにしているのはこの身体です。この身体を依りどころにしているわけです。

 しかし仏教は、みなそれを否定しているわけではないんです。意味を知らせているわけです。否定して何も無くなれば、それこそ安心もありません。そういうものを否定しているんじゃなくて、意味を知らせるわけです。だから、仏教は私たちに答えをあたえようという教えではないんですね。例えば、欲で苦しんでおるわけですから、欲が無くなれば人間は楽になるという。これは一つの答えですけれども、そんなもんは答えにならないです。仏教は課題をあたえているんです。私たちが苦しんでいるという事実があるわけですが、苦しんでいるということは、どういうことなのかということを教えてくれるのが仏教なんです。課題をお教えてくれるということです。ですから、こうして徳がいくつも並べてあるということは、私たちが問題を課題化していくときに役に立ちます。これがただ「無量」といわれてあるだけなら限りがないものだと、それはいいでしょうけれども、しかし、それをもっと細かくいわれてみると、何か私たちに悩みというものがどういう意味をもっているのか、私たちの生活の課題は何かということがよく分かるわけですね。そういう意味では、こうして細かく徳を光として、その光を十二通り上げて説いておられるということは、我われにとって非常に有難いということです。まさに大悲なんですね。

 今日は、「不断」という、仏のはたらきが断えず私にはたらいておってくださる。それが、私の憶念につながる。憶念につながるということは、何時も思っているというよりも、いつもその原点に帰っていくということです。

 

弥陀の名号となえつつ   信心まことにうるひとは

憶念の心つねにして   仏恩報ずるおもいあり     浄土和讃 聖典P478

 

 こういう和讃がありますけれども、いつもそこに帰っていく場所があるということですね。だから憶念なんです。「不断」ということはそういう意味なんです。断えないということは、私は気づかん時も、忘れている時も、仏さまのお徳の光は断えないわけです。だから、そこに帰っていくという。だから「憶」ということは、そういうことだと思いますね。私はいつも思っているという、そういうことではないんです。常に忘れている自分、背いている自分を知らせてくださるかたちで帰っていく。そこに「憶」というものがある。特にここでは、「心不断にて往生す」と「心不断」というかたちで憶念ということを述べてあるということですね。それが不断光仏です。

正信偈 11ー2

​正信偈に聞く

 11-2 

​平成21年2月5日

 そして「難思」と「無称光」です。難思と無称は一連のものなんですね。

 

11)「難思」(なんし)難思光 凡夫の思慮によっては測ることのできない光明

   「浄土和讃」「仏光測量」(ぶっこうしきりょう)なきゆえに 難思光となづけたり 諸仏は往生嘆(おうじょうたん)じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」

 

 名畑先生の意訳を見てみます。

  

仏の光明は思い測れないから、難思光仏と申す。十方の諸仏は往生を讃嘆して弥陀の光明の功徳を褒め讃えたもう。

 

 弥陀の光明の功徳を称揚するというのは、褒め讃えるという意味ですね。十七願ですね。凡夫の思慮によって測ることのできない光明。だから、凡夫の考えということです。「無称光」の場合は、「凡夫の分別」と書いてあります。「難思」は思い難い。凡夫の思慮でもってどんなに思っても、それを思いきれない、測り知れない。凡夫の考えは限りがある考えですから、その凡夫の限りのある考えで測ることは不可能だと。そういう光が「難思光」。そして次は、

 

(12)「無称光」(むしょうこう)凡夫の分別によっては称(はか)ることのできない光明。

   「浄土和讃」「神光(じんこう)の離相(りそう)をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏(いんこうじょうぶつ)のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」

 

 この「称」というのは、称えるという意味なんです。称えるということはほめるという意味です。無称の称というのは、称名という時の称です。ですから「はかる」というのは、その徳はどんな徳だと、その光はどんな光だということを、言葉でいってあらわそうとしてもあらわせないという意味が称という意味なんですね。同じ「はかる」という字が書いてありますけれども、そういう意味でなんです。

 「冷暖自知・れいだんじち」という禅宗でよくいう言葉があるんですね。どんなに冷たいと言葉でいったって言いきれない。暖かいということをどんなに言葉を尽くしても尽くしきれない。どうすればいいかといったら、冷たいならば水の中に手をつければわかるというんでしょう。暖かいなら火の中に手を入れればわかると。そうすれば自ずから知れると。だから、そういう意味でいったら言葉には限界があるという意味です。禅宗の場合は、さとりということを言うわけですから、禅宗の覚りはどんなものかということは言い尽くせない。禅宗は、それを言葉でいって分かったように思い、また聞いた方も分かったように思っているのは間違っているのだということを言いたいんですね。だから「冷暖自知」というんです。

そういう意味でいったら禅宗は非常に厳しいものを持っているわけです。

 

 今ひょっと思い出しました。この間あるお寺の御正忌報恩講に行きましたらね、ご院家さんが子供を連れて本堂のストーブに火をつけていたら、ストーブに子供が手をやったというんです。そしたらアチッと言うたというんです。とまりもう温まっていたわけです。ご院家さんはびっくりして子供を見たけれども火傷はしていなかった。それに対してご院家さんが、一回すればもうせんよと言ったと、ご院家さんが笑っておられましたが、一回熱いという経験をすれば、もう熱いということを覚えるわけです。言葉で熱いからこれに触れてはいかんと言っても、なかなか決定できません。これを「冷暖自知」というんです。だから、それをどうにか言おうとするのが「称」なんですね。この「称」という字は「はかる」という意味があるそうです。親鸞聖人が、この「称」を「はかるなり」ということをおっしゃったところがあります。だからはかれない。どんなに言ったって言い尽くせないという意味が「無称」という意味なんです。「難思」というのは、人間の我執分別に執われている考えをどんなに積み重ねても限りがある。つまり有限ということです。阿弥陀というのは無限です。「無量」「無辺」です。無限なるものを有限なる人間の思慮で測ったって、測れないということが「難思」ですね。だから、古田先生は「思慮によって測る」と「測」という字を書いてあります。そして「無称」の方は、称名の「称」を書いて「はかる」と書いてあります。それは意味が違うわけですね。同じことを言ってあるけれども、意味が違うわけですね。そういうことが一つ大事です。

 「難思」にもどりますが、「仏光測量なきゆえに」と。つまり我われの思慮分別を超えておる。測れないものだから「難思光仏」というのだと。そして、その次に「諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」と。ここで諸仏は往生を嘆ずると書いてありますが、この往生というのは「心不断の往生」と書いてあります。心不断というのは憶念の心ということです。つまり阿弥陀仏の光明が衆生にとどいて、その衆生は阿弥陀仏のお育てによって、私たちが常に仏を憶念することができる。その憶念の心が断えないから、途絶えないから、私たちはついに浄土往生を遂げることができるのだということがあるわけですね。「心不断にて往生す」と言ってあります。そして、そういう阿弥陀仏の徳によって、衆生が心不断にて往生できる。衆生をして往生せしめる阿弥陀仏の光明の徳ですね。阿弥陀仏の功徳ですね。それを、十方の諸仏が褒め称えておられるのだという意味ですね。

 

仏光測量なきゆえに  難思光仏となづけたり

諸仏は往生嘆じつつ  弥陀の功徳を称せしむ

 

 その「諸仏は往生嘆じつつ」という往生は、「聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す」という往生に応ずる言葉です。だから阿弥陀仏の光明の徳によって、衆生の心に憶念の心が成就し、やがて衆生は浄土往生を遂げることができる。そういう姿を諸仏が嘆じておられる。褒められる。そして阿弥陀仏の功徳を称せしむ。「嘆」は、弥陀の功徳を称せしむと。ほめて称えるのだと。こういう意味ですね。それが「難思」という意味です。いずれにしましても、凡夫の思慮分別をもって測ることができないのだということが「難思光仏」の難思という意味ですね。そして、

 

(12)「無称光」(むしょうこう)凡夫の分別によっては称(はか)ることのできない光明。

   「浄土和讃」「神光(じんこう)の離相(りそう)をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏(いんこうじょうぶつ)のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」

 

 凡夫の分別する言葉で言い尽くす。称(はか)る、褒める。しかし褒めても褒めても褒め尽くせない。そういう意味が「無称光」です。「神光の離相」と言ってありますが、神の光という字が書いてあるわけですけれども、神の光というのは威神という意味だと。威神光明です。神という字は、私たちは神様のことを思いますが、そういう神じゃなくて威神という。この神の字は、心という意味なんです。心のことを精神というでしょう。日本語の神という字は心という意味です。ですから仏さまの徳を、はたらきを威神力というような言い方であらわして、威は偉大なとか優れているという意味ですが、阿弥陀仏の光明は「威神光明」であると。

 「神光の離相」というのは、相を離れているという意味です。名畑先生は「消滅の相を離れている」と言っておられます。つまり、この世の中の無上の相というのは、生まれたものは必ず滅する。無常という意味は「次々に移り変わっていく」ということです。「諸行無常」というでしょう。この「行」という字は行くという意味ではないんですね。この「行」は現象という意味です。つまり、形あるもの、有限なるものという意味です。現象というのは、移り変わっていく相をいってあるわけですから、この「行」という字であらわしているわけです。自然もそうですし、人間ももちろん生老病死します。だから現象という意味なんです。消滅の相を離れている、そういう威神光明であると。優れたはたらきをもった光明であるという意味が「神光の離相」という意味です。  

 「離相」というのは、移り変わるものがとどかない。だから「無称光仏」と名づけるのだと。こういうことを、わざわざ言ってあるということは、私たちは光りをひかる光と思いますね。しかし、私たちが見ているものは影だと。光そのものは分からない。我われは影をもって光を感じ取るのだと学校でも習いましたけれども、光は形でイメージしないと私たちは分からないんです。だから姿形がないものだと言われたら、姿形のないものという形を考えるわけですね。だから、そういうところに我われのものの考え方の限界があるわけです。だから禅宗の人たちが言う「冷暖自知」というのも分かるわけですね。それは私たちのものの考え方ですからしょうがないことです。そういうものを超えているという意味が「神光の離相」という意味なんです。如来の威神光明というものは、消滅の姿、諸行無常なる消滅の姿、つまりかたちを超えている。だから「無称光仏」というのだと。

正信偈 11ー3

​正信偈に聞く

 11-3 

​平成21年2月5日

 「因光成仏」というのは、名畑先生は「阿弥陀仏が光明無量の願を因として成仏された事」と書いてあります。問題は「因」ですね。これを光明無量の願を因とすると。阿弥陀如来が法蔵菩薩であられたときに、世自在王仏の前において、自分の願というものをお述べになられる。それが法蔵菩薩の本願ですね。本願というわけですから、単なる願いや思いじゃないでしょう。本当に深いところからの願いを、法蔵菩薩が世自在王仏の前で述べられるわけでしょう。その願いが四十八通りに述べられていますから四十八願と言っておるわけです。そのことを誓ってあるのが、その中の十二願と十三願です。

 

たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取じ。  (第十二願 聖典P17) 

たとい我、仏を得んに、寿命能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取じ。  (第十三願 聖典P17)

 

 四十八願の中の、第十二願と第十三願です。これが仏の徳を成就なさる願です。第十二願

が光明無量の願、第十三願は寿命無量の願です。そして、光明無量・寿命無量ということが阿弥陀ということです。阿弥陀というのは、アミタ―バー・アミタ―ユスという二つの意味があるわけです。もともと阿弥陀という意味は、一般的な言い方をすると「無限」ということです。限りないものという意味です。それを光明無量、寿命無量であらわしているわけです。光量りなし。そして寿量りなし。これは伝統的表現に依ります。この阿弥陀を光明と寿命とにあらわすあらわし方は、インドにおける伝統的表現です。そして、よく言われますように、光明というのは空間的無限、そして寿命は時間的無限をあらわす。ですから時間的ということは、「いつでも」ということですね。また空間的ということは「どこでも」ということです。だから三千年昔であろうと、今であろうと、三千年後であろうと、ということをあらわすのが時間ですから、寿命というのは時間をあらわす表現です。

 それから光明といった場合は、光が普くとどくという意味がありますから、空間という意味なんですね。インドであろうと中国であろうと日本であろうと、だから「いつでも・どこでも」という意味になります。全てのところにはたらくはたらき、光明です。だから法蔵菩薩が一切衆生を救うために、我が身の徳を成就して浄土を建立された。だから自分の徳を成就するのが十二願と十三願です。そして阿弥陀仏の光明というのは、十二願を因として成就された光だと。それが因光という意味なんです。つまり十二願を因として成就された光です。そして阿弥陀仏になられたわけです。それが十劫の昔です。

 

弥陀成仏のこのかたは  いまに十劫をへたまえり

法身の光輪きわもなく  世の盲冥をてらすなり   浄土和讃 聖典P479

 

ですから、阿弥陀仏は因光の仏であると。第十二願の因に報いて成就された。つまり、お徳を成就され、そして仏になられた。それが因光成仏という意味ですね。ですから「無称光」というのは、神光の離相を説かないから無称光仏という。そして、それは因光成仏の光であると。それをあらゆる仏さまが嘆じ褒めておられる。それが無称光仏という意味ですね。凡夫の立場から言うならば、凡夫の分別をもってどんなに褒めても褒め尽くせないということです。「称」という字はそういう意味ですから。「難思」というのは人間の考えでは測れない。「無称」の方は、褒めても褒め尽くせないという意味が「無称光」ということになります。

 「超日月光」は譬喩だと言われますね。つまりこの世の中で光といえば太陽の光と月の光でしょう。

 

(13)「超日月光」(ちょうにちがっこう)日や月の光を超えて輝く光明。

   「浄土和讃」「光明月日に勝過(しょうが)して 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなおつきず 無等等(むとうどう)を帰命せよ」

 

 名畑先生の意訳を見てみます。

 

「光明がこの世の月日に超え優れているので超日月光と号する。弥陀のその光明を釈迦が讃嘆してもなお、説きつくせない。」

 

これは大経の中で、そういうことが言ってあるわけです。比べるものがない「無等等」という。これは等しきものなし、比類のなき仏と書いてありますが、それが無等等。浄土和讃のどの和讃も、最後は「平等覚に帰命せよ」とか、「難思議を帰命せよ」とか「畢竟依を帰命せよ」とか「真実明に帰命せよ」となっています。これは、みな阿弥陀仏をその徳であらわしてある名です。全部最後の言葉は阿弥陀仏のことを言っているわけです。ですから「無等等に帰命せよ」と。無等等というのは、等しきものはないという意味です。この世の中で一番光り輝くものは太陽です。曇鸞大師の言葉に、どんなに太陽の光が強くても、奥深い穴蔵には光はとどかない。しかし、私たちの心の闇がどんなに深くても、その心の闇を破らないということは決してない。必ずどのような心の闇も破ってくださるのが阿弥陀如来の光明だと、曇鸞大師が言っておられます。この世の中で一番大きな、そして強大な光は太陽の光ですけれども、それにも比べられない。それほど広大な光であると。それは言うまでもありません。私たちの心の闇を破ってくださる光であると。こういう意味がここにあるわけです。それから

 

「塵刹」(じんせつ)を照らす。塵の数ほど多くの国土は、刹はクシェートラ(国土と訳される)の音写である刹多羅(せったら)の略。

 

「刹」というのはクシェートラの訳だとありますけれども、塵の数ほど多くの国土と書いてありますね。これは近代国家ができて国境というものがありますけれども、そういう意味の国を言っておるのではないのです。むしろ、もっと人間の心の世界を言っていると思います。

私が学生時代に華厳経講読で習いました。その時に人間の閉ざされた心を城壁に譬えてあります。あれは中国人の翻訳なんでしょうね。中国はどんな町でも城壁のようなもんがあるじゃないですか。私たちは一人ひとり城壁をもっておるのではないでしょうか。しかも、それは閉ざされた国ではないでしょうか。だから塵刹といった場合には、むしろそういう意味があると思います。

 

「群生」(ぐんじょう)は、サットヴの訳、「一切の郡生は光照を蒙る」。群萌(ぐんもう)衆生(しゅじょう)有生(うじょう)と同義。

 

生きとし生けるものという意味です。つまり、この十二光によって、私たちは常に照らされている。こういう意味です。ここで十二光のお話しは終わることにいたしますが、もう一つ触れることがあります。十二光が終わって、「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)と、名号が出てきます。

 

善導独明仏正意(善導独り、仏の正意を明せり)

悲哀定散与逆悪(定散と逆悪とを悲哀し)

光明名号顕因縁(光明・名号、因縁を顕す)

 

と、善導大師のところで、こういう言葉が出てきます。光明と名号ですから、光明と名号の関係が非常に大事なわけです。光明というのは、阿弥陀仏の大きなはたらきを光であらわしてあるわけですが、現にその中に我われはいるわけです。いるんだけれども一人ひとりが城壁の中に入っておるから、結局は光明の中におるということが分かっていない。そして、私たちは無常なるものに光明を見ていますから、健康なら明るい、不健康なら暗い、金がある時は明るい、無い時は暗い。そういう無常なるものに光を見ているわけです。それを「無明」と言っているわけです。それをどこまでも破ってくださるのが如来の光明です。

しかし、これは名号によって開けてくる。念仏申すことによって、光明の中にいる私が分かってくる。名号というのは南無阿弥陀仏ですから帰命をうながす。帰命無量寿如来ですから、帰命なんです。これが全てです。無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつるということにおいて、光明の中にあった我が身が知られてくる。だから名号は因なんです。縁というのは因を因にしているはたらきです。例えば、種違いの兄妹とか畑違いの兄妹とか言うでしょう。縁というのは、そういう意味で言ったら畑、そして因というのは種です。だから、帰命無量寿如来という因において、はじめて、すでにしてあった大きな光明の世界が私たちの事実になるわけです。だから、南無阿弥陀仏の教えに遇うた人の教えが縁になるわけですから、私たちは南無阿弥陀仏のおいわれを聞かしていただいて、なるほどたすからんようになっている我が身と、南無阿弥陀仏申すときに、既にしてあった世界です。その中にいながら、小さい闇の世界を生きておる。自分の小さな思いの中で苦しんで、しかも苦しんでおる時には何時も悪いのは他ですね。自分の都合で計らっているわけですから、何時も自分は善、自分の都合の悪い人は悪です。こういうかたちで争いが常にあるわけです。その時、いつも私の思うようにならんといっておる手もとをおさえて、そこに教えがある。それは南無阿弥陀仏の教えです。

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。   歎異抄 第一章 聖典P626

 

だとおっしゃいます。我われはどうやって救われるのか。つまり、弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるのだと、それ以外に我われの救われる道はどこにもないんだと、善知識は私たちに教えてくださる。その教えに気づかされるのが「聞其名号」です。摂取不捨の利益とは、光明の中におって光明を知らなかった。つまり、闇そのものの私たちの救済ということを、そういうかたちで言ってあるわけです。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなり」というのは、善知識の仰せをいただく。信ずるということは真受けする。そして念仏申す。そこに摂取不捨の利益という光明の中にあった我が身が我が身と知らされてくるのだと。こういうように歎異抄の第一章の言葉を寺田先生はおっしゃっておられます。ここをそういうかたちでおっしゃった方は他におられないです。これは非常に大切なご指摘ではないだろうかと、私は思っております。今日はこれで終わります。

 

寺田正勝―1912年、福岡県に生まれる。1936年大谷大学卒業。1951年大谷大学助教授となり、その後   

九州大谷短期大学教授。著書「人間凝視 : 親鸞的人生論」他。

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