正信偈に聞く
13 -1
平成21年4月8日
前回から「本願名号正定業・至心信楽願為因・成等覚証大涅槃・必至滅度願成就」のところに入っております。
本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり。
(本願の名号は正しく(往生を)決定するはたらきをする。)
至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす。
((第十八の)至心信楽の願が(往生の)原因となる。)
(16)「本願の名号」 阿弥陀仏の本願によって衆生に施与された名号。
「南無阿弥陀仏」「阿弥陀仏に南無(帰命)する」という名号。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来が愚悪の凡夫を救済する願いから、凡夫に施与された名号。
本願という他力によって回向された名号。
「大無量寿経」第十七願 (「諸仏称名の願」)
「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、
我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」
(17)「正定の聚」 正しく決定する業(行為)。まさしく凡夫の浄土往生を確定させるはたらき。
(18)「至心信楽の願」 阿弥陀仏の本願の第十八願(「至心信楽の願」)。
「至心(ししん)」「信楽(しんぎょう)」「欲生(よくしょう)」の三信によつて、浄土に往生させたいという願い。
三信は、心を尽くして(至心)、信じて楽(ねが)い(信楽)、浄土に生まれようと欲(おも)う(欲生)こと。
「大無量寿経」第十八願 (至心信楽の願)
「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ、唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」
成等覚証大涅槃 等覚を成り、大涅槃を証することは、
(仏と成って、大涅槃のさとりに至ることは、)
必至滅度願成就 必至滅度の願成就なり。
((第十一願の)必至滅度の願の成就による。)
(19)「等覚」 「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の訳。
「無上正等正覚」(最高の普遍の完全な覚り)と訳する。仏の覚り。
「等覚を成る」は仏に成ること。
(20)「大涅槃」 「涅槃」は、ニルヴァーナの音訳。「滅度」と訳される。
「(火を)吹き消すこと。吹き消された状態」。煩悩を火に喩える。
「大涅槃」は、マハー・パリ・ニルヴァーナの音訳。「大般涅槃」(偉大な完全な涅槃)
「涅槃」の語義
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原始仏教 『阿含経』・・煩悩を滅し尽くした状態。 「断惑証理」「涅槃寂静」
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部派仏教 「阿毘達磨」・・・死を意味する。 「有余涅槃」「無余涅槃」
-
大乗仏教 『般若経』『維摩経』など・・・覚りの境地。「不断煩悩得涅槃」
-
大乗仏教 『涅槃経』・・・「法性」(真実そのもの)と同義。
「仏性を見るを以ての故に、即ち大般涅槃に安住するを得。」(教行信証 聖典P259)
(21)「必至滅度の願」 阿弥陀仏の本願の第十一願(「必至滅度の願」)
衆生を必ず滅度(涅槃)に至らしめるという願。
「大無量寿経」第十一願
「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住して必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。」
「定聚に住する」は、この世でこのまま仏になるのではなく、また死後に成仏するの
でもない。必ず大般涅槃を証して仏に成ることが、現生において確定すること。
自分自身が本願の道理にぴったりと合致すること。
と、古田先生は「注」を書いていらっしゃいます
「本願名号正定業・至心信楽願為因・成等覚正大涅槃・必至滅度願成就」、この四句が浄土真宗の教義の全てを表現しておると言っていいです。「本願名号正定業」は「行」です。「至心信楽願為因」は「信」です。そして「成等覚証大涅槃・必至滅度願成就」という二句が「証」です。仏教というのは、覚りに至るべき「行」とは何か。そして、それを信ずる「信」。そして、その「行・信」によって「証」を得る。この行・信・証をあらわすのが仏教なんです
ね。この四句によって浄土真宗が全部いい尽くされていると言っていいわけです。
先ず「本願名号正定業」というのは「行」をあらわす。読み方は「本願の名号は正定の業なり」です。意味は「本願の名号は正しく(往生を)決定するはたらきをする」と。正定ということを、正しく(往生を)決定すると。業というのは「はたらき」と古田先生は言ってあります。本願の名号は、(阿弥陀仏の本願によって衆生に施与された名号)と。だから「本願の名号」というのは、南無阿弥陀仏のことです。どういう意味をもっておるかといったら、
「阿弥陀仏の本願によって衆生に与えられた名号」、名前です。だから「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に南無(帰命)する)」と。南無は帰命という意味があるわけですね。だから『正信偈』の最初に、帰命無量寿如来・南無不可思議光と述べられていますが、帰命と南無は同じ意味です。そして量り無き寿(いのち)ということと、不可思議の光と二行に分けてあります。その二つが「アミダ」というインドの言葉の内容になっているわけですね。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏に帰命するという名号です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来が愚悪の凡夫を救済する願いから、凡夫に施された名号。つまり、南無阿弥陀仏というのは、衆生からはじまったのではなくて、仏さまの方から与えられたものだということです。だから仏さまの方から、私たちを救うために、私たち衆生に南無阿弥陀仏と申させたいと。つまり、阿弥陀仏に南無し、阿弥陀仏に帰依せしめたいという。阿弥陀仏に対する衆生の行を、阿弥陀仏が成就して、それを私たちに施した。だから、南無阿弥陀仏と我が名を称えて、我が国に生まれようという願いを発させたと。そういう宗教生活を与えたいということを阿弥陀仏が考え、願いをおこされ、その願いによって、自ら南無阿弥陀仏という名号を阿弥陀仏が成就して、私たちに与えられた。だから本願の名号というんです。その本願の名号が正定の業です。全ては如来からはじまっている。だから、私たちが称えて浄土に生まれたいと、私が思い立って私が行ずる行ではない。一切は如来が我われ衆生に浄土に生まれさせて仏のさとりに住する身たらしめたいという、如来の本願から起こされた行。だから宗祖はこの行を「大行」と言われるのです。
ここで非常に大事なことは、本願の名号といわれ、本願の念仏とは言ってないんです。これは非常に大事なことです。私たちは南無阿弥陀仏と申すことを、念仏申すというでしょう。しかし、念仏という字は「仏(ほとけ)を念ずる」と書いてあるわけです。私たちは南無阿弥陀仏と申すことを念仏と決めていますけども、もともと念仏というのは「ほとけを念ずる」ということですから、この「念」というのは観念という意味があるのです。つまり「心に思う」ということです。私たちの思いは、常に煩悩に因って、自分の欲望をもとにして、いろいろなことを思うておるわけですけれども、そういう煩悩をふり捨てて、断ち切って、そして純粋なる真であり、我われのためにたちあがってくださっておる仏さまの心を念ずる。そのことによって、私たちの心が真実に向かうわけです。そして救われていく。それが観念の行です。
ところが、私たちが仏さまの姿を心に念ずると言いましても、私たちにはそうした精神統一は難しい。そこで仏像が造られていくわけです。そして、その仏像を目の前に置いて仏さまのことを思い、仏さまの慈悲(まこと)を心に念ずることによって、私たちの外へ向かっている煩悩の心がおさまって、断ち切られて、仏のまことを思うようになってくる。そこに、私たちの救いがあるということを教えられているのが念仏という意味なんです。だから、そこでいう念仏というのは「観仏」です。だから仏像がどこの寺にもあるでしょう。真宗の場合は特別な意味があるのですが、他宗では観仏という意味があるのです。だから、念仏といった時には、仏を念ずるという意味があります。
それに対して、「本願の名号」というのは南無阿弥陀仏だと、親鸞聖人はおっしゃいます。南無阿弥陀仏と仏の名を称える。つまり称名が念仏です。称名念仏ということを教えてあるのが浄土三部経です。浄土三部経と言うのは『仏説無量寿経上巻・下巻』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』です。『仏説無量寿経』の中には、南無阿弥陀仏という言葉は説いてありません。南無阿弥陀仏という仏の名号が説かれているのは『観無量寿経』です。『観無量寿経』は一経二宗といわれ、一つのお経の中に二つの宗旨のことが説かれていると善導大師はおっしゃいます。その一つの宗は「定善」・「散善」ということが説かれています。「定善」というのは、定心による善ということです。つまり、心を一点に集中する定心によって仏を観念するということです。ここでは十三通りにわたって仏さまを念ずる道、「定善十三観」が説かれていきます。また、「散善」には散った心と書いてありますから、定心でない日常的な、見れば見るものに執われ、聞けば聞くものに執われるような私たちの心、何時もうろうろしている心、それを散心といいます。その散心でも善根を積むことによって、仏の覚りに近づくことができると説いてあるのが「散善」です。いずれも仏を心に思うということが中心になっているんです。そういうことが「定散二善」として『仏説観無量寿経』に説かれていくのです。それが『観無量寿経』の一つの宗です。「散善」の場合は、人間を九つにわけます。それを九品(くぼん)と言っています。上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)と人間をわけるわけです。上等な人間と中等な人間と下等な人間という意味です。そして、上品な人間をまた上生(じょうしょう)・中生(ちゅうしょう)・下生(げしょう)にわけるんです。中品も下品も上中下にわけるんです。あわせて九通りになります。そうすると一番上等な人は「上品上生」です。一番下等な人間が「下品下生」です。その九品にわたって、それぞれの善根が説かれています。ところが一番下等な人間の「下品下生」のところに南無阿弥陀仏が説かれています。
正信偈に聞く
13-2
平成21年4月8日
『正信偈』に「本願名号」とありますけれども、その名号というのは南無阿弥陀仏でしょう。その南無阿弥陀仏が説かれているのは『観無量寿経』の「下品下生」に説いてあるんです。「上品上生・じょうぼんじょうしょう」から「下品中生・げぼんげしょう」までは、それに応じて修行が説いてあるんです。ところが「下品下生」のところに南無阿弥陀仏が説かれているのですが、その「下品下生」の人間については「具諸不善・如此悪人(もろもろの不善を具せるかくのごときの悪人) 聖典P120」と書いてあります。つまりその人間は、一生善いことは何一つしなかった。そして悪ばかりつくった。そういう「愚人」と書いてあります。ものの道理に暗いために一生悪を重ねて最後まで立ち直れない。結局自暴自棄の人生をおくった人間です。その不善造悪の愚人が命終わろうとするとき苦しみだす。だから、人間というのは元気な時は、他人からとやかく言われると開き直っていくでしょう。偉そうな顔をするな。お前は偉そうな顔をしているけど、腹の中では何を思っておるのか知ってるぞ。しかし俺はお前らが腹の中で思うておることを正直にやっているだけだ。だから俺の方が善人だと言わんばっかりに開き直っていく。しかし死に際になると、生きた自分の人生全体から問われるわけでしょう。他人が問うんじゃないんです。裁判で裁くんじゃないんです。
自分自身の深いところから出てくる悲しみです。それが人間でしょう。だから苦しみだす。私はこのまま死んでは未来永劫地獄を迷うに違いない。そしてたすけてくれと言いだす。そういうのを「下品下生」のところに詳しく書いてあります。しかし、それは特別な人のことではなく、すべての人間のもっている心の闇をあらわしているのではないでしょうか。その時に、幸いにして、この「不善造悪の愚人」が善知識(ぜんちしき)に遇う。善知識というのは、正しい教えに導いてくださる先生のことを仏教では善知識といいます。例えば親鸞聖人の善知識は法然上人だということは御存じの通りです。しかし、善知識はみな高僧とは限りません。案外そこらあたりのおばちゃんかもわかりません。こんな人がと思われるような人が念仏のまことを知っておられるということもあるわけですから、具体的には善知識がどういう人かわかりません。とにかく善知識がいて、臨終で苦しんでいる愚人に向かって念仏を教えられます。阿弥陀如来という仏さまがいらっしゃる。そして不善造悪の愚人のために大慈大悲の本願をおこして救いを誓っておられる。だから仏さまのことを私が教えるから心に思えと念仏を教えます。ところが死際の悪人はそんなことは思えないわけです。だいたい仏さまのことなんか思ったこともないわけですから、その悪人は当然仏さまを心に念ずることができません。そして死にたくない助けてくれと言って苦しむのです。そして臨終が目の前に迫ってくる。それを見て善知識も必死です。死ぬ者も大変ですが、善知識もこの悪人の苦しみを背負ってしまうわけですからね。そこで善知識は「心に仏さまを念ずることができないのであれば仏の名を称えよ」と言います。そこに称名が出てくるんです。そこで善知識が「南無阿弥陀仏を称えよ」と。お経にはそう書いてありませんけれども、私はそう思っています。善知識が念仏を称えて、それに合わせて悪人も称える。そこに「十念」ということが出てくるんです。「十称」とは書かれていないんですね。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。」と書いてあります。南無阿弥陀仏と十念する、それによって悪人がたすかっていく。心が静まり、十念に応じて、阿弥陀如来が諸仏を引き連れて臨終に来迎するとお経の中に書いてあります。そこに「称名」ということが出てくるんです。善導大師は『観無量寿経』に一経二宗ということを言われるのです。一つは「定散二善・じょうさんにぜん」。もう一つは「称名・しょうみょう」が出てきます。だから、「定散二善」と「称名」が説かれているのが『観無量寿経』です。
当時中国では曇鸞大師(どんらん)、道綽禅師(どうしゃく)、善導大師(ぜんどう)のような方だけが浄土の高僧といわれるのでなくて、中国で天台宗を興された天台大師智顗(ちぎ)、浄影寺の慧遠(えおん)、嘉祥寺の吉蔵(きちぞう)など、聖道の高僧が『観無量寿経』についてそれぞれ解釈の本を書いておられます。しかし、それらの聖道門の高僧たちは、出家して修行して覚りを開くというところに仏教の基本があるのだけれども、それができない人のためにお念仏が説いてあるのだという意味でお念仏を勧められ、多くの人々がお念仏を申したと伝えられています。
善導大師は、はじめ三論宗の学者でしたが、『観無量寿経』に関心を持たれて、はじめはみ名を称えて仏の心を想うという勉強をなさったようです。ところがそれに行き詰られて道綽禅師という方に会われます。そこで道綽禅師は『観無量寿経』だけでは称名念仏は成り立たない。『仏説無量寿経』に如来の本願ということが説かれている。その如来の本願の心において称名念仏ということが成り立つのだということを教えられます。そこで、善導大師は、本願の念仏ということに目を開かれます。そして『観無量寿経』には定散二善が説かれているけれども、お釈迦様の本心から言うならば、称名念仏をあきらかにしたいというところに本当の心があったんだということをおっしゃいます。そして、そのことがどうして成り立つかといったら、如来の本願ということがあるからだとおっしゃっておられます。南無阿弥陀仏は本願のみ名である。しかし、本願の内容については観無量寿経には説いてないんです。どこに説いてあるかというたら、仏説無量寿経に説いてあるわけです。
このお経には阿弥陀如来の四十八願が説かれ、四十八願の中の第十八願に「乃至十念」という言葉がある。この「乃至十念」ということと、『観無量寿経』に説かれている下品下生の十念ということと符合する。だから、本当は不善造悪の愚人の救われるはずのないものが南無阿弥陀仏を申して救われる。何故そう言えるのか。それは如来の本願ということがあるからだと。しかも、この本願というのはすべての者にはたらいていて、生きとし生けるものが、この本願の外におるものはいないというまこと。自分自身も本願のはたらきの中におる。しかし、それをどうして気づかしてもらえるのだろうか。それは南無阿弥陀仏と称えることによって、その本願のまことがはたらいているということに私たちは気づかされる。その時に、私たちの人生の意味が変わってくるということを善導大師がおっしゃって、念仏でもたすかるということではなくて、念仏以外にすべての者が平等に救われていく道はないとおっしゃる。そして問題は、不善造悪の愚人というところに念仏が説いてあり、上品上生は聖人で、下品下生は悪人だというているけれども、みな「遇縁(ぐうえん)の凡夫(ぼんぶ)」ということをおっしゃるんです。聖者というけれども、みな凡夫なのだと。ただ縁によって違ってくる。尊い教えによって、そしてその教えにもとづいてご縁をもった人は、同じ凡夫であっても善人として生きていけた。しかし、その人は決して悪いことはしないかというたらそんなことはない。縁に遇えば何をしでかすかわからんものを抱えているのが人間ではないか。そういう意味でいうならばすべて人間は凡夫。聖者と悪人の差別はない。ただ縁によって、善い縁にあった人は一生善人として生きていけるのだろう。ただ悪い縁にあった人は一生涯苦しみながら生きていくだろう。しかし共にみな凡夫なのだと。そこにすべての凡夫が救われていく道こそが称名念仏。何故かというたら、如来の本願ということがあるからだと。こういうことを善導大師がおっしゃったんですね。
当時は多くの高僧が『観無量寿経』についていろいろ論じておられて、お釈迦様は大慈大悲の仏さまですから、そういう悪人だって救われる道も説いておられる。しかし、それは悪人のために説いておられのであって仏教の本流ではない。だから、どんな人でも救われますよということを言うためにお念仏ということも説いてある。しかし、仏教の本流から言うならば、念仏は仏教の本流ではないけれども、そういう人たちのためにもご縁を結んでもらおうということから、お念仏を説かれたのだと多くの高僧は言われました。しかし善導大師は、それは違うとひっくり返された。そういうことを言う人は自分を善人だと、そして「下品下生」の人は悪人だと考えている。しかし、本当に善人と悪人とがあるのだろうか。実はみな凡夫ではないか。人間はどんな人でも、みな心に深い闇を抱えているのではないか。『観無量寿経』に説かれている一番大事なことは本願の名号。南無阿弥陀仏ということが説いてあるところに『観無量寿経』の一番大切な面があって、そのことを明らかにしてあるのが『仏説無量寿経』に説かれる四十八願。特に「十念」の念仏申すものを必ず浄土に往生せしめると誓われた第十八願の心を受けとるということが、お釈迦様の本当のお心を受けとるということになるということを、はっきりと言われた方が善導大師です。それを『正信偈』の中では「善導独明仏正意(善導独り仏の正意を明かす)」と書いてあります。
「仏の正意」というのは、お釈迦様の本当のお心。つまり、『観無量寿経』でお釈迦様が説いておられる本当のお心を明らかになさった人は、善導大師お一人であったと、親鸞聖人は『正信偈』の中に「善導独明仏正意」と説いておられます。その善導大師のお心をそのまま受けて、日本の国において、「今は末法である」と。末法であるということは縁ですね。善導大師は「遇縁」と言われました。「正法」の時代は、お釈迦様と同じように出家して、修行し学問して覚ることができる人がいた。ところが現在は末法である。その末法の凡夫が、正法の時代のように出家して、修行して学問を重ねて仏さまと同じようになるということは不可能だと。それが理屈でなく世の事実です。法然上人も十五歳から比叡山に登って、四十三歳まで修行なさったわけですが、学問的にはいろいろな学問が集大成されたかたちで比叡山にあったのでしょう。当時日本の仏教の学問の殿堂であったことは疑いないでしょう。法然上人という人は大変な秀才でしたから、これは将来比叡山一の大学者が育つぞと非常に期待されたんです。ところが法然上人は学者の道を自ら断念なさって、善導大師の念仏の教えに深く心を寄せられて、そして四十三歳の時に比叡山を下りてしまわれます。そうして称名念仏という教えに、お釈迦様の本当の心があると。お釈迦様の一代の教えは、このこと一つを知らせるための仏教だったということを受けとって、そして「ひとえに善導一師に依る」と法然上人はおっしゃっています。
法然上人は善導大師の教えにもとづいて比叡山を下りて、聖道の諸宗(比叡山・奈良の諸寺)に対して浄土宗の独立という大事業をされます。これは歴史的に画期的なお仕事でしょう。しかし、法然上人は決して比叡山や奈良で、聖道門の仏教を勉強しておられる人たちを非難されませんでした。聖道の教えでさとりを開けると思っておられる方は、それはそれでいいと。しかし世はすでに末法の時期であると。そして自分は本当に愚かな凡夫であるから、そういう者のために説かれたお念仏の仏法に依るより他に、私の救われる道はない。だから、私はお念仏の教えに依ると。他の教えに行かれる人はどうぞと。こういうかたちで言われたわけでしょう。だから、聖道門の寓宗(ぐうしゅう)であった念仏の教えを独立させて、聖道門も仏教、また浄土の教えも仏教と。末法における凡夫の救いを「本願の名号」によって、法然上人は浄土宗の独立ということをなさったわけでしょう。
正信偈に聞く
13-3
平成21年4月8日
さて、話は元に戻りますが、『正信偈』では「本願の名号」といってあって、「本願の念仏」ということは言ってないでしょう。本願の名号といってある。歎異抄の第二章に、親鸞聖人は法然上人から何を教えられたかということを、関東から尋ねて来たお弟子さんにおっしゃっておられます。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 (歎異抄 聖典P627)
と。こういうように親鸞聖人はおっしゃっておられます。つまり、法然上人から何を学んだ
かといったら、ただ念仏して、弥陀にたすけられなさいと教えられた。それを私は信ずるほ
かに何の子細もありません。それ以外に何か私たちのような者が救われる道があるとお考
えになるのならば、
南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せらてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 (歎異抄 聖典P626)
奈良や奈良や比叡山に非常に優れた学者の方々がたくさんおられるから、そこへ行ってお尋ねになられればいい。私は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と法然上人から教えられたのだとおっしゃっておられます。そういうことを、ここであらわすのが「本願の名号は正定の業なり」です。つまり、浄土に往生する正定の業の意味です。
法然上人には「不回向」という言葉があります。聖道門において、昔から伝統されている修行によって、果たして覚りが開けるか開けないかはわかりません。何故かと言ったら、その人の能力の問題もあれば、その修行がその人に合っているかどうかも分からないわけです。「有縁の法」という言葉がありますけれども、とにかく自分がこうすれば覚りを得るに違いないと思って一生懸命修行をする。そうなると修行というのは覚りを得るための手段になるでしょう。そういうかたちで修行をするのを回向というんです。回向というのは振り向けるという意味です。だから、自分が善根を積み諸行をし、それを振り向けて覚りを求めるわけです。それに対して念仏の教えは浄土往生ということが目的ですから、覚りということで言うならば、浄土の覚りを求めるのが浄土の教えです。だから、聖道門の人が修行をして覚りを求めるのに対して、念仏して浄土往生を願う。そうすると、例えば法然上人の弟子にもそういうことが問題になり、多念義(たねんぎ)とか一念義(いちねんぎ)ということで議論が分かれたようです。多念というのは、たくさん念仏を称える。南無阿弥陀仏~南無阿弥陀仏とたくさん称えて浄土往生を願う。一方は、一声でいいという人たちも出てきます。いずれにしても念仏申して救われていこうという心は同じでなんです。
それに対して法然上人は不回向とおっしゃるのです。不回向といわれるのは、念仏を振り向けて浄土往生を願うのじゃなくて、如来さまの方が私に念仏を与えてくださる。そのお心をいただく。だから法然上人は「順彼仏願故(彼の仏願に順ずるが故に)」という教えを大切にされた。これは善導大師のお言葉ですが、つまり、み名を称えて来いとおっしゃるのが如来さまの本願ですから、その本願のお心に順う。それが念仏申すということであって、念仏申してどうにかなろうというのではない。何故かと言ったら、如来さまの方がみ名を成就して、それを私たちに与えてくださる。我が名を称えて我が国に生まれんと思えとおっしゃる。ところが、それを聞いて、それならばと一生懸命多く称えて浄土に往生しよと考えれば間違い。ここが難しいですよ。み名を成就して、我が名を称えて我が国に生まれようと思えと仰る心をいただく。法然上人は、称えるということは「仰せに順う」ということ。だから称えるということと順うということが二つあるんじゃない。だから、そういう意味でいったなら、法然上人は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」というところに、行もあれば信もある。称えることがそのまま信なんです。法然上人の信心は称える行という信心なんです。信心というものが別にあるわけじゃないんです。
たとえば、子どもがお母さんに「お母さん」というのは信があります。お母さんと思わんのにお母さんと言わんですよ。「お母さん」といったらお母さんが喜んでくださるからと、それは計らいというものですよ。お母さんと呼ぶのが信でしょう。また行でしょう。行と信は一つです。お母さんと子供が呼ぶのも、もとはお母さんからはじまっておる。生まれた時の子どもは言葉を知らんでしょう。「今日は赤ちゃん、私がママよ」という歌があったじゃないですか。生まれた赤ちゃんをお母さんが抱きながら、赤ちゃんに「ママ・ママ」と教えるのでしょう。自分の名前を呼ばせようと「ママ・ママ」という。赤ちゃんはお母さんの口を見て「ママ・ママ」と言いはじめる。それがお母さんと子供の因縁ですよ。そうしたら「お母さん」といえば、そこにお母さんがはたらくわけです。名というのはそういう意味があります。だから、浄土の教えが名によって、無限なる如来と有限なる私をつなぐ。そういう因縁をあらわすのに名によったということは大事なことなんです。名というのは大切な意味があるわけです。名によって限りなきまことと限りある私が出遇う。その名によって限りなきまことを知らせようという教えになっているんですね。
南無阿弥陀仏はお釈迦様がお出ましになる前からインドにはあったんでしょう。内のご門徒のある人が、「南無阿弥陀仏は誰がはじめなさったんですか」と言うんです。これは私も考えさせられたですよ。そんなこと考えたこともないですから。また門徒さんが「親鸞聖人がはじめなさったんじゃなかろう。お釈迦様の教えやけん、じゃあお釈迦様がはじめなさったかん」と言うたですよ。これは非常に大事な質問なんですね。南無阿弥陀仏は昔からインドにある言葉でしょう。インドの人は挨拶する時に手を合われて「ナマスティ」と言う
んです。私はインドに行ったことはないですけど、手を合わせてナマスティという。だから「ナマス」でしょう。「ティ」というのは貴方という意味です。「ナマス」というのは尊敬するという意味なんですね。だから「貴方を尊敬します」というのが挨拶なんです。「ナマス」という言葉に中国の学者が音を合わせたのが「南無」でしょう。これは尊敬という意味でなくて、もっと私全体が依るという。帰依という意味で親鸞聖人は使われるわけです。阿弥陀というのは限りないまこと。アミダということ自体がそうですから、それを伝統にもとずいて親鸞聖人が「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と。量り無きいのちと量り無き光と。阿
弥陀を二つに分けて教えられます。それは伝統によったわけです。
だからインドの人の言葉の中に「ナムアミダブハァ」という言い方があったでしょう。この言葉は深い宗教心をあらわす言葉だということをお釈迦様が気づかれ、そのお心を阿弥陀如来の本願として『仏説無量寿経』が説かれているわけでしょう。だから南無阿弥陀仏というのはインドの人は昔からもっておる。人間を超えた大いなるものの前に自己が依っていく。そういう深い感情をあらわす言葉でしょう。その意味をお釈迦様自身が『仏説無量寿経』で、弥陀の本願という教えとして説いていかれたと思います。だから南無阿弥陀仏は、お釈迦様が発明したのではないのでしょう。インドの人が南無阿弥陀仏といっている心は、どういうところから来ているかということを深くいただいていかれて、その意味を明らかにされたのが『仏説無量寿経』なんでしょう。だから『仏説無量寿経』は中国でも多くの人に読まれました。とにかく十二回も翻訳されているわけですから。その十二回の翻訳の内、五存七欠といって、現在五つが残っているんです。法然上人も親鸞聖人も、そのうちの
仏説無量寿経巻上・巻下
曹魏天竺三蔵康僧鎧譯(そうぎ てんじく さんぞうこうそうがいやく)
という経典を正依(しょうえ)にしておられるわけです。
親鸞聖人は『教行信証』の中に、その他の四つの経典(五存の他の訳)も所々に引用しておられます。七欠というのは翻訳されたけれども、経典が残っていないということですが、それが何故わかるのかといったら、高僧方の講義の本の中に引文として部分的に出てくるわけです。ですから他に七つあったけれども、現在は完全なものとしてはなくなっていることが分かるわけです。
問題は「行」の問題です。行がもうひとつはっきりしない。それが『観無量寿経』のお念仏の教えと、『大無量寿経』の四十八願の「乃至十念」というものとを合われて、そこで浄土往生の行ということを明らかにされたのは曇鸞大師、道綽禅師。そして、それを集大成されたのが善導大師なんです。それをそのまま受けたのが法然上人です。だから法然上人は南無阿弥陀仏と申すことが仏願に順うことですから、それがそのまま「行」であり「信」なんです。そこに純粋なかたちで救済が成就しているのですが、ただし法然上人の教えを受けた人の中に、人間的な計らいを雑える人びとが多く出て非常に複雑な問題になります。親鸞聖人は、特にそのことを問題になさって、それらは結局「信の問題」だと気づかれ、それが親鸞聖人の三願転入(さんがんてんにゅう)の教えになっていきます。
だから、法然上人は「不回向」とおっしゃるのですけれど、親鸞聖人は「他力回向」ということをはっきりおっしゃる。他力というのは願力。如来の本願力です。本願力回向のみ名であり名号です。だから、これは単なる行でなくて「大行」ということをおっしゃるのは親鸞聖人だけです。大行ということは如来の行ということです。私が称えるまま如来にはからわれているわけです。だから、この大という字は、人間が称える行でないから大行だとおっしゃっています。
大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳法海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。
すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。 (教行信証 聖典P157)
それは何かと言ったら、願力回向のみ名だからです。だから正定業なのです。正定業というのは、生まれさせようとして成就したものを称えているわけですから、称えるままが願力によるわけです。私が浄土に往生するということは間違いのないことです。私がこの世の中に生まれて来たということは、その大きな願力にはからわれて人間に生まれて来て、そしていろいろなことがあったけれども、不可思議の縁によって善知識の教えによって、私たちが念仏申して救われていくということになるわけですから何もかも他力なんです。そのことに気づくというのが信心です。私が信ずるということでなくて、南無阿弥陀仏が願力回向のみ名であるということ。そのことひとつを私が明らかにするために、私はこの人生に生まれて来たのだという、ひとつの大きなうなずきです。南無阿弥陀仏のいわれについて大きな頷きが信心です。ですから親鸞聖人がおっしゃる信心というのは南無阿弥陀仏の信心です。如来さまを向こうにおいて、お浄土を向こうにおいて、私が信じて称える私の信ではないのです。だから親鸞聖人はこの信は「大信」だとおっしゃる。行が大行だとおっしゃっています。そして、信の問題を明らかにしたのが第十八願だと。それが「至心信楽の願を因となす」という意味なんです。
「本願の念仏」と書かないで、「本願の名号」と書いてあるということは、どこまでも、それは我われ衆生の問題があるからです。だから如来は名号を選んで私たちに回向された。そういうことが「本願の名号」という意味です。本願の名号である意味は、問題は私たちの問題です。こういうことを、私たちが明らかにしていくということが非常に大事です。そして、それがひとつの名号の歴史になっている。南無阿弥陀仏の歴史になっているということが第十七願ということですが、十七願のことは次回にお話しします。「本願の名号は大行」だと。それが、私たちが浄土に生まれる正しいはたらきだと。正しく浄土に生まれるべき行。そのはたらきに私たちは促され、順って念仏申すのですから、これは不回向の行です。つまり、願力回向の行だということを明らかにさせてもらうことが、「本願の名号は正定の業なり」という意味になってくるのだと思います。