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​正信偈に聞く

 16 -1 

​平成21年7月6日

  皆さんこんにちは。

 

本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり。

(本願の名号は正しく(往生を)決定するはたらきをする。)

至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす。

((第十八の)至心信楽の願が(往生の)原因となる。)

 

   前回から「至心信楽の願を因とす」というところに入っておるところでございます。そして「至心信楽の願」ということについて、「第十八の至心信楽の願が往生の原因となる」と。その内容につきましては、

 

(18)「至心信楽の願」 阿弥陀仏の本願の第十八願(「至心信楽の願」)。

「至心(ししん)」「信楽(しんぎょう)」「欲生(よくしょう)」の三信によって、浄土に往生させたいという願い。

三信は、心を尽くし(至心)、信じて楽(ねが)い(信楽)、浄土に生まれようと欲(おも)う(欲生)こと。

『大無量寿経』第十八願

「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」

 

   ここに第十八願の願文が述べられております。本願の名号ということについて、一切衆生を平等に救いたいという仏様の心、それが本願と言われるわけですね。その本願が四十八願といわれますから、四十八通りにわたって、その本願が述べられておるわけでございます。ただ述べられておるという事ではなくて、誓願といわれますから、誓と書かれてありますから、そうさせずにはおかんと、必ずそうさせるという事を阿弥陀仏は誓っておられる。その誓願のはたらきが、私たちすべての人間の上にはたらいておるのだと。こういうことでございます。

たびたび申しておりますけれども、曽我量深先生は「四十八願というのは、浄土の憲法である」と。こういうようにおっしゃるんですね。我われは日本国憲法の中にいる日本人として生きておるわけですね。そうしますと、その人は知っておろうと知っていまいと、好むと好まざるとにかかわらず、日本人であるという事は、日本国憲法のはたらきの中に生きておる。だから、その憲法によって、日本人としての義務もあるし、また日本人として守られておるという意味が憲法にあるわけです。それと同じように、我われが気づいておろうとおるまいと、阿弥陀仏の四十八願に憲法のはたらきの中に我われは生かされている。その四十八願といわれるけれども、四十八願の中の十八番目に述べられている本願が、根本の願だという事を教えられたのが善導大師であり、その教えをそのまま受けて、日本に浄土宗を独立させたのが法然上人です。法然上人は十八願を「選択本願・せんじゃくほんがん」といわれます。阿弥陀仏が四十八通りの願いを建てられということは、いろいろな問題をふまえて、そして一つひとつ問題を取り上げて、四十八通りの願いを述べておられる。その中でも特に選びに選んだ願が十八願。だから、十八願を選択本願というと教えられておるわけでございます。

   なぜ第十八願が選択本願といわれるかといったら、南無阿弥陀仏の名号によって、一切衆生を浄土へ生まれさせようという、いわゆる念仏往生です。浄土へ往生せしめようというのが第十八願に述べられておる。だから、阿弥陀仏は四十八通りに説かれておるけれども、その究極の願いは第十八願の「念仏往生の願・ねんぶつおうじょうのがん」だと。本願のまことを信じ念仏すれば、すべてものが阿弥陀仏の浄土に生まれて、仏に成ることができるということを第十八願に述べてある。他の四十七願は、それを支えるといいますか、欣慕の願(ごんぼのがん)といわれるのですが、それを補う。支える願だと。だから、第十八願が選択本願であり、また王様の本願という意味で王本願(おうほんがん)とも法然上人はおっしゃるわけです。その要は念仏往生ということでございます。念仏申すものを浄土に迎え取ろうという本願が第十八願ですから、念仏往生の願だと法然上人は言われるわけです。ところが親鸞聖人は、第十八願を「至心信楽の願・ししんしんぎょうのがん」といわれるのです。念仏往生の願といわないで至心信楽の願といわれる。そして、念仏について願われた願は第十七願であると。その第十七願を「諸仏称名の願・しょぶつしょうみょうのがん」、また「諸仏咨嗟の願・しょぶつししゃのがん」といわれ、そこに本願のみ名によって浄土に生まれさせて救いたいということが説かれてある。つまり、名号の成就というのは第十七願だと。そして、我われのために阿弥陀仏が願いをおこし、み名を成就しておられる。その阿弥陀仏のまことを真受けにしていただく。

   法然上人は、第十八願を「念仏往生の願」といわれるのですが、親鸞聖人は「至心信楽の願」といわれます。つまり、第十七願で願われたお念仏を真受けにする、信心の願ということを親鸞聖人はおっしゃるわけであります。念仏往生という事で、法然上人が四十八願をお受け取りになって、念仏申すものはみな浄土に生まれられるとおっしゃる。そうすると、念仏申すくらいでとか、念仏で果たして浄土に生まれられるだろうかという思いが、どこかにあるのではないだろうか。そうすると、念仏申すということについて、南無阿弥陀仏と多く念仏申さねばならんのでないか。ただ念仏申すといっても一生懸命称えなければいかんのではないかという人も出てきます。こういうのを多念義(たねんぎ)といいます。また一念義(いちねんぎ)といって、仏様のまことを信じて、ただ一声念仏すればいいのだと。要するに念仏についての疑いといいますか、念仏についてのいろいろな考えが出てくるわけです。多く申さねばならんということは、沢山称えて仏様のまことに応えるといいますか、念仏申すものをたすけるとおっしゃる心に応えて、一生懸命称えなければいかんのではないか、それがあるべき姿だろうという考え方もあります。いや、そんなことはない。ただ称えよとおっしゃる仰せに順うということだから、ただ一声でいいという。念仏自体に人間の思いが入るわけです。お念仏を信じない人も、そして信じる人も、そういう問題がある。

例えば、親鸞聖人と同じ時代に出てきた人に、曹洞宗の御開山で福井の永平寺を開かれた道元禅師は、そこらあたりの普通のものが「ただ念仏すればたすかる」というようなことを言っておるが、それは田んぼの蛙が鳴くのと同じだというようなことを、はっきりとおっしゃるんですね。人間が迷いを離れてさとりを開くということは容易なことではないのに、南無阿弥陀仏いえば、さとりの世界に往けるような教えは仏教ではないと。それをただ素朴に信じて、南無阿弥陀仏いって、お釈迦様の心をいただけるものであろうか。もしそうであるなら、それは田んぼの蛙が鳴いているのと変わらないということをおっしゃる。これはこれで分かるんですね。その法然上人を信じている人も、そして、法然上人の教えを信じない、例えば道元禅師のような人も、同じ人間ですからね。いろんな思いがあると思います。

   この頃、曽我先生の鸞音忌(らんのんき)という研修会が、木屋の光善寺とグリーンピア八女で一泊二日で開催されました。その時の講師が櫟(いちい)という先生で、曽我先生や藤代先生に非常にご縁の深かった先輩です。の櫟先生のお話を聞いておりましたら、法然上人は一日に七万遍念仏しておられたそうですね。一日に七万遍のお念仏を称えるとしたら、寝る時間も入れてでしょうね。何秒間に一回称えないと計算が合わないそうですね。そういう話をしておられました。法然上人というお方は、ずっと称えておられたということです。だから、お念仏を信ずるといいましても、いろいろな捉え方あります。だから、そういうことで親鸞聖人が「至心信楽の願」と。本願の名号は、私たちをして、私たちの人生を浄土に生まれさせる大行、如来の行だということはありましても、それをどこで受け取っていくかという問題があるわけです。そういうことが信心の問題です。法然上人は、お念仏申すということと信心を分けられませんでした。法然上人は、建暦二年(1212年)一月二十五日に八十歳で亡くなっておられます。流罪が赦されて、京都に十一月にお帰りになって、そして明けて正月にいは亡くなっておられるのですね。その二日前の一月二十三日に書かれた『一枚起請文・いちまいきしょうもん』という文章が残っております。それは、お弟子の勢観房源智という人が、将来のことを思って、いろいろな問題が起こってはいかんから、お亡くなりになる前に、自分の教えはこういう教えだということを残して欲しいと言ったそうです。それに対して、法然上人が口述されたものを弟子が書いているわけです。「為証以両手印・しょうのためにりょうてをもっていんす」ということをわざわざ書いてあります。私も写真で

   『一枚起請文』というものを見たことがありますが、源空と書いて、手に墨をつけて手形を押してあります。その中で、法然上人は信心ということをおっしゃらない。「三心四修・さんじんししゅう」という言葉を使われますけれども、これは信心ということです。法然上人は、信心の問題は「ただ念仏する」と。ただひたすら、ただ如来のまことの仰せにままに念仏する。その「ただ」の中に信心が入っている。ことさらに信心ということを言わないということを、わざわざ法然上人は言っておられます。だから、ひたすら眠阿弥陀仏申す。念仏申して我が国に生まれて来いと仰せになる、その阿弥陀仏のまことに順うということだと。だから、法然上人は「順彼仏願故」といわれます。この言葉は善導大師(ぜんどうだいし)の言葉です。つまり、念仏申すということは、念仏申せばたすかりますか、たすかりませんかということではないんです。「彼の仏願に順ずる」と。称えて来いと仰せになっているのに、どれくらい称えればいいのですか。そんなことは要らんことだと。称えて来いという仰せに順うということですから、私から出た話ではないのですね。どうしたら浄土に往けるだろうか、どうしたらさとりが開かれるだろうかということは、私から出ているでしょう。そうじゃないんです。つまり本願というのは、如来の方が私を大悲なさり、私のために五劫兆載永刧のご修行を経て、そして六字のみ名を成就なさった。そして、我が名を称えて我が国に生まれんと欲えといってくださっている。その仰せの心を我が身の上にいただくわけですね。だからハイということです。南無阿弥陀仏ということは、仰せに順うということだと。これは非常に大事な言い方、教えなんです。そこのところが、何時、何処で、どういうかたちで私の事実になるかといいうことがあるわけですね。親鸞聖人の言い方でいいますと、「弥陀五劫思惟みだごこうしゆいi)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と。「一人がためなりけり」という一人が自分の上に問題になる。「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とおっしゃっていますでしょう。「親鸞一人がためなりけり」という、その一人というのは、『歎異抄・たんにしょう』第二章でいいますと、

 

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかずかし。  聖典P627

 

自分の行をはげんで、つまり念仏以外の行をはげんで仏に成ることができる者が、法然上人がお念仏申せと仰せられたので、念仏申して地獄に落ちたならば、騙されたということにもなったであろう。しかし、「いずれの行もおよびがたき身」なれば、地獄一定という一人ですね。そこに、我が名を称えて我が国に生まれんと欲えという仰せをいただく。だから、念仏申してたすかるか、たすからんかというのは人間の計らいでしょう。自分の考えでいっておるわけでしょう。そういうものを親鸞聖人は疑いとおっしゃるですね。疑いということは、人間の計らいというものが入る。なぜ計らいが入るかといったら、自分の思いの方がまだ中心だということですよ。自分を救うものは自分だいうことが、私たちにはあるわけです。結局、あんたの問題はあんたで片づけるしかしょうがない。誰もたすけてくれんよ。今は親もいろいろなことをして加勢はしてくれる。しかし結局、あんたの人生はあんたの問題、誰もたすけてくれん。あんたが引き受けて、あんたが生きていくよりしょうがないんだということになります。そうすると、私が最後まで何を信じているのかというなら、自分の力を信じている。自分の考え、そして自分の能力。そういうものを信じておるわけですから、仏様といっても、そこのところから如来様を計る。結局、仏様より自分の方が偉いわけです。仏様より自分の考えを信じているわけですからね。

正信偈 16ー2

​正信偈に聞く

 16-2 

​平成21年7月6日

 自分の力で間に合わんと思ったら「かなわぬ時の神頼み」ということになってきます。これは現世利益(げんぜりやく)です。仏様をたのむというけど利用するわけですからね。私の力ではどうにもならんことを、仏様にたのむということは、素直に見えますけれども仏様を利用するわけです。最後まで仏様を信じない心がなくならないわけです。「彼の仏願に順ずる」ということは、一切間に合わんという「いずれの行もおよびがたき身」。私の考えも能力も一切が間に合わんという事実です。「親鸞一人がためなり」の一人というのは、私だけがたすかればいいという一人ではないのです。代わってもやれない、代わってももらえない。しかも地獄より他に行きようのない我が身という一人です。そこにはじめて南無阿弥陀仏と念仏申すという問題です。如来のまことを自分の分別考えでもって、何回称えればいいかと計らっている。それは「ただ念仏」ではないのです。そういう問題がお念仏の仏教には付きまとっているわけです。以前この例会に来ておられた方がありました。その方はうちのご門徒ではないのですが、男性の方で学校の校長先生をされていた人だと聞いていました。だから、結構口がお上手なんです。そして、いろいろおっしゃるんですね。仏教の教えは深いですからね。非常に優れた哲学をもっておるわけですから、人間のちょっとした知識では測れないですよ。しかし対抗できるという思いがあんなさるわけですよ。皆から先生、先生といわれてきた人ですからね。これは寺の坊主も危ないですよ。皆から御院家さんといわれておったらそうなります。

 その人が、座談会の時に「昔の人は素直に南無阿弥陀仏というておんなさったですもんね。あれを見ていると、あんなになれる人が羨ましい」といいなさった。口ではそんなことを言われたのですが、そんな学問もない、知識もない人が念仏していると。なんか腹の中では人を馬鹿にしているように聞こえました。ああいう人は信じる気がないんですよ。何を信じているかといったら、やっぱり自分の能力とか、そして社会的地位とか名誉とか、そういうものは穢土でしょう。いつも言いますように「穢土・えど」という「土」は境界でしょう。穢なる境界です。その穢土を厭うて浄土を願えという教えですからね。厭うということは、そこに救いはないということをどこまでも知らせて、浄土を願わせようとするのが向こうからはじまっているということです。他力ですから。阿弥陀仏が我われに先だって、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」と親鸞聖人はおっしゃいます。つまり本願というのは、私に先だって如来が本願を建てて、私の救いを誓ってくださった。しかもこちらは信じる力がない。我われに信じる力なんてない。ただ自分の思いを振り回すだけで、やっていることは地獄に落ちる種しか造っていない。しかしそのことが分からないわけです。だから、そのことをどうして知らせようかということから、如来が本願をおこして、私たちに「我が名を称えて我が国に生まれんと欲え」と呼びかけてくださるという意味が、「本願の名号は正定業なり」という意味だと。

 だから、本願の名号によって、私たちは浄土に生まれることができる。それは何故かといったら、阿弥陀仏によって成就された世界ですから。我われの在り方を穢土と批判されているわけですから、これは非常に厳しい。穢土には救いはないと。だから、浄土に生まれさせようという教えでございますから、そこに「本願の名号は正定の業なり」とおっしゃる意味があるわけです。そのことをありのままに真受けにする。この信心の問題が「至心信楽の願」として、本願として誓われている。本願として誓われるということは、阿弥陀仏は私たちが浄土に生まれるべき「行」です。「本願の名号は正定の業なり」と。正定の業は行です。これも本願でしょう。それを信じるということは、私たちの計らいを振り捨てて依るということですから、信の問題も本願。つまり、みな本願です。ということは信じる力がないことを如来様は見通しておられて、そのものに行じさせ、信じさせ、浄土に迎え取ろうと信の願まである。それが第十八願だということをおっしゃるのが親鸞聖人です。どんなに本願の名号があっても受け取れなかったなら無いのと同じですからね。じゃあ、私たちは受け取る力があるかといったら、無いわけです。

 

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

唯除五逆 誹謗正法     『大無量寿経』下巻 第十八願成就文

 

 第十八願を四十八願の中で誓われた。その通りが私たちの身の上の事実になるということを、『大無量寿経』の下巻に書いてある。それが第十八願成就文です。

 

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。  (『大無量寿経』 聖典P44)

 

「その名号を聞きて」と書いてあります。親鸞聖人には「聞思して」という言葉があります。ただ聞くのではない。聞きて思う。「聞思して遅慮(ちりょ)することなかれ、聖典P150」。だから、その名号を聞いて信心歓喜する。じゃあ「その名号」とは何なのかというと、『大無量寿経』下巻、第十七願成就文には、

 

十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃嘆したまう。

 

 十方恒沙の諸仏如来が、阿弥陀仏の威神功徳を讃嘆されると。そして皆お念仏申し、お念仏の徳をほめられる「その名号」です。そして私が、この世の中に生まれてきたということは、そういう深い道理をもってこの世に生まれてきたのかと、「その名号」を聞いて信心歓喜(しんじんかんぎ)する。単なる物とか金とか社会的地位とか見栄とか、これはこれで大事ですけれども、そういうものを結局追いかけて、人間の一生というのは非常に寂しいといいますか、虚しいものになっていく。人間は何しにこの世に生まれて来たのか。寂しいとか虚しいとか感ずるということは、本当のものに遇ってないということです。充実感がない、だから本当のものに遇ってない。本当のものに遇っておれば、本当の満足があるわけです。それがどうしても感じられないということは、人間はどこかで知っとるんですね。知っとるということは、如来の本願のはたらきの中にいるということです。

 だから、本願のまことに遇ってはじめて、私たちは本当の満足と安心を得られるんだという教えになっているわけです。そういう「おいわれ」を諸仏から聞く。十七願成就の諸仏から聞き信心歓喜する。そういう深い道理があったのかと。道理で今まで私はいろいろやってきたけれども、みんな本当の安心は得られなかったのは、そういう意味があったのかと深く喜びを感ずる。「一念」です。これを「信の一念」と親鸞聖人はいわれます。南無阿弥陀仏という信心ですね。その信心は「至心に回向したまえり」と書いてあるんですね。至心というのは、如来の真心が私に回向され、それが私にとどいて、私の信心になった。だから、信心は如来様からいただいたものだと。他力の信心です。だから当然、如来様の国である彼の国に生まれんと願うのです。信心を得たその時に「往生を得て不退転に住す」と。もうその人の生活は迷いに向かって生きない。いろいろなことがあるのだけれども、そういうものが全部ご縁になって、そして浄土に向かって生きる人生に変わるということです。それが不退転です。いろいろなことがあるでしょうけれども、常に一念の信のところに帰っていく。

 曽我先生の色紙に、「常に信の一念に立つ」という言葉があります。ここに信の一念という言葉を使ってあります。そこに帰っていく。そこに南無阿弥陀仏のおいわれを信ずる。その信ずる心も如来様が本願を建てて、そうせしめようとなさった。それを誓われたのが十八願だとおっしゃるわけですね。前回も申しましたが、諸仏如来が阿弥陀仏の威神功徳を讃嘆される。その諸仏如来というのは誰かということについて、親鸞聖人は具体的には法然上人です。法然上人という善知識が諸仏如来の代表です。阿弥陀仏の徳をほめて念仏しておられる多くの仏様。その親鸞聖人の真ん前に立たれた諸仏が法然上人だったのです。その法然上人の教えを聞いて、そして信心歓喜なさった。それが親鸞聖人二十九歳の春です。そうしますと、法然上人という方は、単なる歴史的な人間であるということを超えて、阿弥陀仏の本願を信じ、そのことをほめておられる人。だから単なる人間ではないということですね。凡夫というのは、自分の都合の良いことは喜びますけれども、都合の悪いことは喜ぶことができません。そうでなくても念仏申す人になるということは、その人をして本願が動かしている。そして本願を生きる人でございますから、全部本願のおはからいの中で生きていることなんだと。その諸仏の名号のおいわれを聞いて信心歓喜する。その信心歓喜を誓ってあるのが第十八願です。それが「至心信楽の願」といわれている意味でございます。だから、信心のというのは、その至心・信楽・欲生と三つの面をもっておるということですね。テキストをみますと、

 

(18)「至心信楽の願」 阿弥陀仏の本願の第十八願(「至心信楽の願」)。

「至心(ししん)」「信楽(しんぎょう)」「欲生(よくしょう)」の三信によって、浄土に往生させたいという願い。

三信は、心を尽くし(至心)、信じて楽(ねが)い(信楽)、浄土に生まれようと欲(おも)う(欲生)こと。

 

 とありまして、「至心」と「信楽」と「欲生」と書いてあります。それを三信といいます。つまり、信心を三つに分けて教えてあるわけですね。一つは、心を尽くす(至心)、真実心という意味です。信楽というのは、信楽の楽は(楽しむ)と書いてあるのですけれども、これは、もともと願うという意味なんです。信じ楽(ねがう)という意味なんです。単なる楽しみという意味ではなくて(ねがう)。そして、欲生という意味が、浄土に生まれようと欲(おも)うということですね。それが私の信心になるのです。だから、信心の中身というのは、常に如来によって回向される。そしてそのことを喜びとする。そして常に信の一念に立つということは、浄土に向かっての方向が、常に不退転ですから、善いにつけ悪いにつけ、みんなそれが浄土に向かっての方向になる。ですから親鸞聖人は「転悪成徳」といわれるでしょう。悪を転じて徳と成すと。だから親鸞聖人の教えは転成の教えだと。つまり悪を転ずるんですね。この「転」ということが私たちの力ではできないのですね。信心は悪を転じるわけです。そして一切を功徳にする。「悪を転じて徳を成す正智(聖典P149)」、そこに転成ということがあるわけでしょう。金子先生の本を読んでおりましたら、

 

人間の一生はどう考えてみても流浪である。本人は成功したつもり修行したつもりでも、さらに大きな眼から見れば、十人は十人ながら流浪である。その流浪の一生を仏の国へ生まれる一生と定めるものそれが正定の業である。本願の名号である。

氷を転じて水となす。人間の欲の心や、腹立つ心、悲しむ心、憂うる心、そういうものをして、それぞれ意味あらしめるものである。

 

 というようなことが書いてあるんですね。なかなか考えさせられるでしょう。阿満利麿(あまとしまろ)という人が、「人はなぜ宗教を必要とするのか」という本を書いておられるんです。その中に井上靖の「化石」という本の紹介を通して、人間はなぜ宗教を必要とするのかという問題を論じておられるものがあるんです。ちょっと読みますと、

 

 井上靖の小説に「化石」があります。1966年の秋から新聞に連載された小説で、後に単行本として出版されました。若い読者には古い小説だと思われるかもしれませんが、この小説は人間の死が生きている人間にどのような衝撃を与えるのかをみごとに描いています。要点を紹介してみます。主人公は高度経済成長期の花形産業であった建築会社に入り社長にまで上り詰めた人物です。その社長は文字通り仕事の鬼でした。しかし、余命一年という癌の宣告を受けます。たまたまかつての同僚が癌で入院していることが分かり見舞いに出かけます。友人は病室で顔を合わすなり、自ら自分が癌であることを告げます。そして今では寿命だと諦めの境地にいること等を明るく話すのでした。社長は自分のことは何一つ切り出せませんでしたが、ベットの友人が一年後の自分と二重写しになることを、どうしても否定できませんでした。二人はこれで、今生のお別れにしようと握手して別れます。しかし自宅に戻った社長は、今日のお見舞いは、本当は自分自身との別れであったと思うと、急に自分に対する哀れみの気持ちでいっぱいになり、別れて来たばかりの死の床にいる友人を再び尋ねていきます。その友人は再び尋ねてきたその社長に驚きながらもその社長の質問に喜んで答えてくれました。その社長はその友人に、あなたにもし一年の健康な時間が残されていると仮定したら、あなたはどういうことをしますかと切り出しました。社長は残された一年をどのように生きればよいのか、その答えをその友人から得ようとしていたのです。その友人は禅をしたい、座禅を組みたいと返事をしました。その人は若い時に一度座禅を試みたことがあったのです。悩みも苦しみも消える、人間が見えて来るというのでしょうか、自分が生きているということは、それほど大きなことにも思われないし、かといって、くだらないことにも思われないと付け加えます。社長は仕事についてはどう考えですかと質問します。友人は自分もあなたと同じように仕事の鬼であった。しかしそれに徹しきれなかった。いや自分の一生は間違いであった、何も仕事の鬼として生きることはなかったと思うと答えるのです。社長はたたみこむように聞きます。あなたはあなたの人生を失敗だと思いますか、友人は失敗であったと思うと答えます。すかさず社長は詰め寄るように質問します。では人生のやりなおしをすると仮定したら何をしますか、友人の返答をそのまま引用します。「さあ、それはわからん。さっき言ったように一年の寿命を許させるとしたら禅をやります。一生やり直せといわれましたら、そうですね、何をやりますかね。いつも身辺が清楚である生き方をしたいですね。他人のことをもっと考える生き方をしたいですね。人を押しのけて自分がのし上がろうとするのは嫌ですね。金、金と金を追いかけるのも嫌ですね。少しでも偉くなろうとあくせくするのも嫌ですね。一生何かに縛られていました。金・名声・幸福・みんなたいしたものではありませんよ。本当の生き方をしたい。本当の生き方といっても、そういう私にも正体は分かっていません。何か本当の生き方といえる生き方があると思うんです。それが分かったら今あなたにいうのですが、残念なことにそれが分からない。分からないが、それはちゃんとあると思いますね。せいぜい今の私には身辺を清楚にした生き方とか他人のことを考える生き方とか、そんな言い方でしかいえません。鳥の声を聴いて、ああ鳥が鳴いていると思い、花が咲いているのを見て、ああ花が咲いていると思う。そんな生き方がいいですね。幸福を一生追いかけましたが、青い鳥の話ではありませんが、そんなものは無かったでしょうね。いやあることはあったと思います。ただそれに気づかなかった。みんな逃してしまいました。ずいぶんたくさんの幸福とすれ違ったと思います。愚かにも相手の正体に気づかなかった。確かにたくさんの幸福とすれ違いました。」、 

こういうことが書いてあるんです。

 

☆阿満 利麿  日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授。専攻は宗教学。日本思想史。

正信偈 16-3

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 16-3 

​平成21年7月6日

 何か、ここで私が印象に残ったのは、この人の場合たまたま一度座禅を組んだ。その時にですね、人間が見えてくる。善いとか悪いとかというようなことでなくて、そのままが見えて来る。だからその人の場合は禅を組んでますから、何かまだ究極の世界があるに違いないと。それは理想になっているわけですね。禅の場合はしょうがないと思います。しかし、親鸞聖人の教えは、南無阿弥陀仏申すということは、そういうご縁に今ここで遇えたという。私が求めたのではなくて、病気になったということが、浄土に生まれしめずにはやまんという願心に支え続けられた人生であったことに、気づかさせていただくご縁であったという。そういう一つの目覚め、つまり不退転ですね。そういう世界がここでいただける。それはなぜかと言ったら、向こうからはたらいてくるからですね。金子先生の本を読んでおりましたら、例えば親と子供というかたちでそんなことを言ってありましたね。子供というのは、親の心は分からないのではないか。だから親はいろいろ子供にいう。そうすると子供は「分かっとる」というと。分かっとるといって本当は分かってないですね。ところが、今度その子供が親になったときにはじめて親の心に触れる。大抵の親は死んでいないでしょうけど、親の心に触れる。その時にどういうかといったら、分かったとは言わんですね。何もわかっていなかったと。じゃあ分かっていなかったというときに、親の全体が分かっているかといったら、それは分かっていない。それは限りなく深いものですよ。だから分からんではない。だけど分かったと言えない。理想を求める世界には、そういう問題があります。

 だから禅を組んだら解決するかというたら、何か人間自体が見えるとこの人は言っていますが、一回の経験でそういうものが見えるというのは面白いですね。じゃあ究極が得られたかといったら、そんなことはないでしょう。しかし、南無阿弥陀仏を信ずる仏教は、実は法の方からはたらいた心で、あなたが私を分かったと握れる心ではないんだということを言おうとするのが親鸞聖人の教えなんですね。親鸞聖人の教えというのは、私が分かったとか知ったとかいうようなかたちで片付く問題ではない。分かったと思っても本当は分からないんです。そういうところに止まる私の上に、事あるごとにはたらいて如来のまことに気づかせてくださる。それは私の命ある限りです。それを不退転と。もう迷いの世界に帰らないんです。ウロウロしないわけです。だから事あるごとに、ああそうだったのかと、そういうことを言おうとするんでしょう。そうしましたら、これだけ社長として成功した人ですけれども、癌になってはじめてそのことに気づいたわけです。しかし気づいたという世界は狭いですよ。むしろ本当は何もわからなかったんだと。そして毎日事あるごとにご催促をいただいておるのだという世界の方が深いですね。それは向こうからのはたらきです。こういうことはとても大事でしょう。

 私がまだ若いころです。あるお寺の加勢をしておりましたころ、創価学会が非常に盛んでした。そうしたら寺の組合で創価学会の勉強をしようじゃないかと。それで私が若いもんですから、あんた創価学会の本読んで勉強して、そして私たちに話してくれないかと言われたもんですから、付け焼刃で組合で発表したことがありました。創価学会は南無妙法蓮華経というわけですけれども、南無妙法蓮華経というのは日蓮上人のオリジナルなんですね。『法華経』の中には南無妙法蓮華経と申すものを救うと仏様がおっしゃったというようなことは無いわけです。だから、南無妙法蓮華経という題目は日蓮上人が思いついたわけです。しかしそういうことは日蓮上人の体験に因るわけです。日蓮上人の体験があったのでしょう。天台宗を勉強して、そして荒れ狂う犬吠埼の海を前にして思わず南無妙法蓮華経というたと、あの人の伝記を読んだことがあります。体験でしょうね。その時に無我という体験をなさったんでしょう。それを皆に南無妙法蓮華経とお題目を唱えるようにおっしゃったんでしょう。日蓮上人からすれば一つの体験からいっておられるんでしょうけど、聞いておるものからすれば日蓮上人の体験に近づかねばならんと思いますから、そうすると理想になるわけです。南無妙法蓮華経と唱えておったら日蓮上人の世界にいけるかと思うていくわけですよ。しかし、それは簡単なことではありませんよ。それは禅宗もみな同じですよ。

 組合で発表がすんで、ある先輩が「椿さん、あなたが言いたかったことは、南無妙法蓮華経には本願がない。南無阿弥陀仏には本願があるということを言いたかったんだろう」といわれました。そうなんです。つまり、私に先だって如来の方が向こうからはたらいておるわけです。それが人生だということを言おうとする。だから、「化石」で井上靖さんがおっしゃっている社長の世界ということは、如来の本願に立てば、四十八願の憲法のはたらいている人生にふと気がついたという、そういうことでしょう。しかしそれが理想を求める出発になっているから不退転にならない。それが親鸞聖人の教えに遇うていれば「信の一念」ということになると思いますね。そうしましたら、今まで見えなかったものが見えるわけでしょう。何が見えるかといったら、ああ花が咲いている、ああ鳥が鳴いている。今年は花が咲くとか咲かんとかそういうことを超えて、ああ美しいと在りのままをありのままに見る。ある人が、今まで何十年連れ添った奥さんだったけど、初めて奥さんを見たと。それは癌になったおかげだということを書いた人がいますよ。今まで奥さんは自分の思いで握っていたんでしょう。そして、気に入る、気に入らんといっとったんでしょうね。そういう思いが破れたといいますか、その時はじめて奥さんに遇ったと。今の親子の問題でもそうですが、親と子が本当に向き合っていない。対話がないという話がありますが、実は本当に向き合っていない。だから、親は親の思いで子供を握る。子供は子供の思いで親を握る。そのために親と子が遇えんという問題が問題にならないわけです。それは対話しなさいとか、話し合いが足らんということは言えますが、もっと深いところに人間は遇えんようになっている。それは本当の自分に遇うていないという意味なんです。本当の自分に遇えば人と遇えるんです。本当の自分に遇うていないもんですから、自分の思いで自分を握る。そうすると都合のいい自分が、自分で分かれば優越感を持ち、都合の悪い自分が見えれば劣等感になる。我われのような年寄りになるとひがみもしますよ。若い時は自分が大将できたということがあるわけですよ。

 大石先生のお父さんは仏法をよく知ってあったと思うけど、寺の総代を長くして、広島の別院の委員をしとった人ですよ。ところが大石法夫先生のお父さんは面白い人で、ご飯を食べるときにみな合掌していただきますと言って食べるのですが、それぞれが座って「いただきます」というと、お父さんは食べながら「うん」と言っておられたそうです。なかなか面白いと思いますね。自分が食わせているという思いがあるもんですから大将なんでしょうね。家族制度が確立している時は父親が大将ですね。ですからいただきますと言ったらうんと言っていたと先生は笑っておられましたけれど、今でも男はそういう思いがあります。会社を何かの事情で失業した夫が、失業したことを家族に言わないというんですね。何か自分が食べさせるという、自分が家を支えるという思いがあるわけです。ですから奥さんに言えないんですね。だから、奥さんはいつものように弁当を作って持たせる。主人はそれを持って映画館に行ったり、公園に行ったりして過ごしていた。何日かしてとうとうありのままを言ったと。その時に奥さんが喜ばれたそうです。主人がはじめて私を一人前に見てくれたと。養っているものと養われているものという関係がなくなったわけです。だから仏法はそういうものを課題にしているということです。奥さんにありのままを言って、そして「すまん」といった。そしたら奥さんは喜んだそうですよ。よく言ってもらった。おかしいとは思っていた。しかし何も言わないもんだから、どうしてかなと思っていた。本当に言ってもらってよかったと。そうしたら奥さんもパートに出て頑張ろうと、そこで夫婦が出遇うたというんですね。こういうことは簡単なようですけれども、なかなか簡単でないですよ。一種のこだわりかも知れませんが、そういうことと皆関係があるわけです。

 こういうことは何を言おうとしているのかということですが、信心というのは信心がなければ私と私が遇えない。私と私が遇えないということは、仏様が信じられないわけです。だから仏様を信じるということは、本当の私が私に出遇えるということです。そうすると、私も私を信じることができる。私を信じることが出来れば、どんな人でも信じていけるんです。そういう問題が信心の問題としてある。法然上人ははっきりなさっておられるわけですが、念仏申す生活の中に信心の問題は入っているとおっしゃった。親鸞聖人は法然上人においてはそうなんだろうと。しかし我々においては、なかなかそこの問題が必ずしも明らかでない。法然上人は結婚されませんでしたから家庭生活がないわけです。親鸞聖人は結婚されましたからね。その中に本当に人間と人間が出遇うということはどういうことか。社会人として生きるということはどういうことかということを、一つひとつ親鸞聖人は尋ねて行かぬわけにはいかなかったんですね。念仏申して生きるという信心の課題を、親鸞聖人は特に明らかにしようとなさったんだと思います。今日はこれで終わります。

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