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​正信偈に聞く

 41-1 

​平成23年12月25日

 みなさん今日は、

 寒い中をようこそお参りくださいまして、ありがとうございました。毎月お参り下さって、私の話を聞いて頂いておるのですが、先月お話をしましたように、曇鸞大師が「大集経」というお経の翻訳を五十歳を過ぎて思い立たれて、その途中で病気になられた。そうすると死んでしまえば翻訳ができないというので、道数の先生の所に行って「長生不老」の道を仙人から習われて意気揚々として洛陽まで戻って来られます。そしたらそこに普提流支三蔵という方(北インドの人)が中国に来て仏典の翻訳の仕事をなさっておられる。大変有名な方ですから、曇鸞様は是非会いたいと思われたでしょう。それでわざわざ会いに行かれます。

その時に曇鸞大師が「中国にはこうして不老長寿の道がある、仏教にもそういう道があるだろうか」と尋ねられたら、菩提流支が「お前は何を言うておるのか、長生きした、しなかったという問題ではないだろう。迷いをどう超えていくかということが仏教の教えであるのにかかわらず、ただ長生きするということだけであるならば、何のために仏教を勉強しているのか」と、そういう趣旨のこと言われて非常に叱られます。

曇鸞大師はそのことを通して改めて目が覚められたわけです。

曇鸞大師は中国を代表する高僧であったのですけれども、そこに深い迷いを持っておられて、菩提流支三蔵から「観無量寿経」を授けられて、四論宗の学者であった曇鸞様が浄土の教えに帰された、ということを先月お話をしました。

しかし曇鸞様は、ただ長生きをしたいと言われたのではないのですね。大きな目的をもっておられて、仏教の経典の翻訳に当たられていた、その途中で病気になられた。

目的を果たすために長生きをしたいと思われたわけで、漠然と死にたくないと言うて長生きを願われたわけではないのです。しかしそれは迷いだと言われたという事が、何か私たちには判ったようで判らんといいますか、私たちの日暮しを通して、そういう問題をどういう風に考えていけばいいのかというようなことも、今日ここで皆さんからいろいろご意見を聞かせていただければいいなという思いも一つにはございます。

しかし、それはそれとしまして、長くこの会に御縁を持っておって下きる方も多いわけですから、今日は黙って帰らないで、誰でも一言ずつ、今までお聞きになってのお気持ちでも結構ですし、常日頃考えておられることとか、またこの頃、何かあることを通してお感じになったこととか、どういうことでもいいと思うのです。そういうものを一人一人言ってもらったらだろうかと、坊守からもそういう意見が出まして、私もそれがいいと思って、まずそれから始めて、それぞれの話等を踏まえて、今の曇鸞様の問題なども何か話題にしていただければ、それはそれで結構ではないかと思って、今日はこういう円卓式にしたわけでございます。どうぞよろしくお願い致します。

 

 

【A】私は、今年の十一月三日に住職を息子に譲りまして、その時に十時先生においでいたただいてお話をしていただきました。

振り返って思うのですけれども、私は今六十二歳です。もう世間で言えば定年退職、そして再就職という形になりますが、私もそういうことになります。

私は縁あってお寺に生まれて育ちました。兄弟五人おるのですけれども、私は二男として生まれ、いかにしてこの寺から出ていくかということを考えていましたが、いつの間にか捕まってしまいまして、お寺を継ぐということになってしまったのですが、今振り返ってみると本当に厳しい生活環境の中をよくここまで生きて来れたと思います。

実は、私は寺に生まれたことをうらめしく思っていました。何でこのお寺に生まれたのだろうとか、また何でこの親を親にしたのだろうかということが、ずっと私の思いの中にありまして、親との関係が大変厳しくて大分苦しみました。私からすれば批判ではなくて批難なのですね。

親として、そして僧侶として、また社会人として、何とも言いようのない親でしたから、私はどうかして、この親子の縁を切ってしまいたいと思っていました。しかし、どんなに思っても、苦しみ悩んでも、私の親であり親子であるという事実は変わらないのですね。

その時に思った事は、命という事を考えるときに、「選びのない生」というか、この親を親にしたいとか、この寺に生まれたいとか、そういう選びのない中で命が授かったし、そしてまた「放り出された生」といいますか、父と母を縁にして、何万何億という私が放り出される。その中を一生懸命競争して一番になったものが母親に受胎をして、十月十日を経てこの世に生まれて来るということを考えてみますと、「選びのない生」、そして「放り出された生」、そしてそこを「生きんとする生」として、この命があるということを教えられました。

その時に、私の「思い」と「事実」が違うという狭間の中を行ったり来たりして、事実が受け取れない、自分の思いの中に立ってしまっている自分ということを教えられてくれるときに、結局どう思っても、どう考えても、どんなに批難しようが、生活環境も含めて、これが私だという事実に変わりはないという事を思い知らされました。

しかし其れが判ったら、それで親子の関係が修復できたのかというと、そこが難しくて、まだその感情は引きずっています。

そういう環境の中で、勉強もしなかったし、ただ空過していく毎日でした。いろいろありましたけれども、しかし捕まってしまい、結局寺を継ぐという事になったのです。

そして、佐賀の龍谷短大へ二十歳の時に入学をしまして、そこで泗水先生という当時の学長でしたが、その先生に遇いまして、初めて学校の楽しさを知りました。二年間でしたけれども、大変充実した時を過ごすことができました。

学生生活は、毎日昼間は学校へ行ってタ方授業が終われば下宿先の川副のお寺に帰って、役僧として、そこのご門徒の「お逮夜」を勤めて帰るという生活でしたから自由な時間はありませんでしたけれども、多くを学びました。

「お逮夜」は、私が中学を卒業しまして、高校は定時制に行きましたから、昼間は大牟田氏内のあるお寺の役僧として雇ってくださったので、役僧の経験がありましたから、佐賀での役僧生活は楽しく勤めることができました。

泗水先生がいつも言われる言葉があるのですが、「念仏を中心にこの人生を生きていくのだ。」ということを繰り返し、繰り返し言われるのです。

そんな中で、私は小林一茶の「盥から盥にうつるちんぷんかん」という旬に遇いました。私はその旬に出会った時に、本当にそうだなあと思いました。小林一茶は、生まれて三歳の時に母親に死に別れて後添いの母に育てられます。その後、義理の弟ができるという中でいつも孤独で淋しい思いをしながら暮らしていたのですが、それを見るに見兼ねた父親が、十四歳にして江戸へと丁稚奉公に出すのです。そこから小林一茶の流浪の旅が始まるといいます。転々と流浪していくなかで俳句の世界に出会い、俳句を通して深く人生を見つめていった小林一茶です。

そして晩年に、自分の郷里である信州は柏柏原というところへ舞い戻って来て、五十歳を過ぎて奥さんを初めて娶ります。そして子供ができる、しかし生まれては死に、生まれては死に、なかなか子供が育たない。そして奥さんも亡くなり後添いを貰うのです。そして新しく建てた家も火事にあい、焼け残った土蔵の片隅で六十数年の人生を終えるわけです。「盥から盥にうつるちんぷんかん」という旬を残してこの世を去って行ったと言われます。

この旬はどういう事かと言いますと、生まれたら盥に産湯をつかって誕生を祝います、そして死んでいくときには盥に水を汲んで身体を拭いてもらって葬られていくわけですが、その盥(生)と盥(死)の間は何であったかというと「ちんぷんかん」であったというわけです。

その歌が、私の中で頷きと勇気をもらったことでした。今まで空しいという思いを抱えている中で、この旬に出会って、本当に空しさに出遇ったのだと思います。だからこそ本当に生きたいと思ったのです。空しさに変わりはありませんけれども、そこに何か私の転換みたいなものがありました。

そして、もう一つ合わせて佐賀龍谷短大で学んだことは、親鸞鸞聖人は人生をどんなふうに抑えておられるのだろうかと思い、学んでいくときに、「空過していく人生」と抑えて、その空過していく人生を空過しない人生として、お念仏という教えに出遇われたとい

りました。

 

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし (高僧和讃 五九〇頁)

 

というご和讃がございますが、本当に空過していく人生が空過しない人生として歩いて行ける。そういう道筋を親鸞聖人は念仏を通して教えて下さった。私はそういう中で開法が本当に始まったのです。

しかし、念仏の心というものは本当には解らないものですから、教えを聞いて立派な人間になろうと、今までずっと勉強しなかったし、どうろこうろしてきた自分が先ず聞法して立派な人間になろうという思いで聞法をしてきたように思います。

ところが結婚をすると、家の中でごたごたがいっぱい出てきます。そのごたごたのもとは、結局「善し悪し」なのですね。常に善し悪しで裁いていく。善悪で切り刻んでいく生活というのは本当に地獄になっていくのですね。

社会人として、親として僧侶として何ともいいようのない者でも、やはり善し悪しがあるわけです。坊守もそういうことで大変苦しみましたし、苦労も掛けました。そういう生活の中で坊守も善悪で裁いていく心を通して、聞法するという生活が始まったわけてす。そういう面では大変苦労しましたけれども、尊いご縁を頂いたという事でもあるわけです。

地獄の象徴は閻魔さんといいますけれども、閻魔さんの仕事は何をするのかといいますと、善人と悪人を振り分けていくわけですが、そこに地獄が生まれるわけです。やはり善し悪しという世界には、結局は地獄しかないわけです。

そして地獄を通して、あらためて南無阿弥陀仏という世界は「善悪のない世界」ということを教えられました。それでは善悪のない世界というのはどういう世界なのかと思います時に、十時先生がうちの寺の御法座だったと思いますけれども、西田幾多郎と言う哲学者のお話をされまして、それが非常に心に残りました。

この方は哲学者ですから「人間とは何か」ということをいろんな角度から学間を通して追及していかれたわけですが、その時に人間とは天だということに行きつかれたわけです。

その凡夫を三角形で表現されたというお話をされたのが非常に判りやすくて、自己を考えるときの手だてに今でもなっております。

その三角形というのは、二等辺三角形のようにきれいな均等のとれた三角形もあれば、鋭利な三角形もある、またいびつな三角形もある。いろんな姿形をした三角形があるように、人間にも内面的にも外面的にも均等のとれた人もおられます、能力的には非常に優れているのだけれども人間性に非常に乏しいという鋭利な三角形のような人もおられますし、人間的にも乏しいといういびつな三角形のような人もおられます。いろんな姿かたちをした形があり、人間の相がありますけれども、内角を足したらみな百八十度だと、そして百八十度という世界を超えられないのだというようなことを十時先生を通して教えて頂きました。

そしてその三角形は、縁によってどんなにでも変化していくという、そういう性質のものをもっているのだというところに、人間は縁によっていろんな姿かたちをし、いろんな生き様をするのだけれども、結局は百八十度の世界、つまり善し悪しを超えられないということを教わったのです。

その時にふっと思ったのですけれども、西田幾多郎さんは百八十度を百八十度とどうして知ったのだろうということを思うわけです。その時に百八十度という世界を通して、それを包む三百六十度のある世界を知られたのだと思いますね。

三百六十度という世界を通して百八十度を知り、百八十度を通して三百六十度のある世界を知ったというところに西田幾多郎さんの人間観、世界観というものがあるのだろうということを思いました。

それを手だてに考えます時に、浄土という三百六十度の世界がある、そして凡夫という百八十度の世界がある。そういう関係の中で三百六十度という浄土を通して百八十度という凡夫の世界というものを知り、百八十度という凡夫の世界を通して三百六十度という、浄士という世界のあることを知る。そういうことを思うわけです。

その時に三百六十度というのはどういうはたらきをするのかというと、百八十度という世界を教えるはたらき(南無不可思議光)と、百八十度という世界は三百六十度が無ければ存在しないわけですから、百八十度の世界を存在足らしめている存在の根拠は三百六十度にある(帰命無量寿如来)ということを考えますと、生の依るところ(南無不可思議議光)死して帰るところ(帰命無量寿如来)のはたらきとしてある。

浄土は死んで先の事と言うことでなくて、南無不可思議光と人間の在り様を教え、帰命無量寿如来とはたらいて命の根拠を教えて、人間の本来に帰るはたらきとして、つまり私たちの帰する処として浄土があり、そこに善し悪しを差し挟まないで、南無阿弥陀仏とありのままの事実(因縁)に頷いて生きていける。善し悪しの分別を無くすことはできませんけれども、分別を超えて生きていける道があるように思われます。

本来の自分に出遇って、頷いていけるかということが、私の聞法です。

すみません長く喋ってしまいました。これで終わり

正信偈 41ー2

​正信偈に聞く

 41-2 

​平成23年12月25日

【B】私は、大正十三年生まれで現在八十八歳なります。昭和十九年に兵役で出征して台湾に一年半おりました。その中で感じましたことは、人間の命は与えられたものだと思いました。それは、私が戦地で空襲を受けましたときに隣に伏せていた同僚は重症を負い、私はかすり傷一つあわないという体験をしまして、人間の命というのは自分ではどうすることもできない、与えられたものだということを感じました。おかげで入隊して一年半で終戦となり、生きて祖国に帰って来ることができました。

私は若い時から頑張り者でしたから、自分は善人と思っていました。いろいろ村で何かあれば一番口に駆けつけますし発言もしました。特に終戦当時は食糧難で、一粒でも多く米を収穫するということで、一生懸命米の増産に励んでおりました。

特に、私が三十年代の頃には、農業の近代化ということで、農業経営の合理化が奨励された時代でした。私は、そのための耕耘機の共同利用を若い人たちと共に計画しました。

私の住んでいる村は戸数十五戸で、その時九台の耕耘機がありました。それを三台にして共同利用して合理化をしました。

親のような年配の方々を説得して廻り、合理化にこぎつけましたが、その時は絶対にそれでいけると思っておりましたがなかなか思い通りにはいきませんでした。

共同養鶏もやりました。

私の父は、私が四十歳の時に亡くなりました。その時分に同じ村の人たちがお正信偈を習われました。私も夫婦で先輩の方と一緒にお正信偈を習いました。

そして、そこで「唐明会」というのが出来まして、お寺に百五十人ぐらいの方たちが寄って、「お正信偈のお勤めと、お話を聞く会」が年に二回ですけれども、開かれるようになりました。母が、私達夫婦に、「行ってこんの、参ってこんの」と言って、朝から弁当を作って出してくれました。「小宮テイ」と寄進者の名前が本堂の黒板に書いてありますが、それは私の母です。忙しい中に母は私達をお寺に出してくれたものだと思っておりましたら、私があまりにも頑張り者で善か人間と思い込み、自分がすること、言うことは間違っておらんという生き方でありましたから、これではいかんと母が思ったのでしょう。

私は始めは善人になるためにお寺参りをせにゃならんという思いでお参りをしておりました。ところが年に二回でありましたけれども、お話を聞いておりました中で、おれは善人と思っておりましたから、自分本位の生き方をする人間であったと知ることができ

も何年もかかりました。母が寺に「参って来んの」と言って送り出してくれたのは、こういう私を仏法によって教えてもらえという思いがあったと、今でも思っております。

父の死を縁として四十代から開法しておりますが、四十五年ぐらいお聞きしております。私は光善寺の門徒でもありますから、特に十時先生からは聞かせてもらっております。

私が思うことは、人生の中で仏法に遇わずして人生を終わるということは、本当に不幸なことだと感じております。私は煩悩具足の凡夫と知ることができて、本当に有り難いと思っています。

 

【C】私は玉名から来ました。六十七歳です。数年前から十時先生と奥様に御縁を頂いてお育て頂いております。

私が仏法に御縁がありましたのは、死んだ娘でした。早いものでその娘の二十五回忌を勤めました。

この会には今回で三回目でございます。娘の死を縁にして親鸞聖人の教えに遇わして頂いたということは、私にとっては生きる力になっています。

どうしても家に帰ったら心の中からいろんな思いが出てきますし、先月は動悸がして気分が悪くなって、体の状態がよくないものですから、そうなると私の心の方が息子・嫁・孫にまでも不平不満が出てきます。そういう中に生活をしています。

 

【D】私は大牟田の小浜町に住んでおります。実は仏法の御縁に遇うようになったのは、私の父が真宗教団の推進員として活動をしておりました関係で、私も父に連れられて勉強会に判らないままずっと参加していました。

私は複雑な家庭の事情がありまして、私の心の中で父を許せなかったことを引きずっておりました。

父は光円寺の前住職さんの御縁で開法していたのですが、そういうことを歌にして小冊子に書き残しておりました。それを住職さんが見せてくださって、その中に、生活しているときは母が父を許していない事を知っておりましたし、父から母のことも聞いておりましたのですが、父が残した歌が、「妻とともにお念仏を一緒に喜ぶ」というような内容の歌でした。

それは、母が父とともにお念仏を喜べるということはどういうことなのだろうと、そこのころが不思議と私の心の中に残っておりました。

それともう一つは、父が久留米の大学病院に入院しているときに病室の中で、私に、「念仏相続していくように。」と言いました。それで、そのこと合わせて、私の中に問題となって、そこのところをずっと聞法させてもらっています。

しかし、なかなかそこのところが、開法しておりますけれども、一方、生活の中に戻ってまいりますと教えと生活がぜんぜん違いまして、話を聞いたという感じがなかったのですね。いろんなお同行さんに連れられてお寺参りをしました。

藤代先生が広島のある寺で亡くなられて、そこの住職のお話の中で、藤代先生の生き方は南無阿弥陀仏で生活しておられたと言う話が私の中に入ってきまして、南無阿弥陀仏申すということは判らないながらも、私も「お念仏申す」ということで生活しておりました。

藤代先生が亡くなられて後、大石先生を通して、生活の中で、どんな境遇になろうとも「この事一つ」という言葉が私の中に残りました。

良し悪しは結局自分の物差しを使って、自分にとって都合が善い時は相手は良い人、悪い時はあの人は悪いと、いつも自分の計らいの中で動いているということも少しずつお育てに遇いながら、父はこういうことを申していたのだという事を知りました。

まだまだ分かりませんけれども、毎日の生活がよかったといえる生活が心の中に無いのだなぁということが少しだけでも聞かして頂いて過ごしておるようなことでございます。

 

【E】私は大和町から来ました。この「会」には、小宮さんのお誘いを受けまして、参加させて頂いたわけでございます。七月からお話を聞かして頂いております。お話をお聞きして、含蓄のある深い言葉に、なかなか私は理解ができないのですけれども、何回か聞くうちに全体の様子、お話の内容が少しずつ分かりかけて、光善寺に足を運ぶようになりまして、仏様の教えはさることながら、私たちは縁があってここに座り、そしてそこに出会いがあるのだなと思いなす。

なぜそういうことをお話するかといいますと、十一月の終わりに仙台へ行ってまいりました。仙台は、空港から仙台までのアクセス線が十月末にやっと開通したのですが、仙台から釜石までは列車が通っていないのです。それで迂回をしてバスで仙台まで通学通勤が行われていたということであります。

なぜ私が仙台へ行くようになったかと言いますと、北九州の人と仙台でスポーツをするということで行ったわけです。その様子をちょっとお話しますと、塩竈ガス体育館のそばに仮設住宅が建っておりました。

私たちは塩竃というところに居たわけですけれども、仙台の駅から約電車で二十分程かかりますが、柳川から久留米ぐらいの距離になります。塩電駅を降りて、タクシーで会場まで行ったのですが、そのタクシーの運転手さんから話を聞きました。

津波で一階は全部浸かりましたと、まだまだ復興は十分ではないのだけれども、自分たちで何とかやらなければならないというようなことで、私は少しでも地域の人たちの役に立てたいいなと思って、少しはお土産を買ってきました。

今回の東日本大震災は、日本全国、世界中から募金が寄せられているわけですけれども、まだ集まった義援金の配分ができずに右往左往しているということも聞くわけです。

そういうことで今回多くの人との出会いがありました。私は人との出会いは、偶然でもあり、また必然でもあると思っています。

朝からNHKのラジオをよく聞くのですけれども、ある時、花屋さんの話がありました。「これはいい花です、しかしいい花だから売れません」という話がありました。

花に良い花そうでない花というのがあるのかなと思いました。人間にも善人・悪人いろいろ言われますけれども、しかしそれは、私あって相手がある、相手があって私がありました。都合のような気がします。

花にしてもそうですが、花も値段が高い、または貴重な花だというふうにして価値をつけて差別する。野に咲く小菊とかそういったものはなかなか目に留まりませんし蔑んでしまう。

しかし花には一生懸命春から夏秋にかけて咲く、それぞれの花があるわけです。生を受けて無くなってまた子孫を残していく。誰も振り向きもしない、見過ごされている花でも、一生懸命自分の花を咲かせて生きている。そういう姿を見ますと自分の生き方に心を痛めたり、それから励まされたりします。

大牟田には「かるた館」というのがございます。図書館の隣です。そこへ大学の先生の話を聞きに行ったことがありますけれども、古文書は一割弱しか訳されてないらしいです。後の九割は眠っておるということなのですね。

私が箪笥の中を整理しておりましたら娘の書いた色紙が出てきたものですから、それを表具屋さんに頼んで額に入れてもらいました、しかしその字が読めない。調べてみると「滝の音は絶えて久しくなりぬれど、名こそ流れてなお聞こえけれ」大納言公任(だいなごん きんとう)という方の詩で、百人一首の中にありました。

滝の音はというと大覚寺の滝の音で、今は滝の音は聞こえない。絶えてしまったけれども長い間、語り伝えられているというようなことでした。やっとその意味が判りました。

人はそれぞれに生きる年月は違います。私の姉が三十二歳の時に出産をしてすぐに亡くなりました。私が二十九歳の時でした。一番上の姉は久留米に嫁ぎましたけれども五十歳の時に息子の結婚を前にして亡くなりました。そういう死を私は若い時に経験しました。

今年十月十六日に、私が募っていた従弟で、前小学校の教員をしておりましたけれども、交通事故で亡くなりました。八十二歳でした。

私は、事故があった日にその従弟の家を尋ねまして、その時に会っていれば交通事故には遭わなかったのではないかと思って、いつもそれが悔やまれてならないのです。その従弟は源氏物語や万葉集などの古典文学の勉強をしておられたのですが、その方と縁がありまして私もいろいろと教えて頂きました。

仏教のお話の中で梅原猛先生の「仏教について」というお話を愛知県の知多という所で、二・三講演で拝聴したことがあります。先生は仙台の生まれです。これも縁で、書物も少し持っています。直接話を聞くということもありますが、書物を通していろんな方と出会うこともできるのではないかと思います。

縁というのは、私たちの日常生活の中に深く根付いていて、それを私たちは意図しなくとも感じているのではないかと思います。私はこういう機会を設けて頂いて非常に嬉しく思っています。

最後になりますけれども、私の家に月に一度ご住職が月参りに来られて、約一時間から二時間近く独占してお話しをお聞きするわけです。私は、そういう時が非常に楽しいのです。

まだまだ仏様の教えは判りませんけれども、これからも聞いていきたいと思います。どうもありがとうございました。

 

【F】久留米から来ています。家は商売をしておりまして、厳木町徳隣寺の加藤徳水先生という方が、毎月家に来てくださって、お話しをして頂いておりました。

ですから私は、小さい時からそこに座って話を聞くような生活環境の中で育ちましたから、仏法の御縁は深かったと思います。いろいろな所のお寺の御法座にお参りして、開法を重ねてきましたれども、しかし学校に行って勉強をしているような感じで、言葉をたくさん覚えて心に響くというようなことが無くて、自分の人生経験の浅さということもあると思うのですけれども、そういう中で育って来ました。

そして大学の時は、東京に居ましたけれども、聞法を欠かしたことはありませんでした。

結婚は、自分の思い通りにはいかなくて、結局養子をとって家のために結婚したという思いを長いこと引きずって来ました。

このお寺にお世話になるきっかけは、隣にいらっしゃる井上さんの御主人が、私の母も一緒に連れて来てもらって、この光善寺にお参りしておりました。御主人が亡くなられてからは、私が井上さんの奥さんと一緒に十時先生のお話を聞きに来ておりましたけれども、小さい時から聞いてきた話とは違って、十時先生の話が吸い込まれるように有り難かったのです。

亡くなった祖母が、いつも南無阿弥陀仏·南無阿弥陀仏と言っておりましたけれども、ある時、私が「南無阿弥陀仏と言えばよかかと思ってから」と、祖母に対する不審を十時先生にお話話ししたことがありました。

以来、十時先生のお話を聞き漏らしたくないという気持ちで十年近く経ったのですけれども、その間、私の気持ちもやっと少しですけれども、亡くなった祖母が南無河弥陀仏・南無阿弥陀仏と言っていた気持ちが少しわかるようになったのですよ。

 

【同朋会御案内】

『キリスト教は、イエスひとりに十字架を担わせる。我らには、一人一人に十字架を荷負う力が与えられる』と師は仰せられました。

また『早く荷負えば軽くてすむが、逃げようとすると利子がつてくる。

早く自分の責任にするのが軽く荷負う方法だ』とも申されました。

一切衆生は、父母からの長い業縁に縛られていて、その業から解放されるということはありません。

如来は法界の光を以って、信心の智慧を与えて、その業を自身の責任と受け取る眼を与えて、その地獄の業苦から救いたもう」(藤代聡麿)

このごろ、都合が悪くなると「おれはおれで親は関係ない」と言う青年がふえているそうです。今までそれを言わせないでいたのは、儒 経でしょうが、なんでも自由に言える世の中になって、親の時代の本音が今出ているのでしょうか。人間根性は変わりません。

合掌

正信偈 3-3
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