正信偈に聞く
21-1
平成21年12月26日
前回から「釈迦章」に入っております。
如来所以興出世 如来、世に出興したまうゆえは、
(釈迦如来が世に出られたわけは、)
唯説弥陀本願海 ただ弥陀本願海を説かんとなり。
(ただ、海のように広く深い阿弥陀仏の本願を説くためである。)
五濁悪時群生海 五濁悪時の群生海、
(五濁の悪時のすべての人びとは、)
応信如来如実言 如来如実の言を信ずべし。
(釈迦如来の真実の通りのお言葉を信ずべきである。)
「依経段」が二つに分かれておりまして、如来様の教えにもとづいて説かれたところが「弥陀章」でございます。今日は前回から引き続き「釈迦章」になります。お釈迦様の教えにもとづいて説かれたところのお話を申し上げておるわけでございます。釈迦如来がこの世にお出ましになった所以は、「唯」このこと一つと。いろいろな教えは説かれたけれども、結局は阿弥陀如来の本願の世界を説かれるために、この世にお出ましになったのだと、親鸞聖人はおっしゃるわけでございます。そして、阿弥陀如来の本願をお釈迦様がお説きになる意味ですね、つまりこの世が五濁悪時の世界である。その五濁悪時の世界において、ただ説くべき教えは、弥陀の本願を説く以外にないのだということを説いてあるのが、『大無量寿経』に説かれる真実経の所以であり意味であるということを言われるわけでございます。ですから、五濁悪時の「群生の海」と、「弥陀の本願の海」が相応じておるわけです。五濁悪時という言葉について、五濁ということがここに書いてございます。
「五濁」 末世に起こる五種の汚れ。悪世。
刧濁(こうじょく)時代の汚れ。飢饉・疫病などの天災、動乱・戦争などの社会悪。
見濁(けんじょく)考え方の汚れ。邪悪な考えがはびこり、それが常識とされる風潮。
煩悩濁(ぼんのうじょく)煩悩があふれる汚れ。欲望が優先され、悪徳が横行する状況。
衆生濁(しゅじょうじょく)人々のあり方そのものの汚れ。人々の資質が低下する状態。
命濁(みょうじょく)寿命の汚れ。生きる意義が見失われ、充実しない虚しい生涯。
浄土三部経の中で、五濁は『仏説阿弥陀経・聖典P133』に述べられております。この五濁の世において釈迦如来が、如来の本願をお説きになることを諸仏がおほめになったということを、『阿弥陀経』の最後のところに書かれております。もちろん『大無量寿経』の中にも五濁という言葉が二カ所説かれてありますけれども、内容については説かれておりません。「濁り」という意味を、宮城先生は「透明感が失われた」という言い方をしておられます。濁るということは、向こうの方の見通しが悪くなるということですから、つまり、この社会の中で何が見えなくなってしまうのかということですね。仏教という教えは、私たち人間に対して、何を特に言おうとなさっておるのか。例えば、私は子供の時にお寺によく参っておりました。お寺で法座があれば老いも若きも、お寺に参ることは普通のことでした。だから特別に私たちが熱心だったということではないと思います。その時に聞いていたお説教は、「善いことをしなさい、善いことをすれば死んで極楽にいきます。悪いことをすると、死んで地獄にいきます」と。何かそういうような言い方だったような気がするんですね。だから、善悪によって果報が違うという言い方が多かったと思います。しかし、私が仏教の学校に行って仏教の勉強をしてみたら、必ずしもそれは正しくはないんですね。これは「七仏通誡の偈」というものがありまして、七仏ということは多くの仏という意味です。どんな仏でも通じて誡めておられる偈と。それは
諸悪莫作(もろもろの悪なすなかれ)
諸善奉行(もろもろの善ぎょうじたてまつれ)
自浄其意(みずからそのこころをきよくせよ)
是諸仏教(これもろもろの仏教なり)
だから、悪いことをするな、善いことをしなさい。これだけならば悪いことをすれば死んだら地獄にいきます、善いことをすれば極楽にいきますと、つまり果報ということです。だから諸悪莫作(しょあくまくさ)・諸善奉行(しょぜんぶぎょう)で済むのです。問題は次の句なのです。自浄其意(自ら其のこころを浄くせよ)、しかし善いことをしても善いことをしたという意識をもてば、それは悪になるのですね。つまり親切にしても、向こうが「ありがとう」と言うてくれれば善いことをしたと思いますけれども、善いことをしたとしても、向こうがお礼を言わなければ「無礼な奴だ」と、相手を恨んだり憎んだりしたら自浄其意ではないのです。だから本当にそのこころが浄くなる善が人間に成り立つのかという、こういう問題がいつもあると思うのですね。そしてこの世の乱れというのは、ここが実は問題なんです。この「七仏通誡の偈」には面白いエピソードがありまして、中国の唐という時代に鳥窠禅師(ちょうかぜんじ)という人がおられました。そこへ白楽天(はくらくてん)、正式な名前は白居易(はっきょい)といいます。この人は詩人です。日本の平安時代の詩は、この人の影響が非常に大きいと言われておりますね。この白楽天は、特に晩年は仏教に深く帰依していたと伝えられます。はじめは儒教に依り、晩年は仏教に深く傾倒したようです。この人は政治家なのですが、あまり栄達の道を進めなかった人なんです。ある時、白楽天が浙江省杭州の県知事で赴任していくわけです。赴任していったところで、鳳林寺という寺に鳥窠禅師というお坊さんがいるということを知っていたのでしょうか、訪ねていくわけです。
鳥窠禅師のことを近所の人たちは窠を巣におき替えて鳥巣禅師(ちょうそうぜんじ)といっていた。なぜかといったら、大きな松の木の二股になっているところに、何時も座って禅を組んでおられたそうです。ちょうど鳥の巣のような恰好で禅を組んでおられたから、皆が鳥窠禅師といわないで鳥巣禅師といっていたそうです。白楽天がわざわざ訪ねていかれます。役僧が「禅師は裏山におられる」というので、裏山の方に登っていったら高い木の股のところに禅師が座っているわけです。側によって観たら居眠りしておられたもんですから、「禅師危ない」というたら、禅師が目を開けて「危ないのはお前だ」と。「俺が落ちても四尺だ、お前が落ちれば奈落の底だ」とやり込めた。白楽天が一本やられるところがあるのですね。その時に白楽天は「仏教とは何ですか」と聞いたら、それに応えて七仏通誡の偈を禅師は言うんですね。「諸悪莫作・諸善奉行・自浄其意・是諸仏教」と。白楽天が「何だそんなことですか」と言うわけです。「三歳の童子これを知る」、そんなことなら三つの子でも分かっていますよという意味ですね。そうしたら鳥窠禅師が「三歳の童子これを知るといえども、六十の爺これを行うことを得ず」と。つまり、生あるものは必ず死に帰す、盛んなるものは必ず衰える、これはみんなそうです。法というのは普遍性ということを表すわけです。ダルマというインドの言葉を、中国の人がこの字を当てたわけですが、この法というのは仏教だけに限らんでしょう。法律という字もこの法という字を書きますから、法則という字もこの字を書きますから、この字は普遍性という意味を表しておるわけです。「三法印」の法は三千年昔であろうと、現在であろうと、インドであろうと、日本であろうと、生老病死は平等にあります。権力があろうと、金があろうと、物があろうと関係ない。すべての者はいつまでも生きてはいませんし、いつまでも若くはないのです。生身を抱えていれば、病は免れない。いつも言いますけれども、私らのような老人は、老と病は一緒です。病気になっても治る楽しみがない。残っているのは棺桶だけですから、これが生老病死でしょう。これを歌にしたのが「いろはうた」でしょう。「いろはにおえどちりぬるをわがよたれぞつねならん」、諸行無常です。そして諸法無我、このときの法はあらゆる存在という意味で使っているわけです。あらゆる存在は我として握られるものは、何一つないということを言うのが無我という意味ですね。ここで我というておるのは、永遠不変の実体という意味なんです。永遠に変わらない実体を我とおさえておるわけです。だからどんどん移り変わっているのですから、永遠に変わらない実体なんて何もないのだということです。だけど私が変わるといったら、私という我を考えてしまう。だけど私といっておるものは無いといっているわけです。だから身体一つにしても、どんどん変化しておるでしょう。しかもそれは縁に依るのですから、あらゆるものの環境、気候、風土というものが縁です。縁というものと、私を私にしている因というものと、関係性の中でどんどん変化している。変化しているということは、私が実体視している私はないという意味です。ところが私が変化しているという私、その私というものが実体的にあるという思いが我執というんです。だから仏教は執われを離れよという教えなんですね。そういう意味でいいますならば、あらゆる環境の中で、環境の変化の恵みによって、私は私になっていっているわけですから、あらゆる縁というのは御恩ですよ。御恩の中にいるという面と、私が私を生きるということが御恩報謝になっているわけです。単なる受け身だけでなくて、私が私を生きるということが、みな他者に影響を与えているわけです。私は私であらゆるものに支えられているということと、私が存在するということは、そのまま縁の中に入っているわけです。いろいろなものに影響を与えているわけですね。それをあえて言うならば、影響を受けることが御恩であるならば、自分自身を生きるということは、皆さんのお役に立つならば、それは御恩報謝になるわけです。そういうことを仏教は言いたいわけです。ところがみんなどうしても我が離れられん。
正信偈に聞く
21-2
平成21年12月26日
藤代先生は、人間に生れて我が確立するのが32カ月目だろうと、三歳が36カ月ですからね。そのころになったら「俺が」がはじまる。生まれた赤ん坊は、本当は我執的な可能性は待っているのですが、そういうものはまだ出ていないわけです。環境の真ん中で、そして今いま生かされておるままを「おぎゃー」と言っておる。ところが32カ月ぐらい経った時に、「俺が」がはじまる。「俺が」がはじまった時に「俺が・お前が」と対立の世界になる。本当は、この世の中はみなすべてのものは対立的にあるんじゃなくて、関係性の中にあっておる、縁起です。縁起というのは「縁によって起こる」、関係性の中にある。それを人間は対立的に捉えていく。だから32カ月ごろになった時に、私は女より男がよかったといいはじめる。つまり男女という二つがはじまるわけですね。男がよかったということは、私が女であることを悔やんでいるわけです。そして同じ女でも隣のミヨちゃんのように色が白くて、目がパチクリしてスタイルのいい女ならばよかったけれど、私のような女に誰が産んだというものがはじまる、そこから苦悩がはじまる。犬や猫はそこまで我執というものが確立していないのでしょう、しかし好き嫌いはあるらしいです。人間は32カ月経った時から、完全に自我というものがたちますから、すべて対立の世界、競争の世界に入るわけです。 だから教育というものは、そういうかたちで出来てしまった人間の文化の中に、どう適応させようかというのが教育ですから、そういう意味でいえば教育というのは、一回地獄に落とすようなものだと思いますね。そういう差別の世界は、人に負けるな、頑張れと教育する。これは大切なことです。しかし、そういう教育を受けさせるだけでは親の慈悲になりません。
もう一つの慈悲がある。それはその中におって、逃げることは許されぬ、だからそれを超える道がなければ、人間は最終的には非常に寂しいことになってきます。その超える道を教えるのが仏教だということです。だから無我という仏教の教えが非常に大事なんですね。我を依りどころにして善行するものですから、善が善にならないわけです。「雑毒の善・虚仮の行」という言い方を、善導大師はなさいますけれども、私たちの善というのは、結局は雑毒の善だと。この毒というのが我執です。私たちが善を行ったら、いかにも善のように見えますけれども、炭の上にお化粧をしたようなものだと。一皮むけば炭だと、しかし私たちはそういうことが分からない。我執ですから、自分のした善をたのむという。今ご縁をいただいておるというかたちになかなかならないんです。
私がしておる、向こうが分かってくれないと。今度はしてもらう方も「ありがとう」と言い切れん。やっぱり頑張るわけです。我執で自分の状態を受け取りますから濁ってくるわけです、濁です。基本的になぜ濁になってくるのか、そして、その濁の中において教えを説かれるということは、どういうことなのかということです。そして阿弥陀仏の本願というのが、その在り方を超える道を、私たちの上にどう成就させようとしておられるのか、それが「本願海」です。ですから五濁悪世といわれる時に、善いことをすれば極楽へいく、悪いことをすれば地獄にいくという単純な因果応報といいますか、因果応報論だけでこれを受け取っていくと分かりにくいのです。
結局、人間の問題の基本的に何があるかというと、我執の問題がある。それによって自らも損ない、自害害他です。自利利他が逆になる。自らを損ない、他を損なうというかたちになってしまう。それは何故かといったら、我執の問題が解決していないからだと、こういうのが仏教の言いたいことだということを、基本的に押さえておかないといけません。「俺が」で目的を実現するために何かをするものですから、すべてのことが手段化されるわけです。そして今度は何時かこうしておけばこうなるだろうと、我執をもとにすれば必ずそういう考え方になりますから、思うように結果が出ない時には、非常に自分の人生が無意味に感じられたりするわけです。だから、いま今ご縁をいただき、いま今深い喜びが持てる日暮らしならば、人間が他を利用したり、失望したりということはあり得ないわけですね。だから、そういう意味でいうならば、我執の問題が片付かなかったならば、現在というものは無いわけです。我われは、過去に責められるか、未来に不安を持つかです。こういうことが人間の根本的な問題だということを言おうとするのが仏教だということを、まず基本においていただいて五濁を見ていきますと、五濁悪時ということがよくわかります。
刧濁(こうじょく)時代の汚れ。飢饉・疫病などの天災、動乱・戦争などの社会悪。
と古田先生は言っておられます。
飢饉は作物が不作とか、天候不順であるとか、疫病は流行病ですが、これは現代という時代になりますと、必ずしも流行病というのは天災と言い切れない部分もあるわけです。そして動乱というのは、権力の問題もありますし、日本にはそういうことが今はありませんけれども、国内での内乱というような事は世界のいたるところにあります。部族紛争とかあります。そういう時でも自是他非です。我執がもとになっているものですから、必ず自分は是なのですね。向こうは非なのです。人間はそうなってしまうのです。我慢しているとかいいますけれども、根本的には自是他非があるわけです。そういうことが超えられない。そうするとどうしても憎しみは憎しみを呼び、恨みは恨みを呼んで、そして流転の生活は終わらないわけです。それは国際関係を見ていてもそうです。小さな家庭を見ていても同じことではないかと思いますよ。時代の悪ということで、動乱とか戦争というのは社会悪。これはよくわかります。だだ飢饉とか疫病とかということになりますと、天災が関係しておりますから、我執の問題と無関係かというと、必ずしもそうではないのですね。例えば、ある地方に飢饉とか地震というものが起きてきたところで、お互いがお互いを本当に助け合い、認め合うとまた違ったものが出てくると思います。ところがやっぱり、経済力を持っている者はたすかり、持たないものは常に悲劇を見ていかねばならんという、これは決してないではないです。こういう事を考えてみますと、刧濁というのは時代の汚れということになります。
見濁(けんじょく)考え方の汚れ。邪悪な考えがはびこり、それが常識とされる風潮。
これは我見です。見は見解です。思想といってもいいです。自己中心ということです。そして自己中心の反省がないということです。だからどうしても自是他非になってくる。それが風潮になってくる。ひょっとしますと、かつてより現代の方がそれは強いかもしれませんね。極端に言いますと、人のことなど構っておられん、我さえよければいいというような事が、案外今の世の中には蔓延っているかもしれません。そうして、そうせしめているものの中に煩悩があるのですね。
煩悩濁(ぼんのうじょく)煩悩があふれる汚れ。欲望が優先され、悪徳が横行する状況。
だから、皆欲のないものはいないわけです。ところが、我がつきますから我欲になるわけです。我がつけば我痴・我慢・我見・我欲でしょう。我がつけば濁が出てくるわけです。同じ欲でも我欲になってくると非常に面倒です。「邪見驕慢」というのが『正信偈』に出てきますけれども、慢というのは高ぶる心という意味でしょう。そうしたら同じ我慢するのにも、私が我慢しているからこそ家が丸く収まっていると、何かそういう心が私たちの中にあるのですね。慢というのは「俺が」というもので自分を支えているのです。負けるのでも負けて勝つ、やっぱり勝たねばならん。負け切れんのね。これはみんな我です。人間の在り方が非常に歪み、そして濁ってきているということを照らす鏡がないのです。特に現代という時代は、照らす鏡が非常に少ないのではないでしょうか。昔は金のことをいうと恥ずかしいということがありました。金のことを言う時には羞恥心がはたらきました。今ははたらかない。金のことも平気でいうし、今は女の人もすぐ裸になる。時代が変わったと思いますね。恥ずかしさを知らんというか、何か自己顕示欲というものが強いといいますか、煩悩というものと関係があると思いますよ。
衆生濁(しゅじょうじょく)人々のあり方そのものの汚れ。人々の資質が低下する状態。
仏教で言っている資質というのは、普通の人のいう能力と違うのですね。真実を真実として受け取っていく心が、だんだんと弱ってくるという意味なのです。だから五濁悪時というのは、何が善で何が真実なのかが見えなくなってくる。そういうものを受け取る人間の資質が、どんどん低下してくるというような意味があるのです。
《参考》正像末三時
正法 五百年 教・行・証
像法 千 年 教・行・×
末法 一万年 教・×・×
これは何を言ってあるのかといいまいたら、お釈迦様の予言です。お釈迦様の予言で「正像末の三時」ということを言われるわけです。「正法」というのは、仏滅後五百年という意味です。だから、お釈迦様がお亡くなりになって、五百年は正法と言ってあるのです。そこには教えがあり教えの通りに修行する者がいて、修行の結果が覚りです。教・行・証が成り立つのは、お釈迦様が亡くなって五百年の間という意味です。お釈迦様が二十九歳で出家して、三十五歳で覚りを開かれたわけでしょう。そして八十歳で亡くなられました。その間四十五年教えを説かれた、それが仏教だといわれておるわけでしょう。それが現在、いろいろな教えになっているわけです。覚りは、ここでは証です。しかも出家なんです。これが問題なんですね。お釈迦様は出家されて亡くなるまで家には帰らないわけです。だから仏弟子というのは出家なんです。在家に人も教えは聞きますから、当然影響は受けます。しかしお釈迦様と同じ覚りを開くということは不可能です。ところがお釈迦様の教えはすべてのものが救われるという内容があったのだということで、大乗仏教運動ということが起こってきますが、しかし基本的には出家です。だから、親鸞聖人だって出家されて、比叡山で二十年の修行をされます。問題はこの「さとり」の中身です。お釈迦様と同じように皆が覚ったかといえば、そんなことはないでしょう。その人の能力もありますし、いろいろな問題がありますよ。だから覚った人もいるし覚らん人も当然出て来たでしょう。お前は覚ったという証明は、お釈迦様にしてもらうよりしょうがないのですね。そうすると、お釈迦様から証明された人間が、今度は自分の弟子に「お前は覚った」ということを証明する。それが伝統されていく。だから基本はお釈迦様です。その伝統が五百年間は持てるということが正法です。
正信偈に聞く
21-3
平成21年12月26日
その形式を真似ているのが禅宗です。だから禅というのは、お釈迦様が覚った時の姿勢でしょう。だから今でも禅宗で一番大事な日は成道会です。お釈迦様は三十五歳の時、十二月八日の夜明けに覚ったといわれますよ。禅宗には曹洞宗、臨済宗、黄檗宗があります。柳川の殿様のお寺は黄檗宗です。本山は京都の万福寺です。久留米の梅林寺は臨済宗です。栄西禅師という人が御開山で本山は京都の妙心寺です。私は梅林寺に行って聞いたことがあります。十二月八日に成道会があるのですね。一週間座るそうですよ。私の聞き間違えでなければ、一日に三時間しか仮眠しないそうです。ご飯もそこで食べるでしょう。トイレの時と寝るときしか立たんそうですよ。後は一週間座っているそうです。それで十二月八日の夜明けに覚りが開けておかなければいかんわけです。そういう儀式が梅林寺で一番辛いそうですよ。臨済宗は花園大学というのが宗門の大学です。花園大学の学生さんは、昔は五年といっていましたけれども、今は三年ぐらいになっていますが、そこで修行、雲水をしなければ住職の資格はもらえないのですね。今は若い人たちに禅を組ませても、それに耐えられるのはせいぜい一日だそうですよ。それでもグラグラするわけでしょう。そうしたら背中を叩いてくれるわけです。もう二日ぐらいになったらグラグラして、三日ぐらいなったら下の石畳の床に落ちて寝ているそうです。それを引っ張り上げて座らせるらしい。それが老師になると、さすがに起きているのか寝ているのか分からんようにじっとなさっているそうです。その覚りが保たれるのが正法五百年ということです。お釈迦様が証明した、その証明された人が証明するかたちで五百年持てるだろうという話です。ところがそれが過ぎると無理という話です。
次が像法千年です。像というのは仏像の像ですから形という意味です。だから教えがあって、修行の行の形はある、しかし覚る者はいないということで、証のところが×になっているでしょう。次に末法一万年、これは教えはある、しかし行ずる者も覚る者もいない。だから、法然上人や親鸞聖人が出られたころの時代は末法です。末法という時代は、七高僧でいうと道綽禅師の時だといわれます。だから道綽禅師は、末法に入ったという実感が強かった人だったそうです。経典がありますから教えはある、しかし修行をする人も覚る人もいない。そういうところから法然上人の浄土宗の独立ということがなされるわけです。そういう意味の資質です。衆生濁というのは、人間の資質が低下する。どんどん社会は複雑になるばかりですから。そして人間の我執煩悩は太るばかり、そしてそれを照らす鏡がない。だから仏教がだんだん衰退していくということは、仏教を聞いても「そんなことがこの世の中で通用するか」という思いがあれば、聞き入れませんよ。しかし、そういう時代であっても、例えば今は癌などが多いですから、ガンなどで死というものに直面なさったりすると、やっぱり死が生を問うわけです。「私の一生って何だったのだろうか」と。その時に、どんなに社会が進んでおろうと、便利であろうと、どんなに経済的に豊かであろうと関係ない。そういう人たちが、あらためて仏教という教えに目覚めるという人は、結構おられるのではないですか、どんな時代になろうと。
生きているときは生活といいます。そしてみんな活の話ばかりしている。生と活は違うのです。生きているということは、生があって活があるわけです。我われはこれを熟語にして生活といいますけれども、生と活は違います。活はまさしく生活自体です。活は厳しいわけです。しかし活はどんなに厳しくても、基本的に生というものが見定められなければ、活というのは無意味に終わる可能性が強いのです。「私の人生って何だったんだろう」ということを言うということは、死によってはじめて生が問題になる。そういう時に活という問題が、実は無目的に動いてしまったという反省が出てくるわけですね。そうすると死というのは非常に大事です。人間に死というものがあるということはとても大事です。何時までも生きていたら仏教なんてないですよ。濁も言ってみようがないですよ。現代は「死が生を問う」という次元でもなければ、こうゆうことがはっきりしない時代なのかもしれません。そういう中で、皆さんのように死という事とも問題だけれども、私の人生自体が問題だというくださる人がおられるということはお蔭ですよ。濁というのは、そういう意味があるということです。
命濁(みょうじょく)寿命の汚れ。生きる意義が見失われ、充実しない虚しい生涯。
生命感覚の欠如という、つまり、今こうして生かされているという感覚さえ、まるっきり感じられなくなっている。「生きる意義が見失われ」と書いてありますね。本当に私たちが、いま現に生かされているということ、そして善い悪いを超えて、遇わねばならん人にお遇いしていますし、そして実はそこで一番お育てをいただいておるのが私自身なんでしょう。そして今、今日という日が与えられているということの意味を、私たちはどこまで深くいただいていくことができるかというような、非常に大事なことになってくるのだと思いますけれども、私たちは過去と未来のことばかり考えて、何か今という時を見失っている、そうして便利主義といいますか、快楽主義といいますか、現代はそうです。便利であれば何でも取り上げる、そして今度は快楽といいますか、快いことの追求ということだけに執われていく。しかし本当の人生の意味を尋ねるということは、我われに非常に難しくなってきておるということがあると思います。そういう私たちに本願の教えが説かれた。五濁悪世の中に、如来の本願の教えというものをお説きになっておるということを、親鸞聖人はここで申されたわけです。ですから一番はじめに申しましたように、『阿弥陀経』の中にわざわざ五濁をあげてあるのですが、それはどういう意味であげてあるかといいましたら、お釈迦様がこの五濁の世において、阿弥陀仏の本願をお説きになったということの、お釈迦様に対するおほめの言葉と言いますか、お釈迦さまをほめ称える諸仏の称讃と、ほめ称えられる意味を『阿弥陀経』には書いてあるのです。『阿弥陀経』には「六方段・ろっぽうだん」というところがありまして、東・西・南・北・上・下の六方ですが、そこに仏様がたくさんおられまして、その仏様が声をそろえて、この五濁悪時の中にあって、お釈迦様が特に五濁悪時の中で苦しんでおる、つまり群生海に対して阿弥陀仏の本願の尊さを説いておられる。そのことの困難さを見て、しかも、それを敢えて説かれるお釈迦様のお徳をほめられる、そういう意味で『阿弥陀経』の中には五濁の問題が述べてあります。そういう問題を我われは親鸞聖人のお蔭で、ここに念部の仏法が残されており、念仏の仏法を説かれておることの意味ですね、こういうことを改めていただきなおしましょうと親鸞聖人がおっしゃるんだと思います。私は自分のために苦しまない。普通、我われは我がために苦しむわけでしょう。思うようになればニコニコしている、思うようにならんと不足の顔をする、そしてもっと深刻になると苦しむわけです。仏は苦はないと、一切の問題は解決した。ただ何を苦にするかといったら、一切衆生が道を知らずに苦悩しておる、そのことに苦しまれる。どのようにその人たちに真実の道を与えようか、そしてどうしてそういう人びとに真実の教えを信じてもらおうかということで苦しまれるのが仏様です。
次に「応信如来如実言」、如来如実の言を信ずべし。(釈迦如来の真実の通りのお言葉)という言い方で古田先生は解釈しておられます。如実ということを、実の如くですから、「真実の通りのお言葉」を信ずべきであると、こういうように書いておられます。
(3)「如実の言」「事実」の通りに説かれた言葉。ここでは『仏説無量寿経』の教え。
と書いておられます。つまり方便がないという意味です。教えに真実と方便があるわけです。方便というのは真実に入らしめるための手立てという意味です。嘘という意味ではありません。よく世間では「嘘も方便」という言葉がありますが、嘘ということではありません。真実に至らしめるための手立て、善巧方便といいますが、それを方便というのです。『大無量寿経』は如来の本願が説かれておる、これは真実そのものだと、如来の本願は方便ではないんだと。何か如来の本願の奥にもう一つ何かがあって、それに入らしめるために如来の本願が説かれているというのではない、如来の本願が真実だと。それをそのままお説きになっている、だから「如実の言」だと。このように親鸞聖人は仰っておられるのです。だから「五濁悪時の群生海」に対して何を説かれるか、如来の如実の言である『大無量寿経』のまこと、つまり本願念仏の仏法をお説きになっておる。これが釈迦如来がこの世の中にお出ましになった「出世の本懐」、所以だと。方便を説かれているのではないのだという意味が、「如実の言」という意味でございます。今日はこれで終わります。