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​正信偈に聞く

 26-1 

​平成22年6月20

 5月は光善寺本堂の屋根替えなどの工事がございましてお休みいたしました。今日は前回に続きまして「信心の利益」ということを述べておられるところでございます。

 

獲信見敬大慶喜 信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、

(信心を得た人を見て敬って、大いに喜ぶならば、)

即横超截五悪趣 すなわち横に五悪趣を超截す。

(横跳びに五種の迷いを超えることになる。)

 

ここは「横超悪趣の益」といわれておるところでございます。

 

21「信を獲れば見て敬い」信心を得たならば、信心を得た人を見て敬いの心が生ずる。そして大いに喜ぶ。

 

22「横」「竪(じゅ)」に対する語。順序に従うのを「竪」といい、順序に従わずに飛び越えていくのを「横」という。「竪」は、自力によって解脱を求め、段階を追って目標に進む「聖道門」をいう。「横」は、阿弥陀仏の本願の力、すなわち他力によって、段階を経ずに浄土に往生する「浄土門」のことをいう。

 

 仏教全体の中で、浄土真宗という教えはどういう位置づけになっておるのかということを判釈する、それを「教相判釈・きょうそうはんじゃく」といいます。親鸞聖人は、仏教を「竪出・竪超・横出・横超」と四つに分けて教相判釈しておられます。仏教の宗派は親鸞聖人に限らず、その宗派の御開山といわれる方は、みな「教相判釈」をなさっておられるわけです。例えば弘法大師が開かれた真言宗の場合は「顕教・けんぎょう」と「密教・みっきょう」に分けられるのです。顕教というのは言葉でいうならば顕(あらわ)になっている。それに対して「密教」というのは秘密の教えですから、人間の心から人間の心に移っていくような教え。だから普通では分からないわけです。

 道綽禅師というお方は、仏教を「聖道門の仏教」と「浄土門の仏教」と二つに分けられます。だから自分の教えはどういう教えなのかということを、他の教えとの比較関係において明らかにすることを「教相判釈」というのです。法然上人の場合は、道綽禅師に習って「聖道門」「浄土門」に仏教を分けられます。それがここに書かれたるわけです。

 

親鸞聖人の教相判釈

竪出(じゅしゅつ) 自力の漸教 段階的な修行によって阿羅漢をめざす小乗、および長い間の修行によって仏になるという法相宗などの権大乗の教え。

竪超(じゅちょう)自力の頓教 一挙に悟りを得て仏になるとする天台宗・禅宗などの実大乗の教え。

横出(おうしゅつ)他力の漸教 『観無量寿経』に説かれる定善・散善など、自力の念仏の教え。

横超(おうちょう)他力の頓教 『大無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の本願によって回向された念仏の教え。

 

22「横」「竪(じゅ)」に対する語。順序に従うのを「竪」といい、順序に従わずに飛び越えていくのを「横」という。「竪」は、自力によって解脱を求め、段階を追って目標に進む「聖道門」をいう。「横」は、阿弥陀仏の本願の力、すなわち他力によって、段階を経ずに浄土に往生する「浄土門」のことをいう。

 

 こういうように古田先生は仰っておられます。親鸞聖人は、仏教を二つに分けて「竪」と「横」に分けておられるわけです。「竪」には二つある「竪出」と「竪超」。しかし「横」というのは他力ということをあらわすわけですが竪というのは自力です。次第順序を踏んでいくということです。人生はそうなっています。小学校から中学校、そして高等学校・大学と次第順序を踏んでいくわけです。それを「竪」という言葉でいっておられるわけです。「竪」に竪出と竪超とがある。出るのと超えるということがある。そして横は他力をあらわす。しかし、その他力にも出と超がある。親鸞聖人は浄土真宗は横超ということで、仏教の教えを位置づけていかれるわけです。

 

竪出(じゅしゅつ) 自力の漸教 段階的な修行によって阿羅漢をめざす小乗、および長い間の修行によって仏になるという法相宗などの権大乗の教え。

 

ですから、阿羅漢というのは阿羅漢果という、つまり小乗です。この顕教、密教というのは大乗仏教です。ところが小乗という言い方は、大乗仏教の方から言い出したのですが、本当は仏教に小乗も大乗もないのです。お釈迦様の教えをどこで受け取っておるかということです。その時に、小乗というのを小さな乗ものと、運載(うんさい)の義というのですが、非常に個人的である。そして我が身自身の救いが中心になっている。その在り方を批判して、後に大乗、すなわち自他共に救われるものが仏教であるという、大乗というのは大きな乗ものと、そういう仏教運動が興ってくるわけです。

 お釈迦様が生きておられる時はこういうことは言わないわけです。お釈迦様がお亡くなりになって、お釈迦様の教えを直接受けていた仏弟子を中心にして道を求めていた人々の流れ、そういう人々のあり方を、あれは小乗だと。小乗というのは個人的なかたちで仏教を受け取っておる人々だと。お釈迦様の教えは限られた人の道ではない、もっと深い広がりを持っておるのだというのが大乗仏教運動なのです。小乗仏教では悟りには四つの階段がある。 預流(よる)・一来(いちらい)・不還(ふげん)・阿羅漢(あらかん)、これが小乗仏教における無上最上の悟りです。 預流というのは、あらかじめ流れるという意味ですけれども、無漏(むろ)の聖者の流れに入った者という意味です。一来というのは、聖者の仲間に入ってから再び迷いの世界にもどってくるという意味です。不還というのは、もはや二度と迷いの世界に帰らないという意味です。それから最高位が阿羅漢。『阿弥陀経』には、長老舎利弗から十大弟子といわれるような人の名前が出てきます。こういう人たちは「みなこれ大阿羅漢なり」と書いてあります。そういう人々の流れが小乗だと言われるわけです。

 私が大谷大学の学生の頃に、佐々木教悟という先生がおられました。いかにも雰囲気が違った先生でした。この先生はタイ国で仏教教団の中に何年も入っておられて、そこで修行をなさった人だと聞いたことがあります。タイというのは小乗仏教ですけれども、その先生の仏教学の講義を習いました。例えば女の人に触ってはいけないという厳しい戒律があるわけです。しかし例えば「あなたが托鉢して川のほとりを歩いている、そうしたら川に女の人が落ちてたすけてくれと言っている時に、あなたはたすけないのか、どうする。」というと、その人は「人を呼ぶ、人が溺れている。たすけてやってくれと人を呼ぶ」と。しかし「呼んだって誰も人がいない、そしてたすけてくれという、あなたは出家者であろうと向こうは死にかけている。それでも助けが来ない時は、あなたはどうするのか、見殺しにするのか。」といって責めるわけです。そうしたら「そういう所を通るのが間違っておる。そういう事が起こらないような所を通らなければいけないのだ」という話を、佐々木先生がしておられましたけれどもなかなか面倒です。小乗というのは個人的な自己中心的な仏教の聞き方になっている。仏教には自利利他という言葉がありますけれども、自分自身の救いという自利と人々と共にという利他です。自分の利益、そして他を利するという意味ですが、自利利他ということを言うわけです。その時に自利に偏っている、だから小乗だと。それに対して、むしろ迷いの中に飛び込んで行って、共に道を明らかにしていくという方向が、お釈迦様の本当の精神だと、そういう意味では大乗というのは自利利他円満というわけです。

 

竪出(じゅしゅつ) 自力の漸教 段階的な修行によって阿羅漢をめざす小乗、および長い間の修行によって仏になるという法相宗などの権大乗の教え。

 

 法相宗というのは、昨年福岡に阿羅漢が来ましたけれども、興福寺は法相宗の本山です。唯識(ゆいしき)を中心に仏教を学び修行しておられる人々のお寺です。それは権大乗といわれておる仏教です。奈良の仏教というのは権大乗的な流れですから小乗ではないのです。最澄は平安時代に遣唐使の留学生として、唐に渡って天台宗という仏教を、空海は真言宗という仏教を日本にもたらされるわけです。奈良の仏教は政治と癒着してしまって、仏教自身が問題を起こすというような事が現実にあったもんですから、桓武(かんむ)天皇の時に奈良から京都に都を移します。奈良に都ができて七〇年しか経っていなかったと言われます。それを何故わざわざ京都に移したのかと言われますが、それは仏教との関係であろうと司馬遼太郎さんは言っておられます。だから、中国から天台宗と真言宗をもたらした平安仏教の最澄と空海は、朝廷の許可を得て山の上に新しい教団をつくるわけです。その時に最澄は大乗戒ということを非常に強く言われるわけです。ということは、奈良の東大寺の戒壇院で、はじめて日本で正式なお坊さんができたのはご存知の通りです。日本には戒律を授けるお坊さんがいなかったわけですから、中国の鑑真和上を招いて、戒壇院をつくって受戒をしてもらうわけです。しかし律宗とか法相宗というのは権大乗なのです。ですから、最澄は比叡山の上に大乗戒にもとづく戒壇院をつくりたいというのが、最澄の願いだったといわれます。最澄が生きておられる時はできませんでしたが、亡くなられた後に比叡山の上に戒壇院ができます。これは東大寺の戒壇院とは違うわけです。戒律のとらえ方も、そしてそこで説かれるものも全部違うわけです。比叡山は大乗仏教による僧侶を生み出す戒壇院をつくったわけですから、そういう意味では平安仏教以後、比叡山は仏教の中心になっていくわけです。これは大きな意味があります。そういう仏教の歴史をふまえて、ここに親鸞聖人が位置づけをなさるのです。ですから「竪」には次第順序を踏んで出るという言葉で表現なさるのです。ですから「竪出」が自力の漸教、次第順序を踏んで長い間修行をしていくわけですから漸教なのです。

 同じ自力の教えですけれども「竪超」というのが自力の頓教です。「一挙に悟りを得て仏になるとする天台宗・禅宗などの実大乗の教え。」と。本当の大乗だと、実大乗とこういう意味です。ですから天台宗というのは比叡山が本山です。しかしそれは「竪」だと、つまり人間の自力を尽くして悟りを求めて行く仏教。それに対して「横」という次第順序を踏まないわけです。「横」というのは他力をあらわす言葉です。ところが親鸞聖人は浄土の教えをさらに「横出」と「横超」と二つに分けて、横出というのは他力の漸教、『観無量寿経』に説かれる定善・散善など、自力の念仏の教えと。ですから、せっかく他力の教えに帰しながら、他力を自力で求める。他力の教えを聞きながら、そこに人間の自力が交わってきて、そこで浄土往生を願うという、そういう在り方を『観無量寿経』に説かれる定善・散善と書いてあります。

正信偈 26ー2

​正信偈に聞く

 26-2 

​平成22年6月20日

 親鸞聖人は三願転入ということを言っておられます。

 

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出(い)でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生(なんしおうじょう)の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生(なんしぎおうじょう)を遂げんと欲う。果遂(かすい)の誓い、良(まこと)に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴(ちょうだい)するなり。『教行信証』真宗聖典P356

 

 三願というのは十九願・二十願・十八願です。十九願から二十願へ「回入」して、二十願から十八願へ「転入」する。親鸞聖人はこれをお経の中に見ていかれるわけです。法然上人が浄土三部経ということを仰います。お釈迦様のお経は五千余巻あると言われております。その五千余巻の名から中から浄土三部経を選びとった人が法然上人です。法然上人は選択集(せんじゃくしゅう)という書物を書いておられますが、その中に三経一論ということを仰るのです。これを依りどころにして浄土宗の独立をなさるわけです。三経というのは浄土三部経です。一論というのは天親菩薩の浄土論のことです。これを依りどころにして浄土宗の独立を宣言なさったのが『選択集』なのです。

 浄土三部経というのは『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』です。このとき法然上人は、この経全部が真実だと言われるのです。阿弥陀仏の浄土往生について説かれたお経は沢山あるのです。しかしそれを主題にして説かれたお経は三つしかない。それを浄土の三部経と法然上人は仰るわけです。そして『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』が念仏の教えが説かれた正しいお経だということを仰るわけです。ところが親鸞聖人は三部経に依るのだけれども、三部経には方便と真実があると。そして本願にも真実と方便があると、こういうことを仰るのは親鸞聖人だけです。

 十九願は『観無量寿経』です。つまり観無量寿経をお説きになった時のお釈迦様の座りは、四十八願の中の十九願の願心に座って説かれたという意味です。二十願というのは『阿弥陀経』です。お釈迦様が二十願の願心に座って説かれたのが阿弥陀経。第十八願というのは『大無量寿経』です。真実の本願がとかれたのは大無量寿経、だから浄土三部経でも、この十九願、二十願のふたつは方便だと、そして大経は真実だと。それは何故かといったら本願に方便と真実があると仰るのです。そういうところから、この竪出・竪超という考え方が出てきておるわけです。その時に観無量寿経にもとづいて、定善・散善などの自力の善根を修して、それを依りどころにして浄土往生を願う在り方、これが一つです。もう一つは自力の念仏ということが書いてあります。それを親鸞聖人は二十願にあてていかれます。つまり阿弥陀経です。

 

もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日・・・・・もしは七日、一心にして乱れざれば、 聖典P129

 

ということが『阿弥陀経』に書いてあるのです。

 親鸞聖人は二十願を「植諸徳本・じきしょとくほん」の願と言っておられます。徳本というのはお念仏のことです。お念仏をそこに植えるという。植えるというような表現です。念仏申すということを一つの他の修行と同じに考えてしまう。南無阿弥陀仏は、私たちの思いや考えを超えて、私に回向されたみ名である。それをそのまま真受けにできないで、人間の計らいを交えて念仏申す。だから念仏申している心もおさまらなければ何もならんではないかとか、心がイライラしている時には、やっぱりお念仏しない方がいいのでないかとか、そういう話は座談会などでよく言われます。そういうのはお念仏を手段化していく、ですからそのまま受け取れない。真実を受け取れない。そういう在り方が二十願の在り方。二十願はそういう内容が書かれております。

 それではなぜ第十八願だけを説かれなかったのかといったら、人間の自力の心を考えて、それを配慮して、すぐには十八願の世界に入っていけない、そのために十九願があり二十願の世界が説かれて、それはどこまでも十八願に帰せしめるための善巧方便だと。方便というのは嘘ということではないのです。つまり手立てという意味です。善巧方便というのは巧みな手立て、そして究極の真実、南無阿弥陀仏に帰せしめるために説かれたのです。このように、三部経自体を方便と真実に分けていかれ、四十八願を方便と真実に分けていかれる、こういうことは法然上人にはありません。これは学問から出てきたものではないのでしょう。親鸞聖人自身の求道、そして法然上人の教えを受け継いでいかれた法然教団の中で、多くの人びとの姿を見ていかれた。皆同じお念仏をしておられるけれども、その中に人間の究極の問題として、どうしても超えられない問題がある。法然上人の教えでは明らかにならなかった問題がありまして、法然上人の選択集が公になったときに、非常に奈良や比叡山から攻撃を受けます。比叡山は選択集の版木を取り上げて、比叡山の大講堂の前庭で大衆によって焼いてしまったといわれます。これは真の仏教ではない恐ろしい書物だと、そして法然上人の墓まで暴いて、「死者に鞭打つ」という言葉がありますが、現実に法然上人の墓を暴くわけです。前もって情報が入っていたものですから、弟子が遺骨だけは掘り出して別の墓所へ移していましたから、法然上人の死骸が鞭打たれることはありませんでした。しかしそこまで法然上人を比叡山や奈良の仏教が怨んだわけです。

 それは法然上人が奈良や比叡山の仏教によって、人間は救われないということをはっきりおっしゃる。そして、今や時代は末法末代であると、そういう時代において真の救済を説かれるのは、この念仏の仏法だけだということを法然上人がおっしゃったものですから大変です。特に善導大師の言葉を引いて「水火二河の喩え」ということを言っておられます。その中に求道者が火の河・水の河の前に立ち止まって躊躇するというところがあります。その時に後ろから追いかけてくるのは群賊悪獣だと。そして群賊悪獣の中に同じ仏教者であっても、その念仏者を間違いだということを言おうとする人々が入っている。単なる仏教以外の宗教だけではないということになっているもんですから、比叡山の人たちは自分らが群賊悪獣かと怒るわけです。そして明恵上人という華厳宗の高僧ですけれども、法然上人は菩提心を説いていないと、ともかく南無阿弥陀仏でいいと、それですべてが浄土往生の行が果たされて、我われは救いにあずかることができるということから、菩提心を否定しているということを言っています。問題は菩提心の問題なのですね。

 その時に親鸞聖人は『教行信証』の中に「浄土の大菩提心」ということを仰います。つまり、信心は浄土の大菩提心ということであって、決して菩提心を否定しているのではないんだと言われるわけです。そして信心は浄土の大菩提心だということを、親鸞聖人は『教行信証』の中で仰いますけど、これは選択集を批判する人たちに、親鸞聖人は応えておっしゃっておられるわけです。だから『教行信証』というのは公にされた論文なのです。当時の仏教界に、法然上人が言おうとなさった本心はどこにあるかということを、選択集を書写させていただいた者の使命として、親鸞聖人が書かれたものが『教行信証』です。法然上人の弟子は二百六十人とか三百人とか言われます。それは比叡山や奈良で学問をしていた人たちが、法然上人を慕って弟子になった人も多くいました。その中で親鸞聖人は法然上人の晩年の弟子です。

 今度、五木寛之さんが「親鸞」という小説を書いておられますけれども、その中で親鸞に対して、たとえば住連、安楽というような弟子が懐疑心を持っているということを書いています。なんで五木寛之さんはそんなことを書かれたのか知りませんが、親鸞聖人は六角堂の参篭から比叡山を捨てて法然上人に会う前に、比叡山にまだおられた頃に慈鎮和上の命令で法然上人の教団の中に行って、教えを聞いておったようなことを書いています。あれは法然上人の教団を偵察に来たのだと。そういうことを口実にして親鸞聖人が法然上人の弟子になって「範宴・はんねん」は油断ならんというようなことを、住連・安楽は言っておるところがありますけれども、そこらになるとわかりません。これは五木寛之さんの小説ですから何とも言えません。法然上人は九条兼実の要請によって選択集を書かれたわけですが、その書かれた後に、どうぞお読みになった後は壁に塗り込めてくださいといった後書きがあるのです。だから公にして欲しくないという、今おおやけにすれば仏教界は非常に大きな混乱が起きるということを法然上人は考えておられたわけです。

 ところが法然上人が亡くなって、弟子がそれを公にして、今のような問題が起きてくるわけです。法然上人が生きておられる時に三百人の弟子の中で、選択集を書写させてもらった人は十人くらいだと言われています。親鸞聖人が『教行信証』の後序に選択集書写を許された喜びを述べておられます。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦(けんにんかのとのとりのれき)、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳(げんきゅうきのとのうしのとし)、恩恕(おんじょ)を蒙りて『選択・せんじゃく』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集・せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏  往生之業  念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影(しんねい)申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏(うるう)七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生  称我名号下至十声  若不生者不取正覚  彼仏今現在成仏  当知本誓重願不虚  衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢(おわ)りぬ。本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。『選択本願念仏集』は、禅定博陸月輪殿兼実(ぜんじょうはくりくつきのわどのかなざね)・法名円照(えんしょう)の教命に依って撰集せしむるところなり。真宗の簡要(かんよう)、念仏の奥義(おうぎ)、これに摂在(しょうざい)せり。見る者諭(さと)り易し。誠にこれ、希有最勝(けうさいしょう)の華文(けもん)、無上甚深(じんじん)の宝典なり。年を渉(わた)り日を渉りて、その教誨(きょうけ)を蒙るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業(せんねんしょうごう)の徳なり、これ決定往生(けつじょうおうじょう)の徴(しるし)なり。仍(よ)って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註(しる)す。  教行信証 聖典P399~400

 

選択集が公になった後に、法然上人の問題が大きくなって、親鸞聖人が関東におられる時に嘉禄の法難(かろくのほうなん)が起きて、版木が焼かれたり、墓が暴かれるというようなことを親鸞聖人は関東で聞かれるわけです。そういう事を通して、この選択集を書写させてもらった者の使命として、法然上人の本当のお心を明らかにしたいということで書かれたのが『教行信証』でしょう。

正信偈 26-3

​正信偈に聞く

 26-3 

​平成22年6月20日

 ここに横出(おうしゅつ)と横超(おうちょう)と書いてあるのが大事なのです。せっかくお念仏の教えに遇いながら、他力の中に自力が交わる、そうすると直ぐにたすからんわけです。だから、そこに「漸教・ぜんきょう」と書いてあります。『観無量寿経』に説かれる定善(じょうぜん)・散善(さんぜん)、もう一つは「自力の念仏の教え」と古田先生は書いておられます。三願でいえば十九願・二十願の問題です。そこから「横超」は他力の頓教とんきょうう)、一足飛びです。「『大無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の本願によって回向された念仏の教え」と。親鸞聖人がここで横さまというのは「横超」のことです。

 

23「五悪趣」地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道。迷いの状態。ここに阿修羅を加えて六道(六趣)という。

 

ここで、五悪趣といった場合は、阿修羅は人の中に入るのだと言われます。

 

24「超截」横超による本願力によって、迷いの束縛が断ち切られること。

 

とあります。そして、本文は「獲信見敬大慶喜」となっています。『尊号真像銘文・そんごうしんぞうめいもん』という親鸞聖人の書かれた書物がありまして、その本の中に『正信偈』のここのところを親鸞聖人が引いておられます。そして、そこには解釈があります。ところがそこには「獲信見敬大慶喜」とは書いておられないのです。

 

獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。 尊号真像銘文 聖典P532

 

と書いてあるのです。『正信偈』では「獲信見敬大慶喜」といい、『尊号真像銘文』では「獲信見敬得大慶」になっております。親鸞聖人は『教行信証』を晩年になるまで筆を入れておられます。東京の都内に報恩寺というお寺があります。このお寺はもともと関東(横曾根)にあった寺を東京に移したのです。開基は親鸞聖人の第一の弟子といわれた性信房(しょうしんぼう)です。その人の流れをくんでいるお寺です。住職は坂東性純(ばんどうしょうじゅん)という人で、大谷大学の教授をしておられました。その寺が『教行信証』(坂東本)を持っていたのです。御草稿本というのですけれども、一番原型であろうと言われておる本です。現在は東本願寺に蔵されています。坂東本は、親鸞聖人五十二歳の時にお書きになった御草稿本であって、西本願寺が持っている教行信証は、最晩年のいわば清書本だということになっているのです。西本願寺の『教行信証』を見ると「獲信見敬大慶喜」になっております。光善寺にも報恩寺が持っていた坂東本を、昭和36年の親鸞聖人七百回忌の御遠忌の時に、本山が記念品として『正信偈』だけを印刷して出しまして、それを表装にして、客僧部屋に掛けておりますが、その『正信偈』を見ますと、あっちこっちに線を引いて横に文字を書き入れておられます。だから親鸞聖人は御草稿本の時、また

 

「尊号真像銘文 正嘉二歳戊午六月廿八日書之 愚禿親鸞八十六歳」  聖典P533

 

に書かれたのです。その時は「獲信見敬得大慶」だったんでしょう。そして、西本願寺が持っている清書本は「獲信見敬大慶喜」になっているわけです。だから現在はこの字を使うようになっております。他のところもかなり手が入っているのです。だから親鸞聖人は晩年になるまでずっと筆を入れておられたのではないかといわれております。すなわち「信を得て見て敬い、大きな喜びを得る」と書かれていたが、「獲信見敬大慶喜」と直された。単なる「大慶を得る」というのではなくて、「大慶喜」という「獲信見敬大慶喜」ということで親鸞聖人は落ち着かれたのでしょう。そういうことを私たちは、頭に入れて読んだ方はいいと思います。私は今ままで、信を得て、そして我が身自身の喜びというように、だいたい解釈して来ておったのですが、古田先生はそこに言葉を入れて「信心を得た人を見て敬い、大いに喜ぶならば、」と、こういうように意訳があります。自分の信心を得たことの不思議と、そこに与えられた喜びを述べておるのだというように、私は理解しておったのですが、今は人に遇う。人と出遇うことによって、我が身の信の喜びが大きな喜びになっていく、その時に私たちは「五悪趣を超截する」と、つまり迷いの世界を超えることができる。これはどうなのでしょうか、例えばそこにあります「竪超」という自力の漸教です。天台宗とか禅宗とかというような人たちは「娑婆即寂光土・しゃばそくじゃっこうど」と言われます。何か娑婆を否定して悟りを得るということではなくて、即というのは娑婆を離れないという意味ですから「娑婆即寂光土」と、こういう言い方です。ところが親鸞聖人の教えはそうじゃないんです。だから、そこに五悪趣を超截するという、これの下敷きになっている言葉は、『大無量寿経』の中の「三毒段・五悪段」という「悲化段・ひけだん」というのがありますが、おの一番はじめに書かれている言葉です。

 

横截五悪趣・悪趣自然閉(横さまに五悪趣をきりて、悪趣自然世に閉じん) 聖典P57

 

 自然(じねん)という言葉が使われます。娑婆即寂光土(しゃなそくじゃっこうど)とパッと悟る、だから頓なのです。そうじゃなくて横さまに五悪趣をきって、そして悪趣自然(じねん)に閉ずると。こういう自然という言葉が大事なのです。

 これは藤代先生がよくお聞きしておったのですが、自然ということを親鸞聖人は「自ずからしからしむる」と読んでおられます。ただ自然が美しいというような意味ではないのです。「自ずからしからしむる」、この自然(じねん)は他力だと。その時に『大無量寿経』の中に「自然」という言葉がたくさん出されてくるけれども、それは大きく三つの「自然」におさまる。

 業道自然(ごうどうじねん)・願力自然(がんりきじねん)・無為自然(むいじねん)、この三つにおさまるといいます。大乗仏教の自力の頓教、例えば禅宗・天台宗は娑婆即寂光土と、業道自然の上に直接無為自然を見ていくのです。業道自然というのは我われの業の生活です。業の生活が道になっているんです。それが「自ずからしからしむる」ですから、お説教を聞いていい人間になろうと思ったぐらいで、間に合わんものを人間は持っているということです。だから我われが、どうしようこうしようと思っても間に合わん。「自ずからしからしむる」ですから、「業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」、それが凡夫です、それを業道自然というのです。ただ我われは業を業と知らないわけです。

 我われは自由だと思っているわけです。特にこんにちは民主主義の時代ですから、自由・平等というのですから、何でも自由だと思っているわけです。自由にやっているつもりが、みんな業の生活になっているわけです。そして、しかも幸せになりたいという思いは、外へ外へと求めて行くわけですから発展思想です。しかしそれは貪欲を増やしていくだけです。だから、その業のために虜になってしまう。人間の欲の間はよかったのですが、いつの間にか欲によって人間が引きずり回されてしまう。しかもそのことが分からない。そしていつも悪いのは自是他非です。

 無因論か他因論です。他因論というのは、悪いのは向こうです。自己というものが見えていないわけですから、いつでも何か悪いのは他です。他に因があるということです。無因論というのは偶然です。すべてこの世の中に出てきた結果には、そうなるべき因というものがあるはずです。ところがご存知のように仏教は因縁というんですから、縁というのは無限にあるわけです。だから我われが因と言っておるものも縁のひとつなんです。だから一つの問題起きてくる時には、あれが原因だと言えるものではない。限りなく縁があるわけです。現代の社会は世界が一つになっています。経済の問題になったら、我われは新聞を読んだぐらいでは分からないくらい、世界はものすごいかたちで広がっておるわけでしょう。そういうものが絡み合って繋がって一つの結果が出てきておるわけです。だから、それがはっきりせんから何かをつかまえて、あれさえなければと言っていくわけです。あれが先に悪かったと他因にするわけです。後は分からないようになりますから、これは無因論になるわけです。無因論というのは運命論になるわけです。しかしそれは業なのです。自由があると思っているところに問題があるわけです。本当は自由なんてないわけです。業によって私たちは動いておる、社会全体もそうでしょう。

 日本人には日本人の業があります。アメリカ人にはアメリカ人の業があると思いますよ。そういうものが因縁になって、国際関係が成り立っているわけですから、沖縄の基地の問題だって容易ではないすよ。アメリカにはアメリカの歴史がありますから、そしてアメリカ人の持っている、我われから考えたら、そんなに考えなければならないだろうかと思うほど、アメリカ人の持っている使命感みたいなものがあるわけでしょう。世界の警察というような使命感があるわけです。しかし非常に危ない面を持っている。日本はアメリカと戦争をしました。今は一番仲がいいでしょう。お蔭で日本は二番目の経済国になったわけですから考えてみたら、何が何だか分からんように複雑に入り混じっているわけです。だから何かをつかまえて、何かのせいだということは言えないわけです。

 だから個人でいえば業に引きずり回されて生きていく。どこまで行っても苦しみ悩みはなくなりません。それが業道です。それが集まったものが社会です。三毒というのは貪欲・瞋恚・愚痴です。曽我先生は、我われの人生は、結局は業の生活だと、そのもとは貪欲・瞋恚・愚痴だと。そのことを自覚しないで生きておる社会が五悪段と、こう言っておられます。それは業道自然です。私たちは理想を持っています。しかし理想はやっぱり単なる理想ですから、そう簡単にうまくいくわけがありません。だから業道自然というのです。ところが娑婆即寂光土というのですから、無為(むい)というのは、計らいを超えた世界という意味です。法性(ほっしょう)とも真如(しんにょ)ともいいますが、あるがままという、人間の計らいを捨てた世界です。それが無為自然の世界です。無為自然の世界は、我われには分かりません。我われの眼は、そういう目にはなっていません。業の眼ですから、我われの考えはみな業ですから、私たちの在り方は自是他非です。犬や猫は善悪はないでしょう。ある意味でいったら犬や猫が一番いいですよ。だからこの頃のペットブームというのは、みな善悪の世界で疲れていて犬猫を抱えたがる。善悪がないからホッとするのでしょう。ところが人間は善悪があります。そして結局は自分が是です、相手は非です。だから利益が合っている時は仲良くいきます。利益が合わないようになったら争います。それが怨み憎しみになっていくということです。そういうことが三毒段・五悪段です。悲化段といいます。如来の大悲から悲化、我われを教化するということです。そこに非常に詳しく書いてあります。

 禅宗や天台宗は、無為自然の法そのものを、業道自然の上に見ていくということです。だから娑婆即寂光土というわけです。私はいつでしたか、禅宗のお葬式に行きました。お葬式の時に引導を渡す儀式があります。真宗では法名(ほうみょう)というでしょう。禅宗では戒名(かいみょう)といいます。亡くなった時に亡くなった人に戒名を授けるのです。だから戒名というのです、そして引導をします。真勝寺の老院と二人で禅宗の葬式に行きました。近所のおばあちゃんがいらっしゃいました。その家は禅宗なんです。おばあちゃんの里が真宗だったのでしょう。だから光善寺にも真勝寺にも参って来ておられました。そのおばあちゃんが亡くなった時に、その息子さんが、「婆ちゃんがご縁がありましたから、一緒に葬式に参っていただけませんか」と言われましたから二人で行きました。二人で小さな声で『正信偈』を上げておりました。私の方はすぐにお勤めが終わるでしょう。だからじっとして見ていました。そうしたら禅宗のお坊さんが二人で、一人は戒律を授ける役目です、だから導師です。片方は亡くなった人の代わりです、つまり戒を受ける死者の立場です。そうしましたら、最後に導師が喝(かつ)といって引導を渡されます。その言葉は「その生ずるや如是、その死するや如是」というような言葉でした。引導の言葉はいろいろあるそうです。その中の「その生ずるや如是、その死するや如是」、それは善いや悪いや悲しいじゃ淋しいじゃと言ってはならない、みなお計らいだと。そうです、法のはたらき、生まれて来たのも法のはたらき、死ぬのも法のはたらき。それに淋しいとか悲しいとか、なんでこんな目にあわにゃならんとか、みなそれは迷い。だから事実のところに目を開けというんです。それを人間は善いとか悪いとか言って業の生活に引きずり込まれてしまう。しかし本来ありがままだと。そのことに目を開けというのが「喝」です。怒るわけです。ですから業道自然の上に無為自然を見ていくわけです。だから娑婆即寂光土というのです。ところが浄土真宗の教えは願力自然、これが南無阿弥陀仏です。これは天台宗にも禅宗にもありません。例えば『歎異抄』第六章に、「自然のことわりにあいかなわば」という言葉がありますが、あの時の自然は願力自然をいっておるわけです。つまり、願力はどこから出てきておるのかというたら無為即ち浄土から出ているのです。浄土から私の方にはたらいておってくださる。そのお計らいによって、私たちが無為自然の世界である浄土に帰らせていただく、それを他力というんです。だから、願力ということを教えるのは浄土の教えだけです。浄土の教え以外は願力自然はありませんから、無為自然と業道自然でいくのです。浄土の教えは願力自然に依って、業道自然が無為自然に転じられる。そういうことを言われるわけです。自然という言葉は大事なのです。だから「悪趣自然に閉ず」なのです。念仏を信じさせていただく時に、自ずから悪趣自然に閉ずるのです。我が計らいや、自分の学問や、力によって自分の始末をつけるのではないのです。南無阿弥陀仏のおいわれを、私たちは聞かしていただくときに、悪を転じて徳となすのです。

 

円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳と成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を得しむる真理なりと。 教行信証 聖典P149

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