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​正信偈に聞く

 29-1 

​平成22年10月11

こんにちは。今日は依経段(えきょうだん)の終わり、結誡(kけっかい)のところをもう少しお話します。

 

陀仏本願念仏 弥陀仏の本願念仏は、

(阿弥陀仏の本願による念仏は、)

邪見教憍慢悪衆生 邪見驕慢の悪衆生、

(よこしまな考えや思い上がりの衆生にとって、)

信楽受持甚以難 信楽を受持すること、はなはだもって難(かた)し。

(信じて願って、それを保つことは、はなはだ困難である。)

難中之難無過斯 難の中の難、これに過ぎたるはなし。

(困難なことの中の困難で、これ以上の困難はない。)

 

ということで依経段を締めくくってあります。易行難信(いぎょうなんしん)と、つまり南無阿弥陀仏のおいわれを聞き開く一時において、我われは浄土に往生して仏と成る。そこに一切老少善悪の人を選ばない救済教である、お念仏の仏法を親鸞聖人は説かれ、そして信心を五通りの功徳として述べておられます。ところがその最後に、確かに法としては易行である。法としては念仏ひとつということですから、修行もいらないし、学問もいらない。してはいけないというのではありません。必要としないということです。そして老少善悪を選ばない救済教。

「老」という字は、年寄りという字ですけれども、人生経験の深い人。そして「少」というのは、人生経験の浅い人。それが老少という意味です。それから、善人・悪人を一切選ばない。共に南無阿弥陀仏のいわれを信じて、念仏申すものは浄土に生まれる。そして仏になるという教えでございます。この真宗の教えは、もっとも我われにとって相応しい、また易しい教えである。しかし、これは難信であるということを最後に、

 

信楽受持甚以難 信楽を受持すること、はなはだもって難(かた)し。

難中之難無過斯 難の中の難、これに過ぎたるはなし。

 

という言葉で結ばれておるわけです。一体これはどういうことなのだろうかということについて、先月はお話を申し上げました。今日は、そのことをお聖教にあてて押さえて行こうと思いまして、第十八願文と第十八願成就文と「尊号真像銘文(本)」の資料をここに作っておきました。

 阿弥陀仏の本願を信じ念仏すれば仏になるとなぜ言えるのかということについて、その根拠は如来の本願にあるということについては度々申しております。しかし、本願は四十八通りに渡って説かれておりますから四十八願というのですが、中心の願は第十八願にある本願、それで十八願というのです。ですから「お文」を読みましても「これ第十八願のこころなり」というような言葉がよく使われております。だから、この十八願という本願が一番大切な願なのです。法然上人の教えは、四十八願の中の第十八願を依りどころにして教えが立っています。この第十八願は、本願を信じ念仏申して浄土に生まれるということが説いてある。この本願を「王本願・おうほんがん」といいます。四十八通りあるけれども、この第十八番目の王様の本願で、他の四十七は家来だという意味です。また「選択本願・せんじゃくほんがん」とも言われております。四十八願全体が、選びに選ばれた本願に違いはないのですけれども、その中で特に中心は第十八願。だから選び取り選び捨てて第十八願ひとつでいい、だから選択本願だと。そして、そこに何が説いてあるかといったら「念仏往生」が説いてある。

聖道門の教えは、お釈迦様と同じように先ず出家をして一切を捨てる。親を捨て、妻や子を捨て、位を捨て、社会的地位や名誉を捨てる。そういうものによって、どれだけ人間が苦しみ、振り回されて生きておるか。そういう社会が表面はいかに整うたように見えるけれども、一歩中に入れば非常に汚れた、そして人間を苦しめておる世界に違ない。そういうものを捨てるということが出家です。そうすると、出家は特別の人たちの集まりになって、そこで特別な修行や学問をして仏のさとりを開く。つまり、これは世を超えた境涯です。そういうものを教えるのが聖道門の仏教です。

 仏教はインド・中国・そして朝鮮半島を通って日本に入って来ましたけれども、お釈迦様以来中心は出家です。もちろんお釈迦様は一般の人にも教えを説いておられますけれども、それは仏教についての心得とか、仏教によって普通の日暮らしをしながら、精神的な依りどころになることはあっても、お釈迦様と同じ覚りを開くということになれば、やはり出家です。お釈迦様は二十九歳で出家して、三十五歳で覚りを開かれて、お釈迦様は家庭に帰っておられません。結局、生涯出家生活をして道を求めました。ですからお釈迦様と同じようなさとりを求めた人は、みな出家をしました。そしてその人たちには戒律をも授けました。しかし、出家をした人の中にも教えに本当に命を懸けていない、何か他のことに誘惑される人が出てくるのです。そういう人はやはり教団から出しました。だから、仏教の中心を支えたものは出家教団です。そうすると一般の人は、仏教の心得は出来ますけれども、お釈迦様と同じになるということは不可能というのが基本でした。日本に伝わってきた仏教もそうです。ですから鎌倉時代に親鸞という人が出てくるわけですが、この人は京都に生まれた貴族の子です。その人も九歳で出家されました。法然上人は親鸞聖人と四十歳も年が違うわけです。この人は岡山県の人で武士の子です。そのお父さんが殺され死ぬときに遺言をします。そしてお父さんの遺言で出家します。そして、比叡山に十三歳で登って、四十三歳まで比叡山で学問を重ね修行を重ねます。比叡山、奈良をひっくるめて、これだけの学者はいないだろうといわれた人が法然上人です。しかし、その法然上人が四十三歳で比叡山を下ります。そして後に親鸞聖人は法然上人の弟子になるのですが、そこで説かれた教えが第十八願の教えを依りどころにしてたすかっていく道、浄土門です。

 仏教には聖道門の仏教と浄土門の仏教という二つの道があります。門というのは教えという意味です。聖道門は出家です。そして仏教の学問を重ねて修行を重ねて仏のさとりを開く道です。現在、日本の仏教は宗派になっています。お釈迦様の時も、中国にも日本のような宗派はありません。ところが日本に来ましたら宗派になってしまいました。悪い言い方をしますと、日本の仏教は僧侶の職業化になってしまっているわけです。宗派でいいますなら、法然上人の流れをくむ浄土宗と、親鸞聖人の流れをくむ浄土真宗以外は、みな聖道門の仏教です。禅宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、みな聖道門の仏教です。しかし、現在の日本の聖道門は出家が基本でなくなってしまっています。これも日本独特の在り方になっています。聖道門と言われておるけれども、浄土門の仏教の影響を受けておるわけです。

 浄土門の仏教の中できちっと二つに分けて、聖道門は出家によってお釈迦様と同じようになる道だ、これは選ばれた人の道です。そして高野山でも比叡山でも女は捨てています。明治になるまで女人禁制です。だから選ばれた人の道です。それに対して、お釈迦様の教えはそんなものだろうか、実はすべての者が平等に救われていく教えが、お釈迦様の教えにはないのだろうかという考えは、中国の時代からありました。それを大乗仏教といいますが、それを代表するお経が浄土三部経です。それが浄土の教えの中心です。経典は、現在翻訳されているもので五千余巻といわれておりますが、その中に浄土の教えを主題にして説かれたお経は浄土三部経といわれるものです。浄土の教えを中心にして仏教を見ていく伝統は、昔からずっとあるわけです。依経段はそれに当ります。

 法然上人が出てこられるまでは、聖道門の教えでいうならば、一般の人は捨てられておるわけです。そうすると仏教は狭いものに考えられてしまいます。だからすべての者が、本当はお釈迦様の教えの功徳を受けられるように、お釈迦様はちゃんと説いておられます。それが浄土の教えとしてあったわけです。あったわけですけれども、浄土門に対して聖道門が仏教の本流だという考えは変わらなかったわけです。お釈迦様は出家なさった。そしてその後、お釈迦様は在家の生活をしておられないわけですから、出家のかたちが本当の仏教だといっておる人から言うならば、浄土の教えは寓宗(ぐうしゅう)というわけです。これは仮住まいという意味です。ある先生は、聖道門を本宅にするならば、浄土門は、軒を貸しているというように譬えて言われますが、聖道門だけでいければお釈迦様の教えは非常に浅くて狭いものになってしまう。

 浄土三部経には、すべての者が救われるということが説いてある。しかし、聖道門の人は、これは出家が出来ない人のために仮に説かれたもので、これは修行や学問をしないで、南無阿弥陀仏で浄土に生れて、そして功徳を積んで、次に聖道門で覚りを開けるような人間になって生まれ変わってくる。そういうかたちで聖道門の人は浄土門を考えていたわけです。それに対して法然という人が出てきます。大変な学者です。これくらい学問をして修行をした人はいないだろうといわれておった人が、「時代」ということを言います。末法ということを考えます。末法の時代に、本当の仏教の教えに帰依できる道は浄土の教えしかない。そして、出家聖道門が本流で浄土門を方便というのは、あれは間違えで両方とも仏教だと。そして本当に浄土の教えが信じられれば、聖道門と同じ覚りが、ここで開くことができる。浄土に生まれるということは、聖道門の人が覚りを開くのと同じ世界で、決して仮のものではないということを法然上人は言われるのです。そして、その根拠を本願におかれます。浄土三部経の中で『大無量寿経』の中に阿弥陀如来の本願ということが説かれてある。その四十八通りある本願の中の中心が第十八願、つまり王本願が根拠だと。だから、第十八願には、念仏申すものは浄土に生れると書いてある。それを依りどころにしまして、現実にはどういうことなのかということをはっきりさせるために、ちょっと願文自体を挙げておきます。

 

とい我、仏を得んに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲(おも)うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗(ひぼう)せんをば除く。   (第十八願文)

 

だから、阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに誓いを建てられるわけです。「たとい我、仏を得んに、十方の衆生」、たとえ私が仏になりましても、あらゆる衆生、「、心を至し信楽して」ということは、本当に真心をもってということです。「信楽」というのは仏を信じてということです。信楽の「楽」というのは楽しむという字が書いてありますが、願うという意味です。だから、あらゆる衆生が、心を至すという漢字では「至心」と書いてあります。至心というのは真実心です。本当に真心から仏のまことを信じて、そしてこの世のことを願わない。「我が国に生まれんと欲うて」というわけですから、仏様の国に生まれたいと欲うて、「乃至十念せん」、十念というのは、十回念仏を称えるということです。「乃至」というのですから一回でもいい、十回でもいい、また一生涯それが続くということもありうる。それが乃至という意味だといわれております。たとえ私が仏になりましても、あらゆる衆生が心の底から、真実心で仏のまことを信じて、つまり、本願を建て我が国に生まれんと欲えと呼びかけてくださった、阿弥陀如来のまことを信じて、仏様の国に生まれたいと思って、一声でも念仏申すものは、「もし生まれずは、正覚をとらじ」、もし生まれずはですから、浄土に必ず生まれさせましょう。もしもそうならなかったら、私は正覚、さとりを得たとは言いません。そこに但し書きがついているのです。

 

唯除五逆誹謗正法 五逆と正法を誹謗せんをば除く

 

と書いてある。だから、どんな人でも十歩衆生に条件は付いていないのです。出家・在家も男も女もいわないわけです。とにかく心の底から信じて、自分の国に生まれたいと欲うて、一声でも念仏申すものは必ず迎え取りましょう。もしもそうならなかったならば、私は仏にはなりませんと言ってあるわけです。そのことを親鸞聖人自身が解釈しておられる文章が「尊号真像銘文(本)」にありまして、

 

『大無量寿経』に言わく、「設我得仏  十方衆生  至心信楽  欲生我国  乃至十念  若不生者  不取正覚  唯除五逆  誹謗正法」

 

たとい我、仏を得んに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲(おも)うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗(ひぼう)せんをば除く。   

 だから五逆の者と正法を誹謗する者は、その限りではないという但し書きが十八願文にはあるのです。

正信偈 29ー2

​正信偈に聞く

 29-2 

​平成22年10月11日

「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。

 

これは大事な言葉です。『大無量寿経』は上下二巻ありますけれども、結局は何かといったら、如来の四十八願を説いてあるお経だということが基本です。

 

「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときという御ことばなり。

「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。

 

十方というのは東西南北、これは四方です。この四方の間が入りますから八方になります。これに上下を入れますから十方です。よろずですから選ばれないわけです。

 

「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。

「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえとなり。

「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。

 

つまり、「乃至」というのは、数を決めないということです。そして時と場所を言わない。とにかく如来の御誓いを聞いて、み名を称えよということを言ってあるのだということを言ってあります。その時に、その人は死に際でなくて、その時に「摂取不捨の心光」、つまり如来のまことをいただくことができる。

 

「若不生者  不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。

「唯除五逆  誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。  聖典P512

 

 

 つまり、すべての者が本当に心の底から如来を信じ、一声でもいい念仏申すものを救うと書いてあるのだけれども、最後のところに五逆と誹謗正法の者は除くと書いてある。五逆の罪人をきらいと書いてある。誹謗というのはそしるということです。「誹謗のおもきとがをしらせんとなり。」、そして「このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。」と。なぜそんなことを言われるのかというと、わざわざ除くとおっしゃりながら、そういわれる真意は、みなもれず往生すべしと知らせようということだと言われるのです。これはどういうことなのか、ちょっとわかりにくいですね。こういうことが一つあるのです。

 そして、この十八願文で説いてある意味は、法然上人は善導大師の教えがもとになっているのです。善導大師は、『大無量寿経』の第十八願をすべての者が念仏申してたすかると、なぜ言えるのかという根拠として『観無量寿経』の「下品下生・げぼんげしょう」に依っておられます。

 

仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑(いとま)あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。  仏説観無量寿経 聖典P119

 

こういう言葉が『観無量寿経』の中にありまして、特に善導大師をはじめとして、中国の高僧方はこの言葉に注目するのです。とうのは、『観無量寿経』の中に「散善」ということが説かれております。その中に「九品・くぼん」ということが説いてあります。九品というのは、人間の機類といいますが、頭が良いとか悪いとかまでひっくるめますけれども、要するに人間の能力とか資質というものを、仏教では機類といいます。それを上中下に分けて、そして、また上も中も下も、また上中下に分けると、人間も九通りになります。だから九品というのです。人間の機類を九つに分けて、そしてその機類に応じて善が説かれるのです。善根をもとにして、浄土に往生するということを説いてあるのです。

 

九品(くぼん)

「上品上生・上品中生・上品下生」

「中品上生・中品中生・中品下生」

「下品上生・下品中生・下品下生」

 

この「下品下生」が一番下です。南無阿弥陀仏を申してたすかるということを説いてあるのは「下品下生」のところだけです。その文章をここに引きました。これが依りどころになっているのです。「仏、阿難および韋提希に告げたまわく、」仏はお釈迦様です。阿難はお釈迦様の弟子です。多聞第一といわれるぐらい、お釈迦様の話を聞いた弟子です。この方はお釈迦様の従兄弟でもあるわけです。お釈迦様の身の回りの世話をした人で、お釈迦様が亡くなられる時もおられた人です。韋提希は王舎城の悲劇に出てくる阿闍世の母、王の后です。

 

「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、

 

だから、十悪はもちろん、不善を具せる愚人、具せるというのは何一つせんものはないということです。何でもしたということです。具というのは欠け目なく持っているという意味です。悪人と書いてないのです、愚人と書いてあります。人生に対して、本当にはっきりものを見ていけない人なのです。だから愚人というのです。何か私たちが、自分の人生の生き方の姿勢をきちっと定めるということは、ひとつのものを見る目がないといけないわけですから、そういう意味では、そういう目をもてなかった人です。だからずっと悪いことをしてきた人です。

 

悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。

 

 私のような人間が死んだらどうなるか、本当に地獄のどん底に落ちるしかないだろう。そして地獄の責め苦を受けるに違いないと、この人が思うわけです。今の人間から言うたら素朴です。今の人間はそんなことは思わないですよ。死んだらそれまでと思っているでしょう。しかし、そうではないのです。だから「悪業」というのは、今まで積み重ねてきた自分の行為です。生き方をもってのゆえにです。「悪道に堕すべし」というのは、我われに例えるならば地獄です。地獄に落ちるだろう、しかも「多刧を経歴して」というのですから、生まれては地獄、生まれては地獄となんども何度も地獄を繰り返して、「苦を受くること窮まりなからん。」、つまり自分の先が見えているということです。「かくのごときの愚人、命終にのぞみて、」といってありますから臨終です。だからその人は、命終わろうとするときになって苦しみだすということです。それを見て、「善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。」というわけですから、ここに善知識という言葉が出てくるわけです。善知識という言葉は、正しい道に自分を導いてくださる先生という意味で仏教は使っています。知識というのは、知っているという知識ではありません。正しい教えに導いてくださる先生のことを善知識といいます。「命終のときにのぞみて善知識の種々に安慰して」というわけですから、その人には善知識がいるわけです。この悪人は幸運でした。ここでいわれる念仏は観念です。これは後で読んでいったら分かるのですが、ここで言われておる念仏というのは観念なのです。念仏という字は、仏を念(おもう)と書いてありますから、私たちは念仏と言ったら称名念仏を念仏と決めてしまっています。称名というのは、み名を称えるでしょう。南無阿弥陀仏は仏様の名前です。名前を称えることを念仏と決めてしまっていますが、念仏というのは、もともとの意味は観念です。仏様を心に思うということが念仏の意味なのです。だからまた観佛という言葉もあるわけです。だいたい仏教に仏像というものができるのは観佛というところから始まっています。

 お釈迦様が亡くなってから、直ぐに仏像はできなかったということはお存知の通りです。

今のパキスタンとインドの境のところでしょうか、そこにガンダーラ美術が栄えます。あれはヨーロッパから写実的な彫刻と、インドの仏教が出合ったところです。そこまではお釈迦様のことをあらわすレリーフのようなものは沢山ありました。お釈迦様については法輪といって、車輪のような形のものとか、お釈迦様の足の裏「仏足石・ぶっそくせき」といっていますが、ああゆうものを象徴的に描いているのです。今のような仏像はずっと後になります。ガンダーラ美術と仏教が出合って、そこに写実的なものができたといわれます。技法はヨーロッパのものです。それが中国を通って日本に伝わっているわけです。その仏像を観念する。それを観佛といいます。それが念仏ということのもとの意味です。

 親鸞聖人は比叡山で念仏をしておられたといわれております。それは念仏三昧です。三昧は恍惚です。今でも比叡山では荷い堂という三昧堂で念仏三昧があっているそうです。お堂があってお堂の真ん中に仏像が安置されていて、その周囲をぐるぐると昼も夜もずっと念仏して歩く。夜寝ないらしいですね。柱と柱の間に竹が渡してあって、疲れてくるとそれに身体を寄せて、それからまた歩き出す。だから足が腫れるそうです。竹を小さく刻んだものを繋ぎ合わせて、それを初めから足に巻き付けるそうです。三昧は定という意味ですから、心定まるという意味です。そういうことを親鸞聖人も比叡山でしておられたのです。そこに言われていることは、諸仏現前三昧と言っていますが、目の前に仏様が出てくる。そういうことを死に際の愚人に勧めているわけです。とにかく仏様のことを思えと。阿弥陀仏という仏様がおられて、特別な人ではない、そういうお前のような者を救おうとしてお浄土を建立なさった。そしてその仏様のことを心に思えば、仏様は必ず救ってくださるだろうと教えたのでしょう。ところが、「この人苦にせめられて念仏するに遑あらず。」と書いてあります。今まで仏様のことなど思ったこともない、教えなんか聞いたこともない、だから心を静めて仏様のことを考えろと言ったって、そんなことなんかできないわけです。しかし命は迫ってきます。そこで「善友告げて言わく」と、いわば善知識の方が追い詰められるのです。このまま死なせたらお終いです。どうかして助けてやらなければなりません、最後の手立てです。

 

「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。

 

こういう言葉があるのです。この言葉に一番感銘したのが善導大師です。世は末法であると。

実は、悪人とか愚人というのは、特別な人ではないのです。人間に特別なものがおるはずがない。みな「遇縁の凡夫」ということを善導大師は言っておられます。これは非常に大事です。つまりみな本当は凡夫なのです。本当の聖者というようなものはいない。ただ聖者の姿でおれるのは、その人が今まで生きてきた中で、聖者でおれる縁があったからだと。遇縁というのは縁に遇うということです。だから善い縁に遇うたら、人間は善いことができるということです。ところが悪い縁に遇った時に、本当に善でありうるのか。だから凡夫というのは、環境に支配されている存在ということです。環境に支配されない人間なんておるだろうか。それが出来る人は聖人でしょう。しかし道を求めて苦労した「三昧発得の人」と言われた人も、ご縁ならちょっとした心の動きの中にも驚きをたてています。人を隔てる心、他人と比べて自分が上だとか、相手を見下げる心とか、そういうことを詳しく言っています。縁によれば見るものに心は動き、聞けば聞くものに動いてしまうというのです。そうしたら、今まで苦労したものは全部消えてしまうということは、三昧で聖者になれると思っていた私の間違いではないか。だから、ここで書いてある愚人というのは、結局は生まれた時から善いご縁に遇えなかった人だと。そうして人間は一つ二つと悪を重ねていくと、後は自暴自棄になる。そうすると、ずっと坂道を転がるように悪を重ねてしまう。そこに人間の愚かさというものがある。しかし、そういう人も元から悪人ではない。みな本当は善が好きなのです。だから、その人が自分は悪人だと言われることを畏れているわけです。それでも善人だと言えないようになった時に、人間は開き直るわけです。それは人間と人間を比べた世界です。それが間に合わないというのが臨終です。臨終というのは人と比べるということは、もう間に合わないわけです。私の人生とは一体何だったのかと、死に際には結局ここに来るのです。生きている時に気づかなければたすかりません。平生の時にそういう私に出遇う道がお念仏の仏法だというのが親鸞聖人の特徴です。浄土宗はまだ臨終を言っておられるでしょう。臨終になると人間はあるがまま受け取らざるを得んわけです。そういう時が臨終です。親鸞聖人は平生の時にと言われる。同じ浄土教ですけれども、親鸞聖人の教えと浄土宗の教えの違いはそこにあるでしょう。ここで臨終というのは他人の問題ではないのです。自分自身の問題として、自分が向き合わなければならない時という意味です。そういうかたちで、中国の高僧は善導大師も死に際の話としてではなく、「下品下生」の問題を受け取りました。

正信偈 29-3

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 29-3 

​平成22年10月11日

 実は、人間は人と比べて何が悪いかと思う。しかし、本当は一人になってじっと自分を思う時に淋しいでしょう。誰も自分の本当の心を分かってくれんと思うでしょう。そうすると人を悪人にする、世の中を恨んだりする。それはまだ生き詰まっていないわけです。死に際になったら、それも間に合わんようになるわけです。そういう状況を『観無量寿経』は説いておるのです。だから『観無量寿経』自体が比喩ではないかと、金子先生はいっておられるのですが、そうかもわかりません。そこで、このまましておけば愚人は死にますからね、苦しんだままで死なせたら、その人をどうにかして助けようと思った人は、自分自身が一生悔いを抱えねばなりませんからね。そこでどうしたか、そこでお念仏が出てくるのです。

 

善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。

 

つまり心で思うことができないならば、無量寿仏と称すべしと、そこで出てくるのです。

 

かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。

 

ここで十念というのは十声ということになるのです。南無阿弥陀仏と善知識も称えておられたと思います。その教えに順って、臨終の悪人が南無阿弥陀仏と申すわけです。

 

仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。

 

あらゆる罪がそこで消える。そういうことを『観無量寿経』に中に書いてあるのです。何故そんなことが人間の上に成り立つのか。その根拠を第十八願の上に見たわけです。「乃至十念」と書いてある。しかし、乃至十念と書いておきながら「唯除五逆誹謗正法」と書いてあるのはどういうことなのか。親鸞聖人は、

 

唯除五逆  誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。  聖典P512

 

そのことを受け取るために、金子先生の「教行信証総説」の中の文章をここに引きました。

 

『大無量寿経』の方は、五逆と謗法を除くというてあるのに、どうして『観無量寿経』では、五逆は救われるのであろうか、というについて、曇鸞大師は『大無量寿経』のほうは五逆と謗法と二つを行っているから救われない。『観無量寿経』の方は、五逆だけだから救われると言われる。それならば、謗法だけで五逆がないときはどうなるのかといえば、それは駄目だと言われる。同じ一つでも、逆だけなら救われる縁があるが、謗の方は救われぬと言われている。ここはちょっと注意がいるのです。

 第十八願文には、「唯除五逆、誹謗正法」となっています。唯「五逆を除く」というのと、「正法を誹謗する」と二つあるわけです。観無量寿経は、五逆だから救われたのだと曇鸞様が言われる。ところが『大無量寿経』は二つあるからたすからんのだと。そしたら二つあるからだめなら、一つなら善いのかと。「誹謗正法」の一つならばどうか。それはたすからん。問題は「誹謗正法」にあると、こういうことを言っておるのです。 (中略)

 五逆の罪を犯したものを、その罪の恐ろしさを感ずれば、そこに本願の大悲を感ずることが出来る。けれども、謗法者は、仏法を謗ることをいいことだと思っている。自分こそ近代人であり、知識人だと思っているのである。謗法者は自分をよい者としているのだから、これは到底宗教の世界に入ることは出来ない。のみならず、その悪を犯すということの根底にも、実は、思想的なものがあるのではなかろうか。『歎異抄』にあるように「野やまにししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがら」とか、あるいは酒を売ったり、肉を売ったりする商人とかいうものは、自らの生活はよくないと知っている。だから、彼らは、直ちに救いの道がある。然し、そこに思想的根底がでてきたらどうなるか。「生き物を殺すのがなぜ悪いか」といえばどうなるか。

 「こうするより生きる道がないのであります。」とその宿業を悲しんでいる限りにおいて、救いの道はある。けれども「これが一体なぜ悪いか」「正義の戦争にいって人を殺すのがなぜ悪いか」ということになれば、もう五逆の根底に謗法をもっている。曇鸞大師の「論註」もそういうふうに了解することによって、お心がいただける。 (中略)

 本願の仏教の対象は日常生活に悩み、罪悪の生活をしている大衆庶民であることに違いは無い。しかし、もう一つ尽きぬ願いは、知識人の自覚をまつということである。人づくりとか、世界平和と言っているけれども、権力意思を肯定したり、責任転嫁を当然と考えたり、そして社会現象として止もおえないんだと言っていて、そんな立場で果たして、本当に人間の願いを満たすことができるのであろうか。今日は、もはや指導者と被指導者ということの存在を許さない時代ではないか。その人たちも本当に群萌(ぐんもう)の代表者である。われこそはという自覚の崩壊した立場に、真のありかたがある。

 

 本当に私は、愚かな罪の深い生き方をしているのだと思っておる人は救われる見込みがあるというわけです。だからそういう意味でいったら素朴なというか、知識的でないというか、勿論、知識のある人でもいいですよ。しかし、ここで指導者とか被指導者とか書いてあるけれど、あの検察庁の問題を見たらどうなっているのかと思いますね。この頃話題になっている、何の罪もない厚生省の局長さんが、一年何カ月も拘置所におかれておるわけでしょう。あの人は非常に強い人ですから、向こうのペースに乗らないで否認し続けて、裁判所でも否認して許されたわけでしょう。それで裁判所の方から、罪の無いのに拘束しておったから補償が出るそうです。250万出るらしいですよ。ところが、この人が、その間役所に行っていたら一千何百万の給料をもらっていたのに、それは出ない。留置されたから弁護士を雇って、それに何千万もかかったそうです。ご主人が高級官僚だから生活は崩れなかったわけです。もしも、この人が生活の中心ならば、早く事件を終わらせるために妥協したかもしれない。この人が妥協せずに済んだのはご主人が高級官僚だったから、弁護士費用も貯金でまかなえた。しかし、実際に法的にもらえるお金は250万円しかない。

 罪のない者が引っ張りこまれて無罪になって、名誉は失わなかった。普通なら社長が捕まって、こんなことされたら会社はつぶれてしまいます。しかも社会的信用は失ってしまう。そして検察庁の方から、悪うございましたという言葉は一つもない。これは一体、本当の法治国家なのかということを詳しく書いてありますけど、今度ではっきりしました。しかもフロッピーを改ざんしていたと、しかし上司の人が絶対闘うといっている。一体どうなっているのか・・・。相対の世界はそうなんです。何故かと言ったら、ここから見れば、この人は悪に見えても、反対側から見たら悪ではないかもしれないということが、世の中にはいっぱいあるわけです。矛盾に満ちているわけです。一歩間違えば冤罪です。この人の場合は完全に明確でしたから、また厚生省に勤められました。でも経済的損失は戻ってこないそうです。ご主人が高級官僚であったから家庭が持てた。そうでなかったならば家庭は崩壊してしまう。取り調べの検察官が言ったそうですよ。「貴方、これは軽い罪なのだから、あんたがハイと言いさえすれば、罪は小さなものだから認めなさい」と。そうしたら「そんなことは出来ない。それは人格の違う人間の文章で、私の文章ではない。だから認めるわけにはいかない。」と言って、最後まで頑張ったそうです。善悪の問題です。

 話しは横道に逸れましたけれども、ここで出てくるのは臨終の悪人です。しかし、そうではなくて、貴方の人生に、もう他人のことではない、あなたの人生がそれでよかったのかと問われるわけです。それは臨終が言わせるわけです。これで私の人生は終わると。人間が人間を裁くということは、本当はあり得ないわけです。だから、昔のギリシャはそうだったそうですよ。神の名においてなさねばならない仕事は、神官、それから裁判所、それと医者です。自分が、一生懸命やったと思っても、相手がよく回復しきらなくて死んだりしたら苦しむはずですよ。そういう人は善いお医者さんです。だから、神の名において出来るものは、神官と裁判所と医者だったそうです。こういうことを考えて見ますと、本当に世の中が進んできておるのか、進むというのはどういうことなのか。人間の知恵がどんどん進んでくるということは、本当に社会が進んでおることになっておるのかということを、今度の検察官の問題は嫌というほど教えられました。だからと言って裁判所の人を信用しないとか、検察庁の人を信じないとか、そんなことは言わないですよ。そんなことを言っておったら社会は崩れてしまいます。結局は自分自身の問題ですから。自分自身の人生を、自分がどう受け取っていくかという問題ですから、そうなると教えがいるのです。人と人との関係では成り立たないわけです。人間を超えて人間にはたらくまこと、そういうものを、如来の本願というかたちで説いてあるわけでしょう。そして本願の実践ですね。南無阿弥陀仏は仏の名を呼ぶわけですから。

 昔のお説教でも言うように、やっぱりお母さんの名を呼ぶ。名を呼ぶところにお母さんがはたらく。はたらくというのは、お母さんが来なくても、お母さんがそこにはたらくということは、お母さんがどういう生き方をしたか、お母さんが自分を育てるのに、どういう苦労をしてくれたか、そして、あの時にああゆうことを言ったとか、こういうことを言うたということが、お母さんの名を呼べばお母さんがはたらいて来るという意味があるでしょう。そういうところで仏教が押さえてきたのが念仏だと思います。南無阿弥陀仏と仏の名を称える。私が子供のころは、如来様のことを親さまといいましたよ。その親さまの名を呼ぶと。そして私が狂って来れば親さまを泣かせると。ああゆう言い方をしました。素朴ですね。素朴な言い方がいいのですよ。ここで誹謗正法がつくと、何か救われる人が救われないという、こういう問題があることはよくわかります。現代という時代は誹謗正法の時代なのでしょうね。直ぐに開き直るといいますか、理屈をいうことがありますが、ここでは思想家と金子先生は言っておられます。そして、本当に人間が勝れているものとか、指導者とかということが成り立つのかということを、金子先生は言われる。それが、五逆と誹謗正法の問題だと、こういうように言っておられます。だから、十八願文の中に五逆と誹謗正法と、わざわざ入れてある。これは但し書きです。みんなたすかりますよと言ったら、たすかる意味さえはっきりしなくなるのです。そのままでいいですよと言ったら、そのままの意味さえはっきりしなくなるのです。苦しんでいる時に、そのままでいいと言われれば、それが目印になるのです。だから、そこにわざわざ地獄に落とすわけです。そして臨終のときに本当にお世話になったと。

 内のご門徒さんで、そんなことを言った人がおりますよ。嫁と姑がうまくいかなかったということを、私は噂で聞いていたけれど、そこのお嫁さんがおっしゃっていました。お婆ちゃんが亡くなって、「ご院家さま、人間死ぬるときはみな仏様になるのですかね。」と言われたことがあります。どういう意味ですかと言ったら、「私は、正直に言えばお婆ちゃんが嫌いだった。私はお婆ちゃんを受け入れられない心の中にあって、自分も悪と思うけれど、そういう心があった。ところが死に際にお婆ちゃんがみんなが見ているところで、わざわざ自分を求めて、私の手を握ってお礼を言いなさった。その時に自分がお婆ちゃんに持っていた思いが全部消えた。だから、死に際には仏様になるんですかね。」と、お嫁さんが言いなさった。私はそれを聞いた時に、臨終というのは怖いなと思いましたね。また、それを言えないで死んだら犬や猫と同じ。犬や猫には臨終はありませんから、ただ死ぬるだけだから、ただ生きるだけだからですね。だから、そういう意味でいったら、人間というものは重いものを持っていますね。我われは分かったようで分からんことがありますけれども、しかし、心は同じです。インドの人であろうと中国の人であろうと、日本人であろうとアメリカ人であろうと、心はひとつです。それがどこかで分かる。また、そうであらねばならんと。こういうものが無ければいかんわけですよ。それが議論して出すというのではなくて、どこかで議論の矛を収めて、議論では間に合わんところに、何か一つ本当にそうだと頷く世界、それが南無阿弥陀仏という。阿弥陀仏というのは、限りなくはたらくまことという意味なんですね。限りなく人間を包んで、人間にはたらいておるまことという意味です。阿弥陀は実体的にあるというのではなくて、はたらきという意味です。南無阿弥陀仏というのは名告り、私は南無阿弥陀仏だと。だから、南無阿弥陀仏と我をたのんで欲しいと、こういう名告りだということを言われるわけです。親鸞聖人の了解はそうです。そのときに私たちは、対立の世界を超えられるという世界です。本当の私に帰るという意味です。こういうことを十八願文は言ってあります。そういう一つの関門というのがあるわけです。

 『正信偈』に帰りますけれども、我われは確かに南無阿弥陀仏ひとつで救われるようになっているのだけれども、実はこれは大事な問題を抱えておる。だから「信楽を受持することははなはだもって難し、難中の難、これに過ぎたるはなし」という言い方で、親鸞聖人がその問題を押さえてあるのです。前回話しましたけれども、特にこの聖教に当たってみた方が、皆さんも納得がいくと思ったものですから、依経段の最後のところになりますから、以上、『大無量寿経』の第十八願文、第十八願成就文、「尊号真像銘文」、『観無量寿経』、そして金子先生の「教行信証総説」の文を紹介しました。

第十八願文に「乃至十念」と書いてある十念は、十声称える意味だと。それは「下品下生」に十声称えてたすかったということが書いてあるわけですから、十念というのは十声称えるということだということを、はっきり言った人は中国の善導大師です。それが日本にも伝えられて、法然上人は「ただ念仏して」と。『正信偈』では「極重悪人唯称仏」と、これは源信僧都のところですね。

 

極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

 

 源信僧都の「往生要集」では「極重悪人無他方便・極重悪人他の方便なし」となっています。方便というのは手立てという意味です。極重悪人の臨終はもう手立てがないのです。これ以外にもう手立てがないと、「無他方便」。それを親鸞聖人は「唯称仏」と書いておられます。はじめは念仏を勧めたわけでしょう。死にかけているのにウロウロしているわけです。吹き荒れた海と同じですよ。本当にそうだと思いますよ。だから、もうしょうがないです。南無阿弥陀仏を称えることなら出来るわけです。そうすると、我われにとって念仏は、称名念仏より他はないのです。心静めよといったって無理なのです、称えることならできます。私たちの日暮らしの中で、南無阿弥陀仏が出てくだされば落ち着くのです。ああ本当にそうだなと気づかせてもらえることがあるのです。思いを重ねていっても何も出てこないのです。それを破るものが行です。南無阿弥陀仏を「大行」と言われます。如来の行です。「無他方便」というのは大事な言葉です。他の方便なし。曽我先生は「私は南無阿弥陀仏をいえばたすかると言っておるのではありません。そうより他に道がない人間だということを言っています」と言っておられます。あれほどの大学者ですが、ふとそういうことを思われるんですね。念仏より他に救われる道はないということを申していますと。称えたらたすかるか、そんなことではないのです。それは知識の話でしょう。自分が問題になっていないわけです。「念仏より他に救われる道はないのだということを申しておるのです。」ということは、もう臨終に来ているわけです。子供のころお寺に来てお説教を聞いていました。今頃思い出しますけれども、臨終に現在を引き寄せて聞けという言い方をされていたのを思います。これは難しいですよ。そういう表現がありました。それが、真宗における念仏によって救われるという教えの姿でしょう。今日はこれで終わります。

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