
正信偈に聞く
30-1
平成22年11月16日
今日は親鸞聖人がお作りになりました『正信偈』は、阿弥陀如来、そして釈迦如来、そして、それを伝えてくださった七高僧のお徳を誉めるかたちで、親鸞聖人がいただかれた信心の喜びを、偈(うた)になさったものでございます。そして、この『正信偈』は正信偈として独立してお作りになったものではございません。親鸞聖人には沢山の書物があるのですが、その中の根本聖典である、浄土真宗の教えの中核を述べられた書物が『教行信証・きょうぎょうしんしょう』という書物です。『教行信証』は六巻ありまして、正信偈は行の巻の最後に載せられておる信心の偈でございます。この正信偈を教行信証の行巻から切り離して、それに念仏と和讃をつけて、朝夕のお勤めにするように決められた方は、本願寺八代目の門主、蓮如上人でございます。正信偈には教行信証の教えがすべて収められておるという、非常に大切な偈でございます。
『正信偈』は、大きく依経段と依釈段に分かれておるわけでございます。一番はじめに「帰命無量寿如来・南無不可思議光」という言葉がありますけれども、これは総じて仏を讃え、高僧の徳を誉めるという意味で、総讃と言っております。「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と。端的に申し上げますならば、南無阿弥陀仏という意味を二つに分けて、前半分が依経段、つまり、浄土の三部経、特に『大無量寿経』によって、如来の徳を誉めておられる。阿弥陀如来の本願のおいわれを述べておられるところが依経段でございます。そして後半分が依釈段といっておりまして釈による。つまり、阿弥陀如来の本願をお説きになったのは、お釈迦様でございます。そのお釈迦様がお説きになった教えを、今度はインド・中国・日本と、三国七高僧によって阿弥陀如来の本願念仏のおいわれを、その時代その時代において、お弘めになったわけでございます。その歴史を書いてございます。そして、一番最後が親鸞聖人の直接のお師匠様でございました、法然上人の教えが述べられております。そして最後に「唯可信斯高僧説・ただこの高僧の説を信ずべし」と結ばれておるのが正信偈でございます。
その依経段は、本願のおいわれを、我われ一人ひとりがいただく道。そして、そのおいわれをいただいた信心の徳を述べておられます。しかし、それが尊い教えでありながら「易行難信」と申しまして、南無阿弥陀仏は行じ易いけれども、信じ難い教えである。信じ難い教えであるということを通して、真に我われが信ずべきおいわれを述べられておるのが、「結誡・けっかい」といわれ、依経段を結ぶお言葉でございます。そういうことをふまえて、今回は特に皆様のお手元にお配りしました、金子大栄先生の「観無量寿経講話」の中の一部分を、文章の通りではないのですが纏めてみました。今日は、この資料を基にして、皆様と一緒に親鸞聖人の教えを、いただき直してみたいと思っておるわけでございます。『宗祖の教えと法然の教えとの関係』(金子大栄「観無量寿経講話」より)、この表題は私が勝手につけたものでございます。
法然上人の教えは「ただ称えれば救われる」という教えである。例えば、臨終正念を祈るということがある。それは法然上人にもある。法然上人は親鸞聖人ほど臨終正念ということについて超えておられぬ。しかし法然上人は、臨終めでたくなければ往生は出来ぬとおっしゃってはいない。その利益を証拠として救われるのではなく、「念仏往生の本願によって救われるのである」というのが法然上人の教えである。
法然上人の教えは極めて単純で、理説を尊ばず、道念を重んぜず、利益を並べず、ただ念仏すれば救われる。それが如来の本願であると言われるのである。
しかしながら、その法然上人に接して、その教を聞いた人々が、みんなそれを了解したわけではなかったのである。恐らく吉水にあった多くの弟子たちは、みな法然上人の教えを聞いて、何のようもなく念仏していたのである。ところが吉水教団が解散し、やがて法然上人が亡くなられて、弟子の人びとは改めて考え直さねばならなくなった。どうして念仏すればたすかるのであろうか。どうして念仏が如来の本願であろうか。
如来の本願を読んでみると、第十八願には念仏するものを救うと書いてある。けれども第十九願を見ると、菩提心を発して諸々の功徳を修して、至心に発願して彼の国に生まれんと欲へば来迎すると言ってある。
そうすると、浄土往生は念仏ときまっておらない。菩提心を発して諸々の行を修する者は、特に来迎するとあるのに、なぜ師匠はどうして、ああいう一概のことを言われたのであろうかという不審が、弟子たちの間に起こったのである。そして、多くの人たちはいつの間にか、法然上人以前の思想に逆転してしまった。いろいろ理論を並べて、念仏すればこういうわけで助かるとか、南無阿弥陀仏を称えて、生仏一体の境地に入るのであるとか、
あるいは浄土を願うことによって己に帰るのであるというようなことを言うようになった。
あの「選択本願念仏集」は九条兼実公という俗人に書かれたものであるから、奥深いことは言わないで、念仏すればたすかるとのみ解かれたのである。いわば、あれは方便の書物であるというようなことを言いだす。
そういうことから様々な理論を並べたり、そうでない人でも道念だけは復活している。後世を願うほどの人ならば、道念をおこさねばならない。法然上人が菩提心はいらぬと言われるのは、往生極楽に関してである。しかしその本である仏道には、本当に真面目な心、即ち道心、即ち道念を起こさねばならぬとか、いろいろな思想がでてくるのである。特に見仏、来迎ということになると、法然上人も否定されなかったから、それがあたかも浄土教には必然であるかのごとく、いつの間にか復活してくる。こうして、法然上人の教えをしっかりと把握しようとすれば、理論のたすけを借りたり、見仏来迎の利益を持ってきたのである。
親鸞聖人もまた、そう考えた仲間の一人である。けれども親鸞の考え方は、他の弟子のようにはいかなかった。親鸞聖人もやはり師匠の教えをそのままでなしに、自身に引き当てて受け取られた。「選択集」の上に流れている全体の調子と『教行信証』の上に流れている全体の調子は余ほど違っている。ただ法然上人の教えを鵜吞みにしたのでなく、法然上人が教証一つで通されたものを、理証を復活するということはされなかった。法然上人は理屈を言わないで、念仏すればたすかる、それが如来の本願であると説かれた。そのゆえに自分はその教えを真受けするより他はない。しかし自分はどうして師上人のあの言葉をそのまま受けていくことが出来るであろうか。それが親鸞聖人にとっての問題であった。
そうなると、教えというものを教えとして受け取る道がある。それは「頷く」ということである。問題はその機を用意することである。教えが分かるような理論を用意することでなく、教えそのまま響いてくるような生活を用意することである。それは他の人たちの考えたこととは全く方向が反対であって、罪と悩みとの生活より外、何もないのである。悩みの多い生活、また様々の浅ましい心によって悩んでいる。そういう機根のみが、称えればたすかるという教えを聞くことができるのである。現実の生活に悩んでいる者にとって、念仏は生仏一体になることである。称えれば救われるということは、如来の本願であると教えられる。その本願とはこういう風に罪に悩んでいる我われを見通しての仏心ではないか。それゆえに称えればたすかるという教えひとつであると、法然上人がおおせられたのは、法然上人も出家の生活をしておられたけれども、ちゃんと親鸞のような生活を知りぬいておいでになったのである。それで凡夫のためには、ただ称えれば救うという本願があるのみと仰せられたのである、と法然上人の教えとしては、非常に強い鋭い教えであったものが、親鸞聖人の胸には非常に柔らかく受け取られてきたのである。念仏往生の教えがやわらかく、素直に優しく受け取ることができるのは、要するに現実生活の自覚である。この現実の生活以外に、念仏往生の教えをそのまま受け取る道はないのである。罪悪深重の衆生には、ただ教えの前に頭を下げ、教えの前に恐れいっていくより外に道はないのである。師上人の教えの鋭さを和かにし、師上人の力を素直なかたちに受け取られたという点において、「選択集」と『教行信証』はその全体の感じを異にしているけれども、法然上人の教えそのままが流れておるという点において、少しも違いはない。法然上人も教えのみであるし、親鸞聖人もまた教えのみであるということがあるのである。
道元禅師のように出家し「道心のうちに衣食あり」というような生活をされている人からみれば、浄土を願い念仏するようなことは仏法か外道かと怪しまれるのは無理はないのである。しかしながら親鸞のような生活をしている者の立場に立ってみれば、もう冗談にも自分に道念があるというようなことは言えない。「愛欲の広海に沈没して、名利の大山に迷惑」している自分がある。ただの人間である。さればこそ念仏ひとつで救われるという教えが胸にこたえてくるのである。菩提心の有無を論ぜず、ただ念仏申すのみである。
道念のある人はいかにも「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」ということができるであろう。しかし、親鸞のような身の上になってくると、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」というより他にないのである。
こういうように金子先生はおっしゃっておられます。法然上人の教えをどのように親鸞聖人がお受け取りになったかということが非常に端的に分かりやすく書いてあるものですから、要点のような所をつなぎ合わせて、そしてこの文章を作らしていただいたわけです。親鸞聖人はご存知のように九才で比叡山に登られました。
親鸞聖人は京都の方で、日野という所におられました藤原有範という公家の長男として生まれられます。親鸞聖人は九つの時に青蓮院で慈鎮和尚という方から得度を受けられて、比叡山に登って天台宗の僧侶になられます。その親鸞聖人が何故か二十年の修行を投げ打って、二十九歳の時に比叡山を下りられます。そして京都の東山に吉水という、現在知恩院という浄土宗の本山がありますが、そこでお念仏の教えを説いておられた法然上人のところに行かれて、法然上人のお弟子になられます。そのあと、二度と比叡山には帰っておられないわけですから、親鸞聖人は法然上人を善知識として、生涯念仏往生の道を歩んで九十年の生涯を終えられます。
吉水での法然上人の教えはどういう教えであったのか、親鸞聖人は法然上人の教えによって何をいただかれたのかということについて、『歎異抄』第二章には、
ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
と親鸞聖人はおっしゃっておられます。親鸞聖人は、
誕生 1173年 京都の日野の里で藤原有範の長男として誕生
9歳 1181年 得度出家
29歳 1201年 比叡山を降りて吉水の法然上人の弟子になられる。
35歳 1207年 吉水教団が奈良や比叡山によって朝廷から弾圧を受ける。法然上人土佐へ・親鸞聖人越後へ流罪となられる。
39歳 1211年 罪免。流罪を解かれる。
42歳 1214年 家族を連れて越後(新潟県)を離れて関東に行かれる。稲田(茨城県)の草庵(現在の西念寺)を拠点に活動20年の滞在期間中、関東教団ができる。
61歳 1233年 京都へ家族と一緒に帰られる
76歳 1248年 以後多くの著述は京都で書かれる。
90歳 1262年 京都で往生「十一月二十八日」亡くなる。
親鸞聖人は、兄弟が三人おられて三人ともお坊さんになっておられます。親鸞聖人のすぐ下の方が尋有(じんう)という方ですが、この方は寺を持っておられて、この人の寺の離れで、わずかな人に見守られて親鸞聖人はお亡くなりになられます。亡くなられる時に言われたのか、平生言っておられたのか知りませんけれども、「それがし閉眼せば、鴨川にいれて魚にあたうべし」と言われております。だから本当に京都の片隅でひっそりと亡くなられます。これが親鸞聖人の一生です。そんな華やかな一生ではありませんでした。六十二歳ごろ京都にお帰りになって、京都では主に書物を書かれます。親鸞聖人には沢山の書物があります。その大部分は京都に帰られてから書かれております。現在、我われが皆さんにお話しする時に、間違いなくお伝えできるのは書物あるからです。親鸞聖人が、もしも関東でこのままおられたならば、これだけ書物が残ったか分からないわけです。
正信偈に聞く
30-2
平成22年11月16日
親鸞聖人は二十年も関東に滞在されながら、その地を去って京都へ帰られたのはなぜなのかということについて、いろいろ説があるのですが、図書館だろうという学者は多いです。当時の関東という所は京都から比べたらまだ、未開地であったところです。だから、書物を書くということになれば図書館がいる。そうすると京都にはいろいろな書物があるわけです。親鸞聖人は、そのことについては何も述べておられません。親鸞聖人は、京都に帰られてから後も関東の同行との関係はずっと続きます。関東の人は度々、親鸞聖人を尋ねて来られたことがお手紙に書いてあります。『歎異抄』第二章にも関東からわざわざ親鸞聖人のところに尋ねて来て教えを受けたということが書いてあります。
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
「おのおの」と書いてありますから一人ではないのでしょう。そして何か親鸞聖人に問いただしたいことがあって、関東の同行を代表した人が来たのでしょう。「十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」と書いてありますから命がけでおいでになった。何しに来られたかというたら、「往生極楽のみちをといきかんがためなり」と、つまり往生極楽の道を問いに来られた。それでは往生極楽の道ということについて、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
だから、法然上人から沢山のことを学ばれたのでしょう。法然上人が書かれた「選択集・せんじゃくしゅう」は、親鸞聖人の書物でいうならば『教行信証』に当たります。いろいろ書いてありますけれども、教えの要は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと」、法然上人のおおせをかぶりて、信じるほかに別の子細はないと言われる。親鸞聖人は法然上人に非常にかわいがられています。親鸞聖人と法然上人とは年齢が四十歳も違うのです。だから法然上人が比叡山を降りられたときは四十三歳でしたから、親鸞聖人の方は三歳です。お坊さんになってもいないのです。ですから親鸞聖人が二十九歳で法然上人のところに行かれたときには、法然上人は六十九歳です。親鸞聖人は三十五歳の時に越後に流罪になります。法然上人は土佐に流されます。だから、法然上人と親鸞聖人が一緒におられた期間は六年です。親鸞聖人が法然上人のところに行かれた時には、吉水教団は各層に信者・門下が急激に増加していました。吉水は大教団になっているわけです。「選択集」を書いて欲しいといったのは関白九条兼実という人です。つまり政治の最高位が関白ですから、その人も法然上人の熱心な信者でした。だから多くの人が法然上人の教えを受けておられるわけです。そして法然上人は、比叡山を降りられてからは席が温まる暇なく、多くの人に教えを説いておられます。親鸞聖人は法然上人の晩年の弟子です。法然上人は七十九歳で流罪を赦されて京都に帰って来られます。そしてその翌年の正月の二十五日、八十歳でお亡くなりになります。だから法然上人と親鸞聖人が一緒におられたのはアシカケ六年になるわけです。そこでは、親鸞聖人は法然上人に愛されましたから「選択集」や法然上人の肖像を描かせてもらったりして、親鸞聖人は法然上人の絵像をいつも自分の部屋に掛けておられたのでしょう。
ここのお内陣を見てもらうと、向かって右が親鸞聖人です。そして左側が蓮如上人です。そして蓮如上人の横の余間に掛けられてあるのが正信偈の後半、依釈段のところに出てきます三国七高僧です。向かって右側の余間は聖徳太子です。親鸞聖人は聖徳太子を非常に慕われましたから、聖徳太子の絵姿が掛けてあります。本当はどこのお寺も向かって左側の余間に三国七高僧の御絵像と聖徳太子のご絵像が並べて掛けてあるのですが、光善寺は余間が狭いものですから、左右の余間に分けて掛けております。これは親鸞聖人が法然上人の絵像を掛けておられた伝統にもとづくものなのです。親鸞聖人は法然上人との深いご縁で、法然上人から多くの教えをいただかれたですが、しかし教えの要は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」という教えに極まる。それが往生極楽の道だと。それ以外のことは私は知りませんとおっしゃる。『歎異抄』第二章には、念仏以外の往生極楽の道があるのではないかという不審をもって、関東の同行は来たように書いてあります。それに対して親鸞聖人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と。
「ただ」は漢字で書けば唯の字です。ただというのは、口に言いさえすればいいという意味のただではないのです。そのただは、この只という字です。これは「いたずらに」です。だから念仏は、ただ口に南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と言いさえすればいいという話ではないのです。この唯なのです。この唯はこのこと一つです。
「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。 唯心鈔文意 聖典P547
他を並べない。あれもこれもということではないのです。だから「ただ念仏」というただはこのこと一つです。仏教は沢山の学問があり、修行があるわけでしょう。しかし、親鸞聖人は「雑行を捨てて」と言っておられます。親鸞聖人が法然上人に出遭ったということを、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す。 『教行信証』 聖典P399
と言っておられます。これが帰命の帰です。雑行というのは沢山あるから雑行です。だから比叡山も沢山の修行があり、奈良にもあったでしょう。しかしそういうものをすべて捨てて「本願に帰す」。阿弥陀如来の本願は、念仏申して我が国に生まれんと欲へというのが如来の本願だと、親鸞聖人は法然上人から習いました。だから、その法然上人の教えを信ずるということはどういうことかと言ったら「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」というよきひとのおおせに順うということ、他のものに依らないということを、この『歎異抄』は言っておるわけです。だから法然上人の教えは、ここに金子先生がおっしゃられるように非常に単純な教えだと。法然上人の教えは、ただ称えれば救われるという教えであると。そして、念仏往生の本願によって救われるのであるというのが法然上人の教えです。なぜ称えればたすかるのか。それは如来の本願だからです。阿弥陀如来は、我が名を称えて我が国に生まれんと欲へと誓われたわけでしょう。
仏教には聖道の教えと、浄土の教えの二つの道がある。聖道の教えというのは、お釈迦様がなさったように出家して、山に籠って修行をし、学問を重ねて一歩一歩心を磨いて覚りに至る。だから出家が大前提です。そして覚りに至る。お釈迦様と同じことをしていく教え、これは自力聖道門の教えです。いつかお遍路の話が出ましたでしょう。あれは普通の人でも弘法大師のこころに触れる道として、お遍路さんがつくられたのでしょう。しかしお遍路に行く人は一歩一歩でしょう。お遍路をはじめたら大分心が変わったという人もいるでしょう。しかし本当はお遍路さんの行くらいで覚りは開けないですよ。出家のできない一般の人にもご縁を結ばせようというのがお遍路さんの仕事でしょう。江戸時代にはじまったそうですね。弘法大師からはじまったという説があるそうですが違うそうです。どちらにしても一歩一歩ですよ。しかし、我われの生活はこの娑婆の勝負ですから、欲がなかったら、この世は生きられません。普通の生活は欲の生活です。
欲もいろいろです。性欲もある。人間の場合は性欲と愛欲が一緒になっています。動物の場合は性欲は子孫を残すための性欲です。だから非常に単純です。人間の場合は愛欲と一緒になっていますから三角関係を起こしたりするわけです。他に食欲、そして睡眠欲です。これは人間も動物も同じです。財欲、名誉欲、これは人間だけです。これを合わせて五欲といっています。こういうものが非常に複雑に入り混じって、私たちは生活をしています。これを捨てたら私たちは生きられません。出家はそれを捨てるわけです。ですから性欲を捨てる、結婚もしない、家も捨てるわけですから、財欲も捨てる。食欲、食べるものも制限する。睡眠欲、寝るのも制限するのですよ。そして生きながらにして仏になろうという教えです。即身成仏というのですから。弘法大師は即身成仏と言います。この身は父母所生の身と弘法大師は言っておられます。つまりこの肉体という意味です。親から生んでもらった身体という意味です。それに即して成仏するというわけですから、この身のままが生き仏さんです。それが目的です。それが弘法大師でしょう。しかし、お遍路さんしたぐらいで覚りは得られないですよ。匂いぐらいはするでしょう。例えば雨の日もある風の日もある、そして親切にしてもらう時もある、冷たくされるときもある、それが人生だと。そういう人生の縮図です。その時に一人の孤独な生活をするのでなくて同行二人です。弘法大師と二人連れという意味です。そういうことによって弘法大師の教えに触れていこうという教えじゃないでしょうか。とても生きたまま仏様になろうということは出来ません。比叡山でもそうです。だから比叡山は女人禁制の聖地です。高野山もそうです。女は入っちゃいかん。選ばれた特別な男が修行して覚りを求める、普通の人間は無理です。
仏教が日本に来ました。ところが日本人は神様をもっておるわけです。今朝テレビで神無月の話があっていました。今日は旧暦の十月十日だそうですね。全国の神様は出雲大社に行っておられるそうです。だから全国神様がいないから神無月というわけです。日本の神様は姿がないわけです。仏像のようなものはないわけです。「よりしろ」といって神様が宿るもので、御幣(ごへい)であったり鏡であったり、そして榊、あれは「よりしろ」です。姿はないですけれども、我われとの関係は、我われが祈願するわけです。神社に行けば手水鉢があって、その水で我が身の汚れを清めて、神社に近づいて祈ることによって、神様からお加護をいただくという考え方です。ですから日本の神道の考え方は祈願です。ところは仏教は違うのです。仏教はそんな教えではないのです。自覚を教えているわけです。悟りというのは目覚めでしょう。祈ったり拝んだりしている貴方とは何なのか。こうなれば幸せ、ああなれば幸せといっている貴方とは何なのか。そのことをおいて、こうなれば幸せ、ああなれば幸せ、何で私ばっかりこうなのか言っている貴方の手元が問題ですというのが仏教でしょう。全然方向が違うわけです。だから日本の神道には「貴方とは何か」と問おう方向はありません。ただ身を清めるという方向はあるわけです。
あるアメリカ人が、日本は神々の国といっています。日本の神様は、例えばパチンコの神様とか、オートバイの神様と、人間の思いに応じて神様が次々に増えている。だから日本という国は、神々の国といっています。プロ野球がはじまるときは神社にお参りに行って、勝たせてほしいと祈るわけです。優勝を祈願する。祈ったり拝んだりする教えではないわけです。目覚めということを教えるわけです。先ほど読んだ「絶対他力の大道」でも、自己とは何ぞやと書いてありました。「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり。」と清沢先生はおっしゃっています。ところが人間は、自分の根性で受け取るわけですから、そうすると仏という新しい神様が出来るわけです。そういうかたちで仏教を受け取るわけです。だから、これが本当に一人ひとりの目覚めの問題だというかたちで、民衆の中に入ってくるのは鎌倉時代です。法然上人や親鸞聖人、道元禅師や日蓮上人が出てくるまでは、日本人の中に目覚めというかたちで仏教を受け取ることは出来なかったわけです。しかし、一部の人は、例えばお坊さんですね。それは当然勉強しておるわけですから、そして知識レベルのある程度高い人、貴族や、そういう人はある程度仏教を理解できるでしょう。しかし大部分の人は仏教が分からないわけですから、神様に祈るか仏様に祈るかになってくるわけです。例えば天皇が病気をされると比叡山にたのんで祈願される。いわゆる病気平癒です。特別な修行をして学問をして、仏様に近づいておるような人が祈れば効果があるというものの考え方です。だから祈るわけです。昭和天皇が病気になられた時も比叡山は祈ったと思いますよ。朝廷との関係は比叡山も奈良も非常に深いですからね。天皇陛下どうぞ病気が良くなってください。それが国民全部の幸せになるという考え方です。そうすることで全部が幸せだと言っている貴方の心は何かということは考えないですよ。しかし、仏教もそういうかたちで日本人に受け取られていきました。だから親鸞聖人が出てくるまでは、仏教は比叡山や高野山の山の上か、奈良など特別なお坊さんだけの教えです。
ところで法然上人は、どんな人でも人間だというのです。貴族だろうと庶民だろうと、男だろうと女だろうと同じ人間。同じ人間なら救われたいと願うでしょう。こうして一生終わっていく私の人生の意味を考えない者はおらんわけです。みんなが本当に仏教によって自己に目覚めていく道があるはずだと。それが一握りの、しかも特別な人がその人に祈ってもらうというようなものは本来の仏教ではないわけです。すべての人が、本当にこの世に生まれて来て、たとえどのような苦しい悲しい境遇の中にあっても、その事全体がこのこと一つに遇わせていただくご縁でしたと言えるものが見つかればいいのです。そうしたら、たとえ自分が、誰かのために苦しい思いをさせてもらっても、その人のために苦しむということ自体が皆ご縁になるわけです。だから、人の真似をする必要もないのです。人を羨む必要もないのです。そういう生き方が日本にあるかといえば無いのです。日本にあるのは「吉凶禍福」を祈る。つまり善いことは受け入れる、悪いことは来るなという話です。そうして祈っている貴方は何か、あなたの人生とは結局何なのかということは、そういうものに目覚めた人の教えに遇わなければ自分ではわかりません。そういうことを聖道門で教えることは無理ではないか。聖道門は大乗仏教というけれども、結局特別な人の道になっている。だから浄土の教えがあるわけです。
正信偈に聞く
30-3
平成22年11月16日
法然上人の浄土の教えというのは、向こうからこっちに来る教えです。つまり、阿弥陀如来という仏様は、聖道門からいうならば捨てられてしまっている普通の人、そういう人たちが平等に救われる道を阿弥陀如来は願われ、出家修行して覚っていくのでなく、すべての者がそこに生れれば、それが覚りといえる世界を阿弥陀如来が永い時を経て成就される。それが阿弥陀仏の浄土でしょう。そして浄土に生れれば仏と成る。それが往生成仏です。そういう世界を阿弥陀仏が浄土を建立されたわけです。しかし登って来いといえば聖道門と同じになります。そうでなくて、阿弥陀仏がこの世界に生れさせるために方法を考えるわけです。どう考えたかといえば、私の方にはたらいて、そこで南無阿弥陀仏という名号を阿弥陀仏が成就したわけです。そういう教えです。見れば見るものに執われ、聞けば聞くものに執われる。そして自分自身が執われの中で死ぬことしかできん。だから泣いたり笑ったりしている。それが迷いということも分からない。何か言われれば直ぐに文句を言う。そういう人間を浄土に生れさせて仏にしたい。つまり真の目覚めを与えたい。そのためにはどうすればいいかといえば、南無阿弥陀仏という六字の名号を成就して、それを私たちに回向した。それはどういうことかといえば、称えやすくたもちやすい名号を私たちに回向される。南無阿弥陀仏だったら誰でも称えられる。たもちやすいというのは道を歩いていても仕事をしていても、夜の目覚めでも言えますからね。それがたもちやすい。「となえやすき名号を案じいだしたまいて」という言葉が『歎異抄』にあります。これなら誰でもできる。だから南無阿弥陀仏と称えて欲しいと。称えさせて阿弥陀仏に依らせたい。昔からお説教で親と子の関係でそれを言われるわけです。親は子のことを本当に幸せになって欲しいと願いを掛ける。しかし子供は、親の心は分かりません。自分のことしか分からんわけです。しかし親の心が分からんならば、親もたすからん子もたすからんわけですから、そういう関係でよく言われます。阿弥陀如来という親さまが、南無阿弥陀仏と我が名を称えて、称えさせて浄土へ生まれさせたいと願った。その願った心に触れて欲しい。だから今ここで触れて欲しい。一歩一歩ではない、本願に気づいた時に浄土にとどくわけです。そういうことを教えてあるわけです。それを本願といってある。だから「ただ念仏して」と、他のことは言わん。つまり自力聖道門のような真似はしない。ただ念仏と称える。
法然上人という方は大変な学者でした。学問を究めて浄土にとどこうとしたわけです。しかし学問をどんなに極めても浄土に往けない。その時にはじめて他力回向という教えがあることに気づいて、法然上人は念仏申す人になったわけです。だから、
「法然上人の教えは、非常に強く鋭い教えであったものが、親鸞聖人の胸には非常にやわらかく受け取られてきたのである。」
法然上人の教えというのは強い教えが中心になりますから硬いのです。また鋭いというのは、比叡山でも高野山でも修行をしている人がおるでしょう。本当にしれでたすかるのかと理屈でいうのではなくて、法然上人自身も十五歳から四十三歳まで学問修行して、しかもこれだけ学問をした人は比叡山にも奈良にもおられないだろうというほどの人だったわけですから、頭では分かる理屈でも分かる。しかしそれが仏かといわれたら、それは違う凡夫だと。善導大師の教えを通して、はじめて南無阿弥陀仏という道があったということに気づかされたきに、愚かな凡夫だと。阿弥陀如来が本願を建て、み名を称えて願いを掛けてくださった心をはじめていただいた。それが法然上人四十三歳の時です。比叡山で回心があったそうです。その時に法然上人が念仏申すことを「順彼仏願故」といって、この善導大師の言葉が心にしみたと書いてあります。つまり「彼の仏願に順ずるが故に」必ず往生す。必得往生と言っておられます。だから称えて欲しいとおっしゃって呼びかけておってくださる仏様の願いに順う。南無阿弥陀仏と称えたらいい心になれるかといってみたり、南無阿弥陀仏と称えて早くたすからねばならんと思って、私が仏様に振り向けるということではなくて、法然上人は不回向といっておられます。振り向けるのではない。仏様が私の名を称えて欲しいと言われておる。それは、私は救われない身だということを見通して、浄土を建立しみ名を成就して、私に呼びかけておられた。そこに本当に、それより他に私の救われる道はなかったとはじめて気づいて、南無阿弥陀仏と申したということは、彼の阿弥陀如来の願いに順ずるという、称えることはハイということだと。その時に救われる。何故かといえば、仏のまことは私のところにとどいているわけですから、ハイと言った時にはじめて仏様の慈悲の中にいた私だったと目が覚めるのです。だからここにいてたすかるわけです。それを即得往生というのです。そして、それが日暮らしの中で、そのことを確認しながら生きていくわけです。それが一生になるわけです。
だから、法然上人は、ただ念仏して弥陀にたすけられなさいとおっしゃった。他のことではありません。ただ念仏して如来様にたすけられないさいと教えてくださった。これを真受けにして私は念仏申す。それだけが往生極楽の道。他のことは知りません。だから他のことを知りたいと思うのであれば、比叡山や奈良に行きなさい。偉い学者がたくさんおられます。そこでお聞きになればいいということを、親鸞聖人はおっしゃったわけでしょう。
親鸞聖人は、念仏して救われていく時に、死に際にお迎えは関係ないのです。臨終来迎は私には関係ないと、親鸞聖人ははっきりとおっしゃっています。ところが法然上人もそういうようにおっしゃったのですが、死に際にお迎えにあずかるということがあるわけです。法然上人より以前に、例えば七高僧の中に源信僧都という方が出てきます。親鸞聖人もその流れをくむ横川で常行三昧をしておられました。その源信僧都は、臨終来迎ということを非常に強調されたのです。私は学生時代に京都の美術館で「臨終来迎図」を見たことがあります。大きな絵です。真ん中に雲の上に乗った如来様や多くの聖衆方が描いてあるのです。そして阿弥陀如来の右手のところから縄のようなものが出ているのですよ。その人はお念仏の教えを聞いていた人です。その人が臨終を迎えるときに部屋を薄暗くして、一方からだけ光をあてるらしいですね。そして如来様の絵が浮き立つように光を当てるそうです。そうしたら亡くなる人が朦朧として意識がなくなってくるわけですから、その時にその仏様の右手から出た縄を亡くなる人に握らせるのだそうです。そして周囲で何人もの人がお念仏を称えるのです。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、これはひとつの雰囲気を作るわけです。そうすると亡くなっていく人は如来様と手を繋いだのと同じになるわけです。縄をしっかり握って南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏といいながら死んでいくわけです。それがお迎えです。臨終来迎ということです。こういうことは第十九願に書いてあるわけです。
法然上人は第十八願ひとつで教えを建てられました。そして第十八願を「念仏往生の願」と言われます。念仏を称えるものをたすけると、第十八願にもとづいて法然上人がおっしゃっておられるのです。第十八願に、念仏申すものはたすけると書いてある、それが如来の本願だと。だからそれを信じて念仏申すのだとおっしゃったのです。しかし第十九願に臨終来迎ということが書いたるのです。ところが法然上人は、それを否定してはおられないのです。第十八願ただひとつだとおっしゃって、後の四十七願は「欣慕の願」とおっしゃっておられます。つまり第十八願に集中させるためにいろいろ教えが説かれている。だから欣慕といっておられます。ねがい慕うという意味です。つまり第十八願に集中させるわけです。そして「ただ念仏」という教えになっている。しかし、第十九願にある臨終来迎を法然上人は、そんなことは駄目だと否定なさらいのです。ただ問題は死に際に、死に際は一回しかないわけですから、その時に本当に安らかな心で、皆にも助けられて如来様からの紐をもって苦しまずに死んでいければいいわけです。しかし死に際に今までの過去が出てくるということが現にあるわけです。そうしたら何ぼ如来様が見えていて、紐を握っていても助けてくれということはあると思いますよ。それで息が切れるということはあると思いますよ。そうしたらその人は浄土に往ってないという話になる。こういう問題が臨終来迎には必ずあるのです。
以前、この定例に夫婦でお見えになっておられた方です。この本堂が出来てまもなく、私が長崎の教務所長を頼まれて長崎に行きました。その後、長崎の教務所長を辞めて柳川に戻って来まして、定例にいつも夫婦で来ておられたのですが、奥さんだけ来られました。後で主人が亡くなりましたという話を聞きましてびっくりしました。癌だったそうです。だんだん様態が悪くなってくると、ご主人が奥さんに「淋しいから側にいてくれ」といって、私がトイレに行くのも嫌がったといっておられました。そのご主人が淋しい淋しいと言われる、聞いてみたら支那事変で兵隊に行っておられるわけです。そこでどういうことがあったか知りませんけれども、要するに沢山の人を殺しているわけです。戦争ですからどんな事があったか分かりません。死が近づいてきたら、自分が相手を可哀想にも殺した、その人が出て来るそうです。自分の楽しかったことは出てこないで、自分の一番心の深いところにじっと抑えておったことが出てくる。寝ていたら自分の殺した人の顔がぼっと出てきて心が落ち着かんそうです。そういう戦争体験があるでしょう。それで側にいてくれといいながら死んでいかれたそうです。その時に苦しいとか淋しいとか言うもんだから、奥さんが言ったそうです。「父ちゃん、あんたが悪いわけではない。戦争だから父ちゃんの意思でやったことではない。だからそんなに父ちゃんが苦しむことはいらん。」と、そうしたら「お前はわからん、俺の気持ちがわかるものか。」と・・。敵味方分かれておるけれども、人間と人間が殺し合っているわけですから、その人間と人間の問題として出てくるわけです。だから、善い悪いという問題よりも、もっと深い問題です。人間と人間の問題として出てきて苦しむわけでしょう。そういうことを言っておられました。最後に「十時先生を呼んでくれ。」と言われたそうです。「十時先生は長崎に行っておらん。」と、しかし段々息が切れるでしょう。そうしたら奥さんね、旦那を抱くようにして、「父ちゃん、こういう人間はお念仏より他にたすからんと聞いている。だから私がお念仏申してあげるから、あなたも南無阿弥陀仏と称えて。」と奥さんが言ったそうです。そうしたら主人も南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏といって息を引き取られたそうです。私はよかったと思いました。奥さんが教えを聞いておられたおかげでよかったと思いました。旦那さん幸せだったよと言いました。言いましたけれども、しかし臨終に必ず南無阿弥陀仏といえるとは限らんわけですよ。そう簡単ではないわけです。これは、もしも臨終で苦しんで死んだら地獄行き、喜んで死んだら極楽に往く。臨終のときに喜ぶか喜ばんかが、地獄へ行くか極楽に往けるかの証拠です。そういう問題でしょう。ところが法然上人は、そういうことはおっしゃらなかったわけです。
法然上人の教えは「ただ称えれば救われる」という教えである。例えば、臨終正念を祈るということがある。それは法然上人にもある。法然上人は親鸞聖人ほど臨終正念ということについて超えてはおられぬ。しかし法然上人は、臨終めでたくなければ往生は出来ぬとおっしゃってはいない。その利益を証拠として救われるのではなく、「念仏往生の本願によって救われるのである」というのが法然上人の教えである。
法然上人の教えは極めて単純で、時節を尊ばず、道念を持たねばならないともおっしゃらない。利益をならべない、ただ念仏すれば救われる。それが如来の本願であると言われるのである。
如来の方から成就されておるわけですから、それが法然上人の教えです。ところが法然上人が亡くなった後に、今度は弟子にしてみたら法然上人の教えを伝えていくについて、法然上人の教えはあまりに単純すぎるわけです。そうすると法然上人が生きておられて「ただ念仏すればたすかる」といっておられた時は、みんなが信ずるのです。ところが法然上人が亡くなられて、他の人間がいう時には理屈をいわんとならんわけでしょう。だから法然上人の弟子は、いろいろなことを言いだすわけです。特に一番大事なのは臨終来迎ということです。寺に何時も来てくださる方に光輪社さんが、二三日前においでになって話しておりましたら、浄土宗のお寺によく出入りなさる方です。そうしたら浄土宗では、ほとんど臨終来迎ということを言いなさる。だから死に際に先ほど話したことをされるそうです。「水火二河の譬え」でも、ただ教えでなくて、本堂を暗くして、真ん中に白い道を作って、そこをお念仏しながら歩かせるということをする。「五重相伝」というそうです。みんな喜びますよと言っておられました。だから死に際が本当に喜べるか喜べないかということを、今から試しておかねば駄目だというかたちになるわけです。しかし人間は自分ではかれん事が起きてきます。だから人を恨んではいけないと思っても恨むし、憎んではいけないと思っても縁によってそういう心は出てきます。そうしたらせっかく白道のことをやってみたって、死に際がいけるかどうかわかりませんよ。法然上人は例えどのような事が出てこようと念仏申してということをおっしゃっておられました。しかし親鸞聖人はそれをどこで受け取れるかということについて、
念仏往生の教えがやわらかく素直に易しく受け取ることのできるのは要するに現実生活の自覚である
つまり、この現実の生活の場所以外に、念仏往生の教えをそのまま受け取る道はない。罪悪深重の衆生には、ただ教えの前に頭を下げていく以外に歩む道はない。それが南無阿弥陀仏ということです。親鸞聖人は臨終来迎ということは言われないわけです。ただ法然上人の「念仏ひとつ」という教えを何処で受け取れるのかといえば、それは現実生活の自覚、それが大事です。法然上人は一生涯結婚されませんでした。比叡山を降りられますけれども、一日六万遍念仏しておられたそうです。そして一日としてお聖教を読まない日はなかったそうです。肉食妻帯をしておられませんから、比叡山と同じ生活です。誰でもお念仏したらたすかるという教えなのですけれども、法然上人自身は比叡山と同じ生活をしておられましたから出家のままです。
法然上人も出家の生活をしておられたけれども、ちゃんと親鸞聖人のような生活を知りぬいておいでになったのである。
しかし法然上人は出家のままでおられたけれども、親鸞聖人のように教えの心は分かっておられたであろうと書いてあるのでしょう。ですから法然上人の教えをそのまま受けた人が浄土宗なのです。浄土宗のお坊さんは明治になるまで結婚をしませんでした。そして法然上人が一日六万遍念仏しておられたわけですから、今でも浄土宗のお坊さんは木魚を叩いてずっと念仏されます。そういう意味からいうならば、同じ法然上人のかたちを受け継いでおられるわけです。
ところが親鸞聖人は結婚されます。そして普通の生活をなさいます。子供が六人できましたから、本当の意味での生活者です。法然上人はそういう意味でいったら生活者ではありません。親鸞聖人は流罪以後、田んぼを耕さねばいけなかったわけです。当時の法律はそうなっているわけです。一年目は米と塩は支給されるわけです。二年目はそれにもみ種をくれるということは、田んぼに稲を植えねばならん。そして三年目は食料は支給しない。親鸞聖人は田んぼなんか作ったことないと思いますよ。その流刑地には流民になった者の田んぼがあったのでしょう。農業については周囲の人に習ったと思いますよ。親鸞聖人は貴族の生まれですし生活者ではないわけです。流罪以後、親鸞聖人は生活者になられたわけです。そこで何が出てくるかというたら縁です。家庭や家族を持ったら生活者になります。思ったらいかんと思ったって隣りの子供より家の子が可愛いと思いますよ。これはしょうがないですよ。だから「愛欲の広海に沈没し、」と。そして体裁がいい悪いと言わんとならんようになってくるわけね。それが仏教から言えば迷いです。仏教とは逆の方向に行くわけでしょう。そこに如来から我が名を称えよと呼びかけられておる私であった、こういう者のためにお念仏が成就されてあったという信仰がはじまるわけです。法然上人の場合は、ずっと学問しておられて、そしてこれではたすからんのだと、念仏だということになっています。だから法然上人は「一代の法をよくよく学すとも」と言っておられるのです。一代の法というのは釈迦一代の法ということです。どんなに学問しても、「愚者になりて往生す。」「一文不知の尼入道に同じて愚者になりて」と。だから法然上人は愚者になった人。しかしそれは教えがあったから愚者になれたのです。親鸞聖人は罪悪深重です。何か生活の姿が違う。そういうところに「ただ念仏して」という教えの受け取り方、相が違ったということを、私たちははっきりしておかねばならないでしょう。今日はこれで終わります。