
正信偈に聞く
34-1
平成23年3月27日
今月の11日に三陸沖で未曽有の大地震がおきまして、地震と津波の災害だけでなく、福島第二原発の放射能漏れのことまであって、避難を余儀なくされておられるということをテレビや新聞で見まして、大変心を痛めておるようなことでございます。今ここでお聞きしますとSさんの娘さんが福島県の白河に嫁いでおられるということをお聞きしまして、他人事でないと言いますか、大変なことだと思っておるわけでございます。私の寺のご門徒が仙台におられまして、やっと連絡がとれました。私は行ったことはないのですけれども、住所で調べますと非常に災害のひどかったところに居られたということが解りまして電話を掛けました。命には別状なかったということで本当に安心しました。
前回、竜樹菩薩の縁起の教えということを通して「人工的な第二の世界」ということについて一緒に勉強しましたけれども、自然の中から出ていた人間が、自然を越えて人工の世界を作って、そこで人間が幸せになっていこうとする。これは、人間であることの意味でもあるわけですけれども、しかしその在りようが改めて自然の威力、偉大さと共に我われ人間からいえば残酷さを思い知らされます。お互い被災なさった方に対して深い哀悼の心と、そしてまたどうか早く立ち直っていただきたいと祈りのようなものを持っておるわけであります。そういう中で、今月の例会がありますことも特別な意味があるように感じておるような事でございます。今日は竜樹菩薩の後半分のところになります。
顕示難行陸路苦 難行の陸路、苦しきを顕示して、
【進むのに困難な陸路、苦しきことを明らかにし、】
信楽易行水道楽 易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
【行くのに易しい水路が、楽しいことを信じて願わせた。】
憶念弥陀仏本願 弥陀の本願を憶念すれば、
【阿弥陀仏の本願のことを思い続けるならば、】
自然即時入必定 自然(じねん)の即の時必定に入る。
【おのずと即時に往生が確定する位に入る。】
唯能常称如来号 ただよく、常に如来の号(みな)を称して、
【ただ常に如来の名号を称えて、】
応報大悲弘誓恩 大悲弘誓の恩を報ずべし。
【大悲の弘誓の恩に報いなければならないと教えられた。】
前回お話ししました竜樹菩薩の前半分は「空の思想」また「縁起」ということを中心に竜樹菩薩の教えが説かれておるということを一緒に勉強したわけでございます。今日は竜樹菩薩の教えを親鸞聖人がどのように受け取っておられるかということが、今日のところでございます。竜樹菩薩は私たちに何を教えてくださったかというと、難行・易行ということをもって、お念仏の仏法の大切さをおっしゃっておられるわけです。意訳の方を読んでいきます。
(意訳)
大士は、進むのに困難か陸路、苦しいことを明らかにし、行くのに易しい水路が、楽しいことを信じて願わせられた。阿弥陀仏の本願のことを思い続けるならば、おのずと即時に往生が確定する位に入る。ただただ常に如来の名号を称えて、大悲誓願の恩に報いなければならないと教えられた。
これは古田先生の意訳でございます。
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「顕示」 竜樹大士の『十住毘婆沙論』の「易行品」には、仏法に入る道として「難行道」と「易行道」があることが明示されている。
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「難行陸路」 自力聖道門の修行。自らの力を信じ険しい難路を進む。
つまり、聖道門の修行は難行陸路である。旅をしていきますと自分の足を使って歩いていくわけです。それに対して船に乗るならば、自分は座っていても船の力で目的地にとどく。それを水路と言ってあるわけです。
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「易行水道」 他力浄土門の信心。自らの計らいを捨てて、すでに用意されている弥陀の本願という船に身をゆだねて浄土往生という目的地に連れて行ってもらう。
他力浄土門は易行の水道で、聖道門は難行の陸路だというかたちで、竜樹菩薩は仏教を教えてくださったというように親鸞聖人は書いておられます。
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「信楽」 人々に信じて楽(ねが)わせる。
意訳の方を見てみますと「易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。」、「・・・せしむ」とありますから、そこで古田先生は「信楽せしむ」というのを「楽(ねが)わせる。」という註をつけておられます。
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「弥陀仏の本願」 四十八願。とくに第十八願。(至心信楽の願・念仏往生の願)
「たとい我、仏を得んに、十方衆生、至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く。」
(参考)五逆 父を害し。母を害し。阿羅漢を害し。仏身より血を流し。教団の和合を破る。
(例 阿闍世、提婆。)
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「自然」 「自ずから然る」凡夫のはからい(自力)ではないはたらき。他力。
つまり自然(じねん)というのは他力のはたらきに依るということです。
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「必定」 必ず往生し、成仏することが確定すること。
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「憶念」 心に深く信じていつもかわらないこと。
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「即時」 同時という意。信ずる心のおこるたちどころに。
つまり、阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自ずから、即時(そのとき)たちどころに浄土に往生して仏に成る身にたらしめられる。
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「如来の号を称して」 称名。称念。南無阿弥陀仏が称えられること。真実の信心が成就した姿である。
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「大悲弘誓の恩」 本願に目覚めたのは本願の力による。自分というものが消え、他力の信がわが全体となって、そこから限りなく一筋に仏道が明らかになっていくところに、知恩報徳がなりたつ。
竜樹菩薩が書かれた『十住毘婆沙論・じゅうじゅうびばしゃろん』の中の「易行品・いぎょうぼん」というところに、難行道(なんぎょうどう)・易行道(いぎょうどう)ということを書いておられます。前回申しましたように竜樹菩薩は千部の論主といわれ、竜樹菩薩という方がもしもインドに出られなかったならば、大乗仏教は学問的にも体系的にも確立できなかったであろうと言われております。つまり、インドの大乗仏教を代表する大学者で、千部も書物をお書きになった方であったわけです。その大学者が『十住毘婆沙論』という書物の中に「易行品」をわざわざ書いておられます。「品」というのは、今でいうと「章」です。つまり易行章というところをわざわざ書いておられて、その易行品では仏法には難行道という仏法と易行道という仏法があり、難行道というのは譬えていうならば一つの目的地に行くために、陸路を自分の足を使って歩いていく。そうすると山を越え、川を越えて目的地に辿り着くことが出来る。しかし足が丈夫で元気な人にとっては無理でないかもしれませんけれども、身体の弱い者とか足の弱いものは、目的地に達するのはどれだけ苦労するかわからない。またはたして目的地に到達することが出来るかもおぼつかないわけです。だから陸を歩いていくのは難行道だと。
それに対して水道というのは、つまり船に乗って目的地に行く。そうしますと、たとえ身体が弱い人であっても船に乗りさえすれば、船が目的地に運んでくれるわけですから、その人の体力とカ能力というものを問わないわけです。だから「他力」という、他の力というものを船に譬えていってあるのです。ここでは阿弥陀仏の本願を信じて願力成就して、そして我われが浄土へ生まれて仏に成る。だから、これは他力。つまり譬えていえば船に乗って目的地に行くのと同じだというわけです。そして大悲弘誓の道を竜樹菩薩は進めてくださったということを言っておられるわけです。だから竜樹菩薩の偈文の前半分は、先月縁起の教えということをお話ししました。縁起の教えというのは、我われの思いや考えを超えて、一切は縁によって計らわれているにもかかわれず、我われの小さな自分の考えによって、大きな縁起ということを忘れている。なぜそうかと言うたら、それは我執煩悩に執われておるからです。そのことに気づいて我執煩悩を離れることによって、在るがままが在るがままに見えてくる。そこに自ずからなる道が開けてくる、そういうことを教えるのが仏教です。しかし、その我執煩悩をどう超えるかということになってきますと、これは容易なことではありません。そこに我執煩悩を超えて仏道を成就していく道として二つの道があるということを、親鸞聖人はこの『正信偈』に述べておられるわけです。だから自力聖道門の仏教は、そういう小さな執われを離れるための修行の道、難行道です。それに対して阿弥陀仏の本願力回向によって、そのことが果たされていく易行道ということを、竜樹菩薩は私たちに教えてくださった。そのことを『正信偈』には述べておられるわけです。
阿弥陀仏の本願を信じていくということは、何となく私たちが死んだら魂がお浄土に往くように受け取られますが、そうではないのです。仏道を成就していくということは、竜樹菩薩の教えでいいますと縁起のまこと、空のまことを我が生き方として成就するための道として、阿弥陀仏の本願を信ずる道があるということを、この『正信偈』で親鸞聖人がおっしゃっておられるわけです。そのことを私たちは受け取っていかねばならないわけでありましょう。前回もお配りした宮城先生の文ですが、
私的存在の極限であるということは、要するに誰も代わることの出来ない、一人ひとりは、一人ひとりの命をその身で生きていく外はない。代わって生きてあげるわけにはいかないし、代わって死んであげるわけにもいかない。それが、私たちが生きているということの意味です。どんなに仲のいい人でも、夫婦であろうと親子であろうと、代わってあげることはできない。その人はその人を生きる以外にないのです。そういう者としてこの世に生まれて来たわけです。
ですから生んだ親だって子供と代わることはできないわけですから、そういう意味でいったら親は縁です。例えば夫婦の縁ということがあります。一人の男と一人の女が寄り添うわけですから、これは縁です。ところが親子にというのが縁ではなくて因果ではないかと普通は考えるわけです。仏教は因縁ということを教えるわけです。しかし私たちは因果でものを考えます。人間の考えてきたことはみな因果論です、だから出てきた結果には必ず原因がある。今度の地震もなぜ起きたのかというたら原因があるわけです。プレートがどのように動いたかということは、我われは詳しくは分かりませんけれども、プレートが動いたということが原因です。その結果地震になり津波になったわけです。
例えばもみ種というものがあって稲ができる。それを因果論というのです。ところが仏教はとくに縁ということをいうのです。だから因縁ということを仏教はいうのです、これが仏教以外のものの考え方との違いです。もみ種をカマスにいれて蔵に放り込んでおったら稲にならないのです。何故かというたら縁が悪いわけです。縁ということを今の言葉でいえば条件とか環境という意味です。ですから、このもみ種が稲になっていくためには、大地や太陽の熱、光と水など限りない縁がはたらかねばもみ種が稲にまでならないでしょう。その縁が限りなく遮断されればもみ種は何時まで経っても、もみ種のままで稲にはならないわけです。もみ種を大地におろして水分を与え、太陽の熱や光を与え条件や環境が限りなく広がっていく時、もみ種を稲にすることが出来るわけです。その限りなく縁がはたらけば順縁というのです。上手くはたらかなければ逆縁というのです。そこで一番大事なことは時間ということがあるわけです。今日、もみ種を植えて今日稲にはならないわけですから、そうしますと縁は無限にいろいろな要素が入ってくるわけです。それがいい方向にはたらいたときにいい結果が出てくる。悪い方向に縁がはたらけばいい結果は出て来ないわけです。だから、そこに因も大事ですけれども、縁ということが非常に大事になってくるわけです。極端にいいますと、因と言っているものは実は縁の中の一つなのですけれども、限りなく網の目のように関係しあっている。しかも時間がはたらきますから、縦のはたらきと横のはたらきとの結び目が一つひとつの存在なのです。ですから限りない縁の中で存在がなりたっている。今度はひとつの存在が動くときは、他のものに関係しあっていくわけです。そういう中に私がある。ところが、この私は私という永遠に変わらない不変の実体があると、永遠に変わらない実体が私だと思い込んでしまう。それを我執と言っているわけです。
正信偈に聞く
34-2
平成23年3月27日
赤ん坊には我はないのですよ。在りのままに生きていますからね、生まれたままですから。
ところが物心ついた時から執がはじまります。そして他のものと私のものとの関係で対立感情が出てきます。私と環境との対立の中で、私をどう守るかということになってきます。そうすると、私の極めて実体的な、そして我が身の都合というところで、身近な環境を受け取ってきますと、良い人とか悪い人とか、善し悪しを言っておる私の全体を包んで縁は動いているわけです。この度の災害は大自然というものの中で、本当は起こるべくして起こっているわけです。しかし人間は知恵を使って、大自然に対して私的な生き方を始めたわけです。はじめは狩猟をしたり、木のみを取ったりして、生活も定住じゃなかったでしょう。しかし次第に大地を耕し、そこに家を建てて村ができ国のようなものができて、武器も作る様になったでしょう。そうして生活も竪穴式住居といいますけれども、日常生活の中で庭に植えた四季折々の花を眺めたりしますが、自然に咲く草花は暑いも寒いもない。自然そのままの中で生きているわけです、だから自然の中で暑いところでなければ生きられない、また寒いところでなければ生息できない動植物に棲み分けがあるわけです。
ところが人間は世界中どこにでもいるわけです。それは人間の知恵を使って寒いところは暖かいように、暑いところは涼しいように環境を整えて生活していけるようにするわけです。しかし自分を守るということは、非常に固定的な観念の中で自分を生きていくようになってしまうわけです。そういうところから、ここに「第二の世界」という人工的な場所を作っていく中で、この自然災害が起こるべくして起こっているわけです。私たちにとっては、とんでもないことですけれども、自然からすれば起こるべくして起こっているわけです。人間は知恵がはたらくものですから、いつも不安を離れることが出来ないのです。人間以外の動物や植物は、そういう意味で不安はないでしょう。犬の顔を見ても暗い顔はしていませんよ。悩ましい顔はしていないですよ。だから犬がペットになると思いますよ。人間だとどんなに仲のいい夫婦でも、ずっと顔を合わせていたらよくないですよ。ところがペットを私は飼ったことがないですけれども、ものを言ってみたりすると癒されるというのは、ペットは在りのままだからだと思いますよ。だから犬猫に死の不安はないですよ。植物がそのまま枯れていくように、動物もそのまま死んでいくのでないですか。人間だけが自然から立ち上がってしまった。そこに人間の優れている面と人間の持っている問題があるわけです。その根本をどこで押さえたかというたら、我執煩悩にあるということを仏教は言いたかったのでないでしょうか。人間の我執煩悩を否定してしまったら何の意味もないのです。そういうかたちでしか生きいれない在り方を人間はどう超えるのか。超えたところから、いまそうでしかありえん私をどう生きるかという意味で超える道です。そういうことが、仏教が非常に大事にしている問題でしょう。仏教の基本というのはそういうことだと思いますよ。
竜樹菩薩の教えをそのまま押さえて、縁起・空をそのまま仏教の修行に生かしているのは禅宗だと思います。お釈迦様は二十九歳で出家して、三十五歳でさとりを開かれるわけです。八十歳で涅槃に入っておられますから、四十五年間教えを説かれたわけでしょう。それが後に文字になったものが経典です。お釈迦様が三十五歳の時十二月八日に悟りを開かれたといわれます。明けの明星が自分の口の中に飛び込んだという奇瑞を受けて、環境と自分が一体となって隔てがなくなったと言われております。万物一体というのは生きているままで、あらゆる縁と自分というものが一つになる。それを無我というのです。仏教で無我というのはそういう意味です。それを悟ったのが三十五歳の十二月八日だったというのです。禅宗の人が座禅を組んでおられる姿は、お釈迦様が悟った時の姿勢なのです。結跏趺坐(けっかふざ)して、頭のてっぺんから尻の穴に棒を通したような姿勢だそうです。肩を落として顎を引いて、そして膝の上に手をやって目を開けていたら気が散るそうです。しかし目をつぶったら寝るそうですよ、困ったものです。だから半眼というのです。それは三尺先を見る目だそうですよ。それが一番心が内に向いている目だそうですよ。それはお釈迦様がさとりを開いた時の姿勢だそうです。だから道元禅師に言わせれば、三千年の歴史とインドと日本の環境を超えて、座禅を組んでいる時は仏様だというのです。座禅を組んで悟ろうというのでなくて、座禅を組んでおるときが仏様だと道元禅師は言われます。だから禅宗のお坊さんがいろいろ言われるのは、悟るために言うのではない。悟った後の言葉なのです。禅宗はそういう心意気なんですね。道元禅師は曹洞宗ですが、これは自力聖道門です。道元禅師は只管打坐(しかんたざ)と言われます。ただ座る。臨済宗は栄西。そして江戸時代に中国から日本に渡って来た隠元禅師という人がおられます。これが黄檗宗です。この黄檗宗はお念仏を称えます。臨済宗は公案というのがあるのです。ただ座っていても妄念が出てくるでしょう。だから先人の言行などを内容とする難問を与えて、それを思考させることを通して執われの心から脱却させる。これを公案というのです。それが沢山あるようです。その中に、
百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)一歩を進める
これは非常に面白い公案だと思います。百尺というのは長いという意味です。長い竿の先です。だから竹を立てるわけです。それから一歩を進めるというのですから、てっぺんまで来て進んだら落ちますよ、しかしそこのところが大事らしいです。それはどういうことかと言ったら、竿をよじ登り、心を静めて竿の先まで来る。ここまでは自力です。つまり自分の努力で行けるわけです、しかし努力というのは我執なのです。俺がやるのですから、それを超えなければいかんわけです。それが一歩を進める、これはどういう体験なのかは私は分かりません。しかし真宗でも昔のお説教では「自力のこころをふりすてて 一心に弥陀たのめ」と言うてました。自力のこころというのは人間のはからいです。計算する心です、我執煩悩です。昔のお説教は面白い譬えで言っていました。崖があると、千尋の谷です。そしてその谷の斜面から水が出ている。その木に人間がぶら下がるわけです。そうすると木につかまっている手を離せというわけです。そうしたらハイと言って片手を離すそうです。そうしたら掴まっているもう一つの手を離せと言うそうですよ。そうなったらハイと言って、今度は離していた手を握り直して掴まっていた手を離すそうです。それはそうですよ。これは両手を離したら千尋の谷に落ちるわけですから、だから片手を離して片手で握るという具合に、何時まで経っても自力はなくならないという譬えです。真宗でもあんなお説教をしてましたよ。私が子供のころ聞いていたお説教です。今頃になって思い出して面白いことを言ったものだと思いますよ。百尺竿頭、これはどういうことですかね。自殺すれば意味がないのです。自殺しないで死ねるかという話です。それは分からないですよ。しかしそういうことが、どこかではっきりしなかったらお陰とか言ってみたってお陰にならないですよ。やっぱり都合のいいときはお陰様で、そうでなかったらこんちくしょうですからね。しかしそれは縁でしょう。夫婦の縁というのですよ。
一人の男と一人の女が、まったく生まれた時も所も違うものが夫婦になるわけですから、これは縁ですよ。男から言えば女が縁です。女から言えば男は縁でしょう。だから因縁というのです。ところが親子の場合、親が因で子は果だと普通はそんなふうに思っていますよ。だから親は子供を我が子だと思っていますよ。ところが仏教というのは面白いと思いますね。男と女がおるわけです。結婚したら男は夫になって女は妻になるわけです。相対的なものですからね。しかし、この二人はまだ親ではないですよ。しかし子供が生まれた途端に夫が父親になって、妻が母親になるわけです。だからオギャーというのは三人オギャーなのね。子供のオギャーと父と母のオギャーは一緒。そしてこれは非常に大事なことなのですが、生まれた途端に我が子であっても代わってやることも出来なければ、代わってもらうことも出来ないのです。
確かに親から言えば子供を育てると言いますけれども、育てると言ったって足を引っ張って伸ばすわけではないのですから、だから子供は子供の人生を歩きはじめるわけです。代わってやることもできなければ、代わってもらうことも出来ないのです。ところが特に母親は自分のお腹から子供が出てきたものですから、子供は我が子という思いが強いのです。それが執なのです。だからお母さんのお腹から生まれ出た途端に縁になるのです。母親を因とすれば、自分の主人と子供は縁です。子供を因とすれば一番身近な父母が縁です。父母の愛がなければ子供なんて育たないですよ。今は父母が子供を殺すという人が出てきていますが、これは言語道断ですけれども、そんなら産まねばいいのですよ。ところが子供は可愛いと思っているわけです。本当はこれ位せからしいものはないですよ。だから人形か何かのように思っているわけですよ。生まれてみたら子供には時間がありませんから勝手です。そうすると、こちらは時間がはたらいていますから、時間になったら寝せるとか起こすとかいって、しからしいことを言わねばならんようになります。いずれにしたところで縁ですよ。だから父母にとつて子供は縁です。だから子によって親になっていく。子がおらねば親になれません。子によって親になる。そして親によって子が子になるわけです。そこに代わってもやれん、代わってももらえんというところに父母の縁というのはとても大事です。
だから、親によって子は育つ、しかし子によって親は育てられていく。お互いです。だから縁というのです。そこに代わってもやれない、代わってももらえない。
有国智光さんの子供さんを小児ガンで亡くした話をしました。子供の方が十五歳で早く人生を終えてしまう。「僕もう往きます。」と言って死んだそうです。どうしよもないですよ。しかし親としてはどうにかしてあげたいと思うけれども、お父さんはどうしてあげようもない人生がある。その時に「社会的孤独」ではない、「宇宙的孤独」と言っています。社旗的孤独というのは、優越感と劣等感の世界です。ところが宇宙的孤独というのは、どうにかしてあげようと思っても、どうにもしてあげられない世界がある。子供は子供を生きてしまう。そして死んでしまう。だから父母の縁というのです。そういうかたちでいきますと、お互いが全部父母であれ、子であれ、あらゆる縁、食べるものから着るものから限りない縁の中で、いま今私というものが在ります。私が私であるために、どれだけ多くのものに影響を受けているかということがあるわけです。そういうことがお陰様とか、そして報謝というような言葉で言おうとされている面でしょう。しかしそういう世界は頭ではわかります。聞けば、それはそうだと思いますけれども、現実私たちは「お陰様」とか「ありがとう」というところで何時も生きてはいないですよ。眼が覚めた時から「俺が」で生きています。口ではお陰様と・・、思わんではないですよ。しかし全部「俺が」から離れられません。そこを離れるということはどういうことなのかという問題です。そういうことが非常に大事で、それを竜樹菩薩は難行道・易行道というかたちで教えてくださったわけです。そして如来の本願を信ずるということは、私たちの人生に深くいただかせる、そして知らせる道として難行道・易行道を教えてくださったのだと言おうとなさっておるわけです。古田先生の、
⑪「大悲弘誓の恩」本願に目覚めたのは本願の力による。自分というものが消え、他力の信がわが全体となって、そこから限りなく一筋に仏道が明らかになっていくところに、知恩報徳がなりたつ。
これは非常に優れた意訳だと思います。古田先生の味わいが入っておるのでしょう。これは単なる辞書的解釈ではないでしょう。南無阿弥陀仏の仏法というものは易行道で、しかもそれはまことの仏道を成就する道だと。しかも、その人の能力を問わないわけです。まったく他力によって成就する道が念仏の仏法です。それが縁起という空無我という法を私たちの上に成り立たせる勝れた道だということを、『十住毘婆沙論』の「易行品」に竜樹菩薩は教えてくださっています。そこのところで親鸞聖人は竜樹菩薩を第二の釈迦、七高僧の第一にすえておられます。禅宗ももちろん釈迦が教祖ですから、二祖は必ず竜樹菩薩をすえます。この禅宗は「百尺竿頭、一歩を進める」というかたちで空とか無我ということを悟らせようとしておるわけです。それが本当にどうして徹底していくかという問題はあるわけです。これは今日の皆さん方にお配りした分です。
正信偈資料
(本文)
「論の註」に日(い)はく、謹んで竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致(あびばっち)を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途あり。粗五三を言うて、もって義の意を示さん。
一つには、外道の相善は菩薩の法を乱る。
二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。
三つには、無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四つには、転倒の善果よく梵行を壊す。
五つには、ただこれ自力にして他力の持つなし。
これらのごとき事、目に触るるにみな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。「易行品」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。 教行信証 聖典P167
こういう言葉があるのです。竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』は、必ずしもこういうかたちで整理されていません。それをこういうかたちで整理した人は、曇鸞大師の『浄土論註』なのです。親鸞聖人も教行信証の行巻に引いておられます。
正信偈に聞く
34-3
平成23年3月27日
(意訳)
竜樹の『十住論』によれば、菩薩が不退転を求むるに難行と易行の二種の道があるという。然るにその難行道に依って不退転を求むることは、濁乱の世、無仏の時においては殊に難しい。その事情を二、三挙げれば、
一つには異教の思想は菩薩の正法と混同せられ易い。
二つには悟り澄まさんとする傾向が大慈悲を障える。
三つには反省を知らぬ悪人は他の徳を破る。
四つには浮世の幸福が人倫を壊す。
五つには唯自力の道であって他力に持たれることがない。
これが正しく現前の事実である。ここに不退転を求めることの難しさは、あたかも陸路を歩行する苦しさの如くである。その易行道とは、ただ仏を信ずる因縁によって、浄土に生まれたいと願えば、仏の願力に乗じて、やがて彼の浄土に生まれることができ、仏力に摂められて、大乗の正定の聚に入らしめられる。その正定とはすなわち不退転である。これはあたかも水路に乗船する楽しさの如くである。
「論の註」に曰はく、
(本文)謹んで竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。
(意訳)
竜樹の『十住論』によれば、菩薩が不退転を求むるに難行と易行の二種の道があるという。
阿毘跋致(あびばっち)というのはインドの言葉です。それを中国の言葉に直せば不退転です。不退転というのは境地です。ある境地に来れば二度と迷いの世界に立ち帰らない。正定聚不退転(しょうじょうじゅふたいてん)というわけです。そういう境地があるというわけです。それを阿毘跋致というわけです。「菩薩が不退転を求むるに」と、仏果を求むるにとは書いてないのが大事です。不退転があれば仏道を生きられるわけですから、普通の日暮らしをするのは不退転というのが決め手になるわけです。
(本文)難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。
(意訳)然るにその難行道に依って不退転を求むることは。濁乱の世、無仏のときにおいては殊に難しい。
いわゆる五濁(ごじょく)です。五濁の世、無仏の時と言ってあります。つまりお釈迦様が亡くなられて竜樹菩薩が出られたのは五百年を過ぎてしまっているのです。ということは像法の時代に入っているわけです。
(正像末の三時)
正法(しょうぼう)の時、仏滅後~五百年をいう。
像法(ぞうほう)の時、仏滅後千五百年をいう。
末法(まっぽう)の時、仏滅後千五百年以降をいう。
正法の時というのはお釈迦様が亡くなって五百年は、まだお釈迦様の影響がある。「教・行・証」が保てるというのです。これはお釈迦様の予言です。お釈迦様は悟った人です。言葉であったり文字になっていたりしても中身ははっきりしません。そうしますと悟った人に指導してもらわないと、自分が悟ったか悟ってないかわかりません。そうするとお釈迦様が弟子に直接お前は悟ったと、禅宗では今でも印可(いんか)と言います。悟ったと認めると。道元禅師は今でも正法の時だと言われます。像法・末法ということは言われない。禅を組んでいる時は正法だと、なかなか元気な人です。しかし、親鸞聖人の教えはそういう教えになっていません。正法の時はさとりを開かれたお釈迦様から、お前は悟ったということを印可してくださる人が、五百年まではおられるだろうというわけです。五百年過ぎると、もうそういう人はいなくなってしまう。そうすると五百年から後は像法の時になるわけです。像というのは仏像の像ですから形はあるということです。正法の時は教えもあって、その通りに「行」修行もあって「証」悟りも開くということです。教行証が全部あるということです。五百年が過ぎるとお経はありますから教えはある。修行する人もいる、しかしもう悟る者はいない。だからこの像というのは修行しておられますから、形は残っているわけです。それは千年。だから千五百年までは像法の時代だというのですね。それを過ぎるとお経だけが残る。つまり教えだけが残るというのです。それが末法の時と、竜樹菩薩が出てこられたのは五百年を過ぎています。
像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたもう 「正像末和讃」聖典P503
七高僧の竜樹菩薩、天親菩薩までは像法の時です。
(本文)この難にいまし多くの途あり。粗五三を言うて、もって義の意を示さん。
一つには、外道の相善(しょうぜん)は菩薩の法を乱る。
(意訳)その事情を二、三を挙げれば、
一つには異教の思想は菩薩と正法と混同せられ易い。
本文でいいますと、「外道の相善・しょうぜん」と書いてあります。仏教が外道といった時には、仏教以外のことを外道と言っておるのです。外道の相善というのは、同じ善は善ですけれども似ておるという意味です。例えば慈善事業、つまり親鸞聖人でいいますと、
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。 『歎異抄』聖典P628
と言われますけれども、しかし宗教ならば人助けをせねばならないだろうということがあります。お坊さんの方にも社会の方にもあります。しかし本当にそういうことがお釈迦様の教えなのだろうか。さとりということを教えてあるのではないだろうか。ところがそういうことがわかりにくい。非常に抽象的ですから。だから外道の相善というのは、社会事業であったり、そして具体的にご利益を与える人助けですね。そういうことが皆には受け入れやすい。しかし、そういうことが正しい仏教の教えを見えなくしてしまうわけです。「菩薩の法を乱る」そして「声聞は自利にして大慈悲を障う。」と言ってあります。声聞というのは仏弟子のことです。お釈迦様から直接教えを受けた人です。
(本文)『二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。』
(意訳)二つには悟り澄まさんとする傾向が大慈悲を障える。
人々の救いを願うという面が欠落してしまう。そして個人的な悟りだけを最上のものとしてしまうようなものがある。そういうことが小乗仏教だといわれますけれども、声聞は自利にして、自分の救いだけして、一切衆生とともにというものが欠落してしまう。次に
(本文)『三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。』
(意訳)三つには反省を知らぬ悪人は他の徳を破る。
と言っています。無顧(むこ)というのは自己を顧みないという意味です。いろいろな意味があると思いますが、例えば現在でしたら人生の目的は金しかないという一つのものの考え方に決めて顧みない。そうなってくると非常に厄介な面が出てくるのではないですかね。これだけ災害があって日本経済は弱っているのに円が高くなってきている。何故かという話です。それは世界的な規模で投機をしている人たちがいるのではないかということを書いたものがありました。私たちには理解ができません。しかし戦争と災害は景気が良くなるものなのですね。戦後日本がこれだけ早く立ち直れたのは朝鮮戦争のお陰だという考え方もあるのでしょう。災害は苦しみますけれども、国には復興のためにどんどんお金を出すわけです。そうすると景気が良くなる。そうすると苦しんでいる人の問題ではないのです。世界的に投機筋のひとは金になればいいということ言っています。「私の関心は金しかないのです。皆が苦しんでいるとか悲しんでいるとか、そんな事は私には関心がありません。しかも私はいろいろな人の金を集めています。それを損させないように儲けさせねばなりません。だから私は金だけが関心なのです。」と、こういう考え方はアメリカ的ですかね。そういうことを聞きますと、日本人は抵抗があるような気がしますけれども、しかし日本人にも、そういう人が出てきているようですね。要は金にさえなればいいということがあるかもしれません。だから「反省を知らない悪人は他の徳を破る」と。
(本文)『四つには、顛倒の善果よく梵行を壊す。』
(意訳)四つには浮世の幸福が人倫を壊す。
三と共通するものがありますけれども、ただ幸せでさえあればいいというような人生観は、正しい人間の道を破壊する。
(本文)『五つには、ただこれ自力にして他力の持つなし。
これらのごとき事、目に触るるにみな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。「易行品」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。』
(意訳)五つには唯自力の道であって他力に持たれることがない。
これが正しく現前の事実である。ここに不退転を求めることの難しさは、あたかも陸路を歩行する苦しさの如くである。その易行道とは、ただ仏を信ずる因縁によって、浄土に生まれたいと願えば、仏の願力に乗じて、やがて彼の浄土に生まれることができ、仏力に摂められて、大乗の正定の聚に入らしめられる。その正定とはすなわち不退転である。これはあたかも水路に乗船する楽しさの如くである。
最後に、「五濁の世、無仏の時」と書いてありましたが、
(註)五濁
①刧濁(時代の汚れ、天災や戦争などの時代悪。)
②見濁(邪悪な思想や見解がさかんになること。)
③煩悩濁(利欲や名誉のために狂奔し、いろんな精神的悪徳が横行すること。)
④衆生濁(風紀が乱れ、心身ともに衆生の資質が低下すること。)
この「資質」という意味は知恵が落ちるという意味ではありません。宗教的資質です。宗教的感覚が鈍ってくるのです。仏教の立場ではこういう意味になります。
⑤命濁(人間の精神年齢が短くなること。)
古来の言い方では「寿命が短くなる」という言い方でした。ところが世の中は寿命が長くなりよるわけです。だから精神的な年齢というふうに書いてあります。要するに難行道・易行道ということを教えてくださって、私たちが真に「無我」・「空」という非常に難しいことを、竜樹菩薩はおっしゃっておられるのだけれども、そのことがすべての者の上に定着する。真に身につくことができる道は易行道。阿弥陀仏の本願を信ずるというかたちにおいて、はじめてそのことが成り立つということをおっしゃっておられるということを中心にお話を致しました。