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​正信偈に聞く

 32-1 

​平成23年1月16

 今日は「依釈段・えしゃくうだん」に入ります。正信偈は大きく「依経段・えきょうだん」と「依釈段・えしゃくだん」に分かれております。依経段というのはお経に依って如来の本願、念仏の仏法を明らかにしてあるところです。経というのは浄土三部経のことです。特に

 

真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。 『教行信証』聖典P152

 

とおっしゃっておられますから、親鸞聖人の教えは『大無量寿経』が中心でございます。依経といいましても、中心は『大無量寿経』です。そして仏法の歴史は『大無量寿経』に説かれた如来の本願の歴史であり、そこに阿弥陀如来のご苦労というものが述べられておるわけです。

 それに対して「依釈段」というのは、お釈迦様が説かれた浄土三部経によってあきらかになさった念仏の仏法を、我が身に受けてそれについて「釈」というのですから、お経の解釈をなさったという意味で、三国七祖の教えにもとずいて、本願念仏の仏法のおいわれを述べてあるのが依釈段になるわけです。ですから依経段というのはお釈迦様の教え。依釈段は三国七祖によって、お釈迦様の教えの心をあきらかになさった歴史を言っておるわけです。それで、釈によって本願念仏の仏法を明らかにされておるわけです。今日から依釈段に入りますから、三国七祖の教えにもとずいて『正信偈』を皆さんと一緒に頂いていくということになるわけでございます。

 

「依釈段」

印度西天之論家 印度・西天(さいてん)の論家、

中夏日域之高僧 中夏(ちゅうか)・日域(じちいき)の高僧、

顕大聖興世正意 大聖興世(だいしょうこうせ)の正意(しょうい)を顕(あらわ)し、

明如来本誓応機 如来の本誓(ほんぜい)、機に応ぜることを明かす。

 

この四句は「依釈段」の全体にかかりますので「総讃・そうさん」の部分になります。

 

(意訳)

インド・西域の論述や、中国・日本の高僧方は、

釈尊が世に出られた本当の意義を顕かにし、

阿弥陀如来の誓いが、凡夫の資質に応じていることを

明らかにされた。

 

  • 西天―西方の天竺 

  • 論家―論師(参考)「経」は仏の所説。「論」は菩薩・聖者の所述。「疎・しょ」は高僧の所説。

 

 西域というと、印度と中国の中間のところでしょうか。中国の一番奥の方が西域になります。

そして論家は論述家、論師と。言葉に区別があることを注意しておられます。お経といった時は、お釈迦様の教えです。我われの教えでいきますと浄土の三部経。これはお釈迦様の教えですからお経です。ところが、例えば龍樹菩薩や天親菩薩の書かれた書物は「論」というのです。だから一応「経」と「論」と分けて、言葉に使い分けがあるのだということを古田先生は注意をしておられます。私がこの光善寺に入寺しましたころ、婦人会の人を中心に正信偈のお勤めを習ってもらったことがありました。その時に「今日はご院家さんからお経を習った」と言いなさる。正信偈は親鸞聖人がお作りになったものですから、正確にいえばお経ではないのです。ですから正信偈のお勤めを習っている時に、「お経を習っている」とは言わないわけです。正確にいえば違うわけです。経は仏の所説、論は菩薩・聖者の所述、疎は高僧の所述というようになっています。

 

  • 中夏―中国「中」は世界の中心。「夏」は「大きい」とか「盛ん」という意味。「中華」の「華」は「文化」を意味する。

 

 日清戦争の時に日本は戦争に勝つわけですが、日本は長い歴史の中で、中国にはとても及ばない小さな国、そして文化の遅れた国であったわけです。世界の中でも印度・中国・エジプトというようなところは、世界で一番はじめに文明・文化が栄えたところです。それで中国は世界の中心だという自負が中国人にはあったでしょう。そういうことから自分の国を中華と。そして中というのは世界の真ん中、中心。華というのは大きい、または盛んという意味です。今でも中華民国といいますけれども、文化の中心という自負が中国にはあるわけです。

 

  • 日域―日本のこと。

  • 大聖―釈尊。

 

 お釈迦様のことをいろいろな言い方がありますが、釈尊と言ったり、また世において尊い方という意味で世尊という言葉を使ったりします。ここでは「大聖」と。

 

  • 興世の正意―釈尊が世に出られた本当の意味。出世本懐。

 

つまりお釈迦様がこの世の中にお出ましになった所以。だから「出世本懐」と言っておられます。それを「興世の正意」というものだと言ってあります。それから

 

  • 如来―阿弥陀如来

  • 本誓―阿弥陀如来の本願。弘誓。

 

 本誓の「本」は本願、本誓の「誓」は弘誓から来ています。または誓願という言葉もあります。ですから四十八願は単なる願いではない、誓願なのです。本願は四十八通りありますけれども、本願の文ははじめに「説我得仏」とあって、次に願の内容があります。そして最後に必ず「不取正覚」という言葉になっているわけです。たとえ私が仏になりましても、こういう事が成就しなかったら、私は仏にならないという意味です。つまり私が仏になっても、私の願いが衆生の上に成就しなければ、私は仏になることの意味がないし、仏になったと言えないわけです。だから私が仏になったならば、必ずそうさせますと。もしも出来なかったならば、私は仏にならないと誓われたわけです。だから単なる願いでなくて、衆生に対しての誓いだという意味が非常に大事でございます。

 単なる願いだけならば、仏様がそういうことを願われたというだけでしょう。ところが衆生に対して、必ずそうさせますと衆生に誓われたわけです。私たちに誓った覚えはない。しかし阿弥陀如来と私との間には深い関係があるわけです。だから如来を思い出してもらわなければ、如来がたすからないというかたちで、ずっと私たちにはたらきかけておられるわけです。私たちはそれを知りません。しかし如来と約束をしたのだけれども、こちらは忘れておるわけです。そういう深い約束の中で、私たちは人間に生まれて来たのだということを善知識の教えによって気づかしていただく。そういう深い阿弥陀如来と私たちの関係があるわけです。単なる仏様が願われているという関係ではなくて、仏様が私たちに対して願いをかけられといっても、勝手にかけたと言ったらそれまでですが、そういうことではなくて、阿弥陀如来の本願は単なる願いでなくて誓願なのだと、そのことを私たちは忘れてしまって、自分の思いで人生を生きている。だから常に不安と不足がなくならないわけです。そういうところに誓願という意味が大切でございます。

 

  • 機―はたらき。縁に遇うことによってはたらき出すもの。教化を受ける機能をもつもの。教化の対象となるもの。ここでは末世の凡夫。「悪人正機」

 

 つまり「機」を人間という風には言われない。例えば十八願だと十方衆生となっています。衆生といった場合は人間だけではありません。これは「衆多の生死を受けたもの」という意味が衆生という言葉です。つまり衆多の衆は衆生の衆です。そして生死です。衆生というのはこういう言葉から来ているのです。衆多というのは、どれだけか分からない沢山のということです。生死は迷いのもとです。仏教ではせっかく人間に生まれて来ても、本当に人間に生まれて来た真の意義が分からなければ、結局また生まれ変わって、その真実の意義を尋ねて行かねばならない。だから生死というのは、そこに生れたり死んだりという意味なのです。生きているのか死んでいるのか分からないことを生死不明といいますが、あの生死とは違うのです。これを生死(しょうじ)と読むのは曠劫多生(こうごうたしょう)です。

 

曠劫多生のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき 本師源空いまさずは このとびむなしくすぎなまし   高僧和讃 聖典P498

 

 曠劫(こうごう)というのは、長い時間ということです。度々生まれて来たから多生(たしょう)です。そこから切り離れるのです。生まれたり死んだり多生してきた、その迷いの世界から出て離れるご縁、具体的には如来の本願です。「本師源空いまさずは このとびむなしくすぎなまし」と。もしも法然上人にお遇い出来ていなかったならば、またこの生を終えて、そして多生、生まれ変わり死に変わりしていたでしょう。しかし、法然上人にお遇いできたお陰で、その迷いの世界から出て離れるご縁、つまり真実の仏法に遇わせていただくことができた。それが法然上人にお遇いできたお陰だということを親鸞聖人はおっしゃっておられるわけです。

 その時に曠劫多生という言葉を使われます。この「劫」というのは長い時間ということです。つまり何度もなんども生まれ変わり死に変わりしてきたもの。だから衆生といった場合は、「衆多の生死を受けたもの」という意味ですから、そこで言われたのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道輪廻の世界です。そこに人間が入っています。この六つの境涯を六道と言っているわけでしょう。これは迷いの世界です。だから人間も六道なのです。それが曠劫多生のあいだ迷いに迷って来たという意味です。ただこの地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界は、苦しめられて仏法が聞けないというのです。そして天上界というのは享楽の世界ということですから、享楽に沈んで仏法が聞けない。だから人間の境涯だけが仏法を聞いて、仏法がわかる境涯だと。だから機というのです。これは六道輪廻の在り方ですから、迷いの世界という意味では同じですけれども、人間だけがその仏法を聞いて受け取れる境涯なのです。人間には善悪があります、他の世界には善悪はありません。例えば畜生の犬猫には善悪はありません。

 京都大学には世界でも有名な霊長類研究所があります。この研究所は古いのです。その所長さんである女性の人が対談しているのを読みました。チンパンジーが一番人間に近いそうですよ。他の動物の中でチンパンジーが一番知恵が勝れているということを所長さんが話しておられました。例えばガラス張りの中に数字が無作為の入っていて、それに電気をこっちから人間がパッとつけて、パッと消す。そうしたらどこに何という数字が入っていたかといっても、人間には思い出せないそうです。ところがチンパンジーにさせたらパッパッと数字のところを順番に指で押さえて電気を点けるそうです。その時にチンパンジーは考えないというのです。人間はここやったかな、どこやったかなと考えるから、かえって判らないというのです。チンパンジーは直感で見て、間違わずにパッパッと点けるそうですよ。これはすごいと言っておられました。ただ人間の顔の輪郭を線で紙に書いて、それをチンパンジーに見せるそうです。そしてチンパンジーにペンを持たせても、顔の線をなぞるだけだそうです。そのチンパンジーは人間でえば四歳ぐらいだそうです。そこで人間の四歳ぐらいの子供にペンを持たせたら必ず目を描いたり鼻を描いたりするそうです。ところがチンパンジーは決してそういうことをしないそうです。だからチンパンジーに想像というものはないわけです。それが人間とチンパンジーの違いだそうです。ところがチンパンジーは人間でいうなら騙すということをするそうですよ。クルミのような硬い実があるでしょう。それを石の上に置いて小さな石で叩いて、中の柔らかい実を出して食べる。こういうことは平気でするそうです。親子のチンパンジーを見ていると子供が木の実を割って食べます。しかしその子供がまだ小さい時は母親が子供をはねのけて、そして実を割って自分も食べるけれども、子供にも食べさせるそうですよ。その子供がちょっと大きくなると、そうしないでまず母親が子供の毛繕いをするのだそうです。母親が子供の背中をさすって毛繕いをすると、次に母親が背中を出すと子供が母親の毛繕いをはじめるそうです。そうすると、その子が母親の毛繕いをしている隙に母親がその実をパッと取って食べる。そういう意味でいうと一種の作戦です。そういうことをチンパンジーはするそうです。ところがチンパンジーは食べながら、明日食べるものをどうするかということは決して考えません。それはチンパンジーに時間は働かないからです。だからチンパンジーは人間に近いといっても畜生ですからね、苦はあるけれども悩はないというわけです。善悪がない、時間が働いていない。だから人間でいうならば、チンパンジーは今・今になり切っているということですよ。だから直感も働く。ところが人間は想像がはたらくし、時間がはたらくものだから食べながら明日はどうしようかと考える。だから今・今になり切っていないわけです。チンパンジーはなり切っているから悩はないということです。だからチンパンジーは人間に近いけど自殺はない。自殺があるのは人間だけです。チンパンジーは悩まないから非常に明るいということを研究所の所長さんの話の中にありましたけれども、なかなか面白いですね。チンパンジーは人間に一番近いそうですが悩がない。時間がはたらかない。子供を騙すことはするけれども悩むことはない。だから仏法を聞く必要がないのね。悩まんのだから、熱いとか寒いとか痛いということはある。しかし悩まないわけですから、悩ますものは人間の知恵なのです。人間の知恵に近いものは僅かにあるけれども、しかし人間の知恵ではない。人間の知恵は相対の知恵です、だから善悪です。人間は善悪で苦しみます。ですから勝つとか負けるとか、損とか得とか、そういうところに人間の悩というものがある。仏教というのは、人間の知恵を否定するのではないのです。それを超えさせるわけです。

正信偈 32ー2

​正信偈に聞く

 32-2 

​平成23年1月16日

 最近あらためて親鸞聖人の書かれたものを読んでいて、

 

如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。 『教行信証』 聖典P236

 

という言葉があるのです。

 人間には智愚の毒があるというのです。つまり人間は二つの世界をもっております。ですから人間の知恵というのは二つの知恵なのです。善悪に迷う知恵です。それが苦悩のもとなのです。その苦悩を取ってやろうというのが誓願です。だから人間だけが機になるのです。ここに書いてありますように「縁に遇うことによってはたらき出すもの。教化を受ける機能をもつもの。教化の対象となるもの。ここでは末世の凡夫。」と書いてあります。つまり機というのは「はずみ」という字ですからね。だから、馬の耳に念仏ということわざがありますけれども、馬にはどんなに念仏を聞かせたって反応しません。つまり機にならないわけです。馬の耳に念仏ということは、馬は畜生ですから善い悪いということがなくて機たりえないわけです。機たりうるものは人間だけです。だからせっかく人間に生を受けながら、また仏法に遇いながら、その法を信ずることができない。そうすると未来永劫迷っていかねばならないではないか。そういう問題を人間が持っている。また人間に生まれて来たということは、そういう問題を正面から問題にせねばならないのだということを教えるのは仏法ですよ。だから、そこに誓願、誓いという意味があるわけです。機という言葉を、古田先生が丁寧に述べておってくださるということは非常に大切なことでございます。

 そして「如来の本誓」は悪人正機です。救われようのない者、自ら世の無常を覚り、そして人間の愚かさを知って、出家して覚りを求めることの出来る人は「智者」ですね。ところがそうでない、日夜我執煩悩に煩わされながらそのことに気づけない。しかしすれをほっとけない、そこに誓いが建ったわけです。如来の本願はなぜ起こったのかといえば、ただ自分の我執煩悩に苦しめられておるだけの衆生をほっとけない。そこに如来の本願が建ったということでしょう。非常にこれは大事な問題だと思いますね。誓願とまた機と。「明如来本誓応機 如来の本誓機に応ずることを明かす。」とこう云われる意味は非常に大事ですね。仏教というのはどういう教えなのかということを、改めに私たちが考えていく時に、例えば華厳の教えがあるのですが「一即一切・一切即一」ということを学生時代に習いました。

 「一」というのは部分ということです。「一切」というのは全体ということです。部分と全体が「即」しているということは、関係しあって離れないということです。例えば家を見ましても柱・梁・桁、そして垂木とか瓦一枚一枚とかこれは部分ですね。そういうものが整っておって全体があるわけでしょう。一切といっても一が集まったものです。その一という部分がきちっと在るべき物が、在るべきところにあって、それが機能し合っているときに全体というものが本当の全体になるわけです。柱といいましても、柱が柱として立つためには、それを支える梁とか桁とか、そういうものがきちっとしていなければ、柱は柱として立たないわけです。そうすると本堂全体を考えた時に、瓦一枚一枚と目立つ柱と無関係ではないわけです。それが即という意味なのです。だからそういう意味でいうならば、どんなに大きな部品も、どんなに小さな部品も価値に違いはないというのが仏教の基本なのです。みなそういう意味でいうならば平等です。だから差別即平等と仏教はいうのです。差別というのは何か差別感の差別ですけれども、これは区別ですね。一つひとつという区別というものが平等だと。差別即平等といいます。だからそれはどんなに大きなものも、どんなに小さなものも、全体から考えた時は価値に違いはないわけです。

 ところが人間はそうはならないわけです。人間のつくった文化というものは、結局人間の知恵でつくった文化ですから、だから上だとか下だとか、値打ちがあるとか無いとかいうでしょう。だから例えば会社という一つの組織を考えても、もちろん社長もいりますけれども、普通に社員の人もいる。用務員さんのような人も、みなおらねば会社という全体の機能は動かないわけです。ところが社長は値打ちがあるけれども、用務員のような人は値打ちがないというような考えは、これは人間の知恵なのです。だから人間の知恵は人間の苦悩を生み出す知恵でもあるわけです。だから愚という言葉を使われるわけです。それが人間の悩みのもとです。しかし頑張れ頑張れと、上へ上へあがれというように言います。それは人間を苦しめるもとでもあるのです。何故そういうかたちになっているかと言うたら、人間の相対の知恵によって造った社会だからです。

 だから人間はいつも優越感と劣等感な中を彷徨ことになるわけです。ところが「今」という、本当は昨日はもうもどって来ませんし、明日は来るか来ないか分からないわけですから、あるのは今です。今の自分に与えられた場所を生きるということを燃焼しきる、完全燃焼できるときだけが本当に平和なのね。本当の幸せなのね。ところが現在を見失って、未来ばかりを見ているとか、過去ばかり悔やむとか、そういうことをすることによって、人間は不幸になってしまうわけです。だから思うようになることが幸せで、思うようにならないことは不幸せというのは、これはみな「智愚」なのです。そういうものを破っていく。これは金子大栄という人の言葉ですけれども、「分を尽くして用に立つ」と。こういうことを言われます。金子大栄先生は華厳を学ばれたそうです。だから金子先生のものの考え方は華厳的なものがあると思いますけれども、分というのは、柱は柱、瓦は瓦、その役目を尽くして用というのはお役に立つという意味ですね。

 今ふと思い出したのが、広川にあるお寺の本堂が新しく建て直されたのです。光善寺のようにこういう鉄筋でなくて木造で立ちました。前の本堂が何百年も経って、だから早い時期から本堂を建て直さんとならんという、みんなのも問題だったらしいです。ところが門徒が少ないので先送りにしていたのですが、もうほっとくわけにはいかんということになった時に、門徒の山地主さんが何人もおられて、山の木を寄付するから木を切ればいいということになったそうです。そして少しでも安くして本堂が建たないものかという話になったそうですよ。幸いにご門徒だったか分かりませんが宮大工の棟梁さんがおられたそうです。その人に相談したら、その人はもう年配だったそうですが、喜びなさったそうですよ。「私は老いの身、長くはない。だけど私が建てた本堂は残る、これはぜひさせてもらわねばならん」と言って棟梁さんが喜びなさったそうです。それでまずその棟梁さんに立ち会ってもらって山に入ったそうです。棟梁さんの頭の中には設計図があるのね。この木はどこに使う、この木はどこに使えばいいと。それで何軒も山地主さんがおったから、広い範囲を棟梁さんが木の選別にあるいて、後は門徒の人が奉仕ですよ。木を切って境内の空き地に何年も置いておったそうです。そして次に製材所に持って行って材料が出来たわけです。棟梁さんは息子さんもおったから、仲間を連れて来て本堂を建てたわけですよ。ところが本堂が出来たころです。私が家内と一緒にお祝いを持って行ったのですよ。

 「大変だったでしょう。この本堂は材料を出し合って、みんなが力を合わせて建てたのだから、本当に真宗のお寺ですよ」と言ったら、息子さんが「しかし、先生大変でした」と。その大変な話の中で一つ五面白い話があるのね。山地主さんというのは、自分の山から出した木がわかるそうですよ。大工さんはその木の性質とかいろいろ考えて建物に使う木の場所を決めるわけでしょう。ところが山地主さんが「俺が出した木があんなところに使ってある」とか「あいつの山の木がこんなよい柱にしてある」とか言ったそうです。そうしたら大工さんは困るじゃないですか。棟梁が「もうご院家さんがどうかしてください」というものだから、住職が門徒の人を説得して「大工さんにまかせにゃあ」と言うたのだけれども。これはなかなか面白い話と思いますね。同じ柱でも目立つところにある柱と、目立たなところに使う柱と扱い方に文句を言うそうです。それは人間の知恵です。柱は与えられたところにおさまっていますよ。木を寄付した人は本堂のために寄付をしているわけですから、善いことをしているわけです。だけど文句を言うから善いことが良いことにならんわけです。それが知恵なのですよ。しかし、そこにしか人間は生きていないと思いますよ。どんなに理屈を教えて、これは観念だと。柱であろうと瓦一枚であろうと価値に違いはない、これが真実です。それがきちっとおさまって一つの本堂という全体があるわけですから、これが本堂の事実なのです。

 ところが人間は、その事実の中にいて、こうやって生きているということは、どれだけの縁によって支えられ、ここまで来たか分からんわけです。口ではお陰と言いながら、また事実に関わらず、そこにはいない。どこにいるかというと、自分の我執煩悩で握られた世界を自分の世界にしている。仏教が言いたいことはそういうことです。事実身はここにいながら、ここにいないわけです。自分のつくった世界を自分の世界にして善し悪しを言う。だから知恵というわけです。だから「如来の誓願の薬は、よく智愚の毒を滅す」と。

 人間の知恵が駄目だとか、これを否定すれば何の意味もありません。人間でありながら、しかもその智愚をどう超えていくか、ということは智愚を尽くすということです。尽くさなければ分かりません。私たちは一切の人間の知恵で片づくように、ここが本当の世界と思っているわけです。実は迷うということはどういうことかというと、本当のことでないことを本当のものと思っているから迷いでしょう。だから私たちは迷いということを言うけれども、どういうことかなかなか分からないわけです。だから死んだらどこか極楽があると言ってしまうと仏教でなくなるわけです。しかし私たちは生きている限りは迷いを離れ切れないでしょう。

 これが真実の世界、浄土でしょう。つまり仏のさとりの世界でしょう。だから、これが私にはたらくわけ。浄土はどこにあるかというたら在るというかたちでないです。これは法の世界ですから、それがこっちを照らす。そしてこちらに呼びかける。呼びかけられねばならん私と、呼びかけておられるお慈悲ですね。真がここで受け取れるか受け取れんかが信心の問題です。信心というのは本当に救われようのない我が身であったと、それが私の心だと、それに対して永遠な真実なる如来のまことがはたらいておったということが一つの世界です。だから機の深信というのは、救われようのない我が身を我が身と知る世界でしょう。それは、しかし救わずにはおれんという真がはたらいてくださらなければ分からんわけです。天から声がするという、そういうことではありません。それは善知識の教えになっているわけです。善知識の教えによって、なるほど救われないところにおる私だと分からしてもらった。分からしてもらったということは、そのまことの前に身を投げて「南無阿弥陀仏」と、それが信心の問題でしょう。そういうことがはっきりすれば、もう迷わないかと言うたらそれは違う。常に如来に計らわれて生きていく。そして命終わる時というのは未来を言っておるわけです。自分の限界を言っておるわけです。死ぬれば往けるという意味でなくて、限界を言っておるわけです。そういう誓願だと。

 だから仏教で救われる、救われんということがどういうことか、なかなかはっきりしません。それをこういうかたちで言ってあるということは、いま改めて住職のご苦労話しを聞いて、なるほど人間というのはたすからんようになっている。寄付したのだから文句言わんでよさそうなものを、やっぱり文句を言う。その文句を調整するのが大変でしたと、そこの住職が言っておられました。だから駄目だとか、仏法を聞いていたら俺がという心が起こらんのだと言っておるのではないのです。そうでしかないのです。だから、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」。つまり煩悩はなくなりません。我執煩悩で作り上げた世界が、自分の力で涅槃に行くなら・・。禅宗は「本来善悪なし」と言います。本来でいうならばそうでしょう。本来はあるがままのということです。柱は柱、梁は梁、瓦は瓦でしゅう。それはありのままです。それに善悪を加えるから面倒になるわけです。ところが人間は善悪しかないわけです。自己中心でいうわけですから、禅宗は「本来善悪なし」と言います。しかし、それは道理を言っておるわけで、言っている貴方がそうなっているのかといえば、それは・・・。だけど禅宗では「本来善悪なし」と、我執煩悩を離れて事実の世界に生まれたように言うけれども、そう簡単なものではないわけです。だから「煩悩即菩提」といいます。菩提は覚りですから、煩悩のままが覚りと頭でいっておるわけです。ところが事実はそうかと言ったら、そんなところにはいない。いないということも思わない。ただ思うようになるの、ならんのと、何でこんなに苦労をせんとならんのか、前の生でこんな種まきをしたのだろうか、いや私はこんな苦しまんとならん種まきをした覚えはない。だけど、あの人はいろいろな事をして、良かこつはしとらんと聞いたばってん、何で幸せそうに暮らしているのかとか、俺ばっかり何でこんな目にあってというのは智愚なのです。何故そういうかたちになってしまうのかというと、「真如一実の宝海」という、そういうものが我われにはないのです。信心のことを「真如一実の宝海」と言っておられるのですが、これは親鸞聖人の言葉です。私たちはそういうところにいないのですよ。だから、そういう世界に生まれさせようという信心の功徳ですよ。

正信偈 32-3

​正信偈に聞く

 32-3 

​平成23年1月16日

 蓮如上人が、

 

南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能(くのう)のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上尽深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。 御文 聖典P839

 

という言葉があります。

 だから、それを聞けば我われの我執煩悩がなくなる、そういう事ではないのです。むしろ、そんなところにはおりません。自ら苦しみを生んだということに、どこまでも気づかしてもらうということが、南無阿弥陀仏の法がはたらくということです。その時にはじめて私たちは二つの世界がわかるわけです。こちらは南無阿弥陀仏によって、本当にたすからんところにいるということ、そのことをどこまでも知らせて、救わずにはおれんと願われる如来の本願を信心の中身として、善導大師は、ひとつは救われん身として「機の深信」です。ひとつは救わずにはおれんという「法の深信」。これは矛盾です。

 

機の深信】

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来(このかた)、常に没し常に流転して、出離(しゅつり)の縁あることなし」と信ず。

 

というのですから、救われようがない。しかし、

 

【法の深信】

「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑いなく慮(おもんばか)りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。  『教行信証』 聖典P215

 

 すべての者を救わずにはおかんという法の深信でしょう。その矛盾したものが一つになっているのが信心だと、こういうように善導大師は云われるわけです。それは「仏法によって救われる」ということと、仏法が私たちに何を呼びかけておってくださるのかということです。何かご利益をもらおうとか、たすけてもらおうとか、それはどういうことなのかということが、なかなかはっきりしません。そういう意味をこういうかたちで教えてくださっているということです。テキストにもどりますが、

 

三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈迦出世の本懐は

ただ弥陀の本願をあまねく説きあらわして、末世の凡夫の機に

応じたることを明かしましますなり。(正信偈大意 聖典P752)

三国七祖

インド 龍児菩薩 西暦150年~250年頃

    天親菩薩 四世紀~五世紀頃

中國  曇鸞大師 四七六年~五四二年

    道綽禅師 五六二年~六四五年

    善導大師 六一三年~六八一年

日本  源信僧都 九四二年~一〇一七年

    源空上人 一一三三年~一二一二年

 

以上七人の高僧です。次に参考のために書いておきました。

 

日本仏教伝来 五三八年

聖徳太子   五七四年~六二二年

 

 なぜ、この七人を選ばれたのだろうかということがあります。今まで数えられないほどの沢山の高僧方が出ておられます。お釈迦様以後、親鸞聖人までインドであろうと中国であろうと日本であろうと、本当に沢山出ておられます。偉いと言えば弘法大師や伝教大師もおられます。しかし親鸞聖人はこの方々を選ばないで、なぜ三国の七高僧を選ばれたのだろうかということです。ここに「正信偈大意」の中で、蓮如上人が往生浄土を勧められた高僧は、インド・中国・日本にわたって多くおられる。その中から親鸞聖人は七人を選ばれた。三国の祖師たちは念仏の一行を勧めたということが一つ。そして、ことに釈尊出世の本懐をただ弥陀の本願をあまねく説きあらわして、末世の凡夫の機に応じたることを明かしてくださったとおっしゃっています。そして、そうされた人はたくさんはおられないと。仏教をいろいろな面から見ていかれます。だから弘法大師はお念仏を勧められたわけではありません。だからそういうことを考えてみますと、本当に釈尊出世の本意というものが、お釈迦様が何のためにこの世に出てこられたかということについて、弥陀の本願を明らかにするために出られたのだというところに、自分の仏教の座りを持っておられる人は、そんなにたくさんはおられないわけです。

 それと七高僧には繋がりがあるのです。その教えを継承されているつながりというものがあるのです。そしてもう一つは著作があるということです。やはり書物がないと、いろいろ伝説では困るわけです。こういう人だった、ああいう人だったでは困るわけです。だからきちっした書物をかいておられるということ。もう一つは「発揮」があるということです。その人がお念仏の教えを自ら信じ人にも勧めて書物を書いておられる。しかし、この人においてはじめていわれた言葉、その人独自の説があるということが大事なのです。だから正信偈でいえば、龍樹菩薩でしたら「難行道・易行道」。そして自ら易行道を選ばれた。だから易行道・難行道ということは龍樹菩薩の発揮なのです。他の人は言っておられないわけです。だから著作があるということと発揮の説があるということ、それから三番目は浄土教に対する信仰生活が純粋であること、ひとえに浄土の教えによって救われようとなさった。だから、説としていろいろおっしゃったということだけでなくて、その人の生き方が純粋に浄土往生を願われたかという三つを挙げてあります。

 

  • 信仰生活が純粋である。お念仏の教えに対してひたむきである。

  • 著作がある。書物が書いたものがないと伝説になる。

  • 発揮がある。独特の説がある。そして事実、お念仏の仏法に対して信仰生活は純粋である。

 

 その三つが、たくさんおられる高僧の中から、三国にわたって七人の高僧を選ばれた基準

といいますか、親鸞聖人の依りどころがあるのだということが言われております。そしてお釈迦様がこの世の中にお出ましになられた出世本懐は、いろいろな説があるけれども、そういうことは、我が身自身がお念仏の教えによってのみ救われうる人間だと、機に応じる念仏の教えによってのみ、救われる自分であるということを明らかにしておられるという意味でございます。こういうことが非常に大切だと思いますね。龍樹菩薩は八宗の祖、第二の釈迦と言われております。八宗というのは、日本の宗派全部ということでしょう。教祖は釈迦です。そして第二祖は龍樹菩薩。だから龍樹という人がおられなかったならば、大乗仏教はなかったであろうと言われております。

 日本にある仏教は全部大乗仏教ですから、どの宗派でも龍樹菩薩が第二祖です。親鸞聖人は、皆がそういうから、お釈迦様の次に龍樹菩薩を並べたということではないのです。だから、他の宗派が龍樹菩薩を第二祖としている意味と、親鸞聖人の場合は全然違うのです。そのことは、来月から龍樹菩薩を勉強していく時に、皆さんと一緒に考えていかねばならないと思いますけれども、他の宗派が龍樹菩薩を並べているのとは意味が違うのです。親鸞聖人は、はじめに浄土往生を願われた人として龍樹菩薩を選ばれます。それは、難行道・易行道を示して、易行道こそが自分の救われる道だということを明確にしておられる。他の人は難行道ですから、そういう違いがあるわけです。だから八宗の祖といわれる龍樹菩薩を、親鸞聖人は第二祖におかれる理由は何かということは大事な問題になるわけです。

 こうして七人の高僧が選ばれて、そしてそれが念仏の仏法を縁としてくださった。そしてこれが大無量寿経に説かれる本願の歴史であり、それが私のところまでとどけられたのだという喜びを、ここで述べていらっしゃるわけです。今日のお話はここまでにします。

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