正信偈に聞く
35-1
平成23年4月30日
皆さんこんにちは。東日本大震災が起きて、被災地の皆さんは大変ご苦労なさっておられるということは、皆さんもご存知の通りでございます。今回の大震災と津波だけならば、後片づけが済めば復興ということに取り掛かれるわけですが、ご存知のように原子力発電所も被害を受けて、放射能が漏れ出たという事態になりまして、二十キロ圏内は立ち入り禁止ということでございます。そして、まだ行方不明者が一万何千人おられるのに探すことさえ難しい、非常に悲惨な状態になっております。
地震と津波は天災です。ところが原子力発電所の放射能漏れの場合は明らかに人災です。しかも、何時片づくか分からないという、これは非常に深刻な事でないかと思います。ロシアがまだソ連だったころチェルノブイリ原発事故がありました。そこにある核燃料自体をどうすることも出来なくて、その建物全体を覆うようにしてコンクリートで固めて、放射能を閉じ込めてしまうというかたちにしておるようです。ところがコンクリートは老朽化が進むとヒビ割れが生じてきます。そうなれば放射能がそこから漏れてくるわけですから、これは国際的な問題になりました。方法としては、その上にもう一つ何かを被せようかという話になっておるようです。とにかく、この核燃料というのは永遠に危険が伴うわけです。そういうものが発電所として使われている。
しかも公害がない、そして単価が安く電気ができるということから、現在日本にも沢山の原子力発電所があるわけです。今我われの生活は電気の無い生活なんてことは考えられないわけです。しかも日本は輸出で経済を持たせておるわけですから、自動車も電気製品もみな輸出して国の経済が成り立っているのです。その輸出する製品を作る動力は全部電気でございますから、そういうこと等を考えますと、非常に暗い予感を持たせるような事故です。本当に天災と人災が重なって、特に東北の人たちは苦しんでいらっしゃるわけです。政治は勿論、いろいろなかたちで多くの人たちが動いておられますけれども、先が見えない状態になっております。こういう時に、私たちは日々念仏の仏法を拝聴しておるわけですが、お念仏の仏法と東日本大震災と、どう関係があるのかないのか、あるとすればどういうかたちがあるのか。今あちこちで義援金を集めていらっしゃいますが、私たちが出来ることといえば義援金を出させていただく以外には何もできないわけです。しかし親鸞聖人は、こういう問題をご縁にして、親鸞聖人の信心に非常に深い目覚めがあったということが伝えられておるわけです。それはどういう事なのかということを、今日は皆さんと一緒に勉強していけたらと思って、この刷り物を作ってみました。これは東本願寺から出ております「宗祖親鸞聖人」というテキストの中の一部分です。そして次が「恵信尼消息」の抜粋です。この二つは同じことが書いてあります。
『宗祖親鸞聖人』
(二)正定聚に住す
建保二年(1214年)、家族とともに越後から関東に向かわれる途中、上野(こうずけ)佐貫(さぬき)の地で、親鸞聖人は浄土三部経を千部読誦することを思い立たれたという。そのころ、関東一円には飢饉がひろまり、人々は地をはうようにして、その日その日の命をつないでいた。そして力つきた人びとがつぎつぎと倒れていく。その姿から目をそむけることのできなかった聖人は、ただひたすら経典を読誦して、世の平安を祈らずにはおられなかったのであろう。
しかし、どれほどいとうしみ、不憫に思っても、その思いのままにすべての人びとをたすけることはできない。その事実があらためて、聖人の心を重くとらえ、聖人は、浄土三部経の千部読誦の行をすてられた。
この体験は、聖人に、いよいよ本願念仏の一道を生きとおすことを決定させたのである。その後、親鸞聖人はただひたすらに、本願の名号に徹していかれ、人々が正定聚に住するものとなることを願いつづけていかれたのである。
ここで「建保二年」と書いてある年は、親鸞聖人の歳でいいますと四十二歳です。親鸞聖人は、二十九歳の時に比叡山を降りられて法然上人のお弟子になられます。そして天台宗の僧侶から念仏の行者になられたということはご存知の通りでございます。ところが親鸞聖人の歳でいいますと三十五歳の年に奈良や比叡山の既成教団が朝廷に願い出て、法然上人の教団が潰されるという「承元の法難・じょうげんのほうなん」が起こっております。その時に親鸞聖人も高弟の一人として越後に流罪になられます。それが三十五歳の時です。そして三十九歳の時にその罪は赦されます。法然上人は土佐に流されるわけですが、実は高松までは行かれたようですけれども、いろいろな方の配慮で大阪府箕面市(みのおし)の勝尾寺におられたのです。それで法然上人も足かけ5年目に七十九歳の時に赦されて京都に帰って来られます。帰られてすぐに八十歳になられます。その年の1月25日、八十歳で京都で亡くなられます。
法然上人の教団は専修念仏停止というふれが出ましたので、徹底的に潰されておるわけです。法然上人が亡くなられた後の、そのお弟子の人たちが力を合わせて、新しい教団の再興ということに努力されます。浄土宗二代目を継いだ人は久留米の人です。久留米に善導寺という寺がありますが、そこの開基が聖光房弁長という人です。ところが親鸞聖人は法然上人と一緒に流罪を赦されたわけですが、親鸞聖人は京都に帰っておられません。つまり教団再興のために法然上人の門弟はみな苦労をしておられるわけですが、それに加わっていらっしゃらないわけです。数年越後におられて、そして親鸞聖人は関東に移っていかれます。
ここにも書いてあります建保二年は、親鸞聖人が四十二歳の時です。「家族と共に」と書いてあります。つまり親鸞聖人は結婚されておられるわけです。子供が六人おられるのです。四人目の子供さんが信蓮房という人です。この方は親鸞聖人が三十九歳で流罪が赦された年に生まれておられるのです。だから親鸞聖人は何時結婚されたかということがよく問題になりますが、今日はそれには触れませんけれども、ともかく結婚されて、当時四人目の子供がおられたわけです。建保二年、親鸞聖人四十二歳ということは信蓮房は四歳です。そういう子供と共に妻を連れ立って関東に移っていかれるわけです。途中、信州信濃の善光寺に依られたという伝説があるのですが、はっきりした証拠はありません。
ここに「上野佐貫」と書いてあります。上野というのは今で言えば群馬県です。親鸞聖人は新潟県の越後から群馬県を通って茨城県の常陸へ、茨城県の県庁の所在地は水戸市です。その水戸から少し西に行ったところに稲田というところがあります。そこに二十年ほど滞在されました。上野は今でいう群馬県です。ここを通って常陸の国稲田に来ておられるのです。その途中、ここの佐貫というところを通りかかって、皆が飢饉で苦しんでおられる姿を見られて、何か自分に出来ることはないかと思われるのですが、親鸞聖人自体なす術もないのです。親鸞聖人が常陸に向かって行っておられる途中、親鸞聖人は浄土三部経を読むという行の力によって飢饉に苦しんでいる人々を救おうとなさったわけです。
今、五木寛之さんが、西日本新聞に「親鸞」の後編を書いておられて、ちょうど三部経を読むというところだそうです。小説ですが、「皆苦しんでいるのに、あんたら坊さんは何もしないのか」というところがあるそうですね。親鸞聖人が三部経読誦をなさったということは間違いないことです。お経を読めば、そこに苦しんでいる人を救う何か力があるという考え方があるわけです。そして4・5日なさってお止めになったということが言われておるのです。このテキスト『宗祖親鸞聖人』(二、正定聚に住す)のもとになっているのが『真宗聖典』です。恵信尼という人は、親鸞聖人の奥様の名前です。親鸞聖人は四十二・三歳の時に常陸に行かれて約二十年関東におられますが、六十二・三歳のころに家族を連れて京都に帰って来られます。ところが「恵信尼公は晩年、故郷の越後へ帰っておられる」と辞書には書いてありますから、恵信尼という方は越後の人であったと今の学者の人たちは思っておられるようです。また、京都から越後へ帰って行かれた理由としていろいろ説があるのですが、越後に息子さんがおられて、その息子さんの奥さんが子供を残して亡くなられた。それでその息子さんが苦労しておられるということで、お母さんが孫の守りのために越後に行かれたという説もあります。親鸞聖人はその後、奥さんと会うということはありませんでした。京都で、弘長二年(1262)十一月二十八日、九十歳で亡くなられます。東本願寺は、今でも御正忌報恩講は旧暦の十一月二十八日に勤めていますが、西本願寺は一月十六日の新暦になおして勤めておられます。
親鸞聖人が亡くなられる時に、臨終を看取った人は末娘の覚信尼という人でした。この方は、親鸞聖人が関東におられた時に生まれた方ですが、一緒に京都に帰っておられます。この人は二度結婚をされています。最初は日野広網という貴族と結婚されてお子さん二人が生まれています。ところが旦那さんが亡くなられるのです。そして二度目の結婚をされます。二度目の旦那さんとの間にも男の子ができます。臨終を看取ったこの覚信尼さんが、親鸞聖人が亡くなったということを越後のお母さんに知らせているようですが、その手紙は残っていません。しかしお母さんが娘の覚信尼に出した手紙が残っています。「恵信尼消息」といわれておるもので、大正十年に西本願寺の蔵の中で発見されました。このお手紙が見つかるまでは、親鸞聖人が三部経千部読誦をなさったということは誰も知らなかったのです。学者の間でも親鸞聖人は二十九歳の時に、法然上人の教えによって南無阿弥陀仏ひとつということははっきりされた。それから亡くなるまで、ただ南無阿弥陀仏一筋に生きていかれたという話になっているわけです。ところが必ずしもそうではない、そういうことと三願転入ということと関係があるのです。それが大正十年のある学者の発表によって明らかになった。
正信偈に聞く
35-2
平成23年4月30日
「恵信尼消息」
善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。さて、臥して四日と申すあか月、苦しさに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、「たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。
『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。
弘長三年二月十日 恵信 真宗聖典(第二版 P767~758)
「善信の御房」というのは親鸞聖人のことです。「寛喜三年」というのは親鸞聖人五十九歳です。だから関東におられた時です。そして何年かして関東を発って京都に帰られるのです。「寛喜三年四月十四日、午(うま)の時ばかりより、」午の時というのはお昼ごろということです。今でも正午というでしょう。昔の一時(いっとき)は二時間ですから、午の時というのは11時から午後1時までです。ちょうど真ん中が12時でしょう、それで正午というのです。これは今も残っておるわけです。牛の時というのはお昼ごろという意味です。「風邪心地すこしくおぼえて、」なんとなく風邪具合が悪くなって、「その夕さりより臥して、」寝込まれるわけですね。夕方から寝込まれて、「大事におわしますに、」非常に危険な状態だったと。「腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、」「天性」というのは生まれつきという意味だそうです。親鸞聖人という人は病気になっても看病人を寄せ付けて、頭を冷やさせてとか腰をさすれということは言わない人であったという意味です。「ただ音もせずして臥しておわしませば、」音も立てないでじっと寝ておられた。天性と書いてあるのが親鸞聖人はそういう人だったのかなあと伺わせる、奥さんから見た親鸞聖人です。しかし、「御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。」というのですから熱が出ているわけです。非常に高熱が出て、「頭のうたせ給う事もなのめならず。」これは頭痛の激しさも一通りではありませんと意訳はしてあります。だから非常に状態が悪いわけですね。熱も出て。そして「臥して」寝込まれて、「四日と申すあか月、」だから四日目の夜明けです、「苦しさに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、」だから奥さんは隣の部屋でも寝ておられたのでしょうか、側に寄りつけんわけですから、そうしたら夜明けに「まはさてあらんと」今はそうであろうという意味です。この奥様のお手紙には「今」という字が書いてないのです。ひらがなの「ま」になっている。「まはさてあらんと」、「ま」というのはどういう意味だろうかと学者の人が、当時の言葉を調べられて「今」ということであろうというので漢字が当ててあるわけです。しかし奥さんの手紙は「今」という字は入っていません。この原本は西本願寺が持っておるのです。
影印本(えいいんぼん)という複製されたものがあるのです。この本を見ると八十のお婆さんが書いた手紙ですけれども、文字が非常に雄渾(ゆうこん)なのですね。男のような字です。仮名が勿論多いのですけれども、非常にのびのびとしたいい字です。親鸞聖人の奥さんだったということもあるでしょう。この人はどういう出自の方であるかということを、いろいろ言われておるのですけれども、そうとう教養のある人だっただろうということは分かります。その他の手紙に「日記によると」と書いてある文面があるのです。日記を見るとどういう事があったということが書いてあるのです。だから日記を書いておられたわけです。「「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、」たわごとですかという意味です。「たわごとにてもなし。」いやたわごとではないと。「臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。」親鸞聖人は熱が高いですから、ちょっと夢うつつのような格好になっておられたのでないかと思うのです。要するに夢の中で一生懸命『大無量寿経』を読んでいるというわけです。夢を見てすぐに忘れる夢もある、そういう夢です。夢が覚めてから仰るわけです。とにかく二日目ごろから、「『大経』を読む事、ひまもなし。」というわけですから、一心に読んでいると。「たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。」、「きららかに」というわけですから、「はっきりと」ということです。「つぶさに」そのまま「見ゆる」と、そういう体験があったのですね。それで目が覚めてから、その時の印象が非常に凄いものですから、「さて、これこそ心得ぬ事なれ。」どうしてああいう夢を見たのだろうか、どうしても納得が出来ない。「念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、」つまり夢というのは、私たちの心の深いところにあるものが出てくるというわけですから、親鸞聖人が夢の中でずっと何日も寝ていて、四日目に目が覚めて言っておられるわけです。眼が覚めて時間は経っているのでしょうけれども、長い間三部経を読誦されているわけです。そうしますと、どうしてああいう夢を見たのだろうかということを親鸞聖人は思われたということです。しかも一生懸命、無我夢中でお経を読んでいる、どうしたことだろうかと。その時に、「念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、」いったい南無阿弥陀仏以外に、私の心に係る何かあるのだろうか…なんであんな夢をみたのだろうかということを思って、「よくよく案じみれば」考えてみると、「よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、」というのが「建保二年」のことなのです。つまり親鸞聖人が四十二歳の時です。夢は五十九歳の時に見ておられるわけです。そうして現実に佐貫でお経を読まれたのは四十二歳ですから勘定が合うわけです。「そんかみ」その以前です。「げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、」、「げにげにしく」というのは、もっともらしくと意訳は書いてあります。いかにももっともらしく三部経を千部読んで、衆生利益というのは、今苦しんでおる人たちを救いたいと思って読み始めていたのを、「これは何事ぞ、」これは何事かと。「自信教人信、難中転更難とて」、これは善導大師の言葉です。「法事讃」という書物の中にある言葉です。それを親鸞聖人自ら言っておられるのです。「身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと。」「必ず」というのは「いちずに」と意訳に書いてあります。一心にお経を読まんとするのかと、これは親鸞聖人の四十二歳の時の反省を言っておられるのですよ。「思いかえして、読まざりしことの」と、読まなかったことがあったと、「さればなおも少し残るところのありけるや。」ここのところが、途中でやめているでしょう。「されば」というのは「かえってそのために」と意訳はしてあります。途中で止めていますから、「かえってそのためになおも少しのこるところを」というところを読もうという心もちも一度思い詰めると、それを改めることが難しいとわざわざ「註」を入れています。
だから一生懸命読んでいたのを止めたわけです。その時に何か読まねばならんという思いが残っておって、今も残っておって、それがこういういような夢のような形で出てきたのだろうか。その時に「人の執心、自力の心は、」と言っています。人間の執われの心です。自力の心というのは、念仏は他力です。つまり我われは他力、願力によって救われるよりほかに救われる道はないわけです。そうでしかない私が、私のお経をあげる力で、積んだ功徳でもって人をたすけようとする。そういうことが他力本願のまことひとつによって、我も信じ人も信じて共に救われていくという道こそが本願の仏教と、師法然上人から教えられておりながら、なお自分が行を積んで、その人を救おうとする。そういう在り方は、ここでは「自力の執心」と言っておられるわけです。
人間は人間では救えない、本当に人間を救うのは如来の本願以外にはないのだと教えられながら、やっぱりこういうことをしてしまう、そういう自分に気づいて止めたわけです。それが今になって、また夢の中で出てきている。なかなか人間の自力のこころは、「よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。」、これは四十二歳の時の経験ですね、思い出です。「さて、臥して四日と申すあか月、今(ま)はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。」と流れるほど汗をかいてと書いてあります。汗をかけば熱が下がると昔からいいます。「『三部経』、げにげにしく、」もっともらしく、「千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、」武蔵の国は今の東京です。上野の国は今の群馬県です。「佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。」四十一・二歳のころに佐貫を通っているのです。だから信蓮房は四つの歳だったかなということです。末の歳は親鸞聖人が罪を許された歳です。親鸞聖人は「弘長二年」に亡くなっておられますから、弘長三年は翌年です。「二月十日、恵信」と書いてあります。これは恵信尼公消息の中の一つです。その中に三部経読誦の問題が出ておるのです。これを考えていきます時に、私たちが心得ておかなければならんことがあるのです。なぜ、そんなことを親鸞 聖人がなさったのか。そして、なぜそれをお止めになったのだろうかということです。
仏教は538年に日本に来ました。ところが日本には神道という民族宗教があったわけです。そこに仏教が入って来ました。神道の場合は単なる宗教ではないのです。これは政治と一つになっているわけです。だから当時の日本は「祭政一致」の政治形態をとっていました。何かあれば神に祈る。そして神のご加護をいただく。何かとんでもないことが起きて来れば神罰ではないかと、こういうかたちで神道と政治が一緒になってきているわけです。そして一般の人から言えば、神道は祈願と感謝です。人間を超えた何か尊い存在として神ということを考えているわけです。だから神様というものに祈る。だから五穀豊穣を祈り国家安穏を祈る。そして五穀豊穣が思うように満たされた時には感謝する。ですからお祭りは春は祈願で、秋の祭りは感謝です。だから一般庶民の人は仏教と違って回心ということはありません。そして仏教によって我が身自身の人生が厳しく問われるということはありません。とにかくそこに生れれば氏子なんです。七五三だと言って節句をするわけです。そして正月になると初詣です。そして春秋のお祭りに参加する。宗教というのは、どこまでも自己の罪とカ、人間の在り方とか、人生とは何かとか、そういうものを問うのが宗教ですが、神道はそういう宗教ではないのです。そういう面はないわけです。そしてどこまでも祭政一致ですから、天皇様のなさることは、いつも国家安穏、五穀豊穣であることを神に祈るというのが天皇様のお仕事です。だから、今はそんなことは言わないでしょうけれども、私たちは子供のころは、政治は「政・まつりごと」と言っていました。しかし基本的には今の天皇様も政をなさっておられるのではないですか。天皇様は今は象徴ですから政治には関わっていらっしゃいませんけれども、昔はそうやって神道はきたわけです。だから神道はきちっとした教えはありません。民族宗教は教祖がいませんから、きちっとした聖典はないのです。ただ神道も長い歴史の中で、仏教と儒教の影響を受けて神道の教義がつくられていったということは歴史で習いました。とにかく神道の中には仏教が入ってきたわけです。
正信偈に聞く
35-3
平成23年4月30日
仏教というのは『転迷開悟』という教えです。迷いを転じて悟りを開く。お釈迦様自身が二十九歳で出家して三十五歳の時に借りを開いておられます。八十歳で亡くなりますけれども、その四十五年間多くの人々に何を説かれたかというたら悟りの中味を説いた。それが『法』でしょう。法というのは、お釈迦様によって悟られた中身が法ですから、それによって私たちが迷いを転ずるというところに仏教の教えの意味があるわけです。
ところが、神道には始めからそういうものはないわけです。人間自身は言わないで無条件で神というものを認め、神を祈り感謝する。そうすると神の力によって五穀豊穣がなされ国家安穏が行われると。だからもしも祈りが届かない時は、つまり災難が起きた時は、神の怒りだから神に祈らねばならんという、これが神道でしょう。そこへ仏教が入って来ます。そしたら結局、国家的であろうと個人であろうと自分の心でもって仏教を受け取るよりしょうがないのです。その心がひるがえる(迷いを転ずる)というようなことは、これは大変なことです。だから日本人はどういう形で仏教を引き受けたかというたら、仏様という名前の神様として引き受けたわけです。だから神に祈り仏に祈るというかたちです。そして国は、お坊さんを養成します。ところがこのお坊さんは官僧なのです。そして国家が僧侶の数をきちっと決めます。だから律令という法律がありますけれども、そこでは私度僧(しどそう)ということを徹底的に禁じています。私的にお坊さんになることを禁じています。朝廷が僧侶を養成し、寺を造って僧侶は寺の中で修行をさせ学問をさせます。そうすると特別な人ができるわけです。その人に加持祈祷させれば神道よりも効き目があると。こういう格好になってくるわけです。
だからいつの間にか仏教は『転迷開悟』というよりも、日本では神仏泥淆(しんぶつこんこう)になって、神様と仏様が一緒になっている。そうするとお坊さんの仕事というのは加持祈祷です。だから天皇が病気になられれば祈る。そして飢催や疫病が流行れば神主さんも坊さんも祈る。坊さんの方が教義もありますから、坊さんの仕事が大きな仕事になってくるわけです。その時、お坊さんは迷いとか悟りということは言わないわけです。そして国は、一般の人への布教をさせませんでした。奈良時代でもさせませんでした。
そして今度は、平安時代になって傳教大師や弘法大師が出て来られますが、奈良時代の失敗を反省して、山の仏教になりました。そうしますと、山の上の特別な人が修行し学間をしていく、それはその人、個人の問題です。
一般の人との関係は祈りです。こういう格好で来たわけです。その時に、それは違う、どんな貴族であろうと天皇であろうと、庶民であろうと、みなそこに「仏性」がある。全ての人に純粋な心がある。だからその心に教えを通して目覚め、悟りを求めるという形で教えを説いたのは法然上人が初めてです。
法然上人が出て来られるまでは、僧侶は一種の神道と集合したシャーマンです。こういう事になっておったという問題があるのです。じゃ、なぜ偉い坊さんがたくさんいたのに、こういう格好になってしまったのか。それは「自利と利他」の問題です。問題は大乗仏教ですから、自分自身が悟りを求めて自分が悟るということは自利です。しかしそれだけでは大乗にならんわけです。全ての人々を救わねばならんわけです。「利他」の間題があるわけです。
ところが法然上人は、お念仏の仏法で、全ての人々が念仏他力によって救われるということを仰るまでは、利他といったって、修行して学間をしなければ悟れないのです。結局、その人たちが悟るといっても、お坊さんにならなければしょうがないわけです。しかし放っておくわけにはいかないわけです。みな苦しんでおるわけですから。そうすると利他の行として加持祈祷をするわけです。だからこれを方便というのです。つまり真実の仏教に入れしめるための手立てとしてやるというのですけれども、現実はお坊さんの仕事になってしまった。こういうところに日本の仏教の非常に大きな問題があるわけです。そして親鸞聖人も比叡山の二十年間の修行時代にそれを行じているわけです。
しかし、人は人を救えないわけです。それじゃ『法』によって救われるといっても、出家して悟りを求めるのであるならば、一般の人には無縁になります。その時に、全ての人が平等に浄土に生まれて、仏になるということをはじめて教えたのが法然上人です。だから、法然上人を釈迦以来の人というのです。
法然上人が日本に出て来られたという事は、日本の仏教の歴史の中で非常に画期的なことなのです。だから法然上人の教えを聞いて、親鸞聖人も本当にそうだと受け取りながら、やっぱりそこで苦しんでいる人を見たらどうするかという「利他」の問題が出てくるのです。親鸞聖人は、東京の都知事さんのように東日本大震災は天罰だと言って、何か自分が神様の所におるような言い方をするような人ではないのです。親鸞聖人は苦しむわけです。みんなが苦しんで居る、親鸞聖人も苦しむわけです。そして比叡山でやっていたことを決行して、「あぁ、間違っていた」と。被災して苦しんでいる人々がいるけれども、これは独り独りの宿業です。災害に遭って死ぬ人もおれば、そうでない人もおる。しかしその人が死を迎えた時に、その人がどこで引き受けることができるのかという問題は、教えが無ければ人間の根性ではできないわけです。そのことを、どこまでも全ての人々の上に明らかにしていった人が法然上人です。その教えによって親鸞聖人は救われたわけです。だから『自信教人信』です。「念仏申してください」と、こういう形で親鸞聖人は気づかれていった。そこに「正定聚に住す」という言い方で書いてあります。つまり「利他」の問題です。
柳川にもあちこちにお不動さんの寺があります。もう亡くなりましたけれど、うちの御門徒で、お不動さんのお寺に出入りしていたおばあちゃんがいました。その寺には結構年寄りが来て、一緒にお茶を飲みながら老人会になっておったようです。そして何かあった時は拝んでもらうということをなさっておったそうです。そういう時に、必ず「あの方は高野山で何年も修行をした人げなばん」と、だからその人に拝んでもらうと御利益があると言う格好になってくるのです。そして神仏混淆なのです。つまり自力聖道門、竜樹菩薩で言えば難行道です。難行道が利他をどう顕すかということが悩みです。これが浄土の教えというものの持っている意味です。だから浄土の教えがなければ利他ということは、現実には方便に止どまってしまうわけです。方便に止どまればいいけれども、坊さんの主体が方便に止まってしまう。つまりそれは外道です。自力聖道門の教えが、いつの間にか外道に転落していく。祈ったり拝んだりは外道でしょう。そういう問題を問うていこうとしたのが親鸞聖人の教行信証の化身土巻です。親鸞聖人はただ学間の中から生み出して来たというよりも、こういう形で苦しみながら、本当にそういう問題と真向きになって、そしてなるほどと……………。テキストでいいます、
しかしどれほどいとおしみ、不憫に思っても、その思いのままにすべての人々をたすけることはできない。
『宗祖親鸞聖人』(二、正定聚に住す)
慈悲に聖道浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というはものをあわれみ悲しみはぐくむなり。
しかれども思うがごとくたすけとぐることきわめてありがたし。
(歎異抄 第四章)
と親鸞聖人は仰っておられます。
この歎異抄の言葉の背景に何があるかといったら、恵信尼消息に書かれているような問題が背景にあるわけです。こういうものを通して親鸞聖人の第四章のような言葉が出てきておるということを、私たちは、はっきりさせていかねばならないと思います。結局、一人一人の問題は如来の本願に依る以外に、例えどのような境遇で、どのような目に遇おうと、そこで念仏によって救われていく。救われるということは、このこと一つに遇うためのご縁であったという意味をもたれなければ救いになりません。宿業であれば何が出てくるか判りません。
三陸という所は、日本の中でも一番災害の多い所だそうです。明治・大正・昭和と度々、地震・津波があっているのです。現在はプレートがどうなっていると科学的に説明なさいますけれども、被災を受ける方からすれば、それどころじゃない、とにかく津波が来るわけです。地形がリアス式海岸ですから集中して波が押し寄せて来ますし、多くの川があって、海と川の畔に住宅が建っているわけです。そこを津波は押し寄せて来るわけです。こういうことが度々起きて来ている。ですから、高い所に石碑が建っていて、津波が来る時は、此処までは押し寄せては来ないから、ここから下に家を建てたら災害を受けると書いてある。
ある小学校は、もしも津波が来た時には高台に避難するためには、大回りになるから教育委員会と話し合って、そこへ避難するための陸橋を作ったわけです。今回、津波が来た時には、みんなその陸橋を通って高台に避難しから誰も死ぬものはいなかったという事でした。これは、一人一人で言うならば、独り独りの宿業です。みんなと言うと、なんとなくぼやけてしまいますけれども、結局は独り独りの宿業です。
曽我先生の言葉に、「キリスト教は、キリスト一人に人間の罪を背負わせて十字架にかかった。キリストが十字架にかかったということは、キリスト教では一人の十字架ではないのです。全人類の罪をイエスキリストが背負っているという象徴なのです。 キリスト教は、キリスト一人に十字架を背負わせて、その恩龍を喜ぶのがキリスト教の信仰である。ところが親鸞聖人の仏教は、一人一人が、独り独りの十字架を背負う力を頂くのだ。」と、こう言うのです。人間は、一人一人が十字架をもっているわけです。逃れられないものをもっているわけです。しかし、私たちは都合の良いときは幸せ、都合の悪いときは不幸せという形でしか人生を受け取れないわけです。
それが全部、私が受けていかなければならんものだということを改めて知らせて、それに不足を言ったり愚痴を言うたりしている「俺が」というものに対して、如来の大悲がかかっておるのだということを頂いていくことによって、不足愚痴を言わんようになるということではなくて、不足愚痴を言うような者ですけれども、それも大きなお慈悲の中で、私が背くことで一番悲しんでくださるのが如来様です。そういう形で十字架を背負う力を頂く。だから自分が不足、愚痴を言わんようになるということではないのです。縁があれば何が出てくるかわからない。しかしそこに如来の大悲によって願われながら、それに背くことしかできない私を、如来はいよいよ捨てられない、摂取不捨ですから。
そういう如来の大悲を頂くことによって、私がひるがえる(転迷開悟)ことができる。善い悪いではなくて、みんなこのこと一つに遇わして頂くためのご縁でしたとひるがえっていくことができる。そういう仏教が浄土三部経の仏教です。そのことを「我も信じ人様にも信じてもらう以外に我も助かり人のたすかる道はない。にもかかわらず私が特殊な人間になって、そして人を救おうと三郎経を読む。それは方便です。しかし、それは外道に転落する。こういう問題をもっておるということを、親鸞聖人はこういう経験を通して明らかになさった。
たしかに被災なさった方のことを思うときに、我々は心痛みます。家族一緒に逃げていたら津波が襲ってきた。その時に手を繋いでいたのに、いつの間にか手を離してしまって、相手は津波に流され自分は助かった。「私だけ生き残った」と言っています。だから、そこに手を握っていた人が流されて、助けてあげられなかった。「私だけが生きてしまった」。この事は一生涯付きまとい、その人を苦しめるでしょう。しかし、誰もどうすることもできません。その人からすれば「自分だけが生きてしまった。私は本当にこのまま生きていていいのだろうか」という思いがあると言っています。その気持ちは判ります。
人間の分別で言えば、死んだ人の分だけ貴方が生きれば、死んだ人も助かるのだと、いろいろ言います。かしそういう形で本当は片付かないですよ。いつか小宮さんが言っておられました。小宮さんは戦時中、戦地で玉が飛ぶ中を頭を下げて前進していたら、右にいた人も左にいた人も鉄砲の弾に当たって死んでいく。不思議と自分だけ玉が当らないで生きている。あれはどうしてやろか…と。誰もそのことに答えを出すことはできないし、誰かが答えを言うてみたところで、それは何の答えにもなりません。あの人にはこういう因線があるからと言ってみたところで、それは脆弁のようなもので、そういうことでなくて、事実がそうなんです。しかし私だけがたすかったという思いは、どうしても残るだろうと思います。こういう問題は、人間の思いの中では片付きません。
人間の思いを超えて、人間にはたらいておる真というものによって、私が苦しんでおることの意味をはっきりさせる以外に道はないわけです。一人一人の問題として南無阿弥陀仏の教えは説かれておる。それは私たち一人一人の問題です。そういうものをはっきりさせる事が、結局は災害で亡くなっていった人々も救われていきなさる道だと。こういうことになるわけでしょう。
親鸞聖人は五十九歳の時に十数年前のことを思い返すような形で夢を見られた。それについて、ある本を読みますと、親鸞聖人が見られたのは「寛喜三年」と書かれておるのです。ところが「寛喜二年」から天災があって、日本国中激しい冷夏だったそうです。特に関東では六月・七月に霜が降り雪が積もったというのです。これ旧暦でしょう。新暦で言えば真夏ですよ。真夏に関東では霜が降り、雪が積もったというのです。それで穀物は壊滅、飢饉や疫病が流行り、京都も鎌倉も餓死者が満ちたと書いてあります。それが「寛喜二年」です。親鸞聖人の目の前で起こっているわけです。「寛喜三年」は、今度は雨が降らない。だから二年続きの大不作。餓死者が次々と出てくる。
ですから幕府は米を放出(お救い米)しますけれども、しかしそういう事も焼け石に水だったようです。
その後に、「人身売買の許可を出す」と書いてある。だからそういうことがあったと思います。建前としては、人身売買は禁じておったのでしょう。それをあらためて許可するということは、お百姓さんは食べる米がないわけですから、死ぬるよりしょうがない。だから娘を苦界に発る。そういう形で金を得て、家族が生きていくしか方法がないわけです。それをわざわざ許可を出したということは、結局は、そうするより他にみんなが生きていくすべがないわけです。
そういうことが観量聖人の目の前で起こっているのです。だから親鸞聖人にとってみたら、上野の国で三部経干部読誦をしたあの時と同じような状況が十何年経って、また起きておるわけです。たびたび起きたでしょうけど、特に激しいものが起きておるのです。親鸞聖人の夢の中に出てくるということは、そういう事と関係があるのだろうと思います。
親鸞聖人は、飢饉で餓死したり病になったりした者を放っておいていいのだろうか、お坊さんでありながら何もせんでもいいのだろうかという心は当然はたらいただろうと思います。そういう事が高熱を出した時に、夢の中で三部経千部読誦した時の経験がまた出てくる。また三部経千部読誦はされませんけれども、夢の中に出てくるというところに、親鸞聖人は、みんなが苦しんでおられる人々を放っておけない。しかし、どうしてあげることもできないという問題があります。今は政治があります。当時は鎌倉幕府だって朝廷だってそんな力はありません。近代国家ではないですから。今は政治があります。だから被災した人が一生懸命寺に行って拝んでくださいという者はおらんでしょう。「政治は何をしているのか」と毎日テレビで言っていますよ。
だから政治が被災地の救援・復興のためにそういうことをしているわけです。それが近代国家というものです。
私等は、まだ子どものころは、「ばあちゃん、目が悪ければ薬師さんに参んなはれ」「いやあんたの病気はお不動さんの方が好く効くばん」と。ことを言う人はおりませんよ。どこに行くかといえば病院に行きます。私もちょいちょい病院に行きます。病院に行っても直ぐに診察してはもらえません。ということは、今はそういう意味の宗教はもう役目はないわけです。しかし脅す人は新興宗教におる。「あんたがなんぼ幸せになろうとも、あんたの何代か前の先祖が戦争で死んでいる。その人は非業の死を遂げて居るのだと。その索りが来ているのだから、あんたが幸せになろうと言ったって成れないよ。だから私が拝んであげればすぐに良くなる。その為には何万円持って来なさい。こういうことは結構あっています。それを「御霊信仰」というのですよ。
星野元豊という先生はもう亡くなりましたけれども、龍谷大学の学長をした人ですが、その人が教行信証について書いておられます。その中に、平安時代に代表される「怨霊思想」というのがあるのです。怨霊というのは恨みを抱えて死んだ人の魂。恨みをはらそうとして恨んでいる人に取り憑く。そういうのを「怨霊思想」というのです。
「怨霊思想」というのもあるのです。病気や天災で非業の死を遂げた人の霊が行くところに行っていないという。だから、その人が行くところに行くように祈ってあげる。その時にお坊さんのお経が一番効くという考え方です。今もありますね。「このごろ病気したり事故に遭ったりいろいろあるげな。あれは法事をしとらんからじゃないか」と。こういうような考え方は、どんなに科学が進んだ世の中になっても、人間の心の中にある迷いですから、科学がどんなに発達したって無くならない。落語に出てくるのですよ。幽霊なんかおらんという人が、暗い所を歩いてとって、誰か白いものを着た人が通ったらびっくりする。幽霊なんかおらんと言う者に限ってびっくりするということは、人間の心の中に恐怖心があるわけです。
「幽霊の正体見たり枯尾花」という言葉がありますが、「枯尾花」というのはススキです。そういうものが御霊信仰です。そういうものが、今度は阿弥陀信仰と繋がって、そしてお坊さんにお経を上げてもらえば行くところに行きなさるということになっていくわけです。ところが怨霊の方は祟るわけですから、それを調伏(ちょうぷく)というのですよ。祟らないようにするために加持祈祷をしてもらう。そういうことは神主さんでは手に負えんわけです。それがお坊さんの仕事になっているわけです。奈良・平安を通じて仏教の受け取り方はその教義思想によって果たされたのではなくて、むしろ天皇を始め庶民に至るまで雨乞いの祈祷や、病気平易のお祈り祈祷が仏教を受け取る側の心情であった。と書いてあります。だからなかなか「救いとは何か」、「人生とは何か」というような問いは、日本人には無理だったようです。
しかし、次第しだいに時機が熟して、法然上人が出て来られて、全ての人の心の中に如来の本願ははたらいておると。それを信ずることによってのみ始めて、私たちの真の救いというものがある。どんな境遇の中に居っても人間はそれを頂いていける道があるということを法然上人は教えてくださったのです。法然上人は一生涯結婚をなさいませんし、本当に比叡山の生活と同じような生活をなさいました。一日に六万遍も念仏なさったといわれますから、非常に厳しい生活を法然上人はなさって居られたのです。しかし親鸞聖人は結婚されます。子どもが何人もできられます。そうするといろんな問題が出てきます。我々と同じ生活を通して、その中で、念仏一つで救われるということはどういうことかということをはっきりさせてくださったところに親鸞聖人の教えの大きな意味があるわけです。
今回も被災された方々には、みんなが義援金を送ったりして、世界中の人が心配しているのです。ところがこれは同情です。同情が悪いのではないのです。これは大事なことです。苦しんでいる時はみな同じだと、同情しているわけです。ところが同情というのは上から下なのです。「お気の毒に」と言った時には自分が上なのです。向こうが下なのです。そうしたらどうなるかといったら、わが身の事になったら問題は別になります。
だから福島の人が東京に来た時には放射能を持って来ているかもしれない。だからワッペン付けて来てくれという事がインターネットに出て来るのです。福島で災害にあわれて、幼稚園に行くような子どもさんがいて、特に子どもには放射能の影響が大きいという事で、お母さんの里が大分だから、お母さんが子どもを連れて大分に戻って来たわけです。そして大分の幼稚園に入れたら「放射能」と言って子どもたちがその人を差別した。だから、非常に悲しんで、またお母さんは子どもを連れて福島に帰ってしまったという事が話題になりました。新聞にまで載りました。
大分に戻ったら同じ幼稚園に行っている子のお母さんが、あの子の側には寄らない方がいいぞと教えた可能性もあります。みんな同情します。しかし我が事になったら話は別です。そういうところに人間のもっている冷たさや悲しさがあるわけです。
みんな話せば判る。話せば判るが、判っても判らんものが残る。そういう問題は、私たちの分別や知識を超えた真に遇わないと、問題は真に片付くということはないのだと思います。だからこういう話は、みな人ごとでないですよ。我々は同じようなものを心の奥底に持っているわけです。これは大きな問題だろうと思います。
今日の話は、これで終わりたいと思います。