
正信偈に聞く
36-1
平成23年6月19日
みなさん今日は。
先月は時間が取れなくて、光善寺の永代経と一緒に致しました。今日は、今までの復習をしながら、今日で龍樹菩薩のところは読み終わりたいと思っております。
顯示難行陸路苦・難行の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示して、
信楽易行水道楽・易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
憶念弥陀仏本願・弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然即時入必定・自然(じねん)に即の時必定に入る。
唯能常称如来号・ただよく、常に如来の号を称して、
応報大悲弘誓恩・大悲弘誓の恩を報ずべし。と
(意訳)大士は、進むのに困難な陸路、苦しきことを明らかにし、行くのに易しい水路が、楽しいことを信じて願わせられた。
阿弥陀仏の本願のことを思い続けるならば、おのずと即時に往生が確定する位に入る。ただただ常に如来の名号を称えて、大悲の誓願の恩に報いなければならない。と教えられた。
これが龍樹菩薩のお徳を讃えられている後半の部分になります。お釈迦様が説こうとしておられる大乗仏教の本質は何かということについて、龍樹菩薩は特に「空」ということを教えておられます。そして、一切は「縁起」という、因縁所生の存在として「空」と仰っておられます。
我々は、もの心ついた時から自我を立て、それを通して我を見、人生を見ていきます。そして私たちの我執に基づく生き方から言えば、真実・真理は「空」だと。「空」ということは、私たちの思いで捉えたような形で一切は存在していない。それは迷いだと。そういうところから人間の苦しみ悩みが起きてくる、それをどう超えて行くかというところに仏法というものがあって、そして思いを越えた「空」の境地がお釈迦様の悟りの世界であると言われるわけです。
その悟りの世界に至るために、我執を限りなく否定して行かねばならん道ですから、これは頭で考えるような少々の修行や学問で成り立つような問題ではないわけです。そういうことから、そこに、「空」ということを、あらゆる修行・学問を通して、わが身の上に成就していく道が難行道です。しかしこれは非常に困難な道ですが、それが仏道であると。 そもそも仏道には、そういう難しい道しか無いのか、何か他に易行の道というのはないのであろうかということが龍樹菩薩によって言われるわけです。
「寧弱怯劣・にょうにゃくこうれつ・怯弱下劣の言・こうにゃくげれつのごん」という言葉が龍樹菩薩の『十住毘婆沙論・易行品 総説 難易二道』にあるのです。この「寧弱・にょうにゃく」というのは弱いという意味です。怯(こう)は卑怯(ひきょう)の「怯・きょう」という字で「おびえている」という意味です。そして「劣・れつ」は劣っておる。ですから生涯を尽くして仏道を成就して、「空」を悟る、真理を悟っていくという道がいかに困難であるか。しかしそれをやり遂げていくことにおいて、真に人間が人間を成就することになる。
そのことを忘れて、ただ人間の我執煩悩に任せて生きていくならば、結局人生は非常に空しいことになってしまうわけです。それは分かっているけれども、生涯退転なく後戻りしないで、本当にその道を成就していくという事は、これは大変なことだと。しかもこれは一代や二代で出来上がらない事ではないか。それが本当の仏道であるだろうけれども、何か他に易しい、真に成就する道は無いのであろうかと自間自答をされるわけです。
そういう事に対して、それは始めから道を求めないで、なにか脅えて他の道はないかと言っている。これは正しく「寧弱怯劣の言」だと、そんな事では仏道は成就しないと先ず言われるわけです。それももっともだし、本当に仏道を生涯において成就するということは、どれだけの人に出来るか、そしてまた本当に出来ている人がいるのだろうかということから、難行道・易行道と言う問題が出てくるのです。
同じ仏道に難行道と易行道があって、易行道は修行に依ってではなくて、「信仏の因縁」に依るということをおっしゃっておられます。仏の真を信ずる事ができるならば、その仏道を真に成就することができるということを易行品の中で仰っておられるわけです。正信偈に出てこられます曇鸞大師という人が「浄土論註」という書物の中に龍樹菩薩の仰ることを非常に判り易く纏めて言われておるところを、ここに刷り物としてみなさんにお配りしております。それは教行信証の中に「浄土論註」を引いておられて、
【正信偈資料】
「論の註」に日わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋到を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。
難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。
そこに「五濁の世」「無仏の時」と、二つの因縁を上げておられます。時代が下がってくると正しく、五濁の世になってくる。しかも私たちが依るべき仏様が居られないという。そこに嫌行道は「五瀧の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。
この難にいまし多くの途(みち)あり。粗(ほぼ)五三を言うて、もって義の意を示さん。
一つには、外道の相善(しょうぜん)は菩薩の法を乱る。
二つには、声聞は自利にして大慈悲を障(さ)う。
三つには、無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四つには、顛倒(てんどう)の善果よく梵行を壊す。
五つには、ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし。
これ等のごときの事、目に触るるにみな是なり。
と、そこで目の前の事を仰って、
譬えば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。「易行道」は、謂わく、但、信仏の因縁を以て、浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得しむ。仏力住持して即ち大乗正定の聚に入る。正定即ち是れ阿毘跋致なり。譬えば水路に船に乗じて則ち楽しきが如し。 (教行信証 行巻 一八一頁)
と、龍樹菩薩の教えを非常に判り易く述べておられます。それに基づいて、親鸞聖人が正信偈で龍樹菩薩の教えを述べておられます。易行道というのは「信仏の因縁をもって浄土に生まれる」という仏願力。つまり如来の本願です。阿弥陀如来の本願が非常に強調されております。しかし、人間はいろいろに苦労をし、努力しながら幸せを得ようとして生きていくわけです。如来の本願は、人間の営み全体を穢土として、それを超えた世界として、浄士を建立されるわけです。それが阿弥陀仏の本願であり、浄土は穢土を超えた世界です。自力聖道門には、穢土と浄土という考え方はありません。
穢土の上に、凡夫が理想を求めて仏の悟りを開く教えになっていて、それが難行道です。しかし私たちの営みは、結局は「穢」です。穢というのは、人間のもの心ついた時から始まって、そこからものを考え、そこの中で自分が幸せになろうとする。そして「土」は一人ではないということです。そこで修行と学問をするということは、人格の向上を求めていくわけですから、それも結局は我執を離れられない。自己中心という自我に基づいて行じられる。
それを超えた本来の世界に届くためには、この我執を否定せねばいけないわけです。
しかしそれを否定するのも我ですから、自分の力で自分を否定するという形になりますから、それは難行です。結局、その世界はどこまでいっても穢士を離れられない。人間が理想として、思いや考えで作り上げていく世界は、結局は我執を離れられないという意味において穢なる境涯です。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、 (歎異抄 第九章 六二九頁)
という言葉があります。だから阿弥陀仏は、凡夫を見透して、それを超えた浄土を建立せられた。それは、我々がこの世を浄土にするという教えではないのです。結局、この世の中に浄土は無いのです。人間が本当に人間を超えるということは不可能です。それを見透して、阿弥陀仏が我々のために本願を建てられた。
その本願は何かといえば、浄土を建立して、穢土を厭うて浄土を願わせる。浄土に生まれることによって「縁起」とか「空」ということが受け取れるわけです。穢土においては、その事は受け取れません。自分が中心になるものですから、そういうものを超えた「空」とか「無我」という世界が浄土です。
これは阿弥陀仏によって、清浄なる願によって成就した清浄なる世界、境涯ですから浄土です。そこに生まれさせて全ての者を仏にしたい。その行として名号を成就なさった。それを私たちに回向されている。そして「我が名を称えて、我が国に生まれんと欲え」と呼びかけておられる。そこに、
誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、… (歎異抄 第十一章 七七二頁)
「たもちやすい」というのは、持ちやすいという字ですから、道を歩いていようと仕事をしていようと、また家に居って風呂に入って念仏称える人がいますけれども、風呂の中であろうと、寝ていようという意味です。
そして「となえやすき名号」ということは、南無阿弥陀仏は誰でも言えるわけです。「案じいだしたまいて、」考えてくださって、それを私たちに回向してくださった。振り向けてくださった。
それはどこまでも磯土を超えることのできない私達をして穢土を越えしめたい。そういう本願が阿弥陀仏の本願です。それを信ずる。だから信ずるというのは、私は疑わないというようなものではなくて、真に目が開けたという意味があるのです。それによって私たちは浄土に往生して、仏になることができる。それを易行道と龍樹菩薩は仰っておられるわけです。これは今までの復習です。
龍樹菩薩が自問自答して「寧弱怯劣の言」だと言われながら結局、龍樹菩薩もそれに基づいて生きて行かれたというところに、親鸞聖人の龍樹菩薩に対する目があるわけです。その目は曇鸞様の「浄土論註」の書物によって親露聖人は受け取っておられるわけです。そういうものを踏まえて、「憶念弥陀仏本願・自然即時入必定」という言葉が出てきておるわけです。
今日は特に「自然(じねん)」ということを中心にお話しようと思っておるわけです。「自然即時入必定」の「自然」という字は、普通「しぜん」と読みます。しかし仏教では「じねん」と読みます。自然(じねん)ということについて親鸞聖人は、
「自然」というは、「自」はおのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。「然」というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず。如来のちかいにてあるがゆえに。 (正像末和讃、六二五頁)
仏教は「自然」ということを教えているとも言えるわけです。「縁起」とか「空」ということも、結局は、自然ということを云おうとしているわけです。
縁起ということは、関係性という意味ですから、「縁によって起こる」ということです。
永遠に変らない実体というようなものは何一つとしてない。全てのものは、縁によって起きておるというのですから、ちょうど網の目のように、全てのあらゆる関係性の中で私の存在がある。ちょうど私たちは結び目の一つと言っていいと思うのです。しかも時間が働いていますから、ちょうどジャングルジムのようなものです。そういう関係の中に私が存在している。
だから、私が私として存在する私は、昨日はもう戻ってきませんし、過去はもうありません。未来はまだ来ていないわけです。あるのは今、今だけです。だから人間以外の動物でも植物でも、人間が考えるようなものではなくて、今、今を生きているわけです。そのままを生きているわけです。
ところが人間だけが、自然の大地から立ち上がって、自分自身を自分で自覚するといいますか、自分を相対的に見てしまう。そういうことを仏教では分別と言いますけれども、そういう知恵を人間は持ってしまいました。相対的に全てのものを見ていく。そして自分を自分にしている。
例えば、私がこうして生きているということは、食べるということも着るということも、空気自体もそうですが、あらゆる関係性の中で存在し、しかも私は、今今刻々と変化しながら存在しているわけです。これをお釈迦様は「諸行無常」と言われます。「行」というのは現象という意味です。形あるものすべて常なるものは何一つとしてない。みな因縁によって生まれ因縁によって生滅している。
正信偈に聞く
36-2
平成23年6月19日
だから人間で言えば、生ある者は必ず死に帰し、盛んなるものは衰える、生身を抱えておれば病は免れない。これは事実です。考えではない、事実です。だからお釈迦様が仰っているのは、思想とか考えではないのです。「そうだと徹底して覚めた。」つまり悟りというのは目覚めです。そしてその現実は、あらゆる関係性の中において今、私が私として遇っているという事実に目が覚めたら、「俺が」という実体は何もないのです。それを仏教では「無我」と言うのです。だから、私が私として在るということは、全ての人の関係の中で私が在るわけです。それをお陰様というたり、ご恩報謝と言ったりしているわけです。
ところが、私たちは、私にとって都合の善いときはお陰様と言い、都合の悪い時はこんちくしょうと言っているわけです。そういうかたちでしか、自分のありのままが受け取れないわけです。なぜ受け取れないかという事が判らないわけです。そんな事は思ったことないわけです。
今、東日本大震災で被災にあっておられる方を思うと申し訳ないのですけれども、被災なさった方はいわゆる「日常」が壊れたわけです。今、我々が仕事をもち、私たちはそういう中で安心して日常を過ごしているわけです。ところが地震や津波によって、その日常が壊れたわけでしょう。
だから今は、苦しみ悩みのどん底に居られるわけです。この人たちが求めておられるのは今、私たちが日常、当たり前と思っている状態に戻ろうとなさっているわけですね。その為に政治も働くし、いろいろ義援金も集まっているわけでしょう。それは大事なことです。しかし我々が、その「日常」を取り戻したら、それで安心かといえば、私たちは安心していないわけですから基本的には同じです。
つまり、宗教の問題は、そういう事では解決しないわけです。しかし、こういう被災された状況のなかでは、なかなかこういうことは言い難いのです。「そうでない者の身になってみろ」というのも判ります。しかしそうであっても、やっぱり日常を生きている者が病気になる、そして死が迫ってくる。そして我々のような者は、老と病が一緒ですからね。老化が進んで死がやってくるわけです。
老病死というかたちであるということは一面幸せとも言えるわけです。交通事故ということだってあるし、若くして癌になって亡くなるということもあるわけです。そうなれば老がない、生・病死です。そう思えば、老病死があるというのは幸せとも思いますけれども、しかし、これがまた何とも言えない問題です。
そういうことを考えてみますと、人間にとって本当に幸せとは何かというたら、判らないのです。だから、例えどのような境遇であろうと、どんな姿形であろうと、今ここに「空」とか「無我」とか「因縁」として、在るままがそのままを頂ける世界が見つかれば、人間は救われるのです。そんな事は考えたことさえありませんが、そういうことを言いたいわけです。
だから今、被災なさって居られる方は「非日常」です。「非日常」が「日常」になれば安心かといえば、安心でないということは私たちの日常生活が証明しています。私たちの生活は、その震災なさった方から言えば「日常」です。震災なさった方は、それを失ったと言って苦しんでおられるわけです。だから結局は穢土の出来事です。
私たちの在り方は、全部磯土の出来事です。「日常」であれ「非日常」であれ、そして老であれ病であっても全体が穢土なのです。そこに本当の救いはないのです。だから穢土を厭うて浄土を願うわけです。
しかし浄土を死後の世界と考えると判らなくなるのです。死んだら浄土に往くという考え方をすると仏教は判らなくなります。次元の問題を言っておるわけですから。宗教の世界と宗教を持たない我々の世界との次元の問題を言っているわけです。しかし、それは普通、宗教を考えない人からいえば形而上学的な話になりますから、判りにくいのです。
だからどうしても時間的に向こうという形になってしまうわけです。死ねばという形で考えると浄土は判らなくなってしまうわけです。私たちの在り方は、例えどのように苦悩し、どのようにまた人から善人と言われておろうと、全てそれは穢土なのです。だから穢土を穢土と知らせて浄土を願わせたいと、その浄土というのは自然(じねん)の世界です。それが「空」とか「縁起」とか「真如」とか「一如」と言うように、いろいろに表現があるのです。それは全て、自然(じねん)の世界です。
「阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。」と言われるわけです。親鸞聖人は、浄土三部経の中で大無量寿経を、「真実の経」と言い、観無量寿経と阿弥陀経は方便とされます。浄土三部経は、全部お念仏の教えが説いてあるのですから、三郎経は真実だと法然上人も受け取っておられます。ところが親鸞聖人だけが、大無量寿経は真実の経、観無量寿経と阿弥陀経は方便の経といわれるわけです。
大無量寿経は如来の本願が説かれてあるのですが、それを「自然」という形で特に言ってあるわけです。だから大無量寿経は自然(じねん)を説く教えだとも言われるわけです。このお経の中に「自然」という言葉が百何十回と出てきます。
業道自然(ごうどうじねん)
自然(じねん) 願力自然(がんりきじねん)
無為自然(むいじねん)
ここに三つの自然が説かれています。これは非常に大事です。
弥陀仏は、自然のようをしらせんりようなり。 (正像末和讃 六二六頁)
「自然のよう」というのは「すがた」です。自然の姿を知らせようという、「りょう」というのは「てだて」という意味です。浄土は自然(じねん)なのです。「自然の浄土」と、親鸞聖人の言葉にあります。
私たちは、自分というものを実体的にとらえますから、教えも実体的に観念でとらえてしまうわけです。ですから浄土も実体的なものとしてとらえます。そうすると、この世の中は善い事ばかりではありませんから、死んで楽になろうという考えも出てくるわけです。
しかし「自然の浄土」と言われるように、浄土というのは、自然ということを知らせるわけです。「自然」というのは「本来」といってもいいでしょう。実相という言葉もありますから。
だから私たちは、俺がという立場でものを考えますから、俺がという思いは一生離れ切れないわけです。しかし離れ切れないということも思えないほど離れ切れないわけです。善い人と悪い人というのは、自分にとって都合のいい人が善い人で、都合の悪い人になるのです。ところが、朝は善くて昼は悪くなって、夜は善い人が居るのかと言ったら、一人の人に対して善かったり悪かったりする。
何か自分を優しくしてくれると善い人になったり、そして自分は苦労しよるのにそれを受け取って貰えなければ悪い人になる。それが人間の迷いです。それは実相を見失っているわけです。だから真実の世界に帰らせようというのが仏教です。「弥陀仏」というのは、「自然のよう」、つまり浄土のすがたを知らせようとする、手立てだといわれるわけです。真宗の教えも仏教ですから、自然(じねん)ということを説いておるわけです。
「自(じ)というはおのずから、然(ねん)というはしからしむ」。「業道自然」というのは、我々の日常生活のことです。親鸞聖人の教えでいいますと、職業(しょくぎょう)はそのまま職業(しょくごう)なのです。いろんな職業があって、どの職業もみな貴賤がない、みな尊いのだといいます。これはヒューマニズムです。
仏教はそういうとらえ方ではないのです。職業も業(ごう)なのです。例えば、蓮如上人の「お文」にもあります。「あきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ」と職業のことを言っておられます。「あきない」というのは商業のことです。「奉公」というのは今で言えばサラリーマンの事だと思います。「猟すなどり」というのは猟師です。「かかる罪業にのみ朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらもの」という言い方です。
だから私たちは、善人・悪人と言っても、ああいう事をする人は善人で、ああいうことをする人は悪人だということではないのです。全体が「宿業の世界」ですから、業の生活です。
「あきないをもし」と、商売は本当のことを言ったら商売になりません。「大売り出し損得抜きの大売り出し」と言い、「そろばん抜きの大売り出し」といっておるけど、本当に商売で儲ける人は、もっと大きなそろばんをはじいているわけです。
「かかる罪業にのみ朝タまどいぬるわれらごときのいたずらもの」と言っておられます。この人生は穢土であり、その穢土を穢土にしておる在り方を「業道」と言っています。しかも、それは自然(じねん)と言っています。「自ずからしむ」といっておるのです。私たちが仏教を聞いたら、少しは善い人間になれるかと思ったらそれは違います。聞いたぐらいで、どうかなるほど簡単ではありません。
「あなた方は、お坊さんだから」と言われますけど、お坊さんもへったくれもないのです。業の生活ですから。今は、特に僧侶も職業化してしまっていますから、本当に「朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらもの」ですよ。だからみな業の生活でないものはないのです。
しかもそれは「自然」だから、そうなってしまっているということです。ちょうどぬかるみの中に入ってしまった自動車と同じで、エンジンを吹かせばふかすほど泥濘が深くなっていくという、我々の生活はその通りです。
浄土は「無為自然」の世界です。「無為」というのは、私たちの計らいを交えないということです。「為」というのは人間の計らいです。ですから私たちの生活は、有為(うい)というのです。計らいで立っている世界です。それを越えた世界ですから、「無為自然」というのは自然そのものです。これが悟りの世界です。本来の世界と言ってもいい、真如とか一如の世界を「無為自然」と言っているわけです。ところが自力聖道門には、二番目の「願力自然」がありません。この世界は説かれないのです。ですから、この「業道自然」と「無為自然」の二つで教えられるわけです。
例えば、私たちの日暮らしは善悪・損得の世界で生きています。その時に、禅宗の人は「無為自然」を拠り所にしてものを言いなさるわけです。この「無為自然」を拠り所にして「業道自然」を見ていかれる。「業道自然」と「無為自然」を一応分けなさる。私たちは一生「業道自然」でいきますから、その中で「無為自然」を説いていかれるわけです。
そうすると善悪と言っている者に対して「本来、善悪無し」と言いなさるわけです。お前が善い悪いと言っているのは迷いだと。だから「本来、善悪なし」。損得だと言っておることが、みな迷いだというわけです。ですから「無為自然」に目覚めよというわけです。「無為自然」と言っている人は、俺は「無為自然」は解っているというところから、善悪・損得を言っておる者を導こうとなさるわけです。ですから善悪を言っている者に対して「本来、善悪なし」と。そういう意味でいうたら禅宗のお坊さんは、割り切ってものを言われるわけです。私は、禅宗のお葬式に会わしてもらったことがあります。私のお寺や真勝寺によく参って来ておられたおばあちゃんが亡くなりましたものですから、葬式のご案内がありました。おばあちゃんの家は禅宗で、その檀家寺の本堂で葬式がありました。葬式に衣を着て真勝寺さんと二人立ちまして、お勤めをしました。
正信偈に聞く
36-3
平成23年6月19日
禅宗はどういう葬式をするのかと言えば、導師をなさる人、そして死んだ人の代わりをなさる人がおられるわけです。そういう者の所作をなさっているのです。それを見ておりましたら、亡くなった人に受戒をなさるのです。戒律を授けるのです。だから真宗以外の門徒の人は戒名と言うでしょう。真宗は法名と言います。法名というのは真宗だけです。他は戒名といいます。浄土宗も戒名といいます。
だから、亡くなった人の代わりをするお坊さんがいて、その人に向かって、導師をなさる人が戒律を授けなさる。そして最後引導を渡される。しかし真宗には引導はありません。真宗は、常日頃から坊さんであろうとご門徒の人であろうと、正信偈で毎日お勤めしてお育てを頂いておるわけですから、その中の一人がお浄土にお帰りになったという意味ですから、正信偈のお勤めをしてお別れをするわけです。
ところが禅宗は、死んだ人を導かなければならないわけですから、戒律を授けて引導を渡す。引導の言葉というのがあるのです。その時に、「その生ずるや如是。その死するや如是」と言われていました。「如是」ということはありのままという意味です。人間の計らいで生まれてきたわけない、だから人間の計らいで死ぬるのでもない。一切は法の働きによって、この世に生まれて来て、いろいろな事があって、この度死んで行く。
だから死を恐れ、死を厭う、そういう心はみな迷いだということを言われるわけです。それで「その生ずるや如是、その死するや如是」と仰って、最後に「喝」と。「喝」というのは目を覚ませという意味です。そういうお葬式なのですね。其の後、ある禅宗のお坊さんに会った時に、「引導というのは型が決まっているのですか」と聞いたら、いくつかあるそうです。その人その人によって、またお坊さんによってどれかを使いなさると言っておられました。しかし引導です。ですから禅宗は「業道自然」の上に「無為自然」を見ていこうとするわけです。そして「無為自然」に帰らせようとするわけですが、しかしそう言っている人が「無為自然」に住しているのかということは問題ですけれども、道理としてはそうなっているわけです。だから善悪言っても「本来、善悪なし」「本来、損得無し」と。何もかにもが皆、計らいの中の出来事だという言い方です。
「願力自然」というのが浄土の教えです。これが阿弥陀仏の本願のはたらきです。これを他力と言っているわけです。だから「業道自然」に、他力である顧力がはたらいて、業道の生活が「無為自然」に帰って行くわけです。我々の一生は業道の世界でしょう。そこに願力がはたらいてくださって、そのままが浄土への旅になる。一生涯私たちは凡夫です。しかし私たちは凡夫とは思っていません。
私の思っていることは、善悪・損得しか思っていなわけですから、都合の善いときは私のような幸せ者はいないと思うし、都合の悪い時はなんで私ばかりこんな目に遇わねばならんかと、これみな迷いです。そういう善悪に迷っている私に「願」がはたらく、そこに浄土へ生まれさせようという願がはたらくわけです。その「顧力自然」によって、私たちは「無為自然」に転ずることができるわけです。だから「願力自然」が「業道自然」にはたらいて、その「願力自然」の力で私たちは「無為自然」である浄土へ、しかも禅宗の人たちが言われるような悟りという世界ではなくて、「浄土のさとり」です。そういうことを教えられています。
真宗の教えは「願力自然」が我々の「業道自然」にはたらいて、そこで私たちは始めて「業」ということを知ります。我々は、仏法がなければ「業」ということはわかりません。善悪しかありませんから。そういうことを通して、本当に「業道自然」である。
自然というのは「おのずからしからしむる」、業道を一歩も出ないわけです。そういう私を私とどこまでも知らせて、浄土に帰らせようという願力が南無阿弥陀仏です。そういうことを、私たちは善知識の教えによって、信ずる力を頂くのです。その時に、この私たちの業の生活が、お陰の生活に変わるわけです。そこに、
ただよく、常に如来の号(みな)を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし。
念仏申すということは、お陰様になるわけです。お念仏がなければお陰になりません。私たちが、念仏抜きで「お陰」と言うときは、都合のよいことを言っておるわけですから、そうでしかありえん私の在り方全体を凡夫と、宿業の生活と如来は見抜いて、そして、そこに救いはないということを大悲なさる。だから願力は大悲です。そして「無為自然」に、私たちを転じさして下さる。
そこで私たちが「願力自然」を信ずることができた時に、「必定に入る」のです。「必ず往生し、成仏することが確定すること。」と書いてあるでしょう。つまり「不退転」のことです。だから「ただよく、常に号(みな)を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし。」と。
そこで蓮如上人は、南無阿弥陀仏は、ご恩報謝だと仰います。蓮如上人の「お文」は徹底してそうです。「南無阿弥陀仏は極楽に生まれるために称えるのでない。」つまり善知識の教えによって如来大悲の真を、南無阿弥陀仏のおいわれを、私たちが信じさしていただくことによって、私たちは必定に入る、浄土に生まれる身となる。だから人生の意味が変わってくるわけです。
すべて人生の善悪が、このこと一つを気づかしていただくためのご縁であったという意味になるのです。そういう人は、二度と迷いの世界に帰らない、人生の方向が浄土へと転じられていく、そうという意味です。
そうしますと、私たちの日暮らしは、いろいろな事があるのですが、あることを減らそうとか増やそうとかいうのではなくて、あるがままです。あるがままで如来大悲です。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏にご催促を頂くことによって、わが身が如何に救われようのないわが身であるかということが知らされ、知らされるにつけても、そういうものを救おうと思い立ってくださった如来の本願の真がいよいよ有り難く頂けるわけです。だから、
聖人(親鸞)のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と…… (歎異抄後序六四〇頁)
歎異抄の中で、親鸞聖人が仰ったと書いておられます。そこで、本当の私の生活を貰うわけです。例え、大勢の中に居ろうと居るまいと、本当の私の生活が私の上に成り立つのは南無阿弥陀仏だけです。私の、外にあるあらゆるものはみな、私をして南無阿弥陀仏に帰らせようというお計らいの世界に変わるわけです。そういうことが、私の上にはっきりするということが非常に大切でございます。
だからいつも、私に南無阿弥陀仏がはたらいておって下さる。私が称えてどうかなろうというのでなくて、そう思ったとしても、そう思う心も貰っておる心です。やはりみな頂きものです。みな頂かねばならんでしょう。そういう意味でいいますと「憶念弥陀仏本願,自然即時入必定」です。
娘が東京のお寺に嫁いでおりまして、そこのお母さんが数年前にお亡くなりになりました。その後、一年忌があった時に、故人のご主人であった前住職が書かれたものをいただきました。その中に亡くなった奥さんのことをいろいろ書いておられました。
奥さんは近所の病院に入退院を繰り返しておられたようですが、病状がだんだん悪くなってきて、最後はその病院で亡くなられるわけです。ご主人は、奥さんの安心(あんじん)のことを心配なさっていたようです。病院で「今、何を思っているの」と尋ねられたそうです。そしたら奥さんが「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとのうべし、それだけです。」と、二回ともそれだけと言って笑われたということを書いておられます。
弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし (正像末和讃 六一六頁)
これは親鸞聖人の御和讃です。ご催促がずっとあっているわけです。だんだん様態が悪くなってくる、その時に自分の人生、そして後に残る人のことやら、いろいろなことをやっぱり思われるでしょう。しかし、それにつけてもということでしょう。それにつけてもご催促いただくわけです。どんなに思ったって、人生終わらなければならない時は終わっていかねばなりませんからね。本当に心配せねばならん事は、わが身自身のことです。
そういう私をどこで確保するかといったら、私の思いでは確保できません。私の思いを越えてはたらいておって下さる浄土によって、私は確保することが出来るのです。浄土は死んでからというより、南無阿弥陀仏のところで、浄土を私たちは持つことができるのです。そうしますと、みんな尊いご縁なのです。
今までいろいろとあったことも、何もかにもこのこと一つを知らせてもらうのにどれだけ手間ひまかかったことか、どれだけ如来様に背いて生きてきたか。しかし如来様は私を捨てられない、摂取不捨です。捨てられないで、あの手この手を使って私にご催促をしてくださった。そしてここに来て、あらためて、これしかないのだと頂かれたのではないでしょうか。ご主人は坊守さんを心配して、尋ね方がいいですね、「今、何を考えているの」と尋ねたら、「ねてもきめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとのうべし。それだけ。」と………、
「大丈夫よ」ということでしょう。しかし人間の心で大丈夫はありません。人間を越えた真がはたらいておってくださるから、大丈夫なのですね。
数日前ですが、私の親しい長崎のお医者さんが身体の具合が悪いと聞いたものですから、ちょっとお見舞いに行ってきました。まだ寝込んではおられんのですが、もう体中に癌があるそうです。自分で判っておられるわけです。お医者さんですから。しかし医療として、するべき事は全てするということで、筑波市まで行って治療されたのですが万策尽きたようですね。とても痛むそうです。痛み止めの薬を貰って、もらった分だけでなくて自分の持っている薬も使うそうですよ。
その時に「薬は頂くものでないといけませんね」と言われた言葉がおもしろかったですね。
私は頂くものでなければ助からんのです。自分が考えたものではだめです。これを飲むと恐いぞと思いながら、飲み過ぎるわけです。痛み止めですから治療では無いのです。お医者さんですから、それは判っているわけです。しかし痛いから飲むそうです。そうすると身体がだんだん弱ってくるそうです。今は、また病院に帰られたようです。先日、手紙をもらいました。
私が長崎の教務所に勤めていたころですから、三十年前にお知り合いになった方です。
この人は、大きな病院の院長でした。どれだけの人を死なせたか判らんと言っておられました。どれだけの人の臨終を看とったか判らないというのです。患者さんが、だんだん様態が悪くなるでしょう。その時、いつも自分が言う言葉は、「今日一日だけですよ」と、それが口癖だったそうです。そうすると、言われた患者さんの中には「そうでしたね、先生」と言ってくれた人もいたそうです。ところが今頃になって、人には「今日、一日だけですよ」と言っていたけど、自分は分かっていなかったということがわかったそうですよ。そして、それも病気のお陰ですと。
「今日一日、私のように押し詰まってまいりますと、それがもつ意味の重さを感じます。
人生の重さなのでしょう。明日への期待が希薄になってまいりますと、怖さよりも人生との名残惜しさを感じます。まだ麻薬は、私の理性を犯すまでには至っておりませんだけに未練が深まります。これまでの人生が一瞬の出来事のようであります。まだいろいろとしたいことが多くありますが、その中から選択しながら一時を過ごさねばならぬとは、不可能に近く感じます。やらねばならぬことをするだけのようです」
と書いておられます。何年も前です、本願寺から出版されたカレンダーに、仏法を喜ぶおじいちゃんの書いた句が載っていました。そのおじいちゃんは癌で亡くなるのです。そして後片付けを奥さんがしていると枕の下から紙切れが出てきたそうです。
どこまでも逃げる私は慈悲の中
と書いてあったそうです。それを見て思わず奥さんが泣いたと書いてありました。その先生は私に言われました。「先生、身を通して宿業の深さと言うものを本当にあらためて知らされています。」と。私などはこの身を通して宿業の深さというのは実感的にないです。まだ自分なりに健康だと思っています。
そのお医者さんは、自分の命がもう残っているのが少ないということが判っているわけです。お医者さんですから。身体中に癌が回っている。だからどうして痛むかということまで全部判るわけです。「我が身を通して宿業の深さというものを始めてしらされました。これもお育てのお陰でしょうね。」といわれました。私がお見舞いに行って、私が見舞われました。
その人のお父さんは福岡県のお西のお寺の出身で高原憲(たかはらけん)という有名な念仏者でした。戦前の、第一高等学校(現在の東京大学)に行っておられます。その時に大谷派の僧侶で近角常観(ちかずみじょうかん)という有名な念仏者が居られたのです。その人の教えに遇っておられるのです。東京大学の赤門の前にその道場があって、そこでお念仏の教えに遇っておられるのです。その人は、そこが出発点だといわれますから、非常にすごい人だったのですね。
「水の味」という本が残っています。その人が長崎に「是真会病院」という病院を開いておられるのです。仏様の教えを名告りにした病院は聞かないでしょう。キリスト教は「聖マリア病院」とか「聖フランシスコ病院」とかたくさんあります。私がその病院に行った時には、初代の高原憲という院長さんはもう亡くなっておられました。二代目が今の人で、誠先生という人です。
「世間虚仮、唯仏是真(世間は虚仮・唯仏のみ是真なり)」
これは聖徳太子の言葉です。この言葉を病院の名告りにしているわけですからね。初代の院長さんに手を握ってもらったら極楽に往けるという人が何人もいたそうですよ。その願いをもって生きた人ですからね。
その息子さんは私より二つ年上です。二・三日前に、帰る時に「さぁ、また会えるかね」と言って帰りました。一時間ほどおりましたけれども、湿っぽいものは何もないわけです。
そしてこの手紙をくださったのです。また入院なさったそうですよ。この世の中は仮の世です。そしてそう長くはあません。それが本当に尊いご縁であったというものが見つかればいいのですよ。本来、与えようという方がおられるわけですから。それを頂くか頂かんかということです。自分の思いだけで生きていくと、頂きそびれてしまいますからね。そういうことを、
憶念弥陀仏本願・
自然即時入必定・
唯能常称如来号・
応報大悲弘誓恩・
と、親鸞聖人は龍樹菩薩の教えとして、述べておられます。今日の話は是で終わります。有難うございました。 合掌