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​正信偈に聞く

 6-1 

​平成20年9月12日

 今日は(2 依経段・えきょうだん)に入ります。南無阿弥陀仏にはいわれがある。どういういわれがあるかということを「依経」ですから、お経に依って明らかにする段という意味でございます。依経段が二つに分かれて、一つは「弥陀章」であり、もう一つは「釈迦章」である。『正信偈』の構成というところを見ていただきます。

 

2依経段(「大無量寿経」に依って述べられた部分)

2-1 弥陀章(阿弥陀如来について述べられた部分) 法蔵菩薩因位時~

2-2 釈迦章(釈尊の教えについて述べられた部分) 如来所以興出世~

2-3 結誡(「依経段」の結び) 弥陀仏本願念仏~

 

となっております。今日は「弥陀章・みだしょう」のところを勉強いたします。弥陀章は(阿弥陀如来について述べられた部分)と。つまり、お釈迦様が大無量寿経によって南無阿弥陀仏のいわれを説いておられる。阿弥陀様のお徳を説いておられるところです。「弥陀章」は、また二つに分かれております。

 

(2依経段)

(2―1 弥陀章)

法蔵菩薩因位時 法蔵菩薩の因位の時、 

(法蔵菩薩が因位(仏になられる前の地位)におられるとき、)

自世自在王仏所 世自在王仏の所にましまして、

  (世自在王仏の所で教えを受けておられて、)

覩見諸仏浄土因 諸仏の浄土の因、

(あらゆる仏の浄土の成り立ちと、)

国土人天之善悪 国土人天の善悪を覩見して、

(諸仏の国々の人びとの善し悪しのありさまを見定めた上で、)

建立無上殊勝願 無上殊勝の願を建立して、

(この上なくすぐれた願を起され、)

超発希有大弘誓 希有の大弘誓を超発せり。

(かってない大いなる誓いを起された。)

五劫思惟之摂受 五劫、これを思惟して摂受す。

  (五劫というはるかなる時をかけて思いめぐらせてこれを確かめられた。)

重誓名声聞十方 重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

  (「重誓偈」を説いて、自分の名が十方に伝わるように願われた。)

 

ここまでが「弥陀章」の前半部分です。これは「大無量寿経」の中で、お釈迦様が南無阿弥陀仏のおいわれを明らかになさるについて、法蔵菩薩の物語が説かれておるところです。それが『正信偈』の中に、こういうお言葉としてあげられておるわけでございます。「法蔵菩薩の因位の時」ということについて、古田先生が「語注」を書いておられますから、まずそれを見ていただきます。

 

(1)「法蔵菩薩」 阿弥陀如来が仏に成られる前の段階の呼び名。

 

と書かれてございます。これは阿弥陀如来さまがご修行中という意味でございます。ですから、法蔵菩薩が仏様(阿弥陀如来)になられる前の位という意味です。法蔵菩薩がご修行になって仏になられる。それが阿弥陀如来です。ですから「法蔵菩薩が因位の時」と書いてありますが、阿弥陀如来の因位の時です。法蔵菩薩がご修行中という意味です。まず、法蔵菩薩のことについて、古田先生はいろいろ詳しく書いておられます。「阿弥陀仏が仏に成られる前の段階の呼び名。」そして、

 

「菩薩」はサンスクリット語のボーディ・サットヴァ マハー・サットヴァ

(菩提ぼだい薩埵さった・魔訶まか菩埵さった)を簡略化して表した言葉。

 

ですから「菩提薩埵魔訶菩埵」の「菩」と「薩」を合わせて「菩薩・ぼさつ」という熟語になったわけです。だから「菩提薩埵魔訶菩埵」でもいいのですけれども、「菩薩」という言葉のおこりになっているわけです。

 

ボーディ(菩提)は、阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)

(無上正等正覚)のことで「仏の覚り」を意味する。

 

つまり、菩提というのは仏さまの覚りのことです。「無上」というのは「この上も無い」、「正等」は正に等しき覚りという意味です。つまり差別のない世界ですね。今流行りの言葉で平等といいますが、ああいう平等とは意味が違うんですね。「阿弥陀経・あみだきょう」というお経を読みますと、お浄土のことが書いてありますが、お浄土には池があって、そして、その池には沢山の蓮の華が咲いていて、蓮の華を四通りに書いてあります。

 

池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし。青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。    (仏説阿弥陀経 聖典P126)

 

 平等という意味が平たく同じにすることなら、全部同じ色にするのが平等というふうに聞こえます。仏教はそういうことをいっているのではないのです。青い色が青い色を放つ。青い色をした蓮の華が、赤い色をした蓮の華の真似はしない。私たちはどうかすると、赤いものが評判になって人気が出てくると、青いものが赤いものになりたいと思います。みんな同じ色にならないと平等でないと思います。だけど、そういうことではないのです。だから、青が青の光を放ち、赤が赤い色の光を放つ。みなそれぞれ百人おれば百人顔が違うように喜びも違う。それがそれになりきる。そのものがそのものになりきる。今、そのものがそのものになりきることが「差別即平等」だと。みな同じようなものになることが平等ではない。これは非常に大事です。私たちは平等というと、回転焼のように同じ形のものが機械で焼けて出てくる。あんなのが平等と思いがちですけれどもそうじゃない。我われははっきりしているようでしてませんから、それを迷いという。

 本当の覚りを「実相・じっそう」または「如・にょ」・「真如・しんにょ」といいます。言葉は違いますけれども、もとは同じなんです。翻訳が違うわけです。それがわからないというのが迷いなんです。何故迷うかといったら、我執にとらわれて、それをもとにした煩悩に振りまわされていて、しかもそのことが分からない。結局自分に都合のいいことがあると優越感に流され、都合の悪い局面になると劣等感に陥る。そういう私たちに、本当の実相、真実の平等というものを知らせようという、こういうご苦労が阿弥陀如来なんです。そのことを、お釈迦様が「大無量寿経」の中に説いておられるわけです。

正信偈 6ー2

​正信偈に聞く

 6-2 

​平成20年9月12日

 お釈迦さんが、阿難というお弟子に向かって法蔵菩薩の物語をなさるわけです。その時にですね、お話をなさるはじまりが、

 

阿難に告げたまわく、「乃往過去、久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に出興して、無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得せしめて乃し滅度を取りたまいき。次に如来ましましき。名をば光遠と曰う。次をば月光と名づく。次をば栴檀香と名づく。・・・・・・

かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまいき。

  その時に次に仏ましましき。世自在王、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。

時に国王ましましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。

                     (仏説無量寿経巻上 聖典P9~10)

 

「乃往」というのは過ぎたということです。大昔のことです。「過去」ですから「何時といわれない過去」です。「久遠無量不可思議」久遠無量は「はかりなし」です。「不可思議」というのは「思いを超えている」から不可思議です。「無央数劫」というのも、とてつもない大きな数のことです。「劫」というのは時間の単位です。計ることのできない長い時間です。日本の昔話でいうと「むかしむかし」という話があるじゃないですか。あれなんですね。昔々、錠光如来という仏さまがお出ましになりました。そして、その錠光如来が多くの人々を教化して、そして命終わられた。「滅度を取りたまいき。」涅槃(ねはん)に入られた。また次に仏さまが出られました。それは光遠といいます。次に月光と、このように、次をば〇〇と名づくと、五十三の仏さんが出てこられる。そして、最後に出てこられた仏さまの名前が世自在王という仏さまです。その世自在王は、多くの人に真理を説いておられた時に、一人の国王がおられた。そして、たまたま、その国王が世自在王仏(せじざいおうぶつ)の教えを聞かれた。

 

時に国王ましましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。

                     (仏説無量寿経巻上 聖典P10)

 

「悦予・えつよ」というのは、心の底から驚きと深い喜びです。それから国王は「国を棄て、王を捐(す)てて、行じて沙門(しゃもん)と作り」。この沙門というのは出家者のことです。そして、「号して法蔵と曰いき。」。そこで自ら自分を法蔵(ほうぞう)と名のられるんです。そこに深い心の喜びをもたれ、そして、その喜びは国を棄てさせてしまうわけです。国を棄て、王を捐て、そして出家せしめるわけです。だからこれは、国王の意志というよりも、それを超えたもののはたらきですよ。もし、その国王が世自在王仏の教えを聞かなかったら、絶対に国を棄て、王を捐てることはなかったのでしょう。それが。聞くことによって深い喜びを感じ、驚きを感じて、そしてその感動といいますか、深い感銘が、国を棄て、王を捐てさせるわけです。そこに法蔵と名のる沙門、つまり行者・修行者が生まれるわけです。それが法蔵菩薩の誕生なんですね。そういうことをお釈迦様が阿難に説かれるわけです。

 それを、この『正信偈』には、南無阿弥陀仏のいわれを法蔵の物語として述べておられる。だから、「法蔵菩薩因位の時に、世自在王仏の所にましまして」と、こういうんですから。沙門になって世自在王仏のところに来られて真正面から座られるのでしょう。つまり、世自在王仏のお説きになった教えと真正面から向き合う。王様のときは、まだ横から聞いておられたといいますからね。何かいい話を聞くというかたちで聞いておられたのではないんですかね。ところが、他人ごとではないと。そこで自ら沙門になって、法蔵と名のって世自在王仏の前に座られる。そいう一つの修行がはじまるわけです。その次に

 

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 (諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して)

 

と書いてあります。そして、

 

(あらゆる仏の浄土の成り立ちと、諸仏の国々の人々の善し悪しのありさまを見定めた上で)

 

と古田先生は「注」をつけておられます。私は、ここで法蔵菩薩が元王様であったということが大切だと思いますね。現在は法治国家でございますから、法律がその国の政治のよりどころになります。一国の首相でも法律によって首相になるわけですから、法律の枠を超えられないわけです。ところが、そういうものが確立されていない国家では、王様の考えることが法律になります。王様がどんな考えで国を動かしていかれるのかということによって、その国の国民は本当に幸せになるか、それとも苦しむかということが決まる。だから、王様は国民の幸せを本当に願ってくれる人でなければならないわけです。しかし現在もそうですが、政治というのは難しい。誰も彼もが良いという政治はあり得ないのではないでしょうか。

 だから真面目な王様であればあるほど、いかに政治が難しいかということを悩み苦しまれたと思いますね。しかし、人間は王様であろうと我執をもとにした煩悩を持っておられるわけですからね。しかも国民も皆そうです、そういう中で、本当に皆幸せになる道があるのだろうか。おそらく、いろいろな事件もあったでしょう。その事件を通して苦しみぬかれたでしょう。そして、世自在王仏の教えを聞いておると、仏法によって全てのものが救われる道があるのだと気づかれた。ところが、その仏法にもいろいろな道があり、それによって救われる世界がまたいろいろあるということも分かった。それが諸仏の国土であり、国土ということは、今の言葉でいえば境涯(きょうがい)というようなものでないかと思います。ある仏さまにはある仏さまの境涯がある。また、ある仏さまにはある仏さまの境涯があるということが分かった。つまり、それぞれに仏さまの境涯があって、その境涯には境涯のいろいろな問題があるわけでしょう。だから、諸仏の国といっているけれども、いろいろな世界があるわけです。そういう意味で、法蔵菩薩が世自在王仏の所に行って、諸仏の浄土の善悪を知り尽くしたということは、とても大事ですね。なぜかと言えば、全ての人間を救いたいわけです。悪人もおるわけでしょう。善人もいる。富めるものも貧しいものもいる。そういう人が、等しくみんな救われるということはどういうふうに示されるのか、という問題があると思います。そういうように考えていくと、諸仏浄土の因、国土人天の善悪というのは非常に大切なことなんですね。ある仏の浄土は学問を究めた人の生まれる浄土であったり、また、ある仏の浄土は徹底した苦行を究めた人の生まれた浄土であったりで、悪人は悪人のままで、怠け者は怠け者のままでというような仏の世界などは到底ないのではないでしょうか。どのような境遇にいる人も、この法に遇うことができれば、それに安んずることのできる道はないのかと、法蔵菩薩は思案を重ねられ、「諸仏の国々の善し悪しのあるようを見定めた上で、」と古田先生は書いておられます。そして「無上殊勝の願を建立し」、そこで、この上ないすぐれた願を起された。そして「希有の大弘誓を超発せり」、かつてない大いなる誓いをおこされた。」と古田先生は書いておられます。歎異抄には、親鸞聖人のつねのおおせとして、

 

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」                 (歎異抄 聖典P640)

 

という言葉が残されていますが、聖人が「そくばくの業をもちける身」と自身をあらわしておられます。そこに聖人は特別な人ではない、ひとりのたくさんの業を抱えた凡夫であり、その自分のようなものを救うと立ち上がってくださった「本願のかたじけなさ」と仰っておられます。

正信偈 6-3

​正信偈に聞く

 6ー3 

​平成20年9月12日

 話は横道に逸れますが、私の娘が嫁いでいるお寺が東京の新宿の泉福寺というお寺ですが、そこの住職が二階堂さんといって、「自分が自分になる」という書物を出しておられます。自分が自分になるということは、

 

各各安立 無量衆生 於仏正道 (各各無量の衆生を、仏の正道に安立せしめたもう。)

                     (仏説無量寿経巻上 聖典P43)

 

という言葉によっておられるんです。

 自分が自分になるということで、二階堂さんが長い間苦しまれたそうです。二階堂さんは、まだ生まれていなかったでしょうけども、関東大震災で泉福寺がめちゃくちゃに壊れて、それを立派に再建されたのですが、しかし、今度は第二次世界大戦の時に、戦火で焼けてしまったんですね。そのころ二階堂さんは中学三年だったと思いますけれども、焼け野原になって、しかもご門徒の家も皆焼けているわけですからね。とにかく、そこらあたりの木を集めてバラックからはじまったそうです。これは余談ですが、その時、防空壕を掘って、その中に御本尊から何から全部入れて、防空壕の入り口は狭くして畳を五枚重ねて蓋をしておったそうです。そして朝のお勤めをして、住職の仕事は畳にうえから水をかけるのが仕事だったそうです。だんだんと空襲が激しくなって、家族みんなで火の中を逃げて、空襲が収まって戻って来たら本堂も庫裏もきれいに焼けていた。防空壕はどうなっているだろうと思ってみたら、畳二枚までは灰になっていて、三枚目からは残っていたそうですよ。五枚目はどうもなっていなかった。だから中のものは皆たすかったそうです。これは参考になるなと思って聞きましたけれども、鉄の扉は中が焼けてしまうそうです。 

 ところで、二階堂さんは学校の成績が非常に良かったらしい。しかし寺の長男ですから、結局大谷大学に入った。親戚の人たちが「あんた何で大谷大学に行った。あんたは東京大学に行くだろうと思っていたのに」と、みんな言うそうです。二階堂さんは一人息子ですからね。結婚して寺の後を継がんとならんわけですよ。この人が寺に生まれて寺を継がんとならん。これは宿命ですね。ところが、そういうことがなかなか受け取れなかったんだろうと思います。毎週日曜日に、京都の高倉会館で大谷大学の先生たちが必ずお話しになられる法座があります。そこで、二階堂さんが何回かお話しになったものが、本山から出版されています。その本のタイトルが「自分が自分になる」です。この本を読むといろいろ考えさせられます。逃げ場がないわけですよ。誰かの責任にしようとしたり、運命にしようとしたり。しかし、そういうことでなくて、その一切を少しも変える必要がない。その一切のものを、私の縁として頂き切れるか。それが「各各安立」ということでしょう。それを私がはっきりさせねばならん。一人ひとりはっきりしなければ、私もたすからんし皆もたすからんわけです。そういう問題を抱える。それが法蔵菩薩の精神でしょう。

 

假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

(たとい、身をもろもろの苦毒の中に止るとも、 我が行、精進にして  忍びて終に悔いじ。)

                          (仏説無量寿経巻上 聖典P13)

 

と、法蔵菩薩はこういうことを言われるわけです。それが、法蔵の魂です。そして自分を背負うことが、一切衆生の苦悩を背負うということです。そういう意味をここでは言おうとしているんですね。希有の大弘誓を超発せり。(かつてない大いなる誓いを起された。)そして、五劫、これを思惟して摂受す。(五劫というはるかなる時をかけて思いめぐらせてこれを確かめられた。)そして、重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。これは南無阿弥陀仏ですね。「重誓偈」を説いて、自分の名が十方に伝わるように願われた。と書いてあります。それが「たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、」と。そのために五劫思惟された。運命という言葉を使うならば、みな運命というものを持っておるわけでしょう。宿業を抱えておるわけでしょう。仏教では運命と言いません。宿業と教えますね。

曽我先生は「宿業は運命の自覚」と仰っておられます。何か人間を超えたもの、運命によって人生が動くというのではなくて、自覚。つまり、全て自分の業の結果であったことに目覚める。そして、それを背負って立ち上がる。苦なるものを苦のないものにするとか、病気を持っている者を病気でない者にするとしても、やっぱり病気になる身を抱えている以上はどうしようもありませんね。病気の時は健康であればいいと言っていたが、健康になったら忘れてしまうわけでしょう。本当に救われるということは、本当にすべての者がたすかるということはどういうことなのか。そこに法蔵菩薩のご苦労があった。しかし、法蔵菩薩とは何かということを正面から考えてくださって、明らかになさったのは曽我量深先生です。これは藤代先生から聞いた話ですが、ある時、大分の四日市別院で曽我先生がお話になった後で、客僧間でお茶を飲んでおられる時に、ある若い僧侶が部屋にきて、「先生のお話しを聞いていると、法蔵菩薩というのがどうもわからん。」と仰ったそうです。そうしたら、曽我先生が「法蔵菩薩はあなたですよ。あなたを離れて法蔵菩薩はありません。」と仰ったそうです。その言葉に若い僧侶はぽかんとしておったそうです。

 

 朝日新聞に石牟礼さんの言葉が載っておりましたが、「人を恨んだり憎んだりして生きるのはきつか」と人間杉本栄子さんは言ったという記事がありましたが、一切そのままに引き受けるところに本当の救いがある。自分を本当に大切にするということはどういうことか。それが人間全部の問題でしょう。それを仏法は考えたわけでしょう。人間の考えだけでは、その問題は解決しません。その道を示したのが南無阿弥陀仏です。お釈迦様は南無阿弥陀仏を知らせるために法蔵菩薩の物語をなさるわけです。お釈迦様は皇太子であった。その方が一切を救いたいと仰っるわけですお釈迦様の単なる個人的な体験や、長いご苦労による思いではないんだと。もし、お釈迦様の単なる思いであるならば、お釈迦様にはできたけれども、私たちには関係ない。そうじゃなくて、お釈迦様の獄路は、法蔵菩薩の魂がお釈迦様をして、そうせしめたということ。しかも、それは全ての人間の上にかけられた本願として、全ての人間の身にはたらいているものだ教えてくださる。そうすると、この如来の本願をいただいて、その本願のまことを喜ぶ身になるということは、「如来と等しい」と親鸞聖人は仰るわけです。先ほどお話しした石牟礼さんの一文を読んだ時に、名もないおばあちゃんが人を憎んだり恨んだりして生きられんと。そして、自分を差別した人も背負っていくということを言ったと、石牟礼道子さんが書いておられますが、何かそういう世界でしょう。そういう世界を法蔵の精神というかたちで、曽我先生が明らかになさったんでしょう。曽我先生がお書きになった色紙に、

 

南無阿弥陀仏は法蔵魂ぞ

 

と書いてあります。私は大石先生の上に、そういうお姿を見ることが出来ます。大石先生の生涯を考えますと、人間魚雷の搭乗員になって、はじめて死と向き合うことになり、その死が「人生とは何か、自分とは何か」を問う機縁になられた、先生は生涯その事ひとつを問い続けて、それを念仏の仏法に求め続けられた。その一途な精神は、大石先生を超えて大石先生の上にはたらいている魂だと思いますね。

 ある先生は、曽我先生にとって清沢満之先生は「法蔵菩薩の顕現である」といただいておられたと言っておられます。だから、法蔵菩薩は何かということが曽我先生の上に明らかになったのは、清沢満之先生がおられたからだと言っておられました。何かそういう問題があるようです。

 

諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、 無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫、これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

 

人間の歴史を見ると、「過去、久遠無量不可思議無央数劫」。だから、錠光如来というのは、内陣に灯されたあの輪灯の光だそうです。「錠」という字は、金属でできた油皿だそうです。だから、真っ暗い中で輪灯の光というのは、燃え盛る大きな光ではないが、小さな確かな光です。真宗の教えというのは、そんな小さな教えではない。一宗一派の教えではないんでないですか。そういうことが、私たちが「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」と、毎日お勤めしていることの意味です。今日はこれで終わります。

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