​正信偈に聞く

 10-1 

​平成21年1月12日

 皆さんこんにちは。今月は智慧光からになります。

 

9)「智慧光」(ちえこう)衆生の無知の闇を破る光明。

「浄土和讃」「無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり

一切諸仏三乗衆(いっさいしょぶつさんじょうしゅう)ともに嘆誉(たんよ)したまえり 

(注)三乗 声聞(しょうもん)乗 → 阿羅漢(あらかん)

      縁覚(えんがく)乗  → 辟支仏(びゃくしぶつ)

      菩薩(ぼさつ)乗   → 仏

「三乗方便一乗真実(さんじょうほうべんいちじょうしんじつ)」「一仏乗」(『法華経』)

 

 このように古田先生は(注)を入れておってくださいます。親鸞聖人は、光明は智慧である。智慧は闇を破る光明であるということは、一貫していろいろな和讃や他の書物にも書いておられます。『正信偈』のはじめに南無阿弥陀仏を「帰命無量寿如来・南無不可思議光」と、「無量寿」と「不可思議光」と二つに分けて述べていらっしゃいます。阿弥陀という意味は「無量寿・無量光」という意味があるのだと教えてくださっているわけです。無量光と無量寿は別のものではない一つのものですが、阿弥陀の徳を二つにあらわしてあるわけです。親鸞聖人のお書きになったものを見ますと、無量寿・無量光を「体・たい」と「用・ゆう」というかたちで教えておられるところがあります。寿が体で、光が用、はたらきです。「体」というのは「本体・ものがら」ということですが、「用」といった場合は「はたらき」ということです。ですから、阿弥陀の体を無量寿とあらわいて、用・はたらきを無量光という光であらわしている。光は視覚でとらえて、光っているものを光と考えがちですが、闇を闇と知らせるはたらきを言うのです。ですから、阿弥陀のはたらきは、衆生の迷い闇を破って光明の世界していくはたらきという意味です。『大無量寿経』を見ますと、法蔵菩薩が五劫、兆載永刧のご修行をなさって阿弥陀仏に成られた。そして成仏なさって今日まで、どれだけの年月が経っておりますかということを阿難(あなん)が尋ねます。その時に「成仏より巳来(このかた)、おおよそ十刧を歴(へ)たまえり」と言われる。

 

弥陀成仏のこのかたは いまに十刧をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり   浄土和讃 聖典P479

 

「弥陀成仏のこのかたは」、つまり法蔵菩薩が成仏なさった。法蔵菩薩が五劫・兆載永刧の間ご修行なさって、阿弥陀仏に成られたわけですが、その弥陀が成仏なさった。「このかた」というのは、その時から今までという意味です。「いまに十刧をへたまえり」、今日まで十刧というながい間時間がたっておるのだと。「法身の法輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり」と和讃にございます。この和讃は『大無量寿経』に説かれておりますように、阿難がお釈迦様に問いを立てて、それに応じてお釈迦様がおっしゃったことが和讃になっておるわけですが、阿弥陀仏の徳をお釈迦様が阿難に説いて聞かせられるわけです。その時に阿弥陀仏の徳を光であらわしてあるわけです。その光が無量光、無辺光、無碍光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光の順番になっております。

 そして、親鸞聖人も『正信偈』には、その順番にもとづいて、仏になられたお徳を十二の光として述べておられます。その順番が9番目に智慧光になっているわけです。「智慧光」というのは阿弥陀仏のはたらき自体を「智慧の光明」と親鸞聖人はおっしゃっておられます。この「寿」というのは慈悲をあらわし、「光」というのは智慧をあらわすと述べてありますから、阿弥陀仏という意味は慈悲円満、そして智慧円満という意味です。慈悲といっても、ただ可愛いというような意味ではなくて、さとりの智慧を背景にした慈悲です。慈悲はどこまでも真実なる智恵を知らせたいという慈悲ですから、智慧を離れた慈悲はないわけです。慈悲を離れた智慧はない。これは一体のものです。それが阿弥陀という意味です。はたらきでいえば、我われは闇を闇と知らない。その闇を闇と知らせるのが智慧のはたらきです。この智慧はさとりです。その真実の智慧を衆生に与えたいというのが阿弥陀如来の大きな願い。つまり慈悲になるわけです。ですから、智慧光は9番目に書いてありますけれども、本当は全体に通ずるものなのです。

 それともう一つは、7番目の「清浄光」は貪欲を破る光。8番目の「歓喜光」は瞋恚を破る光。9番目の「智慧光」が愚痴を破る光。そういう光のはたらきをあらわしておるのだと言われます。煩悩は百八数えてあります。除夜の鐘は百八突きますから、その煩悩を突き破って新年を迎えるという行事が除夜の鐘ですけれども、その煩悩の根本が「貪欲・瞋恚・愚痴」です。三毒の煩悩と言っています。「貪欲」というのは貪るという意味ですから、人間の欲望には切りがないという意味です。仲野良俊という本山の教学研究所の所長をしておられた先生が、「例えば、人間は一のものを持っているものが三を求める。そして三の欲求が満たされれば五を求める。そうして、その時その時、欲求がかなえば喜ぶ。しかし、喜ぶのは三日間で、すぐにまた上のものを求める。」

と言っておられました。切りがない。それが貪という意味だと。単なる欲ではない、貪欲です。しかもその貪欲は、我執煩悩(がしゅうぼんのう)という貪欲です。どこまでも自己中心の貪欲です。

 我執というのは「我」という思いに執われている。無いものを有るといって執われているのが「執」でしょう。具体的には、自分の身体を「我」と握るわけです。つまり「執」われるわけです。私という存在は、私の思いや考えを超えて、本当は不思議な因縁で父母を縁にしてこの世に出てきたものでしょう。だから、今日を生かされているといいます。あらゆる縁に、親のお蔭はもちろんです。それだけではありません。食べるものから着るもの。自然一切の大地、あらゆる縁に一刻一刻支えられ育てられて、ここまで来ておりますでしょう。それがご恩ということです。そういうことが思えない、どこまでも自己中心で我に執われいく。藤代先生は、生まれて三十二ケ月で「おれ・我」という人間になると言っておられました。そうなると、すべては自己中心にものが見えてくる。だから自分の都合のいいことが善いことで、都合の悪いことが悪いということになってしまう。そういう善し悪しから出てくる欲。だから極端にいえば、自分さえよければ良いというかたちになってくる。そういうことを仏教では「罪」というわけです。しかし、そういうことに気づけないというところに人間の闇がある。無明があるわけですね。しかし、我執を我執と気づけないのが我執の特徴です。我執は我執の力ではわかりません。徹底して自己中心ですから。だから自己中心ではいかんと言っても間に合いません。自己中心ではいかんと言っておるものも自己分別ですから。その分別も我執は超えられないという問題が、人間の根本的問題だと教えられるわけです。

 そのことをどこまでも教えて、それを超えさせる力は我執の知恵にはないし、また思わないですね。やっぱり自分の都合のいいことが良いことなんですね。これは法に背いている在り方です。「法」というのは、ありのままの真実。真(まこと)といってもいいですが、そういうものに背いておるのが、我われの在り方です。本来は広い世界の中にいる、あらゆるものに支えられて、いま私がおりながら自我を通して一切を見ていく。しかも我執の知恵をどこまでも信じていくから、そこに人間の苦悩は免れないわけです。それが、本来の人間の思いを超えてある真実に背いておる在り方です。そのことを知らせようとするのが法自身です。その法自身のはたらきが、お釈迦様によって南無阿弥陀仏と教えてくださっているわけです。南無阿弥陀仏は法自身の叫び、法自身のはたらきである。だから、お釈迦さまも南無阿弥陀仏を申して、その法に触れ、南無阿弥陀仏を申して常に法に依りながら、そのことを人びとに説いていかれた。『大無量寿経』には、法のはたらきそのものを法蔵菩薩の物語や、阿弥陀如来の本願というかたちで説いておられます。人間は法のはたらきによる以外に、我執を自分の力で破るということは不可能です。そういう問題が人間にはあるのだと。だから、私たちから言えば課題ですよ。仏教は答えをもらう教えではないと思いますね。

 例えば今、アメリカは深刻な経済不況になって、そのために世界の経済が大混乱しています。日本も同時にその影響を受けているわけです。日本はアメリカのお蔭で経済的に物が豊かになったことは間違いないですね。ところがアメリカの人たちは煩悩という課題はないのではないでしょうか。寧ろ欲望をどこまでも追及していく。政治が消費経済を抑制することに対して深い反発があります。抑制すればどうしても経済が弱ってきますからね。特にブッシュさんは、徹底して欲望追及の在り方、経済中心の在り方というものを抑制しなかったわけです。当然バブルは弾けるわけです。そこではじめて人間は、それではいかんのだと気づきますが、しかし、気づく心も我執ですからね。我執は「あれ」か「これ」かという、やり方をするわけです。寧ろそのことをご縁として、人間が根本的に深い問題をもっていることに気づくというようなことは容易なことではありません。

 そういうことに気づいている人の教えがなければなりませんけれども、キリスト教はそういうことをどういうかたちで教えてあるのかわかりません。今の銀行は企業に金を融資して利潤をもらうというようなことだけではありません。銀行自体が証券を売って商売をしているわけです。そういう方法がアメリカから入ってきたわけです。この頃の新聞に載っておりましたが、アメリカの銀行が破産しましたでしょう。国が少し加勢しましたけれども、それも間に合わないで破産しました。日本にも支店があって、日本人も失業しておるようです。ところが社長さんは、退職金が二百億円と書いてありました。

 社長さんは、今まで自分が先頭に立って会社に儲けさせてきたんだと。だから今は事情があってうまく経営がいかなくなったけれども退職金はもらうと。日本人の常識でいえば、社長としての責任が問われるわけですから、本当は退職金どころではないというのが日本人の常識でしょう。ところがアメリカではそうではない。会社は潰したけれども、退職金はさっさともらっていくという。だから、この経済原理の背景にある人間の欲望に対する観念が、かなり違うのではないかと思いますね。しかし、そういう人たちが個人的には、例えば教会とかボランティア活動等にはお金を出すそうです。儲かっている分を出すということは、キリスト教的なんだそうです。

 だから、決して単なる個人主義ではないわけです。社会のために尽くしておると。しかし、自分がもらうものはもらうと。他の人は能力がないからもらわれんのだと。私は能力があって、そのための苦労をしたんだから報酬はもらうということのようです。私はこのことについて善い悪いということを言う気はないのですが、その人その人の考え方、お国柄があるわけですけれども、しかし企業というのは社会的存在ですからね。だから働いている人にも還元していくわけです。単なる個人という、社会と切り離して個人という考え方は、今までの日本人にはどちらかといえば無かった。ですから会社が潰れたとき、社長さんはどんなことがあっても、従業員の人たちにはできるだけのことはするという思いがあったわけですけれども、アメリカはそういう考え方はしないようですね。ですから人間の欲が人間自身を動かしてしまって破錠に追い込んでいく。そういうものを人間は持っているという、人間の課題が見えないような気がします。

 

​正信偈に聞く

 10-2 

​平成21年1月12日

 新聞を読みますと、いろいろな人たちが今度の経済危機について論評しておられますが、「あれでいく」か「これでいく」という方法論なんですね。私は経済のことはわかりませんが、もっと人間自身が持っている問題があると思いますね。人間はなぜ苦しむかというたら、欲で苦しむわけです。思うようにいくときは、一が三になり三が五になって、欲望は切りがないわけです。だから欲望は思うようになればなるほど太っていきます。そして、いつのまにかに人間は欲に振り回されて、そして欲の世界の中に埋没していくわけです。ところが今度は逆境になると、つまり思い通りにならないと腹を立てる。「瞋恚」つまり怒り腹立ちです。「瞋」は、腹を立ててかっと目をむくという意味だそうです。「恚」という字は、相手を打つという意味だそうです。腹を立てて相手を打つという、それが瞋恚という意味です。これによって、あらゆる人間関係が全部壊れて、お互いが腹を立てていくわけです。それでも目は覚めないわけですね。だから、この「愚痴」が根本です。つまり「人間とは何か」、「人生とは何か」、そして「人間の本当の救いとは何か」というようなことが、はっきりしないということが愚痴になるでしょう。その心に真実なる智慧を与えようというのが、如来の大きなはたらきです。背景にあるものは苦しんでいる者を大悲する。その大悲から智慧がはたらくわけです。それを「光」に例えてあるわけです。そうすると、この愚痴が真実の智慧に転ずるときに、はじめて「人間とは何か」ということが見えてくるわけですね。そして、金・金といいますけれども、金ぐらいで人間は救われませんよ。どんなに金があっても物があっても、人間はそんなものでは救われません。人間はそういうものを超えたものでなければ、安心できないということを知らせるはたらきが智慧でしょう。そういうことが仏教の基本です。

 それで「清浄光」というのは、貪欲というものを超えさせる。ただ思うようになれば喜ぶというような喜びではない。真実なる法、南無阿弥陀仏に真に遇いえた喜びです。私がこの人生に生まれてきた意味がはじめてわかった。そして、一切のものはみなそのこと一つに気づけというご催促を私に与えてくださるものであったと。私にとって思うようになることもならんことも、一切がいっさい、私にただひとえに如来の真実に依れということを知らせてくださるためのご縁であった。そのこと一つに遇わせていただいて、私はこの世に生まれてきた本当の意味が明らかになった。こういうことが歓喜です。そうしますと、思うようにならんから腹を立てたことも皆無駄でなかった。みんなこのこと一つに遇うためのご縁だったんだと。私に腹を立てさせた人もそれはご縁ですね。そうしたら、その方が化仏(けぶつ)に変わる。このこと一つに遇えという、私にご縁をくださった人であったという、つまり仏縁の化現ですね。智慧が根本なんですね。この背景にあるのは慈悲です。清浄光、歓喜光、智慧光という三つの光の中には、そういう深い関係がある。名畑先生の智慧光の訳を見てみます。

 

無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり」

訳 「智慧の明かりなき疑惑の闇を破るので智慧光の名を得た弥陀仏をば、この智慧によって成仏した諸仏の三乗たちがともに讃嘆褒誉したもうた。」

 

 こういうように意訳をしておられます。「智慧の明かりなき疑惑の闇」、闇というのは人間の我執分別という意味ですけれども、「疑惑」といってあります。闇は疑惑だと。疑いと惑いと言ってあります。それはどこまでも自我の我執の分別。人間の考えとか常識をどこまでも頼む。その心は如来の真実、南無阿弥陀仏のまことを信じないという意味です。仏教で疑惑といった場合は、私は信じませんと。そんなものは信じませんというような意味ではありません。「猶予・ゆうよ」といってあるんですね。ああでもない、こうでもないと迷う姿を猶予するという。決定しない。私たちは学校に行って勉強したり、また社会に出ていろいろな経験をしますから。そうしますと、そこで人間の知恵が出来てきます。仏教は真実の自己に目覚めたものを智慧者と言います。私たちが知恵といっていることを、仏教では知識と言うんです。

 今、ふと思い出したんですが、私はむかし藤解照海という先生にお世話になっておりました。ある時、先生がある所にお話に行かれるから、私は鞄持ちでお供をしてバスに乗ったんです。そうしたらね、女の子が多かったと思いますけれど、高校生がバスに乗っておるんです。学校で試験があっているのか、バスに揺られながら皆本を読んでいるんです。教科書か参考書を皆読んでいる。その時、藤解先生は七十を過ぎたおじいちゃんでしたが、「いろんなことを覚えることは大事なことだ。しかし、いろいろ覚えたり知ったりしている自分、お前自身とは何かということを知ることを勉強しなければ、何にもならんぞ。」と、何も関係のない学生に向かってそうおっしゃったのに、私はびっくりした記憶がありますね。普通はそんなこと言わんでしょう。自分の孫でも何でもないんですから、何も言わんでしょう。何人もいたその中の学生に向かって、そういうことをおっしゃったんですね。その子はポカンとしてました。高校生はそんなことは分かりませんよ。何のことか分かりませんけど、いろんなことを覚える、何でも知っているお前、そのお前を人間は知らねばならんという課題ですよ。そういう課題は大事だと思いますね。

 今度の経済不況を見て思ったことは、アメリカの人たちは、キリスト教ですから分かりませんが、仏教でいう煩悩という課題がないのではないかと思います。この煩悩という課題は大事な課題だと思いますね。日本人は除夜の鐘を突くということを誰が始めたか知りませんが、煩悩が課題になっているわけでしょう。百八回鐘を突くことで、煩悩を課題にさせようとするわけですね。しかし、除夜の鐘を突いて新年になったら、その足で神社に行ってお宮に参って、どうぞ今年も良いことがありますように、災難がありませんようにとお願いをします。除夜の鐘をせっかく突いておりながら煩悩が課題にならない。親鸞聖人は自分のことを煩悩具足の凡夫とおっしゃるでしょう。自己をそういうかたちで仏教から教えてもらったという名告りです。そういうことを親鸞聖人は教えておられます。それは、煩悩ということが課題にいなったからです。そして課題にしてくれたのは如来です。如来のまことが人間にとどいて、そしてはじめて自分自身に遇った時に煩悩具足の凡夫と知れた。ところが、自分自身を知らないで知識ばかり増えていくと、知識はこの世の中を生きていく知識ですから金も物もいる。そしていろいろ問題が沢山ある。そういうものを一つひとつ乗り越えていくためには、仏教でいう知識も体験も、そしていろいろな方から情報を得ることも大事なんです。以前、長屋では井戸端会議というのがあってました。あれは大事な情報源でしょう。そこでいろんな人と話をして、それが自分の生活の指針になることもあるし、今まで気づかなかったことも気づけたこともあるでしょう。しかし肝心の自分が抜けているわけです。自分が抜けているということは、なかなか分からないですよ。これは難しい問題です。仏教はそのことを教えようとしているんです。そのことが分からなければ、結局人生はただ通過したことになってしまいますよ。ああでもない、こうでもないと言って日暮らしいる間に終わってしまいます。そういう私とは何か。だから、そういう意味では藤解先生という方をあらためて思いますね。私などもバスに乗りますと教科書か参考書を読んでいる生徒を見ますよ。そういう子に「そういう勉強は大事なこと。しかし、そうしているお前は何かということが本当は一番大事なこと」となかなか言えません。今になって先生はすごいなと思いますよ。そういうことが智慧でしょう。

 我われが知恵と言っているのは知識なんですね。知識と智慧の区別というのは、なかなか私たちにははっきりしません。それを「光」に当ててある。この頃、先生からいろんなことを教えていただいたんだなと思いますね。それは答えというよりも課題をもらいました。仏教は答えを与える教えではないのです。これは大事なことなんです。そんなことをここに書いてあると思うんですね。「智慧光仏となづけたり」という意味ですね。

「一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり」と。「嘆誉」というのは「ほめ・ほむるなり」と。親鸞聖人は左訓(さくん)されております。親鸞聖人は和讃を書かれまして、そして一つの言葉の左側にカナ字で意味を書かれるんです。後の学者が左訓という言い方でしています。それがたくさんあるんです。名畑先生の本は、非常に親切に書き込まれていて左訓まで全部入れてあります。それが私にはありがたいテキストなんです。そこに嘆誉ということを「ほめ・ほむるなり」と。嘆は「ほめる」、誉も「ほめる」という意味でしょう。「ほめ・ほむるなり」と書いておられます。問題は「一切諸仏」と「三乗衆」です。「一切諸仏」というのは、すべての仏のことですが、「この智慧によって成仏した諸仏」と書いてあります。「この智慧」というのはさとりの智慧です。さとりの智慧によって成仏した仏様。それが諸仏だと。その中に阿弥陀仏という仏がおられて、阿弥陀仏は特に本地本仏だと。あらゆる仏様の中の根本であり、諸仏は阿弥陀如来の分身であると蓮如上人は言われます。いずれにしましても、沢山の仏様がおられる一切仏、その智慧はさとりの智慧ですね。真実の自己に目覚めた智慧です。それを諸仏の智慧と言っているんです。その「諸仏」と「三乗」たちがと言ってあります。

 

注「三乗」声聞(しょうもん)乗 → 阿羅漢(あらかん)

     縁覚(えんがく)乗 → 辟支仏(びゃくしぶつ)

     菩薩(ぼさつ)乗 → 仏

 

「三乗」ということを、古田先生は「声聞」・「縁覚」「菩薩」といっておられます。三乗というのは三つの乗物という意味です。仏教で乗というのは、大乗仏教とか小乗仏教という言い方がありますが、乗物「運載の義」といいます。乗せて運ぶという意味です。迷いの凡夫を、迷いの世界から悟りの世界に至らしめる道です。そこにいろいろな道があるという意味で乗という言葉が使われているわけです。私たちは、自分がどうかなりたいと思ったぐらいでどうかなれるわけではありません。そこに道があるわけです。そして伝統というものがあるわけです。その伝統に依ることによって、私たちは目的地に行くことができるわけです。ここに三つ書いてあって、声聞乗という道と縁覚乗という道と、菩薩乗という道が示されているわけです。声聞乗という道によって得るところの最高位が阿羅漢です。

 

予流(よる)・一乗(いちじょう)・不還(ふげん)・阿羅漢(あらかん)

 

みな果です。予流果・一乗果・不還果・阿羅漢果と。「予流」というのは、何か声聞乗の道を歩んでいくと悟りのようなものが見えてくるわけですね。「一乗」というのは、「あっ、こういうことであったか」ということが一回はっきりする。究極的なものに気づくということがあるわけです。しかし後戻りするわけです。「不還」というのは二度と戻らないということです。「阿羅漢」は究極の世界です。これが声聞乗という仏教の究極です。

 

​正信偈に聞く

 10-3 

​平成21年1月12日

 縁覚果の究極は辟支仏ですね。そして菩薩乗の究極は仏です。長い仏教の歴史の中にいろんなものが出てくるわけですけれども、声聞・縁覚というのは、お釈迦様の仏弟子だといわれます。そして、お釈迦様がお亡くなりになっても、その道をずっと踏襲してきた人々といわれます。それが声聞・縁覚だと。「声聞」というのは、常に仏の教えを聞きながら一歩一歩進んでいくという雰囲気がありますね。「縁覚」というのは、教えは聞きますけれども、山に籠ったり、自分が何か一人でいろいろ工夫したり体験したりしていく。そこで目覚めが出てくるというような雰囲気があります。しかし、声聞・縁覚というのは、常にお側にいて教えを聞いていこうとする人たちですから、そういう人たちを「小乗」とも言います。小さい乗り物。形式的な面があるわけです。「菩薩乗」というのは、長い仏教の歴史の中から菩薩という考え方が出てきます。

私が学生の頃、大谷大学に佐々木教悟という仏教学の先生がおられました。先生はタイ国の仏教は、どちらかというと声聞・縁覚といいますか、小乗仏教的なものが主流だと聞きました。佐々木先生は親鸞教徒ですけれども、タイで頭を剃って、皆と一緒に朝起きて托鉢をして、そして決められた戒律(かいりつ)を守って何年もおられた方ですが、ちょっと雰囲気の違う先生でした。戒律には「女に触れてはならない」とあるわけです。異性と関係を持てば一切は崩れていくわけですから、これは一番基本的な戒律なのですね。ある時、佐々木先生がタイ国で友達に戒律の質問をするわけです。「ある時、あなたが托鉢をしながら川のほとりを通っておったら、そこで女の人が誤って川に落ちて、溺れて助けを求めたとする。その時あなたはどうするか。」という質問です。「その時は、人を呼んで助けてもらう。」と言うそうです。だから、自分が助けるということはしないというわけです。そしたら意地悪な質問をするわけです。「人がおらん時はどうするか」と。どんどん相手の矛盾を突いていくわけです。そうすると最後には、「そういう危険のあるところを通るのが悪い」と。戒律といっても、人間が社会生活をするということは、そんなことでは間に合わんものを抱えておるわけです。  

 だからお釈迦様は、形ではそれに近い生活をなさったかもしれないですけれど、そういうことを超えた自利利他平等という。自分もたすかり、一切のものも救われていくというのが「菩薩乗」ですが、声聞・縁覚は自分の悟りだけを求めて行く。だから徹底して出家、戒律に固執していくわけです。そうでなくて、一切衆生と共にという自利と共に利他という。普通の社会生活の中で、しかもどう仏の悟りの世界を明らかにしていくか。もっと言うならば、むしろ自分があえて、そういう世間の中に入って行って、そして共に救われていくという道が明らかになるのが本当の仏道だと。そういうとらえ方が菩薩と言われますね。「大道心成衆生」と。菩薩というのはボディ・サットヴァという言葉を、中国の学者が菩提薩埵と漢字を当てたんですね。漢字に意味はないんです。意味は「大道心成衆生」とか「大覚有情」とか訳しています。つまり、道を求める心ですけれども、大きいという。その大きいという意味が自利利他という意味ですね。だからあえて、その人々の中に飛び込んで行って、そして、そこにおいて自らも救われ、そして多くの人びとと共に救われて行こうとする。そういうあり方、仏教のあり方を菩薩道と言われます。そこから大乗という言葉が出てくるわけです。大きい乗り物という言葉が出てくるわけです。しかし何れにしても、そういう道の根本を流れるものが阿弥陀如来の本願。老少善悪男女を選ばないというかたちで、その如来の真実が衆生の迷いを破っていく。そういうはたらきが南無阿弥陀仏であるということを、親鸞聖人はここでおっしゃるわけですね。

 この無明の闇が破られる。だから智慧光というんだと。はかりなき疑惑の闇を破るので智慧光の名前を得た阿弥陀仏を、その同じ智慧によって成仏した諸仏や三乗衆たちが共に「讃嘆褒誉したもう」と。ほめたたえるのだという。それはどこまでも一切衆生が共にということです。声聞・縁覚が教えに忠実であったとしても、女人が溺れているといえば、そういうところを通るのが悪いと言わんならんということは、社会生活が非常に具体的ではありませんね。社会生活はそういうものを許さないわけですから。そこで、全ての者の救われていく道が菩薩道として説かれてくるわけですが、しかし、菩薩道も歴史的に出家の仏教を守って来ました。親鸞聖人も比叡山に二十年おられましたけれども、結局比叡山は出家の仏教ですよ。菩薩行といいながら、大乗仏教といいながら、女人禁制の、そして山の恵まれた人が修行をして、そして大乗仏教を覚っていくというかたちになっているわけですから、現実的には大乗仏教にならんわけです。本当に全ての者が共に救われていく道が、どういうかたちで成り立つのか。それは、人間が理想を求めて悟りを開くかたちでは成り立たない。そういう全ての人間の思いや考えに先立って、つまり、仏かねてしろしめして、一切衆生を浄土に生まれさせて仏にしたいという、そういう本願の名号を成就してくださった。そこに真実の智慧があるわけです。それを教えてくださったのが、南無阿弥陀仏の本願のまことだと。それが正しく智慧光であると親鸞聖人はここでおっしゃるわけでございます。

 古田先生は「三乗方便一乗真実」「一仏乗」『法華経』という言葉を書いていらっしゃいます。だから声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、つまり三乗は方便なんだと。方便というのは手立てです。方便というのは嘘という意味でなくて、真実なるものに引き入れるための手立てという意味です。そして、真実なるは一乗真実といわれるわけです。その一乗真実を標榜しているのが『法華経』であると。ところで比叡山は『法華経』を依りどころにした天台宗ですが、私たちは『法華経』というと、すぐに日蓮上人を思い出しますけれども、日蓮上人も比叡山で勉強した人です。そして『法華経』の行者になったわけです。日蓮上人は比叡山に上って『法華経』の学問修行をなさったけれども、当時の比叡山は『法華経』の真実の精神をすでに見失っていると考えられた。だから、自分こそは『法華経』の真実の精神を体現しているのだということをおっしゃるのが日蓮上人ですね。そこで比叡山を下りて日蓮宗を開いていかれるわけです。それは南無妙法蓮華経というお題目を唱えるというかたちで、『法華経』を真実なる一乗法華の教えを明らかにするのだと日蓮上人はおっしゃった。だから、「三乗方便一乗真実」というのは一仏乗ということです。三乗はそこに帰するということです。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗は方便で、そして『法華経』に説かれる教えが真実だと。だから、三乗はそれに帰するための方便だという意味です。だから三乗は一乗真実に帰するのだという意味でございます。ところが、それに対して親鸞聖人は「誓願一仏乗・せいがんいちぶつじょう」ということをおっしゃいます。「誓願」は如来の本願ですね。つまり、一切の仏教はここに帰すると。南無阿弥陀仏ということです。誓願は如来の本願でございますからそこに帰する。だから三乗も結局、このこと一つを気づくための手立てです。だから三乗方便です。日蓮上人は法華一乗とおっしゃるけれども、そこに問題がある。

 私が若いころ、先輩の先生のお寺にお世話になっておりました。田川というところですが、そこで役僧をしておりました。そのころ創価学会の会員が非常に増えて、寺の組合の中でも創価学会のことが問題になりました。ある時、寺の組合の中で私に「お前、創価学会のことを勉強して、それをお坊さんの中で発表するように」と命令を受けまして、暇をみて創価学会のことを調べました。わりと詳しくなりました。それを組会で発表したことがあります。その人は癌で亡くなりましたけれども、ある先輩が話を聞いておりまして、「ご苦労さん。今日は面白かった。今日の話は結局、「南無妙法蓮華経」というお題目には、本願がないということを、あなたは言いたかったのだろう。」と言いましたね。私もそんなことを言ったつもりでしたが、彼に言われてかえってはっきりしたですね。つまり南無妙法蓮華経には本願がないんです。本願がないということは、お釈迦様が『法華経』の中で説かれている教えが一仏乗であると説かれていますが、南無妙法蓮華経と唱えて一仏乗を覚れということはどこにも書いてないんです。だから、そういう意味でいうならば、日蓮上人のオリジナルなんですね。体験でしょう。これは日蓮上人の体験だろうと思いますね。いつか日蓮上人の伝記を読んだことがありますけれども、太平洋の荒波に向き合って思わず南無妙法蓮華経と言ったと。そこからお題目がはじまっておるということを伝記で読んだことがあります。体験ということだと思います。南無妙法蓮華経というお題目は、『法華経』のどこにも書いてないんです。だから南無妙法蓮華経は日蓮上人のオリジナルなんですね。日蓮上人の体験を通して、その体験に皆行くための道行きとして南無尿法蓮華経と言ったわけでしょう。そのためにはいろいろな行があるに違いないですよ。ただ南無妙法蓮華経といって、太鼓を打っていることに違いないんですけど、しかし、やっぱり此方から向こうへでしょう。やっぱり自力でしょう。我執というようなものがそんなに・・・。体験は体験ですけれども、元に戻りますからね。だから、そこでフッと消えていくということはないわけですね。

 大石先生はおっしゃっておられました。南無阿弥陀仏は消えるんだと。南無阿弥陀仏は向こうからはたらくわけですから、此方が理想のように求めて行くんじゃない。日蓮上人の場合は、その体験は理想ではなかったでしょう。事実でしょう。それを今度は南無妙法蓮華経と唱えていくということになれば、それは理想になるわけです。南無阿弥陀仏は違うんです。向こうから此方へ入ってくるはたらき。問題は自力の心です。これが課題です。自力の心は、いろんなかたちではたらいているわけです。人を隔てる心とか、憎む心とか、なぜ自分ばかりがこんな目にあわなければならんかと、どんなかたちではたらくか分かりませんよ。そのことを通して、大悲の中におりながら小さな自分の中に執われおる。はじめはそれも観念です。何かの時に、正しくそういうことが自分の課題になったときに、呼ばれておったということが、はじめて南無阿弥陀仏と気づかされる。それは、向こうからはたらくはたらきです。観念とか理想じゃないんです。私の先輩が「結局、南無妙法蓮華経には本願がないんだわ。そう言いたかったんだろう」と。「そうです」と。それはずっと忘れませんね。本願というのは他力です。だから、いつ信の一念が、どういうかたちでくるか。私の日暮らしの中に危機があります。言いようのない、救われようのない孤独。なんかいろんなご縁を通して危機が来ます。その時に呼ばれておると。

 

「仏かなてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、」 歎異抄 聖典P629

 

と、仰せられたと親鸞聖人はおっしゃいますね。それは親鸞聖人はどういうかたちで危機が来たかといったら、

 

いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」 歎異抄 聖典P629

 

というかたちで危機が来ていますね。「いささか所労のこともあれば」とおっしゃるんですから、身体の具合が悪かったんでしょう。その時にフッと自分の中に何が出てきたかというたら、「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆ」と。これは人間の我執です。そういうかたちで危機が来ておるわけですよ。普通は危機とはいわないですよ。それはどういうことかといえば、それは人間だから当たり前と、そういうかたちで流れていくわけです。しかし、それは一つの危機ですよ。そこのところに、

 

「仏かなてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」

 

と、親鸞聖人はいただいておられます。だから、南無阿弥陀仏は「こころぼそくおぼゆる」こころに寄りそってます。それが本願他力です。こちらから向こうへというのは体験でしょう。そういう方向ではないんです。「誓願一仏乗」は、つまり、そこに帰ると。それは人間によって建てた道ではないんですね。誓願によって私たちのために建てられた道なんですね。一切はそれに帰する。つまり三乗が帰するわけです。三乗には、自己を研ぎ澄ましていくはたらきがあると思いますよ。人間の危機と申しましたけれども、やはり人間を研ぎ澄ましていくはたらきがあると思います。だから、私たち真宗の教えを聞いても、なかなか他力というものははっきりしないわけですね。しかし、聞かしてもらうということで課題を課題としていただく。課題と向き合うという問題があると思います。

そういうことを、私は教えられておると思います。空から降る雨のようにたくさん教えをいただいているでしょう。しかし、なかなか南無阿弥陀仏申さんという、こういう課題があるのだということを感じますね。私などは夜の目覚めに念仏申さずにはおれんことがありますけれども、本当に我が儘、気ままで生きてきた者が、赦されてきますよ。「諸仏三乗」は全てここに帰する。だからそれは嘘ではないんです。無駄でもないんですね。その人その人の因縁がありますからね。しかし、ここに来てはじめてそこに来ずにはおれんようになっているわけです。「一仏乗」という。親鸞聖人は、仏教は「誓願一仏乗」だと明らかになさって、そのことが明らかになることが「真の仏弟子」と言われる。「金剛心の行人」だということを、親鸞聖人は仰っておられます。一応「智慧光」ということを、和讃に沿いながらお話申し上げたと思います。