問題は常に内にあり
04
「願海」2006年9月掲載
この頃、娘が嫁にいっている東京の専福寺のお父さんから一冊の書物をいただきました。お父さんの名前は二階堂行邦といわれますが、二階堂さんが本山の高倉会館で法話をされたものをまとめたもので、本山の出版部から「自分が自分になる」という題名で出版されたものでした。その中に、こんなことが語られていました。
大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経の中に「佛は、十方衆生(じっぽう、しゅじょうーあらゆる人間)のために、正しいみ法(のり)を説いて、衆生一人一人が、自分の人生に安らかに、一人で立って生きる人間にしたいと、はたらいておられる」と書かれている。そこで、その中の「正しいみ法」というのは言うまでもなく仏法、すなわち南無阿弥陀仏の教えであるが、その教えによって「安らかに一人で立つ」(各各安立-かくかく、あんりゅう)というのは、どういうことであろうかという問いを自ら立てて、それを明らかにするために、評論家の芹沢俊介さんの話が紹介されています。
芹沢さんは青少年の犯罪の問題をとりあげて、そこでイノセンスということを言われている。イノセンスというのは英語で、通常は無罪とか潔白、責任がない、というような意味に使われる言葉だそうですが、芹沢さんは「強制的贈与」という意味に使い、それは、他人から、また親から強制的にはじめから与えられた贈与、贈り物だと。つまり、よく問題をおこす青少年の心に深い闇がある。そのもとをおさえてみるとこのイノセンスがある。つまり、極端に言えば「何で頼みもしないのに、こんな俺を生んだのだ」と親に文句を言う。こうして与えられている身の事実に安立できないでいる。「ようこそ私を人間に生んでくださってありがとう。私はあなたがたの子供に生まれてよかった」と子供が喜んでくれれば、親はどんなに嬉しいか知れない。しかし、子供に「頼みもしないのに何で俺を生んだか」と言われれば、親はどんなにか悲しいことでしょう。しかし、そうしか言えぬ子供も本当は悲しいのです。こうゆう問題として芹沢さんはイノセンスということをいっておられる、と二階堂さんは述べられて、「安立」というのは、現にこうして生まれてきて、生かされてありながら、それが受け取れない。身の事実に安立できないでいる。しかし、それを乗り越えて、それが自分の責任だと、与えられたものをも自分の責任として生きることになるときイノセンスが壊れる。仏教では宿業としてわが身をうけとる。それが教えによって安立するということであると二階堂さんは言っておられます。その本を読み本当にそうだと思いました。「自分が自分になる」という書物の題のもっている意味はそういうことを表しているのでしょう。そして、これこそが宗教問題なのだと気づかされました。
こういう言葉は若い青少年の口から聞かされるものですが、しかし、その人たちも大人になって、社会に出て、その人の立場が与えられ、それなりな自信をもって生きはじめると、そのような矛盾が次第になくなります。自分の仕事とか、責任のある立場に立つようになると、自分なりに、世間のお役にたっているとか、困難な仕事を成し遂げる喜びを感ずるようになるとかして、生き甲斐のようなものが出てきますから、一応青年時代のイノセンスは超えられます。しかし、それで本当の解決になっているのか、そこは大きな問題ではないでしょうか。
と言いますのは、例えば、ある人が社会の一員として活躍している間も、都合よく物事が動いているときは、夢中になって働く。そして、その仕事に自信がつくと、いつのまにかそれはみな自分の努力のせいだと考えるようになってくる。しかし、その反対に都合の悪いことが続き仕事がうまく行かなくなると、こうなったのは他人の誰かのせいだと考えてしまうところがあるような気がします。つまり、どんなことがおきても、一切は自分の受けていかねばならぬこととして、引き受けられるかといえば、そんなに簡単ではない。どうかすると、何かのたたりと考えたり、運命論に流れたり、それを説いて人を迷わす邪教もある。結局愚痴が残るのです。つまり、不足・不満が残っていて、それが一生尾を引いてゆく。しかし、そうなっている自分になかなか気づけない。それは私たちの心の深いところに、自分の人生を我執という、つまり、とらわれた心で握っているありかたに原因があると教えてくださるのが仏さまの教えなのだと気づかされます。
問題は常に内にあり
05
「願海」2006年11月掲載
前回、評論家の芹沢俊介さんが、青少年の心の深い闇について、そこに英語で言うイノセンス、つまり「強制的贈与」、「何で頼みもしないのに、こんな俺を生んだのだ」と親に文句を言う気持ちが、青少年の心に深く横たわっていて、それが彼らを悩ませている。しかし、彼らは現にその父母を縁にしてこの世に生まれ、多くの恩恵の中で生かされている。それが受け取れない。身の事実に安立できないでいる。それを乗り越えて、たとえ、どのような状態であっても、他人のせいにせず、それが自分の責任だと、与えられたものをも自分の責任にして生きる人間になることを、仏教では「宿業(しゅくごう)としてわが身を受け取る道」と教えられていると書きました。しかし、このイノセンスは青少年だけではなく、人間に一生つきまとう深い迷いの心ではないかと思っています。つまり、どんなことがおきても、一切は自分の受けていかねばならぬこととして、引き受けられるかといえば、そんなに簡単ではありません。
ところで、これは随分以前に、私が長い間仏法のお育てをいただいた藤代聡麿(ふじしろとしまろ)という先生に聞いた話です。先生は京都の仏教大学の先生を永く勤められ、また全国に講演をして回られました。柳川の光善寺にも毎年親鸞聖人の報恩講(ほうおんこう)にお出でくださいました。先生は、その晩年は八女郡の矢部村に居を定めておられましたが、その晩年のお話です。ある有名な俳優さんが東京から飛行機とタクシーを乗り継いで訪ねてこられたそうです。その俳優さんは、もとは歌舞伎役者でしたが、やがて時代の流れで映画や芝居、テレビにも出演し非常に有名なスターで、演劇などにまったく無知な私でも、話を聞いてその名前とその顔を思い出すような人です。その俳優さんが仏教のお話を聞きに、わざわざ先生のところにこられたのです。それまでお話などほとんど聞かれたことはなかったそうですが、もともと、瀬戸内海の島の出身で、真宗の門徒の家に生まれた人でした。ところで、それほどの俳優さんも年齢とともに老いがやってくる。その美貌にも、その演技にも当然かげりが見えてきて、スターとしての全盛はもう下り坂です。映画会社をその人ひとりの人気で支えたような時代にも終焉がやってきた。会社は当然新しい若いスターをつくります。そうなれば、会社の人や、他の若い俳優さん達のその人に対する態度も次第に以前のようではなくなってくる。そのことを感じさせられることが増えてきたときの、その人の悲しさと、淋しさ、また一種の憤りに似た感情もその人を苦しめたであろうことは容易に想像ができます。しかし、はたから見ると、その人もそうなる以前から、やがてその日のくることは早くから分かっていたはずです。また、そうして消えていった先輩を何人も見てきたはずです。しかし、お互い人間は自分もいつかはそうなることは頭では分っていても、このことばかりは、自分がそうなってみて初めて分かることですし、そこで人間はみんな苦しみだすのです。仏教には「老苦」(老に苦しむ)という言葉があります。そこでその人はある人の紹介で藤代先生を知り、訪ねてこられたのです。そして、先生の前でありのままの気持ちを正直に語り、語りながら男泣きに泣かれたそうです。その話の中でその人はやはり「自殺」を本気で考えたと言われたそうです。フアンのイメージの中にいる若い颯爽としたスターの姿のままでこの世から姿を消したい。老いさらばえた姿をさらしたくないと本気で考えたとか。人間がその身の事実を、ありのままに受け取ることがいかに難しいか、ということを教えられている私たちには他人事ではありません。しかし、幸いにしてその人は仏法に遇って助かりました。つまり、ありのままをありのままに受け取る道を念仏で教えられました。
問題は常に内にあり
06
「願海」2007年3月掲載
前回は、ある俳優さんと藤代先生とのご縁について書きました。その俳優さんは先生のお話を聞いて救われたそうですが、そのお話の中身については紙面の関係で書きませんでした。その時先生は「自分も一人の学者として、また一人の人間として、幾度も困難な時代を経て生きてきました。そして、時には八方塞りのような深い苦悩の中で、フト自殺を考えたこともありました。しかし、そのどん底で私が気づかされたことは、私などよりももっと深い悲しみの中で、静かに念仏をしておられる方がいらっしゃった。その方が親鸞聖人だった」とその俳優さんに語られ、念仏の生活を勧められたそうです。その先生の言葉がその俳優さんに深い感動を与え、大変喜ばれたということでした。私はそのお話を聞き、親鸞聖人は私などから言えば、手も届かぬ高い悟りの世界におられる方と思いがちだが、そうではない。私たちと同じ人間としての深い苦悩の真ん中で、仏のみ名(南無阿弥陀仏)を称え、そのみ名となってはたらいておられる仏に念じられて生きる身の幸せを喜んでおられた人であった、ということを改めて教えられました。
今ここでもう一つ思い出すことがあります。大谷大学の名誉教授で世界的な仏教学者であった金子大栄という先生がいらっしゃいました。昭和51年(1976)に95歳で亡くなられた高僧です。その先生がまだお若いころのお話です。先生の故郷(新潟県)におられたお母様から、京都におられる先生にお手紙がきて、そのなかで「年をとり、病になって、体が不自由になってくると、苦しさや痛みのために、いくらお念仏を申してもお慈悲が喜べない」と書かれていたそうです。それに対して出された先生のご返事は、今拝読しても非常に感銘深いものです。「さて、お慈悲を喜ぶ心が起こらないというお嘆きですが、それは病める身には御もっとものことと存じます。私たちの心は、苦しいときは苦しいだけであり、悲しいときは悲しいだけにしかできていません。それがありのままの姿であります。その心の中へお慈悲を喜ぶ心を注ぎこもうとしたり、その心を転じて、ありがたい心になろうというのが無理と言わねばなりません。されば唯せつなまぎれにてもお念仏の申さるることが有り難いのであります。お慈悲を喜んでお念仏申すのではなく、お念仏の申さるることがお慈悲であります。せつなまぎれの中からも、お念仏の申さるるがお慈悲であって、それは母上のお計らいではありません。凡夫のせつなさにお慈悲が紛れ込んで、お念仏となってくださるのであります。さればお念仏を申して有難うなるのではありません。お念仏の申さるることが有難いのであります。お念仏の申さるることのほかに有難いことがあると思わるるは計らいであります」と書いていらっしゃいます。
明治生まれの先生が書かれたお手紙ですから、ちょっと、堅苦しいところがありますが、お母さんの気持ちを精一杯受け取りながら、しかし、先生の教えに対する厳しいお姿が読み取れる有難いお手紙であります。その中で「お念仏を申して有難うなるのではありません。お念仏の申されることが有難いのです。」と言われるお言葉は、私はずっと忘れることのできぬものです。そして、いつも愚痴の心を持ちながら、なかなか念仏に帰れぬ自分を本当に悲しく思うことがあるのです。