​ 浄土真宗の教え 

 01 

「願海」2020年5月掲載

   親鸞聖人は、私達にはその行為全体を「おれがしている」という自己に固執するみにくい執着心があり、その為にその行為が結局「自と他をへだて」共に苦悩の世界に陥る結果になるということ、そして、その「自力の心」をどう乗り越えるかという根本問題を教えられているのが念仏の教えであるとお示しくださっています。

 私は以前松木大信(まつきだいしん)という先生の書物の中で一人の女性が念仏の教えによって救われた体験談を読み非常に感動したことを今も忘れることが出来ません。

 その女性は、二人の子供を残して妻を亡くした男性の後添いとして結婚し、先妻が残した二人の男の子を我が子のようにして育てた人でした。上の子は学校を卒業し立派に社会に出たのですが、下の子が高校生の時に肺結核に罹り寝込んでしまいます。時代は日米戦争の戦時下で国内が非常に緊張し、国民生活が困難な日々を送っていた頃のようです。当時日本には肺結核の特効薬は無く、ともかく安静にして栄養の有る食事をとって体力を保ち、病気に打ち勝つ努力をするようにお医者さんから言われていても、それが非常に困難な時代だったのです。お母さんはその中でその子の為に大変苦労されます。

 然しその子の病気は中々快方には向かいませんでした。ある時、たまたま近所の親しくしているおばさんがやってきて、その子の病気を見舞ってくれました。そしてその後二人だけの所でお母さんのご苦労を慰めながら言いました。「私があの子供に『あなたの本当のお母さんは亡くなられたが、新しいお母さんが本当に良い人で貴方は幸福者だ、早く健康になって親孝行をせねば。」と言った時、あの子は『お母さんは心の冷たい人だ』と云ったので私はたしなめておいたけれども、あなたも大変ですね」と言って帰っていったのです。

 然しその子供の言葉にお母さんは非常に傷つきます。「私があれほど尽くしてやっているのにあの子は心の中にそんなことを思っているのか。小さい時は可愛い子だったが、年頃になって本当の母でない、義理の母親ということを考え始めているのか」と思い絶望的にさえなります。そうして一人ひそかに苦しんでいる時に、たまたま人の招介で松木大信先生にお会いし念仏の教えに遇っています。

 そこで松木先生はその御母さんに深く同情され慰めの言葉をかけられた後で親鸞聖人の教えについて丁寧に話していらっしゃいます。その時先生は「私達は何かをするとき必ず『誰かの為にしてやっている』のではあるまいか。必ずどこかで恩に着せている。つまり相手の為にしているように見せて結局は自己をそこに立てている。然しそうでしかあり得ぬわが身になかなか気付けない、むしろそれは不可能と言ってよいほど深い「人間の迷い」がある。そして、そのことに気付きその事に苦しまれたのが親鸞聖人であった。そしてその究極において聖人は『我に真実は無し。真実は如来のみ。その如来の真実に帰依する南無阿弥陀仏申(もう)して生(い)きる以外に我の生きる道はない』と目覚められた。私達もその教えを信じて生きている。貴方も今度の事をご縁にしてその事に気付いて欲しい」と懇切丁寧に話していらっしゃいます。然しお母さんはその場では先生のお話しの深い心が理解出来なかったようです。

 

 しかし、家に帰ってから「為にしている」という言葉にはそうでしか有り得なかった、そしてそのことに全く気付いていなかった深い悲しみがあったのです。そして「私は病気して心に深い悲しみをもって苦しんでいるあの子供の気持ちを、本当に分かってやっていたであろうか」という深い悲しみを感じていきました。それから、その子の世話をしてやりながら、「お母さんは我が強い人間だからお前の淋しい気持ちを本当に思いやっていなかったようだごめんね」と言っています。その時その子がお母さんの膝に抱きついて「皆は社会に出て活躍している、しかし僕だけこんな病気になって毎日天井ばかり眺めて苦しんでいる。どうせ僕はもう死ぬるより外に道はないのだ、お母さんには感謝している」と言って大声で泣きだしたのです。その子供の脊中をお母さんも抱いて泣いた。二人で泣きながらお母さんは「ごめんね、ごめんね」と言いながら泣いた。然しお母さんはその時始めて本当の親子になれたと感じたそうです。その時から二人の関係が全く変わり、お互い笑いながら何でも言い合うような生活が始まりました。

 それから二人で松木先生の書物を通して佛教の勉強を始めます。その時その子の教えに対しての理解と、その態度が驚くほど真剣でお母さんを驚かせるのです。そしてこの子は自分の死を予感して教えに向かっているのだとお母さんは深い悲しみを感じていました。そしてその予感の通り数年後に亡くなります。その臨終にその子はお母さんの手をしっかり握り、穏やかな顔で「本当に僕はお母さんの子供でよかった。お母さん有難う。僕は先に往(い)っています」と言って静かに息を引き取ったそうです。お母さんはその子を抱きしめて、その子の名前を呼び続けて泣きました。

 後にお母さんは松木先生に長いお礼の手紙を書いています。その中にお母さんは「あの

子は私を教えに導いてくれた仏さまのお使いでした」と書いていました。 

 

                             

 

​ 浄土真宗の教え 

 02 

「願海」2020年7月掲載

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は私達にはその行為全体を「おれがしている」という自己に固執(こしゅう)するみにくい執着心(しゅうじゃくしん)があり、その為にその行為が結局「自と他をへだて」共に苦悩の世界に陥(おちい)る結果になるということ、そして、その「自力(じりき)の心」をどう乗り越えるかという根本問題を教えられているのが念仏の教えであるとお示しくださっています。

 私はいま、以前久留米市内のあるお寺さんの床の間に掛けられていた色紙の歌を思い出しています。

 

 手は無くも、足は無くとも、み仏の袖(そで)にくるまる 身は安きかな  

                           久子六十三歳

 

というものですが、その時私はすぐ病気の為に手足の不自由のなかで熱心な念仏者であった中村久子(なかむらひさこ)さんのものであることにすぐ気が付き、思わず念仏を申させていただいた記憶(きおく)があります。

 久子(ひさこ)さんは岐阜県高山の人ですが幼い時脱疽(だっそ)という病気の為に手足を切断するという手術を受けられた人です。私は以前実際にこの人が多くの人を前にして念仏の喜びを語られた場所にご縁を頂いたことがあります。両手の肘の関節から先、また両足の膝の関節から下がありませんでした。控室から寺の本堂(ほんどう)までは主人が背負って来られたのですが、本堂の中ではその短い足で何の抵抗もなくスタスタと歩かれ、本尊の前で短い手で合掌され、用意された椅子に上がり姿勢を正して演台から聴衆に向かって挨拶されます。そして自分の今までの苦悩(くのう)の歴史と念仏の教えにお逢い出来たことの深い因縁と喜びを静かに然し情熱をこめて語られました。そしてその後、そこに用意されていた筆を口にくわえ、短い手で色紙を支え、先ほどの寺の床に掛けてあったような信心の歌を立派に書かれ、それを両手で掲げて皆さまに見せ、喜びを語られました。その姿に皆息を飲んで誰一人声を立てる人もいないという雰囲気であったことを今も思い出します。

 この人は明治三十年に生れ三歳の時脱疽という病気で両手・両足を切断するという手術を受けられ、非常に困難な人生を歩まれたわけです。現代ならば医学の発展によりそんな苛酷でない治療の方法があったのかも知れません。何しろ三歳という年齢でしたから、正直御母さんはその子の将来を考え一緒に自殺を考えられた事もあったようです。然しそれを思い止まれてからは、その身体で尚立派に生きてゆける訓練をほどこされたのです。それは本当に厳しいものであったようで、久子さんは幼いながらお母さんを鬼か何かのようだと怨まれた時もあったそうです。然し今でも私は信じられませんが唇で運針(うんしん)をして裁縫(さいほう)をする訓練をされた。その時唾(つば)で布が汚れた時お母さんが久子さんを竹の物差しで叩かれたと言われていました。本当にこの娘がこの身体で生き抜いてほしいと願われたのでしょう。久子さんは成人して結婚され、娘さんがおられたのですが、その方のお母さんが亡くなられた後にテレビに出てお母さんの事を語っておられましたが、自分が小さい時家事一切の事について母はなんでも自分で出来る人であったから、母が障害のある人と思った事は無かったと話されていたのに驚きました。久子さんは昭和四十三年に七十三歳で亡くなっています。 

 その久子さんがお念仏の教えにあわれるご縁は、そうした御苦労を通して次第に自分の生き方に自信が出来てくるに従ってその心で世間が見えて来る。世間の人は皆五体満足の身でありながら、その事を当然としてその事に感謝の心も無い。むしろ横着三昧の中で不足を言い、文句ばかりを言って生きている。その事を軽蔑の眼で見ることが始まり、それに対して自分はあらゆる困難を乗り越えて生きてきた特別な人間だという心が強くなったと思われます。日常的な日暮しの中でも、例えば階段を上ろうとしている時に、そばの人が久子さんにふと手をかそうとすると、激しくそれを拒否して相手の思いやりの心に感謝するという優しい心が無くなっていったと言います。すべてに於いてそのことがあり、やはり人間の努力の心の中に潜む「わが身をたのみ、わが心をたのむ、われをよしと思う自力(じりき)の心」の恐ろしさに気付かされます。然し其の心は自力の心に立つ凡夫(ぼんぶ)の心でその事に気付くことは不可能です。久子さんはそうして次第に誰も信ずる事が出来ぬ孤独の世界に落ちていったのです。

その暗い心の中でお念仏の教えに遇(あ)われるのですが、直接のきっかけはお念仏の教えを喜び、久子さんを愛し、その生き方を気遣ってくれていた、あるおばあちゃんが久子さんに言った「おやさまを泣かせている」という言葉であったと言われています。ここでいう「おやさま」というのは阿弥陀如来(あみだにょらい)さまのことでしょう。

 久子さんはその言葉ではっと我にかえりそこに身を投げて泣きながら念仏申されたと言われています。