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​正信偈に聞く

 47-1 

​平成24年7月29日

みなさん暑い中にお集まりくださいまして有り難うございます。熱中症で毎日死人が出たりして救急車が忙しく走るということをテレビで言っておりました。私も年をとりましたから、気をつけねばならんと思っておるようなことでございます。

今日から道綽禅師のところに入ります。

 

道綽決聖道難証 道綽、聖道の証しがたきことを決して、

唯明浄土可通入 ただ浄土の通入すべきことを明かす。

万善自力貶勤修 万善の自力、勤修を貶す。

円満徳号勧専称 円満徳号、専称を勧む。

三不三信誨慇懃 三不三信の誨、慇懃にして、

像末法滅同非引 像末法滅、同じく悲引す。

一生造悪値弘誓 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、

至安養界証妙果 安養界に至りて妙果を証せしむといえり。

 

以上、道綽禅師の教えとお徳を述べられておるところでございます、

 

(意訳)

道綽禅師は、聖道門では悟ることが困難であることを明らかにして、ただ浄土門のみが通りやすく、入りやすいことを明らかにされた。

さまざまな善を自力によって勤め励むことを退けられ、欠けることのない徳を完全に備えた名号を専ら称えることを勧められた。

三不信と三信の教えを懇切に説いて、像法と末法と法滅のいずれの世でも、大悲の本願は同じくはたらく。一生の間、罪悪をなす者も、阿弥陀の誓願に遇うならば、極楽浄土に往生して、涅槃という妙なるさとりを得る、といわれた。

 

  • 「道綽」道綽禅師(五六二〜六四五)「涅槃経」の学僧であったが、四十八歳の時、たまたま曇鸞大師の遺跡である玄中寺に参拝して、曇鸞大師の遺徳を記した碑文を読み、浄土の教えに帰依されることとなった。それは曇鸞大師の没後六十年余のことであった。

八十四歳で入滅されるまで、道綽禅師は玄中寺に留まり、もっぱら「観無量寿経」を講説し、人々に称名の念仏を勧められた。

道綽禅師は末法の思想、法滅の危機意識を強くもった人であった。禅師の幼少のころ、仏教は道教と対立し、道教に親しんだ北間の武帝が仏教に大弾圧を加えるという事件があった。寺塔や経巻は焼き払われ、僧侶が殺害されたり、還俗させられたりした。人々は法法滅の危機を強く感じていた。一方、そのころまでに、仏教は大層発展していたが、出家者も多く、教団が肥大化して、堕落ぶりが目に余るほどになっていた。この点でも人々は仏法の危機を感じていた。

道綽禅師の代表的な著書に、「安楽集」がある。この書には、仏教を、自力難行の教えである聖道門と、他力易行の浄土往生の教えである浄土門の二種に判別すべきことが説かれている。また「観無量寿経」にもとづき、また竜樹大士・曇鸞大師の説をよりどころにして、浄土の教えこそが末法の世にふさわしい唯一の教えであることを説かれている。

 

(参考)

正・像・末の三時

正法の時代、仏滅後の五百年、教・行・証

像法の時代、正法後の一千年、教・行・×

末法の時代、像法後の一万年。教・×・×

法滅の後、仏法は滅尽すると考えられた。(法滅)

 

道綽禅師は五六二年に生れて、六四五年に亡くなっておられます。

この方は、十四歳で出家されたと言われております。幼少のころから頭のいい子だと言われて、しかし貧しさゆえに出家された方だと言われております。

日本にもかつて、平安時代にはそういう人がいたらしいのですけれども、教団のシステムのようなものがあって、どんなに貧しい家に生まれてもお坊さんになれば生活はできたわけです。

ですから、道綽禅師は道を求めてお坊さんになられたのではなかったのではないかと言われておるわけです。生活のために周囲の人の勧めもあったわけでしょう。それが十四歳の時であったと言われております。ところが、この方は十六歳の時に還俗させられます。

当時中国は、日本で言えば戦国時代のような時代で南北朝と言っておりますが、中国全体が、多くの国が乱立して出来たり滅びたりということが繰り返された時代に、道綽禅師は中国の北の方、北斉(ほくせい)という国に生まれます。この国で十四才の時に出家をされます。

ところがこの國は、北周(ほくしゅう)という国に五七七年に滅ぼされてしまいます。

北周という国には武常という国王がいて、その頃、仏教が非常に堕落しておったわけです。そういうこともあって武帝は道教を立てて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)をおこないます。

それで、北周は北間の武帝によって滅ぼされたために道純神師は十六歳の時に還俗させられます。

ところがその北周も五八一年に随という国によって滅ぼされます。随の国は長く続きます。日本はその時代に「遣隋使」を派遣します。聖徳太子の時代です。随という国は仏教を大事にしました。それでまた道綽禅師は二十一歳の時に再び出家をされます。そういう経歴をもった人が道綽禅師なのです。日本で言えば聖徳太子の時代に出て来た人です。

道綽禅師は二度目に出家をされてからは、「涅槃経」を極め、涅槃経を二十四回講義なさったといわれるほど、涅槃経の学者として有名になられます。

涅槃経というお経は、「一切衆生悉有仏性」ということが説かれる。「衆生」というのは人間だけでなく、すべての「生きとし生けるもの」という意味があるのですが、「ことごとく仏性有り」と、だからどんな人間であろうと、善人であろうと悪人であろうと、仏性のない者はないということを説くのが涅槃経の中心の課題だと言われております。その道綽禅師が、

 

涅槃経の学僧であったが、四十八歳の時、たまたま曇鸞大師の遺跡である玄中寺に参拝して曇鸞大師の遺徳を記した碑文を読み浄土の教えに帰依されることとなった。それは曇鸞大師没後六十年余のことであった。

 

今、中国は共産党一党独裁の國ですね。共産党というのは唯物論ですから宗教を認めないわけです。

人間の死生というのは科学が発達していくならば、人間の苦悩はなくなるのだという立場が唯物論ですから、宗教は心の問題を説くわけですからね、それを認めるならば共産主義は成り立たないわけです。だから仏教に対しては非常に厳しいわけです。

ただ仏教のお寺の伽藍とか遺跡はつぶさないそうですね。それはむしろ民衆が苦労して造ったもので、そこに坊さんが居たって、その坊さんが造ったものではない、皆で造ったのだから民衆の遺跡のようなものだと、だから国が費用を出してでも保護していくわけです。

そしてお坊さんになることについては認めるそうですね。ただ布教することは許さないそうです。

玄中寺という寺は古い寺で遺跡でもありますし、日本は、浄土系の人はみな曇鸞様の玄中寺を大切に考えてたくさん参拝します。中国から言えば観光客の誘致にもなるわけです。だから玄中寺は大切にしてあるそうです。

曇鸞様の「碑文」を読んで道綽禅師は回心したと言われておりますが、その碑文は現在残っていないそうですね。だから碑文の中のどういう言葉によって道綽禅師が涅槃経を捨てて念仏に依られるようになられたかということは、はっきりしないそうです。そして道綽禅師のお書きになった書物の中にも碑文の文字を書いたものはないそうですね。だからよく判らないそうですが、しかし、この碑文によって道綽禅師は涅槃経の教えをおいて、浄土の教えに帰されたことは、これはまぎれもない事実です。

二十一歲で二度目の出家をされ、四十八歳という年齢で涅槃経の大家と言われている人が、その涅槃経の教えを捨てて、念仏一つに帰されたということは大変なことでございます。

道綽禅師の教えは、ですから曇鸞様の教えが基本になっております。そして、涅槃経で説かれる一切衆生に仏性があるということは、本願念仏において成り立つと道綽禅師は受け取っておられるわけです。

正信偈 47ー2

​正信偈に聞く

 47-2 

​平成24年7月29日

ここでも何度もお話をしましたけれども、みなさん御存じの「王舎城の悲劇」の中で、皇太子であった阿闍世が提婆にそそのかされて自分の父親を歩獄に入れて殺してしまいます。そしてそこに食べ物を運んだ母親の韋提希も殺されそうになるというようなことがありました。

その阿闍世がやがてお医者さんで仏教徒であった耆婆(ぎば)の勧めによってお迦様に会い、お釈迦様によって回心懺悔して、救われたということがこの涅槃経に書いてあるわけです。

そのことは、親鸞聖人が『教行信証』の信の巻の終わりのところに、この涅槃経のこの部分を長々と引いておられます。つまり阿闍世の回心の経緯というものが非常に詳しく涅槃経に書いてあるわけです。

本当に「皆悉有仏性」ということが人間の上に成り立つためには、本願念仏の仏法に依る以外にないということを道綽禅師は知られたわけです。そういうことを背景にして、親鸞聖人が信の巻に涅槃経を長々と引いて阿闍世の回心を述べられておられるということがあるわけです。

道綽禅師は八十四歳で亡くなるまで曇鸞さまの教えを背景にして、特に観無量寿経の教えを依りどころにして「称名念仏」を勧められます。称名念仏を勧められたということが非常に大事です。

 

道綽禅師は末法の思想、法滅の危機意識を強くもった人であった。禅師の幼少のころ、仏教は道教と対立し、道教に親しんだ北周の武帝が仏教を大弾圧を加えるという事件があった。寺塔や経巻は焼き払われ、僧侶が殺害され還俗させられたりした。人々は法滅の危機をつよく感じていた。

 

つまり北周の武帝の廃仏毀釈などを通して、世は末だと、法滅の危機を強く感じておられたということがここに書いてありますけれども、道綽禅師は未法の時代に入ったという認識が非常に強かったといわれます。

お釈迦様が亡くなって五百年の間は「正法の時代」といわれます。つまりこの五百年の間は教えもあり、教えの通りに修行もし、そしてお悟りを開く人もおるというのです。

ところがそれを過ぎると「像法の時代」に入ります、像という字は、これは仏像の像ですから形という意味になります。だからこの像法の時代は、教えもあり修行している人もいる、しかし悟りを開く人はいない。次に千五百年を過ぎると「末法の時代」になり、像法後の一万年と書いてありますから、末法万年といいますから、これは秘典として教えは残りますけれども、教えの通りに修行をし、いわんや悟りを開く人はいない、それが末法と言われます。

お釈迦様はいつ亡くなられたかということとについては、必ずしもはっきりしません。しかし多くの経典によって中国では道綽禅師が生まれられる前に未法の時代に入ったということが、非常に強く仏教徒の中に受け取られたと言われております。

道綽禅師の教えの中には「世は末法である」という気持ちが非常に強いですから、聖道の教えに依って悟ることはもう不可能であると、こういう気持が非常に強いわけです。

「道綽、聖道の証しがたきことを決して、」と、ここに「決して」という言葉をわざわざ入れてあります。

「ただ浄土の通入すべきことを明かす。」

 

道綽決聖道難証・唯明浄土可通入

(道綽禅師は、電道門では悟ることが困難であることを明らかにして、ただ浄土門のみが通りやすく、入りやすいことを明らかにされた。) ここは「教」について述べられています。

万善自力貶勤修・円満徳号勧専称

(さまざな善を自力によって勤め励むことを退けられ、欠けることのない徳を完全に備えた名号を専ら称えることを勧められた。) つまりここは「行」を顕しています。

三不三信誨慇懃・像末法滅同悲引

(三不信と三信の教えを懇切に説いて、像法と末法と法滅のいずれの世でも、大悲の本願は同じくはたらく。) ここは、「信」を顕しています。

一生造悪値弘誓・至安養界証妙果

(一生の間、罪感をなす者も、阿弥陀の誓願に遇うならば、極楽浄土に往生して涅槃という妙なるさとりを得る、といわれる。) つまり、ここは「証」を顕しているところです。

 

だからこの四句で教行信証を願わしておられるということを私たちは知らねばならんわけです。

初めに、「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。」というところから見ていきます。

 

②「聖道」―この世で聖者となり、さとりを開く道を説く聖道門。人間には本来仏になる能力を認めねば成り立たないから、自力成仏の教えといわれる。また世間の誘惑や、わが心の誘惑にも打ち勝ってゆかねばならぬ厳しい道であるから、難行道と言われる。

 

聖道は難行道であるから難行の証し難いことを「決する」と、決定されたということ、この「決」を、親鸞聖人がわざわざ書いておられるのは非常に大事でございます。

そして「唯」ですね、浄土の通入すべきことを明かすと。

 

③「浄土」―浄土門、往生浄土つまり阿弥陀仏の本願力によってその浄土に生まれ、さとりを開く道をいう。仏となるべき能力を失った凡夫という人間の現実存在にたつ。自力無効の自覚に開かれる本願乗託の教えなるゆえに、他力易行道といわれる。

 

ここに仏教を「聖道門」と「浄土門」に分けて、そして聖道門を捨てて浄土門に入ることを勧められます。

仏教を聖道門と浄土門の二つに分けた人は道綽禅師ですね。

他力とか自力という形で説かれたのですが、聖道門・浄土門と仏教を二つに分けて、そして聖道門を捨てて浄土門に入る。それは何故かというと自分の体験を通して「時」、時期について道綽禅師は特に強くそのことを感じ、世は末法であるということを強調された方です。

 

当今は未法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみに通入すべき路なり。(安楽集)

 

「当今」は今です。これは非常に大事なことを仰っておられると思います。

どんなに立派な教えても、「機」と「時」ということについて仰るのですね。特に「時」ということを仰います。

「機」というのは人間のことです。仏教はなぜ人間のことを「機」と言うかというと、この「機」というのは「はずみ」という意味があるのですね。チャンスという時に「機会」というでしょう。そして物が動く時に、この「機」をつかいます。機会です。ですから教えに遇って、それによって変化させられる。そういう可能性をもっておる者という意味なのです。

昔の学者は「可発の義」ということをいうのですね。つまり教えに遇うと発すべきというわけですから、可能性という意味です。

「いろはカルタ」に、「馬の耳に念仏」という言葉があるでしょう。つまり馬は「機」にならないわけです。ところが人間は判った、判らんということでなくて、念仏を聞くと、何かそこに特別な意味です。そういう可能性をもっておるということを「可発」、発すべきという意味です。可能性という意味です。それを「機」というのです。だから教えにおいて「機」に成り得るのは人間だけです。

「六道」と言うでしょう。地獄・餓鬼・斎生・修羅・人間・天上、これは迷いの世界です。だから人間も迷いの世界に入っているわけです。人間は特別な者とは書いてないのですね。地獄・餓鬼・畜生・修羅は苦に責められて教えが聞けないという世界です。最後の天上界は享楽の世界です。享楽の世界だから、それに気を取られて教えが聞けないというのです。

ところが、人間だけが教えによって響くといいますか、動く可能性をもっておるわけです。

「人身受け難し」と言うでしょう。「仏法聞き難し」というでしょう。小学校から習った知識では「人身受け難し」というのは判りにくいですね。ところが仏教の世界観から言うならば、六道の中でも人間だけが一度」だと、なぜならば教えによって動く可能性をもっておるということです。だから「人身受け難し」。せっかく人間に生まれて仏法を聞いても聞こえないということがあるわけですね。だから「仏法聞き難し」と。だから「この身今生において度せずんば」、せっかくこの生に人間として生まれながら、もしもこの生で助からなかったならば、また未来永劫迷っていかねばならないではないかということを言ってあるわけでしょう。それが「三帰依文」です。

正信偈 47ー3

​正信偈に聞く

 47-3 

​平成24年7月29日

だから人間のことを「機」というのです・可能性をもっておるということです。しかし、その「機」であっても「時」と「教」があるというのです。どんなに立派な「教」があっても「時」というものが適応せねば、人間が「機」にならないのだということを道綽禅師は言っておられます。

 

行者一心に道を求むる時、つねにまさに時と方便とを観察すべし。

もし時を得ず、方便なくは、これを名づけて失となし利と名づけず。

なんとなれば、

もし湿(うるお)へる木をきりてもって火を求めんに、火得べからず、

時にあらざるがゆゑなり。

もし乾きたる薪を折りてもって火をもとめんに、火得べからず、智なきがゆゑなり」と。

(安楽集)

 

どういうことかといいましたらね、湿った木を切って、それから火を求めようとしても火は得られないというわけです。湿った木は燃えませんからね。ところが今度は、なぜそうかというたら、木は木なのだけれども、「時」が悪いという見方です。湿っとるような木でもって火をつけようとしても、それは無理ですよという意味です。ところが今度は、逆に枯れた薪から水を求めようとしても、水は得られませんよという意味ですね。

だからそこには、どんなに立派な教えがあっても、ちょうど湿った木を燃やそうとしているのと同じで、木の方が「教」に相応しい「時」でないと言うのです。木自体は乾けば燃えるわけです。ところが「温っている時」なんですね。その時に火を求めても、その木は燃えないわけですね。これは何を言っているのかと言えば、時の問題だということを道綽禅師は言っておられるわけです。

だから今の時は末法の時で「五濁悪世・ごじょくあくせ」だと、その時に出家の教えに依って悟りを得ようとするようなことをしたって、その人間が機と成り得ないというのです。

つまりその教えによっては救われないというのです。

そういう未法の五濁の世における教は、お念仏の仏法だと。お念仏の仏法に依って初めて、その機が「機」たりうるのだから、そこに何時、どういう教えに依るかということが大事なので、今という時は、聖道の教えでは、人間は機たり得ない、機たり得る今の時というのは、聖道の教えでなくて、浄土の教えでなければならないということを言われるわけです。

そして今の時代は、なぜ聖道の教えによって悟ることができないかということについて、

 

それ聖道の一種は、今の時証しがたし。

一つは大聖(釈迦)を去れること、遙遠(ようえん)なるによる。

二つには理は深く解は微なるによる。  (安楽集)

 

「大聖去ることと」言うのはお釈迦様がお亡くなりになって、「遙遠」は、遥かに遠いというわけですから、これは末法の意味です。やっぱりお釈迦様という方が基本だと、お釈迦様がお亡くなりになって世は末になってしまった、そういう時代だということを道綽禅師は言われるわけです。親鸞聖人の和讃にもあります。

 

釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたもう

正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ

(正像末浄土和讃 五〇〇頁)

 

「遺弟・ゆいてい」というのは、残された弟子ということです。お釈迦様が亡くなりになって、本当に時代は下がってしまった。そのことがどんなに聖道門の教えが、道理は深いだろうが、それを受け取る方が、「解は微なり」本当にその通りに受け取る力はない。

道綽禅師は「井戸の喩」で言ってあります。この深い井戸に、本当に我々の渇きを潤す水があると解っておる。しかし、どんなに深い井戸に喉を潤す水があるとわかっていても釣瓶の紐が短い、そうすると届かないわけです。それを「理は深く、しかし解は微なり」我々はそれを受け取る能力がなくなってしまっている。それが末法という意味だというのです。

その時代になお自力聖道門でたすかろうとする教えに依ることは時代錯誤だと、そしてわが身知らずだということを仰って、現在我々が頂かなければならない教は、自力聖道門でなくて他力浄土門ということをはっきりと仰ってくださったのが、道綽禅師だということを、ここに親鸞聖人は仰っておられます。だから。

 

道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

 

「万善」というのは、よろずの善ということですから、聖道門のことです。さまざまな善を自力によって勤め励むことを退けられて、そして「円満の徳号」は南無阿弥陀仏です。他力浄土の教えです。

阿弥陀仏はそういう私たちのために浄土を建立し、六字の御名を成就して、私たちに与えてくださった。だから阿弥陀仏は私たちを見抜いておられるわけです。我々を凡夫と見抜いておられて、しかもその凡夫を捨てることができないということから、阿弥陀仏は他の諸仏に超え勝れて浄土を建立し、そしてその浄土に生まれるために、称えやすく・たもちやすき名号である六字のみ名を成就して、わが名を称えるものを我が国に迎え取らんという本願を起こされたということでしょう。

だから「円満の徳号」は南無阿弥陀仏の中にすべての者が平等に救われる功徳が入っているわけです。皆さんは蓮如上人の「お文」を読まれるでしょう。私が若い時に、これはどういうことかと思っていました。

 

南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。(「お文」五帖 十三通目 一〇〇八頁)

 

そこに、あらゆる功徳が込められているということが書いてあります。私等は「功徳」と言うと、金とか物とか、人間にとって都合のよいものをすぐに頭に描きます。人が言われる功徳とは違うわけです。

その言葉の元は道綽禅師です。だから法然上人は、あれだけの非難を受けながらも吉水で「念仏一つ」ということを仰って「浄土宗の独立」ということを成し遂げられた教えの根拠はこの道綽禅師に依ります。法然上人は、はっきりと仏教には聖道門と浄土門の二つの道があり、末法において聖道門で悟りを開いた人は一人もいない。それが「大聖去ること、通達なるに由る」と。だから法然上人の教えの根拠は道綽禅師です。

「理深く、解は微なるゆえに」。この教えに依って末法の時代に悟りを開く者は一人もいない、そういう者のためにお念仏がある。だから自力も他力も聖道門も浄土門もないのですね、全て時代だと。末法の時代においては聖道門・浄土門ということではなくて、もう念仏の教以外に救われる道はないということをはっきり言われたのは法然上人です。

だから「浄土宗の独立」と、つまり修行のできない者のために仮に説いてあるというようなことは言わないわけです。南無阿弥陀仏以外に、現在における末法の時代に救われる道はないと言って、「浄土宗の独立」ということを法然上人は言われました。

なぜそういうことが言えるのかといったら、他力浄土門の、本顧念仏の仏法によって、そのことが果たし遂げることができる、自力聖道門で仏になることは不可能だということをはっきり言われたのが法然上人です。法然上人は、その著「選択本願念仏集」の最初に道綽禅師の「安楽集」の文を引用されて、

 

【一】道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。

……『大集月蔵月経経』にのたまは〈わが未法の時のうちの億々の衆生、行をお越し道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじ〉と。

当今は未法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみに通入すべき路なり。

 

と述べておられます。根拠は道綽禅師です。そして念仏による以外に救われる道はないと書いてある。そのことを親鸞聖人は正信偈で「道綽決聖道難証」と、この「決」という言葉が非常に大事です。

「聖道の証し難いことを決する」でしょう。そして「浄土の通入することを明かす」でしょう。そのことをはっきりさせたのが道綽禅師なのです。だから親鸞聖人は、道綽禅師に対する思いは非常に強いわけですね。それは「決する」とか「明かす」という言葉で正信偈に述べられておるということが大事なのですね。

そして「円満徳号勧専称」こういうところに道綽禅師の大きなお仕事があったわけです。涅槃宗の大家であった道綽禅師が曇鸞様の碑文を読んで回心をされます。あの曇霧様のような人でさえ自力聖道門を捨てて念仏に帰された。特に未法における我々のような者の救われる道は念仏より外にない。それが「本願他力」です。「本願他力」と言うのは曇鸞様の言葉です。本願他力に依るということを道綽禅師が特に仰ったということが非常に大事でございます。だから道綽禅師のここのところは、私たちは非常に大切に読まねばいかんのです。そこのところが法然上人の教えの根拠になったということです。

正信偈の中に七高僧が出てきますが、善導大師は道綽禅師の弟子です。直接、師と弟子の関係があった方は道綽禅師と善導大師だけです。

竜樹・天親は同じインドですけれども、時代がぜんぜん違います。曇鸞様は中国の方ですし、龍樹・天親とは時代も違います。道綽禅師も曇鸞様の碑文を読んで回心しておられるわけですから、直接会っておられるわけではないのです。ところが道綽禅師の教えによって念仏一つという事が決まったのは善導大師です。その善導大師の教えが依りどころになって法然上人の「念仏為本」ということが始まるのです。

こういうことを考えます時に、道綽禅師の教えと言うのは非常に大事だということを私たちは知らねばならんと思います。意外と、お説教の中でも道綽禅師のことはあまり出ないですね。

道綽禅師のことについて、これは伝説ですけれども、玄中寺に居られたときに周囲の子供に念仏を勧められたという話があるのです。袋の中に小豆を入れて、子供に南無阿弥陀仏を言わせて、一回称えたら小豆を一つ上げると言うて念仏を勧められたと言われております。道綽禅師は日本でいうたら良寛さんのような人です。みんなの中に入って行って、念仏を勧めた人です。

当時、小豆は大事な物だったのでしようか、南無阿弥陀仏と称えれば道綽禅師はその子供に小豆を一粒やって、喜んで、褒めておられるわけです。そうやって念仏を勧められた方です。こういうことは仏縁です。

去年の年末に皆さんと対談したときに仏縁ということを非常に感じましたけれども、みな仏縁です。そういうものが念仏と言う形で縁が芽を吹く、長い因縁がその人の歴史になって、そこから芽が出てくるわけです。そういうことを思う時に道綽禅師は、私から言えば身近に感じる人ですね。子供に小豆をやっては念仏させたという、皆さんもやってみてください。

道綽禅師は、家が貧しくして、お坊さんになられました。しかし廃仏毀釈で坊さんを辞めさせられました。しかしまた、時の王様が死んで国が滅びて、新しい国ができて、またお坊さんになられます。何か勝れた人がお坊さんになって一気に悟りを求められたという道綽禅師ではありません。

何か私たちから考えると非常に庶民的なところを感じますね。しかし「聖道の証し難きことを決して、浄土の通入すべきことを明かした」。そして「万善の自力を貶して円満の徳を称した一人、こういうことを正信偈の中に親鸞聖人は特に述べておられることは特に大事であろうと思います。

今日の話はこれで終わりたいと思います。有り難うございました。 合掌

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