​ 浄土真宗の教え 

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「願海」2021年5月掲載

「問題は常にあり、問題は内にあり。」

 前回からこの言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これは住岡夜晃という先生の言葉でありますが、この言葉の意味について、人生には色々の問題があり、その問題は外にあって内なる我々を苦しめているのではなく、実はそれらの問題を通して内なる自分が問われているのであるという事を申し上げてまいりました。

 

そこで私は歎異抄(たんにしょう)にある親鸞聖人の次のお言葉を挙げておきました。

 

「善悪のふたつ総じてもって存知(ぞんち)せざるなり。そのゆえは、如来の御(おん)こころによしとおぼしめすほどに知りとおしたらばこそ、よきを知りたるにあらめ、如来のあし(悪)とおぼしめすほどに知りとおしたらこそ、あしさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします、とこそ仰せ候いしか」

 

 これはその弟子唯円(ゆいえん)が聖人の常の仰せとして書き残している言葉であります。

 ここで親鸞聖人は我々人間世界には「善悪はない」と言っておられるのではありません。それは人間の我執に立ったニヒリズムで、自分の「我」に立った偏見(へんけん)であります。                      

聖人は「存知せず」と言っておられるのです。つまり善悪はあるにちがいないけれども、私の煩悩(ぼんのう)に執われた知恵では徹底(てってい)してそれを知ることは出来ないと言っておられるのであります。

 ここで「如来の御こころ」と言われているのは、人間の煩悩(ぼんのう)の世界から完全に解脱(げだつ)し尽した悟りの境地であります。それはものの実相(じっそう)を見抜く真実の智慧で、その境地から本願という形をとって人間世界に現れた働きであり、「すべてはお見通し」という照覧の眼(しょうらんのまなこ)であります。

 その「如来の御こころ」から見通されたわれわれ凡夫の「善悪沙汰」は煩悩に左右されたもので、極端に言えば、自分に気にいるものは善であり、気にいらぬものは悪ではないでしょうか。愛憎(あいぞう)に左右され利害(りがい)に左右された善悪しか、人間世界にはありえません。すべては迷いの世界の出来事です。

 この我々凡夫の迷いの世界は、すべて中途半端で、相対的で、しかも自己本位でしかないのであります。聖人のお言葉は一切を見通され、そこに真実の救いの無いことを知らせ、その如来の真実に目覚めしめたいという如来の誠に深く帰依されている聖人のお言葉でありましょう。念仏はその如来が我々凡夫に一切の計らいを捨てて、われに依れと呼びかけられている呼びかけであります。 

聖人にはまたこういうお言葉があります。

 

「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身に満ち満ちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心多く、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず、たえず」

 

と言われているのですが、ここで聖人は「われらが身」と言われて、聖人自身がそこに入っているのです。聖人の言葉はいつもそうですが、必ず我が身がそこに入っている。漠然と人間というものはというような言葉は一切ありません。聖人のお言葉は自身に対する深い悲しみと、大いなる如来の大悲に対する感謝のお言葉で満ちています。

「火宅無常」という「火宅」というのは、火事を出して燃えている家のことで、私達の住んでいる社会の有様を譬えたものであります。形あるものはすべて滅びるということで、人間世界の「無常」を形容したものであります。

 煩悩具足の凡夫のすることなすこと、そして火宅無常の世界の事柄はすべて「空言(そらごと)」または「空事(そらごと)」で、すべては「うそいつわりで中身がない」ということ、「たわごと」とは「たわけた言いぐさ」で、「そらごと、たわごと」の妄念に明け暮れているのがまさしくこの私であると受け取られ、その妄念の人生の中で「ただ念仏のみぞまことにておわします。」と聖人は美しい念仏の花が咲く喜びを仰せられていたと唯円はそのお育てをいただいていた思いをしみじみと述べているのであります。

 住岡夜晃先生の「問題は常にあり、問題は内にあり」と言われる言葉の究極は親鸞聖人の「ただ念仏のみぞまことにておわします」というお言葉をいただく事においてのみ明らかになる境地であると私はいただいています。