浄土真宗の教え
07
「願海」2021年5月掲載
「問題は常にあり、問題は内にあり。」
前回からこの言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これは住岡夜晃という先生の言葉でありますが、この言葉の意味について、人生には色々の問題があり、その問題は外にあって内なる我々を苦しめているのではなく、実はそれらの問題を通して内なる自分が問われているのであるという事を申し上げてまいりました。
そこで私は歎異抄(たんにしょう)にある親鸞聖人の次のお言葉を挙げておきました。
「善悪のふたつ総じてもって存知(ぞんち)せざるなり。そのゆえは、如来の御(おん)こころによしとおぼしめすほどに知りとおしたらばこそ、よきを知りたるにあらめ、如来のあし(悪)とおぼしめすほどに知りとおしたらこそ、あしさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします、とこそ仰せ候いしか」
これはその弟子唯円(ゆいえん)が聖人の常の仰せとして書き残している言葉であります。
ここで親鸞聖人は我々人間世界には「善悪はない」と言っておられるのではありません。それは人間の我執に立ったニヒリズムで、自分の「我」に立った偏見(へんけん)であります。
聖人は「存知せず」と言っておられるのです。つまり善悪はあるにちがいないけれども、私の煩悩(ぼんのう)に執われた知恵では徹底(てってい)してそれを知ることは出来ないと言っておられるのであります。
ここで「如来の御こころ」と言われているのは、人間の煩悩(ぼんのう)の世界から完全に解脱(げだつ)し尽した悟りの境地であります。それはものの実相(じっそう)を見抜く真実の智慧で、その境地から本願という形をとって人間世界に現れた働きであり、「すべてはお見通し」という照覧の眼(しょうらんのまなこ)であります。
その「如来の御こころ」から見通されたわれわれ凡夫の「善悪沙汰」は煩悩に左右されたもので、極端に言えば、自分に気にいるものは善であり、気にいらぬものは悪ではないでしょうか。愛憎(あいぞう)に左右され利害(りがい)に左右された善悪しか、人間世界にはありえません。すべては迷いの世界の出来事です。
この我々凡夫の迷いの世界は、すべて中途半端で、相対的で、しかも自己本位でしかないのであります。聖人のお言葉は一切を見通され、そこに真実の救いの無いことを知らせ、その如来の真実に目覚めしめたいという如来の誠に深く帰依されている聖人のお言葉でありましょう。念仏はその如来が我々凡夫に一切の計らいを捨てて、われに依れと呼びかけられている呼びかけであります。
聖人にはまたこういうお言葉があります。
「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身に満ち満ちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心多く、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず、たえず」
と言われているのですが、ここで聖人は「われらが身」と言われて、聖人自身がそこに入っているのです。聖人の言葉はいつもそうですが、必ず我が身がそこに入っている。漠然と人間というものはというような言葉は一切ありません。聖人のお言葉は自身に対する深い悲しみと、大いなる如来の大悲に対する感謝のお言葉で満ちています。
「火宅無常」という「火宅」というのは、火事を出して燃えている家のことで、私達の住んでいる社会の有様を譬えたものであります。形あるものはすべて滅びるということで、人間世界の「無常」を形容したものであります。
煩悩具足の凡夫のすることなすこと、そして火宅無常の世界の事柄はすべて「空言(そらごと)」または「空事(そらごと)」で、すべては「うそいつわりで中身がない」ということ、「たわごと」とは「たわけた言いぐさ」で、「そらごと、たわごと」の妄念に明け暮れているのがまさしくこの私であると受け取られ、その妄念の人生の中で「ただ念仏のみぞまことにておわします。」と聖人は美しい念仏の花が咲く喜びを仰せられていたと唯円はそのお育てをいただいていた思いをしみじみと述べているのであります。
住岡夜晃先生の「問題は常にあり、問題は内にあり」と言われる言葉の究極は親鸞聖人の「ただ念仏のみぞまことにておわします」というお言葉をいただく事においてのみ明らかになる境地であると私はいただいています。
浄土真宗の教え
08
「願海」2021年7月掲載
「問題は常にあり、問題は内にあり」
この言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これはもと住岡夜晃(すみおかやこう)先生の言葉でありますが、この意味について前回私は親鸞聖人の「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と仰せられたという歎異抄(たんにしょう)のお言葉をいただく事においてのみ明らかになる境地であると申し上げました。
私は聖人のご生涯において特にこのお言葉を思い合わすような一つの出来事を思い出しています。これは聖人の言行を記録した口伝抄(くでんしょう)という書物に残されているもので、聖人が関東で多くの人々に本願念仏の教えを伝えておられた時代の事です。聖人の指名を受けて人々に念仏の教えを伝えていた高弟の中に信楽房(しんぎょうぼう)という人がいました。ある時その信楽房が御門徒に法話をしているのを親鸞聖人がお聞きになり、彼の伝道の姿勢の在り方について注意された事がありました。
親鸞聖人は関東にくだられ多くの人々と仏法のご縁を結ばれました。しかし、その教化のありかたは、聖人自身の長い間の学問と修行によって体得された仏法によって人々を教え導く「指導者」として人々に向かわれません。むしろ妻子をもった一人の在俗(ざいぞく)の念仏者として、すべての人々の上に働き続けておられる阿弥陀如来の本願を自ら信じ、それによって救われた自らの喜びを人々に伝え、人々と同じ喜びに生きることを願い続けてご苦労を重ねられました。従って縁あってその教えを聞き信ずる人々に対しても、ともに念仏の仏法で結ばれた「御同朋・御同行 おんどうぼう・おんどうぎょう」として、人々を尊ばれたと伝えられています。
先ほどの信楽房の問題ですが、その布教(ふきょう)のありかたについて、自らをあたかも一人の指導者として人々を教え導く者というような姿勢が強く感じられた事を聖人は見て取られ、それを深く悲しまれ、たしなめられたのでありましょう。しかし、信楽房は聖人の深いお心がいただけず、むしろ自分のありかたを否定されたと受け取ったのでしょうか、聖人の言葉に腹を立て本国に帰ってしまいます。その一部始終を見ていた他の念仏者が信楽房の不遜な態度に腹を立て、聖人にあんな者は破門にすべきであると聖人に迫りました。
その時聖人は「親鸞は弟子一人も持たず。わがはからいで、ひとに念仏を申させているのであれば、わが弟子でもありましょうが、ひとえに弥陀如来の御もようしにあずかって念仏申しておられる人を、わが弟子と申すことは、とんでもない事である。如来様の御弟子である人を、師の自分に背いたから破門にするなどという事はもってのほかであります。又この世のことはみな御縁で、『つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る。』(一緒にいる縁があれば共に歩むが、しかし、離れねばならぬ縁がはたらけば、離れねばならぬのがこの世の定めである。)ご縁があれば彼と又会える事もあるでありましょう」とおっしゃったと伝えられています。又実際、信楽房は後に聖人にお詫びし以前の如く念仏者の中心で大きな働きをしています。
親鸞聖人においてはこの世の出来事は全て念仏の教えに結ばれたご縁であり、すべての出来事は「念仏のみぞまことにておわします」という喜びをいただき直すご生涯であられたと感じられます。
浄土真宗の教え
09
「願海」2021年11月掲載
「問題は常にあり、問題は内にあり」
この言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これはもと住岡夜晃(すみおかやこう)先生の言葉であります。
私は八月二十五日早朝、本堂の後ろ廊下で突然足を滑らせ全身あげて激しく転倒しました。その時の苦痛は激しく思わず大声で家族を呼び家族皆駆けつけてくれたのですが、どうすることも出来ず大急ぎで救急車を呼び、救急車で柳川病院に担ぎこまれました。
そして病院での検査の結果、大腿骨頚部骨折(だいたいこつ、けいぶこっせつ)つまり足の骨と腰の骨とを繋いでいる骨が折れ、そこを人工の関節で繋ぎ直してくださる手術をして下さったのだと挿絵などを通して家内から詳しく教えられて私は了解させられた訳です。
私としては治療室で麻酔をかけられ意識の失われた状態で、ただお医者さんのなさるまま、長時間そこに横たわっていたという記憶しかありませんでした。
然しその夢のような無意識の頭の中に私の九十二年間の中の特別な出来事の記憶が何か非常に鮮明に顕われてくるのです。その最初は私が二十歳の時大学一年の夏休みの始め母の勧めで藤解照海(とうげ、しょうかい)というお坊さんが広島市向洋(むかいなだ)の寺を解放して若い青年男女を中心とした「六光学苑」(ろっこうがくえん)という生活を共にしながら親鸞聖人の念仏の教えを伝えておられるお寺がある事を、母は檀家寺のお説教でその藤解先生から聞き、家に帰って来て母が私に夏休みの間そこに入れていただき、教えを聞かせてもらわないかと勧めてくれ、それに従って私はその「六光学苑」に行きましたがその時の事からその思い出が始まっていました。
私は昭和五年生まれですが生まれつき体が結核性の虚弱体質で小学校の頃から常にお医者さんから手が切れぬ生活が続いていました。私の父は昭和七年二十三歳の若さで肺結核で亡くなっています。私が当時わずか二歳になる直前で私は父のはっきりした記憶はありません。又父の弟も妹もやはり肺結核で亡くなっています。結局私はその体質をもって生まれてきたようです。
然し時代は昭和十二年の日中事変、やがて昭和十六年から日米の太平洋戦争と国家は引き続く戦争で、国内すべて戦事体制で中学校は勿論、小学校の生徒にまで軍事訓練の稽古をさせ、地区の婦人会までその集会で長刀を振り回す訓練をする時代が長く続きました。又中学校では講堂に全校生徒を集め、陸軍士官学校や海軍兵学校に在学中の先輩が「貴様らもお国の為我々の後に続け」と大声で呼びかけ、先生もそれを奨励される時代の中で、私は虚弱体質で学校の成績も振るわない役たたず、いつもそうした空気の中で息を潜めて生きている劣等感の塊のような存在でした。
然し米軍により広島と長崎に原子爆弾が投下されて終戦を迎えます。その焦土と化した広島の片隅で親鸞聖人の教えによる学苑を開いているお坊さんがおられるということは、私にとっても非常に心をひかれる事でした。
母は私の日常の生活の姿を見ていて、何か確かなものを身に着けて欲しいと考えていたのであろうと思います。私は母の勧めに従ってその「六光学苑」を尋ねて行き、ともかく学校の夏休み中の入苑の許可をいただきます。
今の麻酔の中の思い出の最初にその母に見送られている私の姿が鮮明に出てきます。そしてそこから色々な過去の思い出に繋がっていきました。