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​ 浄土真宗の教え 

 08 

「問題は常にあり、問題は内にあり」

 

 江戸時代の禅宗の高僧仙崖和尚(せんがいおしょう)は、博多、聖福寺(しょうふくじ)の住職を長く勤め、その、人の意表をつく言行(げんこう)や、禅味(ぜんみ)あふれる小画と、そこに添えられた画賛(画の上に書かれた言葉)が、当時の博多の人々の心をひきつけ、多くの人に大変敬愛されたと伝えられています。 ところで、その画賛(がさん)の一つに有名な「老人六歌仙」(ろうじんろっかせん)があり、私も老人の仲間入りをして、ふとその一節を思い出して苦笑することがあります。

             

                 

しわがよるほくろがでける腰まがる

頭がはげるひげ白くなる

手は振るう足はよろつく歯は抜ける

耳は聞こえず目はうとくなる

    

           

聞きたがる死にともながる淋しがる

心は曲がる欲深くなる

くどくなる気短になる愚痴になる

出しゃばりたがる世話やきたがる

又しても同じ話に子を誉める

達者自慢に人はいやがる

 

前半はまさに「身の事実」そのままに、見事に老人の姿が詠(よま)れています。その的確さには思わず「そのとうり」と笑みがもれるほどです。仙崖和尚は88歳まで生きた人ですから、ここで詠れている老人には、ご自身も含まれているのでしょう。そこに、そうでしかない自分でありながら、その自分をも笑い飛ばしているような明るさがあります。それがこの歌の救いです。体の衰えが始まると、いやでもその事実と向き合わねばなりません。結局誰にも代わってもらえぬこの身を、どこで、どう引き受けるのかは、自分自身が決めることです。老いるということはこういうことだと、ありのままを、ありのままに引き受ける、明るい心が欲しいものです。

 

後半の、ここに詠まれる傾向は、すべてわれわれ老人によく見られる現象です。くどくなるのも、愚痴っぽくなるのも、達者自慢も、子自慢も、すべてこれらは若いときにはしなかったはずです。それらが人に好まれないことを知っていたからでしょう。しかし、それをしてしまうのは、我慢がなくなり、わがままがでるからに違いありません。云うならば、これは仙崖和尚の自戒(じかい)と、われわれに対する戒(いまし)めの言葉です。

ただ仙崖和尚はそういう自分を徹底して知り抜いていらっしゃった。だからこうして詠(うた)えたのでしょう。我々はややもすると、そういう自分を見失ってただ感情のままに流されているかもしれません。大切なことです。

                        「願海」2007年7月掲載

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