
浄土真宗の教え
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「願海」2021年7月掲載
「問題は常にあり、問題は内にあり」
この言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これはもと住岡夜晃(すみおかやこう)先生の言葉であります。
(後 編)
「六光学苑」のある向洋(みかいなだ)は広島市の一番東の端に位置し原爆の被害には遭っていない地区でした。古い然しなにかしっかりとした民家が建ち並ぶ、その一番奥の高い石垣の上に白い土塀をめぐらした寺が法林寺(ほうりんじ)で、その寺を解放して「六光学苑」が併設されていました。然しこの寺は通常の寺院のような門徒は一軒もなく、住職の藤解(とうげ)先生が毎月前半三日間、後半三日間の法座を開かれ、近在の人々は勿論、それこそ全国から先生の教えを信じ、その教えを聴聞する為に泊まりがけで参詣される人も少なくありませんでした。ですから普通の寺院のような門徒の葬式・法事はありません。浄土真宗寺院本来の正に聞法の道場なのです。その法林寺の中に「六光学苑」は藤解先生の意志で併設されていました。
私が入苑した当時は年齢も不揃いの男女合わせて十名程の苑生でした。後で分かりましたが中に最近刑務所から出所したばかりの男性もいました。皆の食事は自給自足で、法座があり宿泊の信者が居られる時は、その方の為のお世話も苑生の役目ですから結構大変のようでした。
日常の生活は、朝は毎朝五時半起床。それぞれ手分けをして内外の清掃、境内(けいだい)の掃除の箒の使い方一つも形があり、厳しいことを教えられました。すべてに慣れない私などは失敗ばかりの繰り返しでした。それから本堂での勤行(ごんぎょう・おつとめ)の終了後、食堂で全員の食事で自給自足した。法座の無い日は、午前中は先生の浄土三部経や親鸞聖人の聖典の講義を、先生の若い時代の求道生活のご苦労を交えながら話され、分かり易く感銘深いものでした。午後はそれぞれ自由の時間もあるのですが、学苑の主事の役目をされている大石法夫という方がおられ、非常に自由な形で聖典の自習などの面倒や、個人的な相談などにも非常に親切に応じておられました。
この方は戦時中、京都帝国大学卒業後「人間魚雷」の搭乗員に応募して、山口県光基地で訓練を受けていた人でした。出撃命令が出れば必ず死という立場に立たされた時、それは国の為「名誉の戦死」とそれは分かるのだが、正に競争から競争を繰り返してきた私の人生とは何であったか、つまり「人生における問題」を通して、始めて「人生そのものが問われた」。その課題をもって戦後藤解先生との出会いを通して、親鸞聖人の真宗の教えこそ、それを教えられる教えと聞かされ、一切を投げ打って出家しこの「六光学苑」の主事のような役目をしておられました。
この方には奥様、三人の子供さんもおられ、御寺の外に別に家庭を持っておられましたが、夜、家に帰られるだけで朝から学苑の生活と一緒でした。私はこの学苑での生活で一番御恩を頂いたのがこの大石先生であったと今も考えています。
私は後に学苑を出て京都の大谷大学に学びますが、その名誉教授に金子大栄(かねこだいえい)という先生がおられ、その方の言葉に「道徳は人間の問題、宗教は自己の問題」という言葉ありますが、戦時中の「名誉の戦死」は結局戦時体制下の日本人としての道徳の問題で、大石先生は死に直面して「自己とは何ぞや」と自己の存在そのものを問われた。そして戦後それこそ親鸞聖人の浄土真宗の教えはその事を教えた教えだと藤解先生は大石先生に道を示され、その教えにしたがって大石先生は出家し念仏行者になられたのでした。
私はこの大石先生の教えを通して全く自己自身を問う道を知らず、ただ自己と社会との矛盾に苦しんでいた自分に初めて気付かされました。そしてそれを明らかにする道として、私は現在在学している大学を止め、出家して藤解先生、大石先生に従って生きて行くことを決心しました。それは母も兄も絶対反対しましたが、私の決心は変わらず今日があります。手術中の夢の中でそうした思い出が頭の中ではっきりと映し出されました。