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正信偈に聞く

 45-1 

​平成24年4月30日

みなさん今日は、よう参り頂きました。

先月に引き続き曇鸞様の後半のところでございます。

 

天親菩薩論註解・天親菩薩の「論」、注解して、

【曇鸞大師は、天親菩薩の「浄土論」に対する注解を造って、】

報土因果顕誓願・報土の因果、誓願に顕す。

【浄土往生の原因と結果は、 如来の誓願によることを顕かにされた。】

往還回向由他力・往還の回向は他力に由る。

【相も還も回向はいずれも阿弥陀如来の本願力である他力による。】

正定之因唯信心・正定の因はただ信心なり。

【往生が確定する因は、ただただ信心である。】

惑染凡夫信心発・ 惑染の凡夫、信心発すれば、

【煩脳に汚れた凡夫であっても、信心を発すならば、】

証知生死即涅槃・生死即涅槃なりと証知せしむ。

【迷いの状態が、そのまま迷いを離れた状態になることを曇鸞大師ははっきり示された。】

必至無量光明土・必ず無量光明土に至れば、

【凡夫が必ず無量の光明が輝く浄土に至るならば、】

諸有衆生皆普化・諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。

【穢土のあらゆる衆生をみな例外なく教化することができると言われた。】

 

今まで「往還回向由他力」というところまで、ざっと話ししておるわけです。

今日からお話しようと思っておりますことは、「正定の因は唯信心なり」というところから後をお話しようと思っておるわけです。

 

⑤「正定」―仏となるべき身と定まること。

⑥「ただ信心」―衆生が往生するための原因も、往生という結果も、すべて如来の本願によって回向されたものである。したがって、その本願力に信順することによって、如来の本願は成就する。つまり、往生の正因は、信心以外にはない。

⑦「惑染の凡夫」―惑は煩悩。染は汚染。煩悩によって汚染されている。凡夫は、聖者に対する言葉で、愚悪で凡庸(ぼんよう)な人。また、六道に輪廻する衆生。はじめて無漏の智慧が起こる見道に至る以前の段階を凡夫という。

⑧「生死即涅槃」―生死は迷いの状態。涅槃は迷いの止滅した寂静の状態。迷いに流転している凡夫が、如来の往相回向によって、一念の信を生ずれば、そのままがすでに涅槃に至る必然性をもつ衆生となることを示す。

 

 難しいことを言ってありますけれども、そのように古田先生が仰っておられますので、それに一応沿いながらお話を申し上げたいと思います。

初めに読みました天親菩薩の浄土論を曇鸞様が註解なさって、「浄土論註」をおつくりになった。そしてそこで「報土の因果」と真実浄土の因も果も誓願に顕して、そして往相還相、つまり往くも還るもすべて他力によるのだと、願力他力という意味です。つまり、如来様の本願のはたらきを他力という言葉で表現された人が曇鸞様です。前回も申しましたが、親鸞聖人の教えの流れの中で他力という言葉がよく使われるわけですが、他力という言葉を初めて使われた方が曇鸞様です。

正信偈では、その言葉を使って「往還回向由他力」と親鸞聖人が仰っておられるわけです。次に、「正定の因は唯信心なり。惑染の凡夫信心発すれば生死即涅槃なりと証知せしむ」とこういわれております。

「正定之因」ということを「仏となるべき身と定まること」と言われておるわけです。ですからこの「正定之因」ということは穢土の出来事です、この世の出来事です。この世の出来事ですけれども、単なる凡夫でない、浄土往生が定まっておる凡夫という意味です。それを「正定之因」といわれるわけです。ですから親鸞聖人は「正定聚・しょうじょうじゅ」と言っておられます。「聚」は、ともがら、人々という意味です。正しく定っている人々。親鸞聖人は定まっていない人を「不定聚・ふじょうじゅ」と言っておられます。そして「邪定聚・じゃじょうじゅ」という言葉もあります。これは自分で決めてしまうという意味です。これは大丈夫だと自分で決めてしまう。

 

至心信楽の願(十八願)  正定聚の機(十八願の機)

至心回向の願(二十願)  不定聚の機(二十願の機)

至心発願の願(十九願)  邪定聚の機(十九願の機)

 

「不定」というのは決まらない、だからなんとなく有り難い時はお浄土に生まれるような気になる。しかし、御縁ならばどんな心でも人間は出てくるわけですから、そうするとたすからんような気になる。だから、たすかるように思ったり、たすからんように思ったり、そういう在り方を「不定聚」といってあるわけです。親鸞聖人は、教行信証の中で「正定の機」というのは本顧で言ったら十八願の機、「不定聚」というのが二十願の機、「邪定聚」というのが十九願の機と仰っています。今日は、このことについては触れません。

 「正定」とは、正しく定まる、何が定まるかと言ったら、お浄土に生まれるということが定まるということです。身は穢土に居るわけです。我々の日暮しは穢土ですね。だから生きているときは穢土、死んだら浄土という風に考えたら親鸞聖人の教えは解らなくなります。そういう教えではないのです。穢のある土というのは境涯です。穢なる境涯といのは、どこまでいっても俺が俺がという執らわれを基にして自己を頼む心(我執)です。煩悩というのは欲です。要するに我執煩悩を離れきれない、しかもそういう悲しい、救われようのない境涯であるということが解からない、そういう在り方を凡夫と言います。

ここでは「惑染の凡夫」と言っておられます。「惑」は煩悩。「染」は汚染。つまり煩悩に穢されておる凡夫だということです。「布でも染め抜かれている」という言い方がありますが、我々は煩悩で染め抜かれているというわけです。

 門徒の方で、「時々、できんと思いますばってん煩悩が出ます」という言い方をなさる人がおられますけれども、本来、我々の在り方全体が我執煩悩の在り方なのです。それに我々は気づけないわけです。時々腹が立ったり人を恨んだりするということは、内に有るから出るわけですからね。それが「惑染の凡夫」です。惑染の凡夫の境涯が穢土です。

それを超えた境涯というわけですから、俺が俺がで固まっている世界、それを超えた本来の広い世界、法の世界。阿弥陀仏の法の世界の中に居って、私たちは自分の執らわれで自分の世界を造っているわけです。一人一人が皆造っているわけです。そういう意味で言いますと、百人おれば百人の世界を造っているわけです。その中で利害が合えば仲良くしますし、利害が合わんようになったら、昨日まで仲良くしていた人でも今日から喧嘩します。それからまた、そうばっかりも言っておれんから、もっと大きな意味での利害ですね。喧嘩していたら損にきまっていますからね、そして不愉快でもありますから、妥協し合いながら生きている、穢なる境涯です。それはなぜそうなってしまうかと言ったら、広い本来の法の世界に居りながら、それに目覚めないという事です。

 広い世界、それが浄土です。つまり浄土と言うのは法の世界です。それをお釈迦様は「無我」の世界とか「涅槃」といわれます。

「涅槃」と言うのはニルバーナというインドの言葉の発音に漢字の音を合わせたのですから漢字に意味はありません。意味は「寂静」です。だから音で合わせておるところと、意味で合わせておるところが、お経の言葉にはいっぱいあるわけです。燃え盛っている火がパタッと消えたときの静かな世界だそうですね。ニルバーナという言葉は、仏教の特別な言葉でなくて、当時一般的に多くの人に使われていた言葉だそうです。

仏教で燃え盛っていると言う場合は、煩悩の世界です、ニルバーナというのは、そういうものが消えておるという境涯です。

 「無我」と言うのは相対対立を超えた世界です。私たちの智意は相対の知恵です。だから藤代先生はいつも二歳半ということを言っておられましたけれども、赤ん坊には分別する心はまだはたらかないでしょう。ギャギャー泣いているだけですが、それが二歳半ぐらいになると人間に知恵がつく、いわゆる我執が立つ。そうすると、例えば女の人で言えば、「私は女より男の方がよかった」と言うと、そこに男と女が始まるわけですね。

親戚に保育園をしている寺がありまして、仏教の保育園ですから、仏教について少し勉強をして欲しいから保育園の先生と歎異抄を一緒に読んでくれませんかと言われて、夜な夜な大分保育園に通いました。少子化でその保育園も園児の数がどんどん減っているわけですね、

定員が百人超していましたが、今では六十人ぐらいと言っていました。ところが集まって来られた先生が多いのです。それで、私が子供が少ないのにどうしてこれだけたくさんおられるのだろうかと聞きましたら、乳飲み子から預かるからだそうです。乳飲み子は三人に一人先生がつかなければいかんそうです。そうすれば乳飲み子を多く預かっておれば先生も増やさなければならんわけですね。そして子どもの年に応じて、先生も担当が分かれるわけです。

その時に、いつごろから人間らしい心が始まりますかと尋ねたことがあるのですよ。乳飲み子はギャギャー泣くだけです、意識自覚のようなものはないでしょう。誕生ぐらいまでは男・女の意識はないそうですね。二歳過ぎたころにその分別する心が出てくるといわれます。嫉妬するとか自分に気づいて欲しいという形で意識をもって泣く、そういうことが始まるのは二歳過ぎてからだといっておられました。

 キリスト教の「創世記」を読みますと、アダムとイブが禁断の木の実を食べた途端に前を隠すと言う話があります。神様が留守をしていたのでしょう。蛇の誘惑で禁断の木の実を食べたら前を隠した。そしたら神様が戻って来て「食べたな」と。神様は、キリスト教で言えば絶対の智慧なのですね。「絶対の智慧」というのは善・悪はないのです。

「相対」というのは二つの世界ということですから、神様にはないわけです。それを愛と言っておるわけです、それは特別な人を愛するというわけではないわけです。すべてのものに平等にはたらいている、それが絶対の愛です。ところが禁断の木の実を、蛇が食べたら神様と同じようになれると言うわけですよ。だから食べたわけです。食べたのは、実は相対です。ですから、神様が戻ってみたら男も女も前を隠していたという、つまり男と女が始まったというわけです。そういう知恵の目が禁断の木の実です。それで神様が天国から追い落としてしまうわけです。失楽園です。それの成れの果てが我々だと。だから禁断の木の実を食べることを原罪というでしょう。人間は基本的に原罪ですね。根本的にそういう罪を抱えている。人間であることが、神に背くと言う形の罪を持っているという意味が原罪です。

作家の人たちの本を読んでみますと、親鸞聖人の教えにはキリスト教で言う原罪的な意識があるのではないかという言い方があるのですけれども、原罪という意味は、神に背いたと言う意味です。だから人間存在ということは善い人もおる、悪い人もおるということでなくて、それを超えて神に背いている存在だという意味です。それは相対的な知恵をもってしまったということです。それを仏教は、心の問題として考えていくわけです、我執煩悩と。問題は我執の問題です。我執というのは対立です。

正信偈に聞く 45―2

​ 正信偈に聞く

 45-2 

​平成24年4月30日

藤代先生はよく言っておられましたけれども、「人間二歳を過ぎると、私は女より男に生まれた方がよかったと、同じ女でも隣の美代ちゃんのように色が白くて、目がパッチリしてスタイルのよか女ならよかったばってん、私のような女に誰が生んだか」と、思う心が始まり、その心がその人を縛る、つまり蚕と同じ。人間の苦悩の基は対立の知恵が人間に始まった時からはじまる。犬や猫には優越感や劣等感はないでしょう、ところが人間にはあります、だからそこに進歩があるという考え方があります。人間の進歩と言うのは非常に危ないのです。煩悩ですから切りがない、それを自由化と言う形でやっているのが一番象徴的なのはアメリカでしょう。アメリカは、一パーセントの富裕層がアメリカ全体の富の四十パーセントを握っているといわれていますから、日本で言うたら考えられないような金を持っている人達がいるそうですよ。私財を、本当に金を持っている人は、何億ではないらしいですね。何兆円だそうです。だからアメリカの人の幸せというのは、どういう幸せかというたら、目的を向こうに置いて、それがかなった時が幸せだそうです。だから限りなく求めていくわけです

 そこには煩悩という考えはないわけです。ところが「原罪」と言う考え方はあるわけです。だからそういう資産家は教会にどんどん寄付なさいます。ボランテアというものの考え方は、みんなキリスト教から来ているわけです。だから教会にどんどん寄付をなさる。それは儲かったものは社会に返すという基本的なものの考え方があるわけでしょう。しかし返せば原罪が無くなるわけではないですよ。今はキリスト教もどんどん信者が減っているそうです。キリスト教徒は、日曜日に教会にいくでしょう。中に広い駐車場があって、教会の中へ入らないで駐車場の車の中で札拝するような人も増えて来ているそうですよ。だから欧米のキリスト教の人たちも宗教に危機感をもっておられるようですね。

 仏教は煩悩ということをいいます。しかしキリスト教にはそういう考え方がないわけです。十八世紀だったと思います。「キリスト教と資本主義」と、随分討論しているわけですね。つまり資本主義は限りなく求めていくでしょう。しかも規制があれば利益がでないわけです。だから規制をどんどん取っていって利益を得ていくわけです。

 昨日バスの事故が起きました。三番目に大きな旅行会社だそうですが、実際に走っていたのは、小さい他のバス会社が低料金でツアーを組むために価格競争になるわけです。そうした中で、今度のような悲劇が起きてくる。今日の朝言っていましたが、ツア―の利用者が、今までは何万人ぐらいの利用者しかいなかったのが、今では六百万人の人が利用しているとか、こういうのはしかし安いだけで喜べない規制緩和です。

 政府が何かの法律で規制をすれば、自由に商売ができないわけです。資本主義は儲からないといけないわけです。だから規制緩和をどんどんしていくわけです。それをやったのが小泉さんです。だから今の大きな店が出来れば小さい店はつぶれていくわけです。あれは規制緩和です。

善し悪しは一概には言えません。

今は、みな自動車に乗るわけですから、そうすると柳川の京町あたりの店は駐車場がありませんから店の裏に駐車場をつくるけれども、駐車料金を払わなければならないわけです。それよりも大きな店に行くと駐車料金は無料だし、商品はなんでも売っていますからね、資本主義は規制緩和をしていかなければ大きくならないわけです。それが自由という意味です。そうすると貧富の差はどんどん広がっていくわけです。

 例えば、アメリカでは日本のような医療保険がありませんから、病院に入院して患者は死んで、その病院に払う医療費が何千万と残ったということが多いようです。残された家族は大変です。アメリカにはそういう制度がないわけです。だからオバマ大統領がそういう制度を作ろうとすると猛反対でしょう。それは自由規制だと、そして「小さい政府」と小泉さんは言うたでしょう。大きい政府、小さい政府、つまり政府がいろいろやると大きな政府になる。だから政府は小さい方がいいと、そうしたら景気がよくなる。確かに景気がよくなるという事から言えば規制緩和はいいわけです。しかし経済力をもった大きな企業はどんどん大きくなっていくし、小さな家業は取り残されてつぶされていく。こういう問題が出てくるわけです。

涅槃と言うのは、本当の安心と満足というようなものは内面的なものであって、外面的なものではないわけです。外面的に太れば太るほど実は内面的には苦悩も大きくなるわけです。仏教は、どこまでも穢土と浄土です。だからお釈迦様は「一切は我が有なり」といわれます。自然と自分が一つです。自分が自然全体の中に消えていくわけです。対立がないわけです。キリスト教はそうではないのです。一切のものは神が造ったというのです。そして最後に人間を造った。初めは男を作り、淋しそうにしていたから男のあばら骨を取って女を造った。これがイブとアダムです。

だからキリスト教でいうならば、人間以外は神になれないのです。なぜかと言えば人間だけが神に似せて作ったのですから。人間からいうならば他のものは低いのです。人間だけが神に近いわけです。そういうものの考え方です。自然の物は人間のためにある。だから人間が自由に使っていいわけです。そういうところから科学は発達して、自然を使って人間のために幸せにしていく。それが今のようにどんどん大きくなっていく。しかし、そこに本当の人間の安心や満足はあるのかという考えはないのです。何かそういうところにキリスト教と東洋、とくに仏教のものの考え方と基本的に違いがあります。

こういうことは、今、大事なことでないかと思いますね。だから資本主義がどんどん太るということは、大量消費につながっていくわけです。

皆さんが一足の靴を五年も十年も履いてもらったら経済は困るわけです。毎年買いなおしてもらわないと困るわけです。そうしないと安くならないわけです。安くするためには大量生産をして大量消費しなれければならないわけです。だからゴミは増えるわけです。そこが欧米の人のものの考え方と、東洋の人のものの考え方の基本的にすわりが違うわけです。

 「涅槃」というのは、キリスト教で言う天国とは違います。そこのところが非常に大事なところです。日本人が幸福と言うときには、目的を果たすというようなことではありません。果たしたところから虚脱感が出てくるわけですから、煩悩には切りがないのです。そういうことでなくて、今まで見えなかったことが見え始めるというか、私は今まで気づかったけれども、どれだけ多くの人に支えられ、多くの衆生に支えられて今日という日があったか、そういうものをはじめてしって、私は今まで我がまま気ままな事ばっかりしておったのではないかという深い反省と、懺悔のところに本当の安心と喜びがあるのです。そういうところに仏教の方向があるわけです。

 私たちはそういうことをただ欲にまかせておるのでないか? 欲にまかせれば、どこまでいっても安心はない、涅槃がないのです。ところが、それは本来の広い世界の中に小さい自我を建てて、そしてお互いが争って、そしてどうかなったら、どうかなるのでないかという形で生きているのでないかと徹底的に気づかされる。そう気づかせるものは向こうからのはたらきです。私が私の知恵で気づくことはありません、どこまで行っても相対です。私たちがいつも苦しんでおるということは、本来に背いているということです。だから本来の法からのはたらきを本願といいます。阿弥陀如来の本願のはたらきです。それが南無阿弥陀仏です。だから、如来から言えば「我に依れ」です。汝、阿弥陀仏に「南無せよ」です。私から言えば仰せに従う、南無阿弥陀仏申す。

 

  いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみか

 

なのです。だから依った人の言葉「よき人のおおせ」

 

  ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて

信ずるほかに別の子細なきなり。

 

これは弥陀如来に遇うた人の仰せです。然し、それは法然上人が言うておられるのですけれども、法然上人をして言わせているものが言っているわけです。それに遇ったということが「南無阿弥陀仏」ということです。

 

  曠劫多少のあいだにも 出離の強縁知らざりき

  本師源空いまさずば このたび空しくすぎなまし

 

「曠劫多少のあいだにも」ながいあいだにも、「出離の強縁知らざりき」その迷いの世界から離れることのできる強緑、つまり如来の本願力です。そのことを知りませんでした。「本師源空いまさずば、このたび空しく」と親鸞聖人は言っておられますね。「このたび」というのは、せっかく人間としてこの世に生れながら、このたびまた空しく迷いを繰り返していくところでしたということです。

その法然上人に遇ったお陰で何が解ったかといえば、わが身が解った。救われようのないわが身であったと解った。そこに救われようのないわが身をわが身と知らずに生きて来た。しかしその生き方は、決して本当の安らかな日暮しではなかった。常に不安と争いの中で生きて来た。そのもとは「どうかならんから」ではなくて、如来に背いて、本来の真に背いて生きて来たことにある。私の本当の解決は如来の方において解決されておって、その世界を私に与えたいと、それが「本願」です。それに目を開くということが「信心」でしょう。

 

 前々回にお話ししたと思いますが、如来の真が信心ですけれども、信心の智慧と親鸞聖人は仰るのですね。「曠劫多少の」だから誰かの罪というようなものではないわけですよ。人間に生まれて来たという事はそういうものをもって出て来たということですよ。それがずっと人間が始まって以来ということです。だからそれに寄り添って阿弥陀仏の真がはたらいておるわけです。ですから阿弥陀仏は無始曠劫以来人間に寄り添っているわけです。

だから、「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまえり」と、私の救いということの相をきちっと現したのが十劫です。それからずっと、人間が人間を始めて苦しんできているのをずっと大悲して、十劫の昔に阿弥陀仏に成られた。そしてわが名を称えよと呼びかけ続けて今日まできておられる。しかしその阿弥陀仏のご苦労は終わらないわけです。一人でもこの世の中に苦しみ悩んでおる者がおる間は、阿弥陀仏のご苦労は終わらないわけです。そういう形で、こういう教えとして教えが説かれておるわけです。

 だから信心の智慧というのは、私たちがもの心ついたときから出て来た知恵を超えた智慧です。超えた智慧ですから相対の知恵の持っている罪を照らすわけです。私を苦しめているのは、私の外にあるのでなくて、私の中にある迷いのありかただと知るわけです。迷いと言うのは、私の思うようになれば幸せになる、思うようにならないなら不幸せだと。思うようにならない原因が私の中にあると思っていないのです。みな外にあると思っているのです。

あの人がもっとどうかなってくれればとか、私の境涯がもうちょっとどうかなってくれればとか、金さえあればとか、物さえあればとか、政治は何をしているのかとか、それは言わねばならんですよ。言うたがいいのですけれども、そんなことで人間の問題が片付くのでないということをどこまでも知らせようとする智慧です、それが信心です。それが浄土を開くわけです。

浄土からはたらいておる仏の真が私に届いて、私の信心になったときに、南無阿弥陀仏になったときに、私は「煩悩具足の凡夫」と本当に信ずることができますし、それは私の力でなるのではないですから、それを知らせた真の前に自己を投げ出して、南無阿弥陀仏申すものです。そういうことを知らしてくださった大きな真を頂いて生きていくということですね。ですから信心を得た者は、正しく浄土に往くことが決まるわけです。

今・今、善いことも悪いこともあります、われらの日暮しは業があるわけですから、しかし今・今が浄土に向かって生きて往くという、そういう道が定まるということです。これが「正定」という意味です。死んだら極楽に行くと言う意味ではないのです。そうでなくて今・今、一歩一歩歩むままが、浄土へ向かって生きて往くという意味をもった一歩一歩に成ると言う意味です。それが「正定」という意味なのです。なぜかと言ったら、常に南無阿弥陀仏がはたらいておってくださいますから、常に念仏申して生きていくわけです。

正信偈に聞く 45―3

​平成24年4月30日

​ 正信偈に聞く

 45-3 

「ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏を称うべし」

 

と、親鸞聖人は仰るわけですね。南無阿弥陀仏を称えれば死んだら極楽に往けるということを言っておられるのではないのです。今日・今日、ただ今・ただ今です。そういう意味で、私たちが我執で立っている時の現在ではない、本当の現在をもらうわけです。

私たちはどうかなって安心しようとしますから、未来ばかり見ているわけです。だから本当は、足元は留守になっているわけです。子供さえ育てていればとか、こうしてさえおけばとか、未来ばかり見ている。しかも未来というのは夢ですよ。なるかならんかわからないわけですから。

だから時々言われますよ。「子どもなんか育てたって何もならんのも」。「どうしてですか」と言うたら、「わしがこれくらい苦労したのに子供たちは何も知らん。そして勝手な事ばかり言うてから」と、こういうことを言われる人がおられます。これを「愚痴」といいます。煩悩です。なぜかというたら、私たちはそういう形でしか生きていないのです。それでは本当の「現在」というのはどういう現在なのでしようかね。それは、今日・今日ご緑を与えられておる現在です。だから親が子を育てなければ、親の愛情が無ければ子は育たないですよ。

 私は若いころ「少年院」に行っていましたけど、今は大分変ったようですね。私が五十年も前に行っていた頃の子供などは、炭鉱が閉山になって職を失って、酒飲んで酔いたくれた主人は他の女とどこかへ行ってしまう。そうしているうちに母親もおらんようになる。そうしたら放り出された小さい子供が親戚とか、いろいろな人の家をたらい回しにされて、そのうちに罪を犯すようになってしまう。そういう子どもが多かったですよ。

 福岡市南区大橋の老司(ろうじ)というところに「少年院」があります。六年前でしたか、そこへ行ったら、今は立派になっていました。私が行っていたころは古い校舎をどこからか持って来たような建物でした。そこに入所している子どもを見た時に、ある子供は「どこまでぐれられるか、ぐれてやるんだ」という子供が居ました。少年院の先生方と話してみたら、「かわいそうな子供たちですもんね」と言っておられました。そういう子どもを見たときに、やっぱり子供は親の愛情がないと育たないということをつくづく思ったことでした。しかし、どうもしてあげられませんからね。

 ところがね、六年も前の話ですが、見学と言う形で行きましたら、施設が立派になっていました。それで後で先生たちと話しをしていましたら、子供たちは、今はみな明るいです。だから「明るくていいですね」と言ったら、「先生、違うとですよ⋯今の少年院の子供は、普通の家庭の子供です、そして知能指数も低くないですね。」しかし、その子供を個室に呼んで二人だけになって、罪について考えて反省を促すと、気が狂うほど興奮する子供がいるそうですよ。そこらあたりの物を投げ散らすそうですよ。「なぜ、そんなことをお前らに言われんならんか」と言うそうですよ。「だから、罪の意識のようなものはないとですよ。だから、これは大変だ」と言っておられました。

 そして親の方は、「いつまでも置いておってくれ」と言うそうですよ、「その子が戻って来ると家底が壊れる、今はその子が居らんから家の中が平和に暮らせる。だから、そのままおいておってください」と言うそうです。親が親でなくなっているわけです。非常にややこしい形になっています。そこで本当の現在というのはどういうことかと言ったら、親がおらねば子が育たないですよ。しかし子によって親も育てられているわけです。親が親になるということは子によって親になっていくわけです。だから今・今、その子供と本当に向き合える親として、また子として生きてゆく。そこに本当の現在がある。

 現代は、親と子が向き合う場がつくれないでいるわけです。今の子は、習い事もせんならん、何もせんならんと言って、親が子を追いたてていく、頭にあるのは大学を出て、どこかの会社に就職してという、そんなことしか親の頭にはないわけです。そうしたら、その子は楽しいことはないですよ、勉強・勉強と言われたら自暴自棄になる子供も出てくるのでしょう。

 だからテレビなどで見ますと、本屋さんは、何冊かいい本が取られたらその日の儲けはないそうですよ。利潤が少ないそうですよ。だから万引きされないように注意していると、袋に入れて店を出るような子がおるそうですね。盗った本はどうするかのと聞いたら、古本屋に持って行ってお金に換えて小遣いにするそうですよ。罪の意識も何もない、そういう子どもを捕まえて親に電話する。そしたら親がやって来て「金を払えばいいでしょう」というそうですよ。「内の子に恥かかせて、金を払えばいいでしょう。なんですか、このくらいのことで、」と言うような親が増えているそうです。

 しかしそういう親たちの中にも、親がその子供を叩いて、本当に悲しいことをすると、そして親が詫びて、そして子供と一緒に帰って行ったという親もいるそうです。しかしそういう親は少ないそうです。「恥かかせた」というそうです。「だからそういう子は育たないですよ」と言っておられました。今というのは子供と本当に向き合うという「今」です。

 だから親がおらねば子は育ちません、しかし子によって親が育てられる。親が本当の親になっていくために、そういう形で一人の凡夫と一人の凡夫が向き合うのです。「親と子」というよりも、一人の凡夫と凡夫が本当に向き合う、そう向き合えるような教えです。教えがなければ無理です。そう言えるような教えです。

 だから親鸞聖人は、「信心は、私が如来を信じる信心でなくて、如来より賜った信心だ」と仰る。つまり、如来が私をして本当に愚かな悲しい自分だと気づいて欲しいと、そして我に依って欲しいと、呼びかけておられる如来の大悲が私に届いて、私の南無阿弥陀仏の信心になったのですから、それは私が信じたというよりも、私を大悲してくださっておる如来の真が私に届いた姿、そこで初めて私は、わが身の業の深さ救われようのないわが身をわが身と知らされた、私が私を知ったというのとは違うわけです。どこまでも私を大悲なされるのは、私を煩悩具足の凡夫と見抜いて、そして大悲なさっておられるわけですからね。

そういう出遇いが信心です。如来と私との出遇い、その信心がどこではたらくかというたら、日暮らしの中ではたらくわけです。俺は親、お前は子供というのでなくて、親という因縁、子供という因縁で、今日という日を遇っているわけです。そういう心で子供を見れば、子供は見えると思いますよ。親というところで見ていたら子供は見えないと思います。子供は親を尊敬したいと思いますよ。だけど、そうなれんのは親の方が子供を突き放しているわけですから、親の思いで突き放しますから⋯。そういう問題を仏教は言いたいわけでしょう。

 しかし、そのことを私が徹底して知る力は、私の相対的な知恵では無理です、それを超えた大悲によって、私に呼びかけられている私だということを本当に知らして頂くということにおいて、私が私の人生において意味が変わるし、人生の方向が変わる。浄土へ浄土へという方向です。それが「正定」という意味です。だから信心がその「正定之因」です。そうしますとね、「生死即涅槃」といってあるのですが、生死というのは迷いという意味です、これは生死(せいし)とは読みません。仏教は(しょうじ)と読みます。

仏教辞典を繰ってみましたら生死(しょうじ)と読んで、「迷い」と書いてあります。それはどういうことかというと、生に執着し、死は生を否定するものと考えてしまう。それが我執の在り方です。私達が、生・老・病・死するのは自然でしょう。生まれた者は死ぬるわけです、いつまでも若くはない、生身を抱えておれば病は免れないでしょう。だから生まれた時から死は約束されておるわけです。だから生老病死というのは、自然そのものです。犬や猫はそのままを生きているわけです。だから死を恐れるということはないわけです。

人間は死を恐れます。なぜかと言ったら、生に執着するからだというのが仏教のとらえ方です。つまり我執煩悩で生を握る、おれ我と握る。そして、死はそれを否定する形ではたらくと考えます。死にたくないのに死は来るわけです。不条理という言葉がありますが、だからいつまでも生きたいと生に執着する。だから死は生を否定するものと考えてしまう、それが迷いのもとです、だから生死(しょうじ)と読んで迷いと、こういうように言われておるわけです。

「生死即涅槃」ということは、「生死」は迷いです、「即涅槃」は悟りの世界です、お浄土の世界です。この「即」という言葉がなかなか厄介な言葉です。「迷い」がそのまま「涅槃」と言っておるのではありません。迷いがそのまま涅槃と言ったら矛盾です。そんな事はあり得ないわけです。「迷いに即して涅槃が語られる」という意味です。歎異抄というのは親鸞聖人の言行録ですね。それを唯円が書き残しておるということでしょう。その時、親鸞聖人が、

 

  浄土へいそぎまいりたき心のなくて、いささか所労のこともあれば

  死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

  (歎異抄第九章六二九〜六三〇頁)

 

と言っておられます。急いでお浄土へ往きたいという心なんてないといっておられるわけです。それどころではない「いささか」というわけですから、わずかばかりということでしょう。「所労のこともあれば」こういう言葉が使われておるのですけれども、「所労」というのは、疲れとか病気と言う意味だそうです。

親鸞聖人は九十歳まで生きた人です。あのころの平均寿命が三十八歳だったころに九十歳まで生きられたわけです。今の九十歳とは違うわけです。随分長生きなさったわけですね。しかし寝込まれて一週間ぐらいで亡くなられたらしいです。認知症もないのです、八十八歳頃にお書きになった書物(自然法爾章)が残っていますからね。書物は集中しないと書けないでしょう。だから心身ともに非常に強固な人だったと思います。

ところが度々、風邪を引いたりして寝込んでおられます。そういう手紙がたくさん残っております。向こうから手紙がくると返事を出さなくてはならんでしょう。その時、親鸞聖人は気分が悪くて筆を取る気がしない、だから口頭で仰って、それを秘書が書き写すわけです。

その時に秘書が、親鸞聖人が書いた字でないと受け取った人が安心しないと思うから、一筆でもいいから書いて欲しいと言われて書かれたという手紙が残っておるのですよ。長い一生ですからいろいろあられたでしょう、その中で「いささか」といわれるわけですから、大した事ではないわけですね。「死なんずるやらんとこころぼそくおぽゆることも、」というでしょう。だから重病ではないけれどもやっぱり疲れが出たりして、そして病気になって横になっていると、お浄土に往きたいという心よりも、死ぬるのではなかろうかと心細い気がすると言われるのです。

 法然上人の記録では、寝込んだらお浄土参りが近づいたというて喜んだということを書いた物があります。法然という人は、そういう人だったでしょうね。ところが親鸞聖人は、これで死ぬのではないだろうかと思ったら心細いと言われるのです。しかも、それは「煩悩の所為なり。」と言っておられます。そして「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、」

私は、はかり知ることのできない昔から今まで、果てしない迷いを繰り返して流転して来ましたと、「この苦悩の旧里はすてがたく、」と言ってあります。この人生のことを「苦悩の旧里」と言っておられます。私たちの人生は決して安らかな所ではないのですね。ずっと曠劫以来迷いに迷って来た「苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろう」と言ってあります。

お浄土には往きたくない、それどころか、今寝込んでしまうと死ぬるのではなかろうかと心細い心が出てくる。しかしその心は「まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。」これも煩悩の所為だと抑えておられます。ここが大事です。こうして病気をして寝ていると、死ぬのではないかと不安が出てくる。そのことを誰かがそう言ったら、「それは人間だから」というのが普通です。「やっぱりあんたも人間やね、あんたも死のうごとなかやろう」と、それが普通の言い方ですよ。

ところが親鸞聖人は「苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、」むしろ、いささか所労のこともあれば死ぬるのではなかろうかと心細い心が出てくる、それも煩悩のせいだと。「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせたることなれば」つまり、仏が私に先立って、私がむしろ頼みもせんのに如来様の方が私を見抜いて「仏かねてしろしめして」御存じあって、煩悩具足の凡夫よと、呼びかけておって下さる。そしてその者を救わずばおれんと願いをかけて南無阿弥陀仏を成就してくださった。これは偏に、いささか所労のこともあれば、お浄土へ往きたいという思いがなくて、死ぬるのではないだろうかと心細く思うような、私の(凡夫)のために建てられた本願であったかと、喜ばれた。

 藤代先生は「煩悩を目印にして、仏の大悲を喜ぶ」と言っておられます。だから煩悩が無くなれば喜べるのではなくて、煩悩をむしろ目印にして如来の大悲を頂いていく。だから「生死即涅槃」ということは、涅槃は浄土ということです。そのお浄土をどこで伺われるかというたら、煩悩具足の凡夫という深い人間としての悲しみといいますか、人間としての愚かさといいますか、それに即して涅槃が頂ける。だから、いよいよ私も煩悩が無くなってお浄土参りということではなくて、

 

  いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく

  おぼゆることも煩悩の所為なり。

 

しかし、

 

  仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、

  他力の悲順は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、

  いよいよたのもしくおぼゆるなり。

 

といわれるのですが、「煩悩を目印にして、大悲を喜ぶ」、だから煩悩が無くなれば大悲がかえって喜べん、そういう事ですね。

妙好人には「煩悩をなくせんでくれ、煩悩がなくなったら、かえってお慈悲が喜べんようになる」ということを言ったという話がありますが、それが「煩悩即涅槃」と、煩悩に即して涅槃を頂く。そういうことを私たちの上に成り立たせるものが、如来回向の信心です。

 だから、私が私の問題を片づけるのでなくて、私の問題を如来が片付ける。つまり浄土に生まれさせればたすかるのだということを、私の問題は如来によって尽くされて、そして私に念仏申せと呼びかけられているのだという意味です。

だから南無阿弥陀仏の中に一切がこもっているわけです。全ての功徳がこもっているわけです。それを私が、本当に頂くことができるならば、私にどんな煩悩があろうと、どんな愚かな私であろうと、私はそれを気にする必要が無い。むしろその煩悩を手掛かりにして、私たちは大悲を頂いていくことができる。むしろ煩悩がなくなれば大悲は解らなくなってしまう。救われようのないわが身をわが身と知らせるものに遇う、これを「機の深信」といいます。片方は救わずばおれんという「法」、そして片方は救われようのない「機」、それが南無阿弥陀仏で出遇う、それを善導大師は「二種深信・にしゅじんしん」で言われます。「法」を見れば絶対救われる、「機」を見れば救われようがない。それが信心のところで触れていく、他の教えと違う。それが真宗の教えの特徴でしょうね。

人間が修行や学問をして救われるということは、末法の時代において成り立つことは不可能。末法における我々の救われる道は、本願念仏の仏法の以外にないと、親鸞聖人は法然上人から教わった。そしてその通りであったと言われます。そして自力聖道門は、本願他力に帰するための方便、手がかりだと仰る。道綽禅師は、仏道には二つの道があって、私のような者は他力による他に往きようがないと言っておられますが、法然上人まではそういう言い方です。

親鸞聖人は、比叡山は念仏に依る以外にないということを知らしてもらうための手がかりだから比数山が方便で、南無阿弥陀仏が真実だと、こういう形で親鸞聖人は仰います。そして念仏の教えが大乗至極の教えだと、至極というわけですから極まっているということです。大乗仏教の徹底した教えが本願念仏の仏法だと、ここまで親鸞聖人ははっきり仰っておられます。

 法然上人は、そこまではっきりおっしゃいません。末法における我々の救われる道はお念仏による以外にないと言われております、それでも法然上人は墓まで暴かれるのですから。法然上人はいろいろな法難にあわれます。「嘉禄の法難」というのもあるのです。

 当時、親鸞聖人の教えがどういう形で仏教界に問われていくようになったのか解りませんけれども、現在は親鸞聖人の教えが仏教の究極、そして我々も本当に救われていく道は、親鸞聖人が言われるように、念仏の教え以外にないということを多くの思想家や学者も言われます。一番徹底しているのが親鸞の教えだということをみな言われます。そういう意味では、多くの心ある人に親鸞聖人の教えは非常に高く評価されておるわけです。

 「煩悩即菩提」煩悩に即して菩提が語られるわけです。そういうことを曇鸞様が浄土論註という教えの中で教えてくださいました。そして親鸞様は曇鸞様のお徳をほめられる正信偈の中に仰っておられるわけです。 今日の話は、これで終わりたいと思います。有り難うございました。     合掌

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