07 ​

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年7月

 前回、法然上人がその師阿闍利皇円(あじゃりこうえん)の期待と周囲の慰留を裏切るようにして、学匠(がくしょう)としての道を振り捨て、十八歳の若さで隠遁(いんとん)の道を選ばれたこと、また法然をしてそうせしめた当時の比叡山の実情についてくわしくのべました。

 こうして、法然上人は長い懊悩(おうのう)のすえ師の許を辞し、叡山西塔黒谷の慈眼坊叡空(じげんぼうえいくう)の庵室を訪ねられます。この叡空という人はすぐれた学業兼備の高僧でありながら、出世や名利(みょうり)を求めず、山上の政治的空気にふれることをいさぎよしとせず、この黒谷に隠棲(いんせい)している、いわば聖(ひじり)を代表するような人でした。

 法然上人はその叡空に会い、幼いころより成人にいたるまでの経歴、ことに九歳のおりの父の遺言のことなどくわしく述べ、隠遁をとげて、真実の仏道を求めたいという深い真情を涙ながらに語られました。叡空はそれを聞き、わずか十八歳の少年でありながら、このように深く真剣な求道者(ぐどうしゃ)である法然上人に非常に感動し、それをたたえられました。そしてこの叡空の指導を受けながら上人の隠遁の生活がはじまります。はじめ、上人はそこで膨大な仏教聖典の集大成である一切経(いっさいきょう)を精読し思索することにうちこみます。  

 しかし、そうして学識が広く深くなるにつれて、安心(あんじん)の境地を得るどころか、疑問と不安はますます深まり、やがて南北諸宗の学匠を求めての遍歴の時代が長く続いたことが伝えられています。それは学問的な解答を求めての遍歴ではなく、真の解脱(げだつ)を求めての遍歴であったでありましょう。つまり、単なる学者ではなく、本当に救われている人を求めての遍歴であります。        

 しかし、それも空しい努力であったようです。結局、出発点である黒谷の報恩蔵に籠もり、悪戦苦闘の十年間のすえ四十三歳のとき、中国の善導大師(ぜんどうだいし)という高僧の言葉に導かれて、本願念仏の仏道への眼を開かれ、学識も知恵も必要としない大安心(だいあんじん)の境地に到達して、長い求道の遍歴が終わります。

 上人はその境地を最晩年の一枚起請文(いちまいきしょうもん)という文書に「ただ往生極楽(おうじょうごくらく)のためには、南無阿弥陀仏と申して、必ず往生するぞと思いつめて、念仏申すほかに別の考えはない。~念仏を信ずる人はたとえどのような学者であろうとも、文字一文字も知らぬ人々と同じように、賢こぶらず、ひたすら念仏すべし」と述べられています。また後年法然上人のお弟子になられた親鸞聖人も「故法然上人は『浄土宗のひとは愚者(ぐしゃ)になりて往生す』と仰せられた。」とそのお弟子に出されたお手紙に書かれています。

 絶対の真理は、人間の限りある知恵や、限りある修行によって到達出来るものではなく、ただ真理自体の自己表現である南無阿弥陀仏に、人智をたのむ心をふりすてて、一心に深く帰依(きえ)する道においてのみ、その真理と一体となり。その真理を生きる身たらしめられるのであるという目覚めでした。それが法然上人の、二十五年間の人智をかけての苦闘のすえに到達された「ただ念仏して」という境地でした。

 法然上人はやがて比叡山を捨て京都吉水(現在の浄土宗の本山知恩院の場所)に草庵を開いて、多くの人々に本願念仏の仏法を弘められることになります。これが「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏して浄土往生(じょうどおうじょう)をとげる真実の仏教」即ち浄土真宗が日本に開花した瞬間です。

 

 08 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2009年11月

 法然上人は、四十三歳の回心(えしん)を契機として、長い間学問と修行を重ね、多くのご縁の深い師や友とも袂を分かち、ただ一人比叡山を下り、京都に出てこられたと伝えられています。その理由としては、法然上人は中国の善導大師(ぜんどうだいし)の教えの導きによって眼を開かれた、即ち、人間の知恵才覚によらず、一切の学問も、すべて投げ捨てて、ただわが身は罪深き愚悪(ぐあく)の凡夫(ぼんぶ)という自覚にたって、一心に阿弥陀仏の本願を信じ念仏申して浄土往生を願うばかりだという上人の信心が、当時の比叡山の人々に受け入れられなかった為だと言われています。

 例えば法然上人が十八歳の若さで黒谷に隠遁されたとき、それを非常に喜んで受け入れてくださった師、叡空上人(えいくうしょうにん)さえも、法然上人の考えには強く反対されました。叡空上人は勿論善導大師の教えはよくご存知なのです。しかし、上人のお考えでは、出家して学問を重ね、思索を重ね、念仏申して阿弥陀仏をその心に思い浮かべ、仏と同じ心になる静かな境地を獲得することが、善導大師の教えであって、如来の本願を信ずるといっても、ただ口に念仏申すことが善導大師の本意ではないと仰るのでした。

 法然上人もその叡空上人の言われることもよく分かるのですが、しかし、時代は正に釈尊(しゃくそん)がのちの仏教徒のために予言し警告しておかれた「末法」(まっぽう)のときが到来している。世も人も罪悪に濁り、僧はあれども形と名のみで戒律は守らず、修行の能力もなく努力もせず、いわんや悟り得ている者とて一人もいない現実である。その現実をわが身のうえに直視(ちょくし)された法然上人から見ると、叡空上人は、山上の出世や名利(みょうり)を求めない「聖」(ひじり)の代表であるけれども、その心の中にある、あの堕落坊主たちと自分は違うという自負心と理想主義が、時代はすでに末法であり、人間すべて愚悪の凡夫であるという、法然上人の自覚に立たれた信心を理解してもらえなかったのでありましょう。

 こうして法然上人は比叡山をあとにされます。法然上人はすでに比叡山におられる意味がなくなりました。しかし、そうして京都に出られた法然上人には、家もなく、寺もない教団をはなれた一介の僧侶になられます。しかし、上人の心には、その臨終(りんじゅう)に「討った者も討たれた者も共に救われる道を仏の教に求めよ」と言い遺された、お父さんの遺言の通り、出家・在家を選ばない、老少善悪の人を選ばれない如来の本願を信じ、念仏申して浄土往生(じょうどおうじょう)を願う一道をあらゆる人々と共に歩む生き方においてのみ、その願いが成就するという確信と、その道を歩み始めることが出来た喜びに満ちておられたのです。

 ここに、出家(しゅっけ)し聖(ひじり)として学問を重ね、修行して仏の悟りを求める仏教と袂を分かち、老少善悪男女を選ばない、すべてのものが平等に救われる仏教・浄土教の独立が法然上人によって果たされた瞬間であります。

 

 09 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年1月

 教団を離れて京都に下った法然上人が、落ち着いた先は京都西山の遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)という熱心な念仏行者の庵でした。法然上人叡山時代の弟子の一人信空(しんくう)が、身を寄せる住所を持たぬ法然を案じて、彼の縁者であるこの遊蓮房を紹介したと言われます。

 この遊蓮房という人は・少納言藤原通憲(みちのり)という貴族の子供に生まれながら、二十一歳で出家し法然上人と同じく、善導大師(ぜんどうだいし)の教えを深く信じた遁世の念仏者でした。人々から「尊ばれること仏の如く」言われ、ちりばかりも俗に交わらず、経一巻も書籍一巻も身にもたず、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の一筋を守り通した人でした。そして、その庵は縁ある人びとが集う念仏道場でした。この遊蓮房と法然上人はそれ以来深い因縁が結ばれ、遊蓮房はやがて三十九歳の若さで命終しますが、その臨終(りんじゅう)に際しては、法然上人みずからが、その枕もとに善知識(ぜんちしき)としてつきそい、十念の高称(こうしょう)念仏をとなえさせて息をひきとらせたと伝えられます。

 法然上人はつねに「浄土の法門(おしえ)と、遊蓮房とに会えるこそ、人界(にんげんかい)に生をうけたる、思い出にては侍(はべ)れ」 と浄土の法門と、遊蓮房との出会いを、同列にして、生涯の思い出を追憶し感謝されていたといわれます。

 私たちは法然上人の念仏道場といえば、必ず思いだすのが京都東山の吉水(現在の知恩院)ですが、この吉水の草庵は、遊蓮房の生前の願いにより、彼の草庵を移築したものです。

法然上人が西山から吉水に移られたのは、遊蓮房が亡くなった治承(じしょう)元年から間もない年であったろうと思われますが、やがてここで法然上人の、仏教の歴史において画期的といえる「浄土宗の独立」という大宣言がなされることになります。

 改めて法然上人と遊蓮房との関係を思い合わせてみますと、年齢は法然上人が六歳年上ですから、遊蓮房が三十九歳で亡くなったときに法然上人は四十五歳です。上人下山の年齢が四十三歳ですから、二人の交わりは僅か二、三年でしかありませんが、それが両者の歴史的な出会いになっていることに深い驚きを感じます。法然上人は遊蓮房の厳しい道心(どうしん)と、その純粋な人柄を深く敬愛されたと思われますし、遊蓮房は法然上人の偉大な人格と、高遠な学識に浄土教の将来を託したのであろうと思います。

 考えて見ますと法然上人は下山の最初において、まことにふさわしい人と所との出会いがあったことになります。不思議というより外に言いようのない出来事です。因みに親鸞聖人は法然上人と四十歳年下ですから、遊蓮房が亡くなった時は五歳でした。

 同じ京都の洛南、伏見の東、日野の里に住む藤原有範(ありのり)という貴族の子供として生まれられましたが、法然上人とこの吉水の草庵で出会われるのは、それから二十四年後になります。 

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