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浄土4

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年1月

 「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)というのは、単なる宗派の名前ではなく、お釈迦さまによって明らかにされた「阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願を信じ、念仏申して浄土往生(じょうどおうじょう)をとげる真実の仏教」をあらわす言葉です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)はこの仏教が、インドでは、お釈迦様から竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)へ、更に天親菩薩(てんじんぼさつ)へと伝えられ、中国では曇鸞大師(どんらんだいし)、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)、善導大師(ぜんどうだいし)らの高僧によって継承され、それが日本では平安時代の源信僧都(げんしんそうず)の教えになり、やがて、法然上人(ほうねんしょうにん)に受け継がれたことを述べられています。そして、日本におけるその浄土真宗の開花は、ひとえに、師法然上人の生涯かけてのご苦労によることを高く讃えられ、そのご恩を深く感謝されています。真宗門徒(しんしゅうもんと)が朝夕お勤めしている正信偈(しょうしんげ)の中には、そのことがくわしく述べられています。

 法然上人は長承2年(1133)4月、現在の岡山県、昔の地名では美作(みまさか)の国、久米南条の稲岡庄にいた漆時国(うるまときくに)という武士の子として生まれました。父親の漆時国という人は、押領使(おうりょうし)という、兵を率いて部内の盗賊を捕らえたり、治安の維持にあたるという警察権を握る官職を、中央から任されているような地方豪族でした。ところが上人が9歳のとき、お父さんがかねて犬猿のなかにあった、源内武者定明(げんないむしゃさだあき)の一党がしかけた夜討ちにあい討ち死します。その場に居合わせた上人、幼名、勢至丸(せいしまる)が瀕死の状態であった父親にとりすがり、子供心にもその復讐をちかうその時、勢至丸にむかって、父親は「お前は決して敵人をうらんではならない。私がこういうことになったのは、すべて前世(ぜんせ)の宿業(しゅくごう)なのだ。もしお前が定明に遺恨をはらせば、相手の子供がまたお前を敵とつけねらうにちがいない。そうすれば、互いの恨みは世々(せせ)に輪廻(りんね)してつきることがないであろう。お前は出家して仏の教えを求め、敵味方ともに救われる道を明らかにせよ」と言い残して非業の死をとげます。この出来事は、幼くして神童のほまれがたかく、両親の寵愛を一身にあつめて、やがて地方豪族の総領として順調に育つべき勢至丸の運命をがらりと変えることになります。 

   父親の死後間もなく、父の遺言に従い、勢至丸はお母さんの弟、すなわち叔父さんである観覚得業(かんかくとくご)が住職をしていた菩提寺(ぼだいじ)という山寺にあずけられます。それから数年して勢至丸は、叔父さんの薦めにより比叡山に登り、天台宗の学僧としての研鑽をつまれることになりますが、私はいつも上人の人生を変えた、お父さんの遺言のことを思います。武士の子供ならば「父親の敵を討つ」のはむしろ当然の務めの筈です。それを抑えて「怨讐(おんしゅう)の世界」に救いのないことを教え、それを超える道が仏教であることを、出家でない一介の庶民に過ぎない父親の心の中に、自覚として生きてはたらいていたことに深い感動を覚えるのです。「やられたから、やり返す」という、止まることのない繰り返しの人間業は、現在も個人はもちろん、世界の国際関係のなかでも繰り返えされている人間永遠の課題です。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2009年3月

 前回は、法然上人(幼名、勢至丸)がお父さんの「恩讐を超えた世界」を仏教に求めよという遺言によって、勢至丸の叔父さんにあたる観覚得業(かんかくとくごう)が住職をしておられた菩提寺(ぼだいじ)にあずけられたことをのべました。しかし何といいましても長男でひとり子であった勢至丸はまだ九歳の子供、お母さんにしてみれば、夫を失い、その夫の遺言とはいえ、今又その子と別れねばならないということは、言いようも無いほどの深い悲しみであったにちがいありませんが、お父さんを討った一味がひそかに勢至丸をつけねらっていたという事情も伝えられています。然し、事情はどうであれ、もっとも、感受性の鋭敏な少年勢至丸は、父親の非業の死によって、消すことの出来ぬ深い心の傷を刻み付けられたにちがいありません。父親の無残な死は、仏の教えによって「恩讐の世界」を超えるべく必死の格闘をする其の間も、勢至丸の念頭を一刻も離れることのない深い悲しみでした。

 ところで、叔父さんの観覚得業(かんかくとくごう)という人は、当時、その地方の山寺の住職(じゅうしょく)をしておられましたが、若い頃は、はじめ比叡山で学問と修行を重ね、更に奈良に移って法相(ほっそう)を学んだ人で、学識の深い僧侶であられたようです。この人は甥の勢至丸を非常に愛し、まず仏教の基本的な学問を教えこもうとしましたが、勢至丸の神童ぶりは、文字通り一を聞けば十をさとり、また一度理解したことはすべて記憶して忘れない。叔父さんもその勢至丸の非凡な才能に舌をまいたと言われています。そしてこの天才的少年をこのまま田舎にうもれさせるにしのびず、比叡山に送って、本格的に学問をさせなければならないと考えられました。

 伝教大師によって開かれた比叡山は、当時修行の点ではともかく、学問のうえではまぎれもなく日本仏教の中心地でした。多くのすぐれた学匠(がくしょう)をかかえ、研究図書もととのい、あたかも仏教の総合大学の観をなしており、本格的に仏教学を学ぼうとするものは、必ず比叡山に登る必要がありました。法然上人から四十年後に出られた親鸞聖人もまたこの比叡山で学ばれました。

 こうして勢至丸が比叡山に登ったのが十五歳の春で、はじめ叔父さんの比叡山時代に師事した持法房源光(じほうぼうげんこう)という先生にあずけられますが、先生がしばらく比叡山の宗学(しゅうがく)である天台宗の入門的学問を伝授するうちに、この少年の持つ天性に早くも気づき、これは自分より優れた碩学(せきがく)につけて天台学の奥義を学ばせるべきだと考え、当時一山にきこえた碩学である阿闍利皇円(あじゃりこうえん)のもとに入室させます。勢至丸はここで教育をうけることになり、その年の秋剃髪(ていはつ)して、法衣をつけ、戒壇院(かいだんいん)で大乗戒(だいじょうかい)を受け、正式の天台宗の僧侶(そうりょ)となり、比叡山における学問と、厳しい修行が始まります。ところが、特にその学問においては師皇円の期待をはるかにしのぐ、師をしてまことに目をみはらせるものがあり、近い将来、山上一の学匠の誕生を夢見せしめる状態であったと伝えられています。

 しかし、そうして三年を過ぎたころから特に法然の中に隠遁(いんとん)の志(こころざし)が強くなったことを伝記は伝えています。隠遁というのは当時比叡山の上で、仏教界における出世とか名利(みょうり)を求めず、山上の政治的空気に流されることをいさぎよしとせず、山陰の庵室に篭ってひたすら出離生死(しゅつりしょうじ)の道を行ずる人びとがあり、それらの人を「聖」(ひじり)と呼び、こうしたありかたを隠遁と呼んでいました。しかし、世俗(せぞく)を捨てて出家した人が、今何故重ねて隠遁をせねばならないのか、ここに当時の比叡山の抱えていた矛盾があるのです。このことについては次回に詳しく述べますが、法然上人がまだ十八歳と年齢も若く、しかも、師匠を始め周囲から将来の大学者として嘱望されながら、その期待を裏切ってまで隠遁を望まれた上人の心の中に動いたものが何であったのかそれが大きな問題ですし、そこで上人の人生が大きく変わります。選ばれた人だけの仏教ではなく、むしろすべての人が平等に救済される仏教としての浄土真宗を日本に興された上人はこうして厳しい道を歩み始められるのです。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年5月

 前回、法然上人は十五歳の春比叡山に登り、当時叡山第一といわれた碩学(せきがく)、阿闍利皇円(あじゃりこうえん)という師につき、天台教学の勉学に励まれました。しかし上人の神童ぶりは師をしてまことに目をみはらせるものがあり、三年を経た頃にして既に将来師をしのぐ山上一の学匠の誕生を感じさせるほどの学業をつまれながら、師皇円の反対を押し切ってまで、法然上人は学者としての栄達の道を自ら捨て、山陰の庵室にこもって、ひたすら出離生死(しゅつりしょうじ)の道を行ずる隠遁(いんとん)の道を選ばれたことを述べました。そして、世俗(せぞく)を捨てて出家した人が、今何故重ねて隠遁という特別な道を選ばれねばならなかったのか、そこに当時の比叡山の抱えていた矛盾があったことを述べましたが、そのことを少しくわしくお話します。 

 伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が遣唐使の留学生として唐(中国)に渡り、天台宗(てんだいしゅう)という仏教を日本にもたらされたのが延暦二十四年(805)大師三十八歳の時であります。大師は五十五歳で亡くなられますが、その後、この比叡山から歴史に残る多くの高僧が出られました。親鸞聖人のお言葉にも「南都・北嶺」(なんとほくれい)という言葉が出てきますが、南都は奈良仏教の諸寺、北嶺がこの比叡山です。つまり比叡山は当時の仏教界を代表する教団でした。ところが、その比叡山も伝教大師の死後三百四十年を経た久安三年(1147)法然上人が出家された頃には、大師が奈良の仏教のようになることを恐れて、世俗を離れた山上に出家の道場を開かれたにもかかわらず、年代を重ねるに従って、結局奈良の仏教が歩んだと同じ道を歩んでしまいます。表面的には大乗菩薩道(だいじょうぼさつどう)の根本道場として、その使命を自負し、権威を誇っていましたが、現実は奈良の仏教と同じように、現世の祈祷(きとう)や、現実の生活とは無関係な学問の場に成り果てていました。しかも、事あるごとに、加持・祈祷(かじ・きとう)をもとめることができたのは、つねに社会の上層を占める人々で、そのため、次第に貴族社会と結びつき、その寄進をうけて、広大な荘園を支配する領主になっていきます。そしてその荘園の自衛のためと称して僧兵(そうへい)と呼ばれる武力集団さえ持ち、やがて世俗の政治に大きな影響力を与えるようになり、時代の乱れをいよいよ甚だしいものにしました。白河法皇(しらかわほうおう)が「ままならぬは鴨川の水と双六(すごろく)の賽と山法師」と言われたと伝えられていますが、まさにそれが比叡山の実情でありました。

 権力と結びつくことで、次第に世俗化した比叡山は、さらにその内部にも身分的対立をうみだし、その重要な地位は、その修道生活の純粋性以前に、すべて藤原氏(貴族)の子弟で占められ、世俗化とともに貴族化が進み、教団内部の対立抗争は世間のそれよりも激しく、また寺院と寺院が利害のために僧兵を動かしての大騒動が日常のことになっていたのでした。

 法然上人はそうした山の現実を見るにつけ、その中で天台の学問を究めることも、結局は世俗的な意味での高僧であるという名誉と、その地位を求めるための方法に過ぎないのではないか、真にお父さんの遺言にこたえる道とは何かという大きな課題のまえに、深く苦しまれ、遂に学匠(がくしょう)の道を捨てて隠遁(いんとん)の道に進むことを決心されたのでありましょう。                          

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年7月

 前回、法然上人がその師阿闍利皇円(あじゃりこうえん)の期待と周囲の慰留を裏切るようにして、学匠(がくしょう)としての道を振り捨て、十八歳の若さで隠遁(いんとん)の道を選ばれたこと、また法然をしてそうせしめた当時の比叡山の実情についてくわしくのべました。

 こうして、法然上人は長い懊悩(おうのう)のすえ師の許を辞し、叡山西塔黒谷の慈眼坊叡空(じげんぼうえいくう)の庵室を訪ねられます。この叡空という人はすぐれた学業兼備の高僧でありながら、出世や名利(みょうり)を求めず、山上の政治的空気にふれることをいさぎよしとせず、この黒谷に隠棲(いんせい)している、いわば聖(ひじり)を代表するような人でした。

 法然上人はその叡空に会い、幼いころより成人にいたるまでの経歴、ことに九歳のおりの父の遺言のことなどくわしく述べ、隠遁をとげて、真実の仏道を求めたいという深い真情を涙ながらに語られました。叡空はそれを聞き、わずか十八歳の少年でありながら、このように深く真剣な求道者(ぐどうしゃ)である法然上人に非常に感動し、それをたたえられました。そしてこの叡空の指導を受けながら上人の隠遁の生活がはじまります。はじめ、上人はそこで膨大な仏教聖典の集大成である一切経(いっさいきょう)を精読し思索することにうちこみます。  

 しかし、そうして学識が広く深くなるにつれて、安心(あんじん)の境地を得るどころか、疑問と不安はますます深まり、やがて南北諸宗の学匠を求めての遍歴の時代が長く続いたことが伝えられています。それは学問的な解答を求めての遍歴ではなく、真の解脱(げだつ)を求めての遍歴であったでありましょう。つまり、単なる学者ではなく、本当に救われている人を求めての遍歴であります。        

 しかし、それも空しい努力であったようです。結局、出発点である黒谷の報恩蔵に籠もり、悪戦苦闘の十年間のすえ四十三歳のとき、中国の善導大師(ぜんどうだいし)という高僧の言葉に導かれて、本願念仏の仏道への眼を開かれ、学識も知恵も必要としない大安心(だいあんじん)の境地に到達して、長い求道の遍歴が終わります。

 上人はその境地を最晩年の一枚起請文(いちまいきしょうもん)という文書に「ただ往生極楽(おうじょうごくらく)のためには、南無阿弥陀仏と申して、必ず往生するぞと思いつめて、念仏申すほかに別の考えはない。~念仏を信ずる人はたとえどのような学者であろうとも、文字一文字も知らぬ人々と同じように、賢こぶらず、ひたすら念仏すべし」と述べられています。また後年法然上人のお弟子になられた親鸞聖人も「故法然上人は『浄土宗のひとは愚者(ぐしゃ)になりて往生す』と仰せられた。」とそのお弟子に出されたお手紙に書かれています。

 絶対の真理は、人間の限りある知恵や、限りある修行によって到達出来るものではなく、ただ真理自体の自己表現である南無阿弥陀仏に、人智をたのむ心をふりすてて、一心に深く帰依(きえ)する道においてのみ、その真理と一体となり。その真理を生きる身たらしめられるのであるという目覚めでした。それが法然上人の、二十五年間の人智をかけての苦闘のすえに到達された「ただ念仏して」という境地でした。

 法然上人はやがて比叡山を捨て京都吉水(現在の浄土宗の本山知恩院の場所)に草庵を開いて、多くの人々に本願念仏の仏法を弘められることになります。これが「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏して浄土往生(じょうどおうじょう)をとげる真実の仏教」即ち浄土真宗が日本に開花した瞬間です。

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