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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年3月

 法然上人は故人となった遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)の草庵を吉水に移し、そこを拠点にした、一介の念仏行者としての活動を始められました。しかし、その坊舎(ぼうしゃ)は簡素な住居であり、法然に法を聞き、ともに念仏行をはげむ門人や信者の宿舎や、道場であって、旧来の寺院仏教のような屋内を天蓋(てんがい)・瓔珞(ようらく)で飾りたて、そこで僧侶が厳粛な勤行を勤め、そこに善男・善女が参詣するというような、きらびやかな寺院ではありませんでした。

 もともと法然上人は、生涯堂塔を(どうとう)建立してその主となることを求めず、そのような財ももたず、自ら阿弥陀如来の本願を信じ、念仏して浄土往生を願い、その道一つを人々に伝えられた方でした。ですからその坊舎は正に出家・在家、貴賎(きせん)、男女・善悪を選ばない、ただ法然上人の教えに従い、如来の本願を信じて念仏申す人々の念仏道場でした。遊蓮坊の草庵のあった西山と違い、この吉水は東山で人も多く、法然上人の名声が伝わるにつれて、この草庵を訪れる人が次第に多くなっていきました。しかし、法然上人が吉水に移られて数年間は、旧佛教界の教学(きょうがく)を修めた僧侶からも、また都の教養の高い知識人からも、必ずしも、新浄土教学の偉大な学者であり、時代を導く指導者としては認識されていなかったようです。しかし、その法然上人が旧仏教界から大きく注目される出来事がおきたのは、文治(ぶんじ)二年、上人五十四歳の時、後世「大原談義」(おおはらだんぎ)と呼ばれている事件があってからでした。

 それは京都、洛北、大原の勝林院(しょうりんいん)という寺で行われた、当時の佛教界を代表する学匠(主催者、天台座主、顕真)と法然上人との談義で、それは公開され、多くの僧侶が参集する中で行われました。それは法然上人の唱道(しょうどう)される教え(浄土教を「ただ念仏する」称名念仏ばかりに限定している)に対する糾弾の意味が強いものであったようです。談義は一日一夜に及ぶ長いものでしたが、法然上人は、上人がその教えに帰着された信念は、単なる自らの独断ではないことを、自らの比叡山における長い修学の苦悩を通して諄諄(じゅんじゅん)と語られたといいます。仏教諸宗の法が、みな深い道理をもち、それを修すればその利益(りやく)の優れていることに疑いはないけれども、自分のような根気つたない人間には、悟り難く、まどい易い道であった。苦しみ惑うている中で、比叡山の大先輩源信僧都(げんしんそうず)の著書「往生要集」(おうじょうようしゅう)の導きによって、中国の善導大師(ぜんどうだいし)の浄土教、即ち弥陀の願力を強縁(ごうえん)とする念仏成仏の教えに触れて、我ら如きの愚鈍(ぐどん)の身が、愚鈍のままで救われ得る道のあることをはじめて教えられ、自分はその教えの通り、弥陀如来の本願を信じ念仏申すばかりである。ただこれは我が体験を述べただけであって、すぐれた能力のある方の学問と、修行を妨げる気持ちは更に無いということを真剣に述べられました。

 ところが、その場に居あわせた僧侶はその上人の説かれるところに強く共鳴し感激して、主催者であった顕真(けんしん)自らが立ち上がり、高声念仏しながら堂内を行道(歩いて回る)し、それにならってそこにいた多くの僧侶が念仏を称えてそれに従い、三日三夜その念仏の声が山谷にひびき、それがご縁で、その後、上人に従ったものが多かったと伝えられています。この大原談義は法然上人にとっても、当時の仏教界にとっても画期的な出来事でした。

       

 

 

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2010年5月

 法然上人(ほうねんしょうにん)とその念仏往生(ねんぶつおうじょう)の教えが、当時の仏教界に大きな反響を与え、多くの念仏者が生まれたのは、後世「大原談義」(おおはらだんぎ)と呼ばれる、比叡山の学僧たちとの教学論争(きょうがくろんそう)の結果であったことを前回述べましたが、それ以上に法然上人の名声と吉水(よしみず)教団の存在を多くの人々に知らしめることになったのは、当時の関白・九条兼実(くじょうかねざね)公の法然上人に対する深い帰依(きえ)でした。法然上人が五十七歳、兼実公が四十一歳の時、兼実公はみずから上人を邸にまねいて法を聞き、戒を受け、念仏に励むようになりました。それ以来、兼実公は生涯念仏行者として生き、その晩年には上人を戒師(かいし)として出家しました。そのことは、やがて多くの貴族が法然上人の教えに帰依するきっかけとなり、遂には、後鳥羽(ごとば)天皇の中宮が上人を戒師として受戒(じゅかい)されるなど、朝廷までも招かれ念仏をすすめられるようになりました。しかし、当時、法然上人のように、比叡山では「智慧第一の法然坊」と言われるほどの学匠(がくしょう)でありながら、敢えて叡山における栄達の道を振り切り、「聖」(ひじり)として学行を重ねられ、比叡山を捨てられてからは、教団を離れた一介の念仏者として民衆の中で生きておられる人ですから、まさに、無位・無官の黒衣(こくえ)の僧侶に過ぎない人で、その方が、宮中に参内(さんだい)するというようなことは、嘗てあり得ないことでした。貴族社会の中から非難の声もあったと伝えられています。しかし、法然上人にとってみれば、貴族であれ、帝(みかど)であれ、阿弥陀如来の大悲の前には、ともに斉(ひと)しく苦悩の凡夫であり、ともに浄土往生を願う同朋として、接しられたので、いわゆるの栄達(えいたつ)を求められたのでないことはいうまでもありません。然し、このことは当時の宗教界における法然上人及び吉水教団の地位を高めることになり、嘗て比叡山や奈良の諸寺で学行に励んでいた僧侶は勿論、社会各層の貴賎(きせん)・男女が法然上人を慕って吉水に集まることになりました。

 しかし、ここで法然上人を考えるとき決して忘れてならないことは、上人は叡山を下り民衆の中で生きられましたが、その生活のありようは、決して民衆と同じではありませんでした、それは戒律を守って学行に励む、比叡山の生活そのもので、妻は娶(めと)らず、肉食(にくじき)はせず、一日に六万遍の念仏を励まれ、一日として聖教(しょうぎょう)を読まれぬ日はなかったと伝えられています。上人は比叡山における自力聖道(じりきしょうどう)の学行は捨てられましたが、他力念仏行の実践と、浄土教々学の研鑽(けんさん)においては、叡山時代をしのぐ厳しい戒行堅固(かいじょうけんご)の日々を過ごされながら、多くの人々に念仏の教えを伝えられましたから、人々に心から尊敬され、その念仏の教えは人々の真の依り所となりました。無位無官の法然上人が朝廷に参内されることに非難が起こったとき、九条兼実公が反論される根拠にそのことをあげ「近代の名僧たち、一切戒律(いっさいかいりつ)を知らず」ただ体裁(ていさい)だけを守っているに過ぎないではないか、それに対して法然上人こそが真の名僧であり、その念仏の教えこそが時代相応(じだいそうおう)の教えであり、真の仏教であると述べています。

 丁度この頃親鸞聖人は比叡山で天台宗の僧侶として学行に励んでおられます。やがて親鸞聖人が比叡山の仏教に行き詰まられ、比叡山を下りて吉水の法然上人に会い、その弟子になられるのが二十九歳のときですから、法然上人は六十九歳でした。それは、こうして隆盛を極めた吉水教団に危機感をもった奈良の諸寺や、比叡山が色々と難題を持ちかけて、その圧迫に動きはじめた頃でした。 

 

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年7月

 法然上人が比叡山を下りて京都で人々に念仏を勧められるようになられた少し前、親鸞聖人は承安(じょうあん)三年(一一七三)同じ京都の洛南、日野の里で藤原有範(ありのり)というお公家さんの長男として生まれられました。そこは現在で言いますと、京都市の東の辺にある山科を南に向かって進みますと豊臣秀吉で有名な「醍醐の桜」の醍醐寺があり、それを少し下がった所に日野の里があります。そこに阿弥陀堂(国宝)で有名な法界寺(ほうかいじ)があり、それが日野家の氏寺で、その寺のそばに聖人の誕生院があります。

 聖人の家系は藤原鎌足(かまたり)以来長い間朝廷に仕え政治の中心で権力をふるった藤原氏の一末流で、日野の里に居住したため日野家とも名乗っていました。お父さんは皇太后宮の大進(たいしん)という、それほど目立たない地位の公家であったようですが、もともとこの日野家の一族は政治家としてよりも、文章博士(もんじゅうはくし)や大学頭(だいがくのかみ)など学問や和歌で優れた人の多く出た一族でした。また宗教心が篤(あつ)く、氏寺の法界寺は聖人の先祖で日野資業(すけなり)という人が建立したものですが、阿弥陀堂で有名です。阿弥陀堂といえば日野から更に南に下がった、宇治の平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)の方が一番有名ですが、法界寺の阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来像は平等院の本尊と同じ有名な平安中期の仏師定朝(ぶっしじょうちょう)の作といわれ、どちらも国宝です。     

 お母さんは源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であったと伝えられています。一見こうして恵まれた家庭に生まれ育った聖人が九歳で出家されます。それが何故なのか其の事情はよく分かりません。しかし、聖人の出家からそれほど遠くない時期に、相前後して、父有範もまた弟の尋有(じんゆう)・兼有(けんゆう)も出家していますから、この頃一家に何か不幸な事件が起こったに違いないと思われます。また聖人が八歳の時、お母さんは病気で亡くなられたとも伝えられています。

 聖人は九歳の春、お父さんの長兄、伯父さんの藤原範綱(のりつな)公に伴われて東山の青蓮院に行き、慈鎮和尚(じちんかしょう・慈円)によって得度(とくど)を受け出家されました。伯父さんの範綱という人は後白河法皇に親しく仕えていた人であり、慈円という人は法然上人に深く帰依した関白藤原兼実(かねざね)公の弟で、比叡山僧侶の最高位である天台座主(てんだいざしゅ)に前後四回もなったほどの人ですから、伯父さんの範綱公はこの幼い聖人の将来を、この慈円師に預けられたのでありましょう。その時聖人が慈円師に示されたという有名な和歌が伝えられています。

 

明日ありと 思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかわ

 

 こうして聖人自身の選びに先立って、聖人をうながす事情があったのでありましょうが、聖人はそれを仏縁として、出家への道を踏み出されたのであります。