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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2011年5月

親鸞聖人は二十九歳の春、京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう)をされ、その九十五日目の暁、夢のなかで六角堂の本尊、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の「お告げ」を受けられたと伝えられています。観世音菩薩が蓮華の台座に座り、白い衣に白い袈裟(けさ)を着けた美しいお坊さんの姿で聖人の枕元に現れ、「行者(ぎょうじゃ)宿報(しゅくほう)にてたとい女犯(にょぼん)すとも、我玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯(ほん)せられん。一生の間能(よ)く荘厳(しょうごん)して、臨終(りんじゅう)に引導(いんどう)して極楽(ごくらく)に生ぜしむ」と告げられ、更に言葉をついで「これはこれわが誓願(せいがん)なり。善信(ぜんしん)この誓願の旨趣(ししゅ)を宣説(せんぜつ)して、一切群生(いっさいぐんじょう)にきかしむべし」と告げられたと言われています。聖人はこの観世音の夢の告げによって二十年にわたる比叡山での修業を捨て、吉水の法然上人のところに赴き、その弟子となって生涯念仏行者として生きられることになりました。この夢告は聖人にとってそれほど大切な意味をもったものでした。

そこで観世音は聖人に「行者よ」と呼びかけられます。そして「宿報にて」というのは、その人の善悪の意志さえ越えた宿世(しゅくせ)の因縁ということで、女犯の犯は「おかす」ということです。当時比叡山の出家仏教では二百五十戒という厳しい戒律(かいりつ)が定められ、その中でも女性との関係が最も厳しく禁じられ、それを犯せば直ちに山を追放されました。比叡山は長く女人禁制(にょにんきんせい)の聖地でした。「女犯」というのはそれを犯す。戒律を破って結婚するということです。観世音は聖人に告げられます。「行者よ、仮令(たとえ)お前が宿世の約束によってある女性と結婚することがあるならば、観世音の私が玉の女となって、そのお前の配偶者となりましょう。そして、一生お前のそばでお前を助け導き、やがて、お前がその人生を終えるとき、その長い人生における全ての出来事が、真の帰依処(きえしょ)である阿弥陀仏の浄土に生まれる為のご縁であったといただける信心を確立させましょう」と誓われ、そうすることが観世音である私の誓願で、それはお前一人のことではなく、観世音である私は全ての人にその功徳(くどく)を与えるために存在しているのですから、その観世音の誓願を多くの人々に伝えなさい、と告げてその姿を消しましたが、聖人はなお夢の中で六角堂の外縁(そとえん)に出ます。そして遥かに東山の山々に集まっている人々に向って、今観世音から告げられたその誓いについて大声で熱心に語っているところで夢から覚めたと伝えられています。そこで玉女(ぎょくにょ)といわれているのは「掛け替えのない貴い女」ということで、一時「私の選んだひと」と言う言葉がはやったことがありますが、そうではなく人間の知恵や考えを超えた、不思議な因縁ということでありましょう。遇わねばならぬものが出遇っている、絶対の出遇いということです。われわれは自分の都合のいい時は「いい人」と思いつつ、都合の悪いときは「あんな人」という思いに執(とら)われてしまいますが、その空しく悲しい凡夫の心に寄り添って、その世界に止(とど)まらしめたくない、浄土を願わせたいという観世音の誓願がはたらいていた人生ということへの目覚めを顕(あら)わしているのでしょう。阿弥陀如来といえば、どうしても、私たちから遥かに遠い、高いところにおられる仏様という感じがしますが、観世音菩薩はその阿弥陀如来の「使者」として、阿弥陀如来の心を伝えるために、私達の側まで降りて来て、私達を救ってくださる仏さまなのです。その観世音菩薩が私達の家族にまで姿をかえて私達を守り、私の人生が浄土往生の旅路(たびじ)であることを知らせようとなさっている。つまり、仏教は特別な出家だけの教えではなく、日々人生に迷い、苦悩している普通の人間を包んで真実の救いを与えようとするものであり、それをあらわす仏教が本願念仏(ほんがんねんぶつ)の仏教であった。そして、早くそのことに気付き、自ら南無阿弥陀仏に生き、多くの人々にそれを伝えておられる人が法然上人であったことに親鸞聖人は気付かれたのです。

聖人はこの夢告に導かれて法然上人の弟子となり、やがて結婚されて家族を持ち、普通の人間の生活を通して、この夢告(むこく)の意味を深められていきました。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2011年7月

親鸞聖人は六角堂(ろっかくどう)で受けられた観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の夢の「お告げ」に導かれて、その道を法然上人に尋ねようと吉水に向かわれました。そのときの聖人の姿を、後に奥様になられた恵信尼(えしんに)様は「後世(ごせ)のたすからんずる縁にあいまいらせんと、法然上人にあいまいらせて」と書かれ、そして聖人はそれから、六角堂に百日籠もられたと同じように、「降るにも照るにも、いかなる大事にもまいりて」百日の間吉水に通われたと書き残しておられます。法然上人との直接の対面は聖人が吉水に通われるようになって直ぐではなかったかもしれません。ともかく聖人が見られたその吉水教団は、あらゆる階層の人々に道心(どうしん)をよびおこし、これまで仏法とは無縁のものとされていた一般庶民の老若男女、そして僧侶や貴族・武士などが世間的な身分とか権威を捨てて、ひたすら法然上人のもとにつどい、その教えを聞き、法悦(ほうえつ)に浸り一つの念仏に和しているのでした。その中に初めて身を置かれて親鸞聖人は今まで経験されたことのない驚きと、ここにこそ真の仏教があったという深い感動を持たれたでありましょう。そして比叡山という特別な道場(どうじょう)で、特別な人間として、長い間学業を重ねながら、晴れぬ心を抱えて苦しんできた孤独な二十年が、根本から問い直されるような感覚をもたれたに違いありません。こうして法然上人が掲げられる念仏の仏教に初めて触れられました。やがて法然上人と直接お会いになり、親鸞聖人は今まで歩んでこられた道、そして、その中で解くことのできぬ疑問をもって苦悩されているそのすべてを、ありのままに投げ出し教えを請われたことでありましょう。しかし、そこで聖人の苦悩をお聞きくださる法然上人も、嘗(かつ)て全く同じ求道のご苦労を経て「念仏一つ」の仏道に光を見出された人であります。いったん対話がはじまれば、どちらも比叡山で本格的に教学(きょうがく)を学ばれた者同士ですから、おそらく仏教の専門用語を駆使しながら、掘り下げた対話が行われたに違いありません。機会あるごとに、体当たりの真剣さをもって問われ、同じ真剣さをもって語られるお二人の対話は、時として止まることをしらぬほどの厳しい中にも暖かいまことが交錯する場であったでありましょう。聖人はそうして法然上人から受けられた教えを一人深く思索され、「降るにも照るにも、いかなる大事にも」百日通われたという奥様の言葉にある真剣な時が流れたのです。そうして親鸞聖人は法然上人の数々の教えを「ただ念仏して弥陀(みだ)に助けられまいらすべし」という教えとして受け取られ、その教えの通り、たとえ「念仏して地獄に堕ちても後悔はない」という決着、決定的な体験を得られました。

時に建仁(けんにん)元年(1200)親鸞聖人二十九歳でありました。法然上人は六十九歳であられましたが、私は百日におよぶ親鸞聖人の燃えるような求道の問いによく応え、その信念を語り続けられた法然上人の親心に感嘆させられるとともに、真実の信心の世界はこのようにして、はじめて継承されて行くのであろうことを感じ、改めて深い感動を禁じ得ません。

 こうして法然上人のもと、念仏の行者となられた親鸞聖人は再び比叡山に帰られることはありませんでした。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2011年9月

親鸞聖人は二十九歳の春、二十年にわたる比叡山の修学(しゅうがく)を捨て、京都の吉水で念仏の教えを勧めておられた法然上人のお弟子になられます。それ以来聖人は、その晩年「『ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし』という法然上人の仰せをいただき、それを信ずるほかに別の仔細(しさい)はないのだ」とその弟子に述懐(じゅっかい)された通り「念仏ひとすじ」のご生涯をおくられましたが、親鸞聖人に「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と教えられた法然上人の教えはどのようなものであったのか、ここで少しいただきなおしてみたいと思います。

法然上人の教えについては今までも「専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教え」、ということで申しあげてきましたが、専修念仏とは、それは文字通りひたすら阿弥陀仏の本願を信じ、専(もっぱ)ら念仏を修して、阿弥陀仏の浄土に往生することを願えと勧められる教えであります。それは、その他の戒律(かいりつ)を守り学問をおさめ、苦行を修して、生きながらにしてこの世で仏になる悟りを求めようとしたり、悪行を止め、数々の善根(ぜんこん)を積んで、その功徳(くどく)で救われようとしたりすることを一切止めて、ただひたすら阿弥陀如来の本願を信じ念仏申せというお勧めでした。

ではその本願念仏とはいかなることしょうか。その根拠はお釈迦さまが説かれた浄土三部経(じょうどさんぶきょう)、特に大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)の教えにあります。昔、阿弥陀仏がまだ仏になる前、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と言う名前の修業僧であったとき、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏のもとで、仏になるための修業をされ、その時法蔵菩薩は、自分が仏になった暁には、すべての仏の国土よりすぐれた国土を建設したいと願い、四十八の誓いをおこし、もしその誓いのすべてが実現しないなら、自分は仏にならないと決意される。そして、極めて長い年月の修業の結果、法蔵菩薩はついに仏となり、阿弥陀仏と名乗り、現に今、西方極楽世界(さいほうごくらくせかい)で説法しておられるとお釈迦様は説いておられる。そして、その法蔵菩薩の誓いの中心は「もし衆生が、自分の国に生まれたいと願って、我が名を呼べば、その衆生がいかなる人間であっても、必ず自分の国に迎えとって仏にする」という誓いであり、法然上人が人々に念仏申すことを勧められる本願念仏というのは、この誓いに基づく念仏でした。そしてこの阿弥陀如来の本願は出家・在家・男子・女人を選ばれない、又この世の価値の一切に左右されることはない、善人であろうが悪人であろうが、金持ちであろうが貧しい者であろうが、修業をつんだ人であろうが破戒(はかい)の人であろうが、そのことが、本願念仏による浄土往生(じょうどおうじょう)を容易にしたり、逆に妨げる原因には決してならない。すべてを平等にお救いくださる大悲であるから、一切のはからいを捨てて一心に如来のまことにすがり、浄土往生を願うことの大切さを教えられ、人々に専修念仏を勧められました。そして当時仏教界を代表する大学者であった法然上人ご自身が、その学識(がくしき)をたのむ心を捨てて、ひたすら本願を信じ、一日に六万遍も念仏を称(とな)えられたと伝えられています。

この法然上人の教えは、当時の全ての人々に非常に大きな影響を与えました。この教えにあった人々は、如来は貴賎(きせん)・貧富(ひんぷ)を問わず、全ての人間はみな心貧しき凡夫であり、この世にある限りあらゆる苦悩を免れることが出来ぬ存在であることを見抜いて本願を立て、念仏申させて浄土に迎えとって仏にしたいと願われたのであった。そして、それはこの世の現前(げんぜん)の事実であることに気付かされ、その人々が法然上人のもとに集うて念仏して浄土往生を願い、その輪が次第に広がって吉水教団になりました。その教えによって親鸞聖人は人々と共に一人の凡夫として専修念仏の行者になられたのであります。