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浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2011年9月
親鸞聖人は二十九歳の時、比叡山の学問と修業の一切を捨て、法然上人の教えられる専修念仏(せんじゅねんぶつ)の行者として生きられることになりました。当時、法然上人の念仏の教えはあらゆる階層の人々に道心(どうしん・教えによって救われたいという心)を呼び起こし、これまでは仏法とは無縁なものとされていた一般の庶民をはじめ、貴族や武士、僧侶などあらゆる人々が、法然上人のもとにつどい、ともに一つの念仏に和していきました。そうした多くの人々の中で特に私は熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)という人を思いだしています。この人はその名が示す通り、関東熊谷(埼玉県)出身の武将で、源頼朝(よりとも)に仕えて勇名を馳せた人です。その熊谷が源平合戦の最中、一の谷の合戦で平家の公達(きんだち)、平敦盛(あつもり)を討ち取らねばならなかった無惨な運命に対する反省が動機となって、出家し法然上人のお弟子になったということで有名な人です。
このことは「平家物語」に詳しく、それが浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)に作られて多くの人々の心に印象強く残りました。一の谷の合戦で厳しい源氏の攻撃に敗れた平家の軍勢が、挙って船に乗り屋島(やしま)に逃れます。その時逃げ遅れた敦盛を熊谷が討ち取るのですが、組み伏せてまだ幼さを残した少年の敦盛を見てさすがの熊谷も不憫(ふびん)を感じます。さりとて、味方も見ている中で逃がすわけにもゆかず、泣きながら敦盛の首をあげますが、そのとき熊谷は故郷に残している同じ年頃の息子を思い出していたというのです。その時敦盛は十五歳でした。
熊谷直実といえば勇猛果敢な荒武者として、誰一人知らぬ者もない武将です。敵の首を討ち取ることは武士の誉(ほま)れでこそあれ、それを罪深い行為などと思ったことなど一度も無かった筈なのです。その熊谷がこの事件を境にして、ひたすら人を殺傷(さっしょう)して生きてきたその生き様と、その罪の重さに、大きな驚きと深い悲しみを持ちました。やがて平家は滅び凱旋(がいせん)して鎌倉に帰りますが、平家追討の総大将であった源義経(よしつね)は兄頼朝に追われて奥州で自殺させられます。そして頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって、鎌倉に幕府を開くのですが、直実には生死を共にした義経への思い、また頼朝に対する不信もあったのでしょうが、真っ直ぐな性格の彼にはこうした政治的駆け引きで動き始めた武士社会に耐えられなくなったのだと思われます。長い悩みのすえ、一大決心をして、彼はすべてを投げ打って、高名な法然上人の教えに救いを求めました。直実は鎌倉幕府の御家人(ごけにん)で名声も高く、熊谷には彼の領地もあり、一族郎党がいる武将です。彼の決心は生易しいものではありませんでした。
人を介してようやく法然上人にお会いでき、そこで直実が「自分は戦場で多くの人を殺傷し、深い罪を重ねてきました。これほど極悪の身でも救われることができるでしょうか」と必死で尋ねたとき、それに答えて.法然上人が「罪の軽重(けいじゅう)はいわない。ただ念仏すればすべての人は救われる。念仏によって救われることを信じて疑わなければ、かならず往生(おうじょう)する」と教えられました。それを聞いて直実はその場に身を投げて泣いたといわれます。その時彼は「自分のような罪の深い者は、手足を断ち切り、命をすてねば救われないものと考えていた。それが唯念仏申せば往生するぞと聞かされて、余りの嬉しさに泣けてしまいました」と涙にむせび、あとは言葉にならない有様であったと言います。
彼は出家して蓮生房(れんしょうぼう)という法名をいただきます。ただ武士ですから仏教の学問は何一つ知らない者ですが、ただ上人の教えの通り、念仏一つに生き切る彼の真っ直ぐな姿を法然上人は非常に愛されたといわれています。親鸞聖人が吉水に入室されたのはそれから八年後になります。
彼についてはこういう伝説が残っています。彼は阿弥陀仏の浄土は西方にあると教えられ、常日ごろでも決して西に尻を向けないようにしていたというのです。ところが彼の老母が病気になり、その見舞いの為に関東熊谷に帰らなければならなくなった。京都から関東に帰るには、顔は東に向き尻は西に向かざるを得ません。そこで彼は馬の鞍を逆におかせて、自分も逆に乗り。尻を東に向かせ、馬子(まご)に馬を引かせてゆうゆうと下って行ったといいます。
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浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2012年1月
親鸞聖人が比叡山を下り、吉水の法然上人のもとで、前回紹介しました熊谷直実(くまがいじろうなおざね)に代表されるような、あらゆる人々と共に、念仏一つに生きる行者(ぎょうじゃ)となられたのは二十九歳の時であります。それから後に「承元の法難」(じょうげんのほうなん)と呼ばれている、奈良の諸寺・比叡山など既成仏教教団による専修念仏(せんじゅねんぶつ)への弾圧により、流罪になられる三十五歳までの足掛け七年が、親鸞聖人の吉水時代であります。この七年間は心から信頼できる師のもと、同じ浄土往生(じょうどおうじょう)という志を一つにした同朋(どうぼう)と共に生きた、親鸞聖人の生涯で最も充実した幸せな時であったとも言えましょう。
その時代聖人にとって最も重大な出来事が、法然上人の主著「選択本願念仏集」(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)の書写(しょしゃ)を上人から許されたことと、いま一つは上人の肖像を写すことを許されたことでした。このことの喜びを、聖人は後年特に深い感動を持って書きしるしておられます。法然上人のお書きになった書物は数多くあるのですが、その中で最も大切な書物が「選択本願念仏集」という書物で、これは、関白・九条兼実(くじょうかねざね)という人のたっての要請によって書かれた書物だと伝えられているものです。九条兼実という人は、関白という天皇を補佐し、政治の一切を取り仕切る重職にありながら、早くから法然上人に深く帰依(きえ)し、その晩年、政界引退後は、特に上人の導きにより念仏の信仰を深め、遂に出家されたほどの人です。ただ法然上人はこの書物を兼実公に渡された時「これをお読みになった後は、壁に塗りこんでください」と言われたと伝えられています。
つまり、ここに書いている内容は「末法(まっぽう)の時代における我々凡夫(ぼんぶ)の救われる道は、ただひたすら阿弥陀如来の本願を信じ、専(もっぱ)ら念仏申して浄土往生を願う浄土教あるのみである。念仏以外の全ての仏道(菩提心(ぼだいしん)をおこし、もろもろの善行(ぜんぎょう)をおさめて、この身に仏の悟りを得ようとする道)はもはや間に合わぬ。そして、この念仏の仏道は老少善悪(ろうしょうぜんまく)の人を選ばれない広大な仏道である。」ということを述べているのであるから、これが公(おおやけ)になれば、必ず既成教団から念仏教団に対しての非難攻撃が強くなり、折角(せっかく)念仏を喜んでおられる多くの人々の障害になるに違いないという、法然上人の深い配慮があられたのでありましょう。
そこでこの書物は法然上人の生存中は公にされず、すぐれた高弟の中でも、上人に許されてこれを書写させてもらった人は、ほんのわずかで、数えるほどしか居なかったと伝えられているのです。しかし、そのことを最晩年の弟子であり、入門してわずか四年しかなられぬ親鸞聖人が特に許され、更に親鸞聖人が書写されたものに、法然上人自ら筆をとって、表紙の次のページに「選択本願念仏集」と内題(ないだい)の字を書かれ、さらに「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本」(往生の業は、念仏をもって本となす)と書き、次に書写した親鸞聖人の当時の名前である「釈の綽空」(しゃくのしゃっくう)と書いてくださったと、その時の美しい師弟の感応(かんのう)の情景を、聖人は「悲喜の涙を抑て由来(ゆらい)の縁を註(しる)す」と記しておられます。このことを聖人は非常に感謝されるとともに、この法然上人の期待にこたえ、上人の教えられる念仏の仏教を如何(いか)にしても後世に伝えねばならぬという、強い使命を感じられたのであります。そして、それ以後の親鸞聖人の御一生は、その法然上人の肖像のお姿を常に拝しながら、わが身に課せられた使命を果たすためのご苦労でありました。
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浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2012年3月
親鸞聖人が比叡山を下り、吉水教団に入られて念仏行者になられたのは二十九歳の時であります。その時、法然上人はすでに六十九歳で、正に円熟の極に達しておられました。親鸞聖人は法然上人によって念仏行者になられた時の感動を後に「たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に堕ちたとしても後悔はない」という気持ちであったと、その晩年お弟子に語っておられます。それほど深い信頼をもって聖人は法然上人に帰依されたのであります。その聖人の吉水時代に次のような出来事があったことを、聖人の物語として弟子の唯円坊が著した「歎異抄」(たんにしょう)が伝えています。
ある時、聖人がまだ善信坊(ぜんしんぼう)と名乗っておられた頃、自分よりはるか先輩であり、また法然上人の上足(じょうそく)の弟子でもある同朋の前で、聖人が「善信の信心も、法然上人のご信心も一つだ」と言われたことがあり、それを聞いた「勢観房(せいかんぼう)、念仏房(ねんぶつぼう)なんどもうす御同朋たち、もってのほかにあらそいたまいて、『いかでか上人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ』とそうらいしかば」とありますから、とんでもないことを言う奴だ、あの尊い法然上人の御信心(ごしんじん)と、この頃来たばかりの若輩の善信の信心が一つだと言うとは、思い上がりも甚だしいと非難したのでありましょう。ところがその非難に対して聖人は、「あの法然上人の学識やそのお徳と、この善信房の学問や人格が同じというのであれば、それはとんでもない言い草でありましょう。然し私が言っていることは『往生(おうじょう)の信心』においては、全く異なることはない。一つだ。と言っているのです。」と反論なさったけれども納得してもらえず、結局法然上人のお部屋に行って、そのいきさつを申し上げたところ、それをお聞きになった法然上人が「源空(げんくう・法然上人の法名)の信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおっしゃったと歎異抄は伝えています。ここで「往生の信心は如来よりたまわりたる信心」とおっしゃったことに注意させられます。
私達が仏を信ずるというときには、必ず自分の考えや、思いで想像した仏を向こうにおいて、それを自分の心で信じているので、仏そのものに出会っていない信心でしょう。そのような信心はその人の人格や学問の有る無しによって信心の浅さ、深さが違うわけです。つまり長い間学問を重ね、円熟した人格者である法然上人の信心と、まだ若輩の善信の信心が同じであるはずはないという先輩の考えはよく了解できます。然しもしそうであるなら、出家・在家(しゅっけ・ざいけ)を選ばない、いかなる罪人も如来を信ずる者は必ず救われるといわれる、法然上人の教えに大きな矛盾が生まれます。法然上人の念仏の教えはそうではなく、いかなる者も、一切の人間の計らいを捨てて、一人の愚かな凡夫(ぼんぶ)として、如来の仰せのままに、ただひたすら念仏する信心です。それは全ての凡夫に念仏申させて救いたいと願われる如来の「まこと」がその凡夫に届いた姿なのです。それを法然上人は如来よりたまわった信心だとおっしゃるのです。
勢観房源智(せいかんぼうげんち)という人は平清盛のひ孫に当たる人で、世が世であれば「平家の公達」でしたが、平家滅亡の後、法然上人の弟子として念仏に生きた人で、晩年の上人によく仕え、法然上人の遺言状ともいえる「一枚起請文」はこの勢観房にあてて書かれたもので、京都・百万遍の知恩寺はこの人によって開かれました。又念仏房は、嵯峨の往生院を開いた人で、もと比叡山の学僧(がくそう)で親鸞聖人と同じように比叡山浄土教の流れの中で、念仏の修業に励んだ人でした。法然上人が糾弾された「大原問答」(おおはらもんどう)に参加した人ですが、その後法然上人に深く帰依(きえ)して、吉水教団の中心にいた人です。二人とも親鸞聖人の大先輩で、だからこそ法然上人を「生きた仏様」のように尊敬しておられたのでしょう。その気持ちは親鸞聖人も同じなのです。然し浄土往生(じょうどおうじょう)の一大事(いちだいじ)は法然上人の力で果たされるのではなく、如来の願力においてのみ果たされる道なのです。