27
浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2013年1月
承元(じょうげん)の法難による親鸞聖人の流罪地は越後国、国府(こくふ)であったと伝えられています。それは現在の新潟県上越市にあたります。法然上人は四国に、親鸞聖人は北国の越後へと、師弟は別れ別れに流罪になりました。親鸞聖人にとって本当に心から信じ、お慕いできるお師匠さまにお会いでき、生涯お仕えしたいと考えておられたにもかかわらず、それがこんなかたちで別れねばならぬ事を何よりも悲しんでおられたでありましょう。しかし、お師匠さまもまだお元気で、この流罪もそのうち許されて、いつかはきっと又お会いできる、しばしの別れだという思いをもたれて聖人は越後に旅立たれたに違いありません。しかし、現実にはその後お二人はついにふたたび会いあうときをもつことなく終わられることになります。
親鸞聖人が越後に流されて五年、建暦(けんりゃく)元年聖人三十九歳の十一月、法然上人と共に赦免をうけられます。その時法然上人は摂津(せっつ・大阪府)勝尾寺で念仏の教えを縁ある人々に伝えておられましたが、お年は七十九歳になられ、老衰のため視力・聴力は勿論、すべてにおいて衰えが強く現れておられました。然し上人は罪を許され、なつかしい京都大谷の地にお帰りになります。弟子たちが喜んで集まってきましたが、明けて建暦二年正月二十五日に人々に見守られながら、八十歳で念仏の生涯を閉じられるのです。
親鸞聖人がその悲報を何時どのようにして受け取られたかは分かりません。現在のように電信の発達した時代ではありません。しかし、そのことをお知りになったとしても、現在の上越市は旧高田市で、日本でも代表的な豪雪地帯です。又目の前は波頭逆巻く冬の日本海であってみれば、雪解けの春をまって何百キロ隔たった京都に帰るとしても決して容易な事ではありませんが、然しそうして帰ってみても、あのお慕いした懐かしい法然上人はもういらっしゃいません。流罪が許されても、親鸞聖人は遂に京都に帰って行かれませんでした。
もともと親鸞聖人は京都で生まれ、比叡山で二十年過ごされ、法然上人に会われたのも京都ですから、本当の「いなか」を知らない「みやこびと」でした。その聖人が流罪という因縁で北国の越後に来られ、目にされた現実はどのようなものだったでしょうか。本山出版のテキスト「宗祖親鸞聖人」には「そこで出会われたものは、辺地の荒涼とした自然であり、富や権力などとはまったく無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人々のすがたであった。そこには、善根(ぜんごん)を積むことはおろか、生きのびるためにはたとえ悪事とされていることでも、あえて行わなければならない悲しさをかかえた人々の生活があった」と述べています。聖人にとってこの厳しい環境と、其処で生きている人々の生活は、今まで接したことのない、また想像することさえできなかったものでしたでしょう。法然上人の厳しいお姿に触発されて「この流罪によって辺鄙(へんぴ)の人々に念仏を伝えるご縁がひらかれる」とある意味で気負ってこの越後に来られたのですが、しばらくは其の現実の前に立ちすくまれたであろう聖人を想像するのです。然しやがて人々の中に次第に溶け込み、それらの人々とともに平生の生活の中で、本願念仏の仏法を語り合う関係が出来上がっていったのでありましょう。それには聖人が其の地方の豪族である三善為教(みよしためのり)の娘であった恵信尼(えしんに)さまと結婚され、幾人かのお子さんが出来られたということが、大きな因縁になられたと思います。聖人は自ら愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)と名乗り、肉食妻帯(にくじきさいたい)の一生活者として生きていかれたのです。
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浄土真宗の歴史
紙面掲載年月:2013年3月
流罪人として越後に流された親鸞聖人の生活がどのようなものであったか、聖人が其のことについて書き残されたものは何一つありません。ただ延喜式(えんぎしき)という当時の法律書によると、流人の生活は、日に米一升(ます・当時の升の容量は現在と異なる)塩一勺(しゃく)が給与されました。然し翌年の春には種籾(たねもみ)が与えられ、その年の秋には米の給付は停止されましたから、流罪の翌年の春からその種籾を田んぼに植え、秋の収穫をまって一切の給付が停止されたのです。聖人は京都の貴族の子として生まれ、九歳から比叡山で二十年修行僧として過ごされ、二十九歳で法然上人の教団に入られてからも、日々経典に親しむような生活をされていたのです。それが、にわかに越後に流人として流されたのですから、およそ農業とか労働とか縁のない生活をされていた人です。越後では一体どうゆう生活が聖人に始まったのか思いやられるのです。田圃は公田(こうでん)のようなものが給付されたでしょうが、そこで周囲のお百姓さんや、役所のそれを指導する係りの人の手を借りて、自ら鍬を取って耕し、苗を植え、草を取り、その手入れをされたであろう聖人の姿を私は想像するのです。
その時私はその与えられた境遇を嘆いたり、愚痴を言うことはなく、周囲の人々と親しく言葉を交わしつつ、時には色々注意されながら、次第にその生活に慣れて行かれたのでしょうが、何といっても今までとは全く違う、体をはって大地と取り組む生活です。一日の仕事をすませて部屋に帰られたとき、疲労と孤独のために、そのままそこに身を投げ出してあえいでおられる聖人の姿を思います。そこでは今まで積み上げてきた仏教の学問も知識も何一つ間に合わぬ、真っ裸の人間の姿です。毎日欠かされたことのない聖典に親しまれたことも、疲労の為にとても手に付かぬこともあったに違いありません。しかし、その中で、すべての人がそのありのままの生活の中で、念仏申して如来の大悲に救われてゆく仏法という法然上人の教えを、その救われねばならない人間の一人としていただいてゆく生活が始まったのであろうと思います。
聖人は朝廷の命令によって、僧侶としての名前を奪われ、俗人藤井善信(ひじいよしざね)として流されましたが、聖人はその名を拒否され、自ら「禿」の字をもって姓とされました。それに愚の字を冠して愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)と名乗られたことが、その主著「教行信証」という書物に書かれています。「禿」という文字の意味は経典に「かたちは出家の姿をしているが、戒律を守らず、衣食のために頭をそった出家」とあります。聖人は自らその禿の字を名乗りつつ、然し、形はそうであるが、単なる俗人でない、本願念仏の仏法を信じて生きる念仏行者(ぎょうじゃ)である仏者、釈親鸞(しゃくしんらん)であるとおっしゃるのです。
「釈」は釈迦(しゃか)の仏弟子(ぶつでし)という意味です。そして「すでに僧に非(あら)ず、俗に非(あら)ず」と言われます。僧の位は奪われたのですから俗人です。政府はそういっているのです。然し聖人は「俗に非(あら)ず」と敢えて言われ、自らを釈親鸞、真の仏弟子とおっしゃっています。やがて聖人は恵信尼(えしんに)様と結婚され、家庭をもたれます。こうして聖人は肉食妻帯(にくじきさいたい)をされず、一日に六万遍もの念仏を励まれた清僧法然上人とは全く違う生き方の中で、本願念仏の教えによって救われるとはどういうことかということを、身をもって体験され証明されていきました。そこに浄土真宗(じょうどしんしゅう)という教えが生まれてきたのです。
浄土真宗の歴史
29
紙面掲載年月:2013年5月
越後に流罪となられた親鸞聖人は、自ら愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)と名乗り妻子をもった一念仏者として生き始められます。しかし、もともと仏教の教えから言えば、僧侶が妻子を持つということは、許されぬことでした。お釈迦様が二十九歳の時妻子を捨てて出家され、三十五歳で「仏の悟」を開かれますが、八十歳で亡くなられるまで二度と家庭には帰られず、一生出家の姿で人々に教えを説かれました。その悟られた世界は広大な智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の世界で、出家・在家を問わず多くの人々に救いを与えられました。然し、お釈迦さまが亡くなられた後、そのお釈迦様の悟りの世界を求める仏弟子は、やはりお釈迦様と同じように出家し、苦行を重ねてはじめて到達することの出来る世界であると考え、多くの出家者が学問と苦行(くぎょう)を重ね、多くの宗派も生まれ、永い仏教の歴史がつくられました。
然しその伝統の中で日本に法然上人という方が出られ、お釈迦様の教えには「阿弥陀如来の本願を信じ念仏申してその浄土(じょうど)に往生(おうじょう)して仏になる」という教えがあり、その道は出家・在家・男子・女人の隔てはなく、また人間の犯したどんな罪も、その如来の本願の前には障りにはならない。ただ罪業(ざいごう)深き凡夫(ぼんぶ)の身において、十方衆生(じっぽうしゅじょう)と呼びかけられる如来の本願のまことを信じ、念仏申して浄土往生を願えば、その本願の働きによって全てのものが、共に救われてゆく道であり、それこそがお釈迦様の出世本懐(しゅっせほんがい、本心)の教えであることに気付かれ、法然上人自ら罪業深き凡夫の身としてその本願を信じ念仏申す身となられ、そのことを人々に説かれました。その教えが親鸞聖人のような出家や、貴族や武士、一般庶民にいたるまで、多くの念仏者を生み出したことは今まで度々申し上げてきた通りです。然し、その法然上人自身は比叡山を下りられてからも肉食・妻帯(にくじき・さいたい)はされず比叡山時代の修行は捨てられましたが一日六万遍の念仏を励まれ、一日として聖教に目を通されない日は無かったと伝えられています。そして、参詣した多くの人々に法を説き、書物や手紙などを書かれて指導されました。つまり、比叡山の出家も及ばない、厳しく、多忙な生活をされていたのです。だからこそ多くの人々に非常に尊ばれ、念仏の教えが弘まりました。 親鸞聖人は比叡山を下り、法然上人に遇われて念仏者になられました。そして、日夜お側で法然上人のお姿に接し、僧侶である念仏者の理想の姿をそこに見られたに違いありません。
然しそれに反し親鸞聖人は結婚されました。そして、そこで初めて経験する日々の生活の中で妻子と共にその宿業(しゅくごう)を果たしながら、念仏して生きて行く仏道の実践という、かつてないある意味では非常に厳しい道を歩みだされました。親鸞聖人の愚禿(ぐとく)と名乗られる「愚」という言葉には、結婚生活を通して、そうしてしか生きることの出来ないわが身という「いたみ」が表白されているように感じます。それとともに、そのままが大悲の中につつまれていたという深い感動が感じられます。
これは余談ですが、法然上人亡きあと、その教団を引き継がれた浄土宗の僧侶は結婚されず出家の姿で、木魚をたたいて多念仏を励まれました。法然上人のお姿のままを通されていました。
浄土真宗の歴史
30
紙面掲載年月:2013年7月
越後に流罪となられた親鸞聖人が妻子をもった一念仏者として生きられたことは今までも度々申し上げましたが、奥様の恵信尼(えしんに)さまはその越後の豪族、三善為則(みよしためのり)という人の娘さんであったと伝えられています。そして「大谷一流系図」によりますと、お二人の間には三男三女、六人のお子様がおられたことを伝えています。それによりますと、聖人の越後時代に二男一女の三人、罪が許され四十二歳の時、聖人は家族と共に関東に移住され、約二十年の間多くの人々に念仏の教えを伝えられるのですが、その時代に一男二女の三人のお子様がいらっしゃいました。
恵信尼さまの父君、三善為則という人は、聖人が流罪になられたその前年まで、越後介(えちごのすけ)であったといわれています。介というのは長官を補佐する次官にあたりますが、長官は現在でいえば県知事にあたる人で京都のお公家さんが任命されるのです。然しほとんどはその任地の越後には来ないで、実際の仕事は越後介、副知事にあたる三善為則が行っていたのです。それが当時のしきたりであったようです。恵信尼さまはそうした家の娘さんでした。その恵信尼さまと親鸞聖人との結婚は、子供さんのことなどを考え合わすと、聖人が流罪になられてから、余り年月を経ない頃であろうと考えられています。お二人の間にどのような因縁があられたかは知る由もありません。しかし、恵信尼さまは当時の鄙(ひな)育ちには希な教養の高い宗教心の厚い女性でした。これから色々な場面でそのことをお話いたしますが、現在では実はこの方は都育ちの方ではなかったかという学者がおられるほどです。
ところで、当時例えば都のお公家さんが流罪になったような場合、妻妾(さいしょう)がある場合はそれを伴うのが「決まり」であったといわれます。ですから流人が流刑地で結婚など出来ないというようなことではなかったようです。もともとその土地の指導者であった三善為則にしてみれば、親鸞聖人は僧侶ですからその意志がなければ別ですが、親鸞聖人の出自は京都の公家の出身で家柄もよく、また善人悪人、出家在家を選ばない浄土の教えを信じておられる方であれば反対する理由はないわけです。そうすれば今まで労働をしたことのない親鸞聖人が、田圃(たんぼ)に出て汗水たらして苦労されなくとも、あらゆる面において援助が出来るわけです。まだ罪が許されるまでは、すべて自由ということは出来なくとも、この地方で念仏の教えを求めている人に、その教えを伝えてくだされば、そのほうが皆が救われるというようなことを為則は考えたかも知れません。これは全くの私の想像です。現在聖人の流刑地であった新潟県上越市に行きますと、聖人の流人としての住居(庵)跡といわれているものが二つあります。一つは聖人が流人として上陸されたと伝えられる「居多ヶ浜」(こたがはま)の直ぐ側に、当時越後国府(役所)がおかれていた五智国分寺(ごちこくぶんじ)という大きな寺院があり、その境内に「竹之内草庵」(たけのうちそうあん)跡があります。つまり、役所の屋敷内にその草庵があったことが分かります。ところがそこから市の中心部に入った所に現在、西本願寺国府別院という西本願寺直轄の大きな別院があり、その地が聖人が恵信尼さまと結婚され共に暮らされたと伝えられる「竹の前草庵」(たけのまえそうあん)跡と言われているのです。その別院の境内(けいだい)に「草庵跡」を示す石碑が立っています。それまでは、ただ流人として役人の目の届く所で定められた規則に随って生活しておられた聖人に、新しい道が開かれたことが感じられます。しかし、聖人にとってそれこそが妻子をもった一念仏者としての人生の始まりであったわけです。法然上人の教えをひたすら信じ、その道を歩み続けてこられた親鸞聖人の人生に、それだけでは包みきれない大きな課題が現れ、そこから親鸞聖人独自の信心の教え「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)が生まれてくる出発でもありました。
浄土真宗の歴史
31
紙面掲載年月:2013年9月
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は越後に流罪となり、やがてその地で恵信尼(えしんに)さまと結婚され、お子様もでき、妻子をもった一念仏者として生きられることになりました。聖人の流罪はその四年目即ち聖人三十九歳のときに許されます。しかし、聖人は京都にはお帰りにならず、やがて四十二歳の時、妻子と共に越後を発ち関東に移られるのですが、その間、越後での七年間をどのように過ごされたのかは何も分かっていません。
かつて越後を旅された哲学者の梅原猛(うめはらたけし)さんが『日本の霊性』という書物の中に「恵信尼は世間的なことを一切自己の身に引き受け、親鸞をして親鸞独自の浄土念仏の思想の展開とその布教に専心せしめた」と書かれているのですが、恵信尼様の献身的ご苦労はその通りであったでありましょうけれども、親鸞聖人自身の信仰において、この越後時代の体験が聖人にとって非常に大きな、むしろ決定的な意味を持つものであったことは間違いない事でありましょう。
それについて聖人は常日頃から「われはこれ賀古(かこ)の教信沙弥(きょうしんしゃみ)の定(とおり)なり」と言っておられたと伝えられていることが思い合わされます。それは平安時代に書かれた「往生拾因(おうじょうしょういん)」という書物に載っている往生人に「賀古の教信沙弥」という人があり、聖人はその人の生涯と自分の姿とを重ね合わせて教信沙弥を慕っておられたのでありましょう。賀古というのは地名で現在の兵庫県加古川だと言われています。そこに教信という名の沙弥がいた。沙弥というのは形は僧侶でありながら妻子を養い、生業についている者のことを言いましたが、教信は僧衣を捨て妻子を持ち、加古川の河原に粗末な小屋を建て、親子三人そこに住み、農家の下働きや、加古川渡しの船頭をして暮らしています。その小屋に仏壇はなく、西側の窓を広く開けて、ひたすら称名念仏をしたため、人々は敬愛の念をもって彼を「阿弥陀丸(あみだまる)」と呼んでいました。
ところで其の頃、勝尾寺(かつおじ・現在の大阪府箕面市)という寺に増賀(ぞうが)上人という住職があり、有名な学僧で熱心に学問と修行に励んでいましたが、なかなか決定的な確信が得られず苦しんでいました。ある日自室で瞑想にふけっている時、どこからともなく声がして「増賀よく聞け、私は賀古の教信だ。自分もかつて奈良の興福寺であらゆる学行に励んでいたがどうしても悟りを獲ることが出来ずに苦しんでいた。ところが、ある時、この末法濁世(まっぽうじょくせ)の凡夫の救われる法は称名念仏のみぞという阿弥陀如来のお告げをいただいたのだ。そこで、それに随って興福寺を捨て、縁あって加古川にたどり着き、小さな小屋を建て日暮しは宿業(しゅくごう)にまかせ、ただひたすら称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に励み、深い喜びを得ることができた。このたび往生(おうじょう)を得て浄土に参る。お前も他の学行を捨て称名念仏に励むがよい。それ以外に救われる道はないのだ。そのことを伝えたくて立ち寄った」という声がしたというのです。この声を聞いて増賀上人は驚き、そこらあたりを探すが教信の姿はなく、ただかぐわしい香りがただようのみであった。ただ増賀上人はかって教信という学僧が興福寺から行方知れずになったということは噂で知っていたので、さてはその人ではないかと思い弟子を伴って賀古川の付近に来て教信の消息を尋ねていると、川の辺りに小さな小屋があり、母親と娘が手を取り合って泣いているのを見つけて、事情を聞くとそれが教信の妻子であることが分った。しかしその妻が言うのに教信は亡くなる時に「自分の遺体は川に捨てて魚に食わせよ」という遺言であったので其の通りしたが、悲しくて泣いているのだ、ということであったとその「往生伝(おうじょうでん)」に書かれているのです。
私は親鸞聖人のその晩年「某(それがし)親鸞閉眼せば加茂川に入れて魚にあたうべし」と言われたという言葉も残されており、この教信の生涯が聖人の信仰に与えた影響は大きく、その考えは越後時代にそのもとがあるではないかと私は考えています。それは、特別なかたちをもった宗教生活ではなく「よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらす」(歎異抄)ような念仏生活です。