​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2014年5月

   今までたびたび述べました通り、親鸞聖人は四十二歳から六十二歳まで、約二十年間関東で多くの人々の為に精力的に本願念仏の仏法を伝えられました。その教化は常陸(ひたち・茨城県)下総(しもふさ・千葉県)下野(しもつけ・栃木県)の三国を中心に、広く関東から東北にまでおよび、多くの念仏者が生まれました。その数は数万人を超えたといわれるほどです。(日本歴史大辞典)

   今日のような交通や通信の発達しない時代であることを考えますと、本当に驚くべきことなのですが、それは、ひとえに聖人の非僧非俗(ひそうひぞく)の教えと、ひとかたならぬお御苦労によるものでありました。ところが都の京都では、法然上人や親鸞聖人の流罪が許された後も、法然上人が広められた専修念仏(せんじゅねんぶつ)に対する迫害は続き、朝廷からしばしば専修念仏停止の命令が出されているのです。

 法然上人がお書きになった書物で一番大切なものは「選択本願念仏集」(しんじゃくほんがんねんぶつしゅう)という書物です。これは当時法然上人に深く帰依し、熱心な念仏行者であった、当時の関白・九条兼実公(かねざね)のたっての要請によって書かれたものと言われています。そこには末法(まっぽう)の今日お釈迦様の通り出家して学問と修業を重ね、煩悩を断ちきって仏の悟りを開く自力の教えは、悲しいことであるが不可能である。それはこの法然自身がそうであり、今日の仏教界の現実を見ても明白である。われわれは阿弥陀如来の本願のまことを信じ、本願の名乗りである南無阿弥陀仏を称えて、阿弥陀仏の浄土に往生し仏になる他力の教えより他に救われる道はないのだ。しかも、この教えは出家・在家、男子・女人を選ばぬ全ての人々の上に開かれた仏道であることを非常に明快に述べられています。

   しかし、これを兼実公に渡されたとき、これを読まれた後は壁に塗りこんでくださるようにと言って渡されたと伝えられているのです。つまり、これが公(出版)になると、当時の仏教界の実情からして、その反響の大きさを上人は配慮されていたのです。ですからこの書物に直接目を通し、それを写すことを許された弟子はわずか数人であったと言われています。親鸞聖人はそれを許されています。言うまでもありませんが、法然上人がここに書かれていることは常々人々に説かれていることですが、たまたま弟子の住蓮(じゅうれん)・安楽(あんらく)と院の御所の女官との因縁がきっかけになり、その為に比叡山や奈良の仏教界からの厳しい弾劾を受け、流罪になるという承元(じょうげん)の法難に遇われたのです。しかし、その「選択本願念仏集」を法然上人が亡くなられて余り日を経ないで、その弟子の隆寛律師(りゅうかんりっし)という人が中心になって出版しました。ところが法然上人がおそれられていたとおり、当時の仏教界に非常に大きな反響を与えることになりました。この隆寛という人は、もと比叡山で修業した学者ですが、やがて比叡山を捨てて法然上人の弟子になった人で、親鸞聖人が法然上人の念仏道場に入られた時からの、先輩にあたる人でした。

  この方も法然上人から「選択本願念仏集」を書写することを許されていた一人です。親鸞上人はこの人を非常に尊敬されていて、この方の書かれた「一念多念分別事・いちねんたねんふんべつじ」という書物を非常に大切にされ、それ対する解釈の書物を自ら書かれて、それを読むことを門徒にすすめておられるほどです。

   ところで、法然上人の御生前、直接その説教を聞く者はどんなに多くいても限られた人々です。そして聞く人によってその内容はまちまちであることはまぬがれません。しかし文字にして書かれたものはごまかしがなく、ひそかに法然上人の説かれる教えに強い関心をもっていた僧侶や学者、つまり専門家によって読まれます。そこで当然そこに厳しい批判もあり、反対の意見も次々現れました。そして、その代表的な人が当時華厳宗の学僧として名高い明恵上人高弁(みょうえしょうにんこうべん)という方でした。「摧邪輪・ざいじゃりん」三巻を書いて、選択集の述べられることを「邪」、つまり非仏教の主張として、徹底的に批判し弾劾しました。

 明恵上人という人は当時でも希な学問はもちろん、戒律堅固な高僧でした。また歌人としても有名な人でしたが、その厳しい選択集にたいする非難に対して、当然隆寛律師からその非難が当たらないことを「顕選択・けんせんじゃく」という書物を書いて反論されるということもあり、「選択集」をめぐって、仏教界に賛否両論が激しく飛び交い、やがて、比叡山や奈良の諸寺が動き出し、かつての法難のような状況が現れるのです。親鸞聖人はそれらの噂を当然知りながら、京都には帰られず、越後からやがて関東に移って、そこで田舎の人々に法然上人から授けられた専修念仏の教えをひたすら伝えておられたのです。

 

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2014年7月

   京都で法然上人(ほうねんしょうにん)が亡くなられた後、その生前は公にされなかった法然上人の主著「選択本願念仏集・せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」がその高弟たちによって出版され、それが当時の仏教界に非常に大きな波紋を生じたことを前回申しました。それはこの選択集に書かれている法然上人の教えが、凡夫では測り知ることの出来ない、深遠なお釈迦様の悟りの教えをまげて大衆向けに言い換えた邪(よこしま)な説であるという、非常に厳しい批判でした。そして、それを代表する人が華厳宗(けごんしゅう)の高僧で名高い明恵上人高弁という人で、「摧邪輪・ざいじゃりん」三巻を書いて、選択集の述べることを「邪」、つまり非仏教の主張として、徹底的に批判し弾劾されました。

 この明恵上人という人は紀州有田(きしゅうありた)といいますから現在の和歌山県有田川町で誕生し、お父さんは平重国(しげくに)という武士でしたが、上人が八歳の時相次いで両親が亡くなり、母方の叔父の上覚(じょうかく)という人を頼って京都高尾の神護寺(しんごじ)で出家し、特にこの人は華厳経を中心に厳しい修行と学問を重ねた人でした。私などはこの人を「栂尾(とがのお)の明恵上人」ということで記憶しているのです。栂尾というのは京都の洛西、高尾と共に紅葉の名所として有名なところですが、上人は後鳥羽院(ごとばいん)よりこの地を賜り、そこで荒廃した高山寺(こうざんじ)を再興し、華厳宗興隆の道場として隆盛を極め、多くの人々から尊敬を集めた戒律(かいりつ)堅固な高僧でした。

 もともと華厳宗という宗派は五千余巻のお経の中でも華厳経を拠り所としている宗派です。そして華厳経はお釈迦さまが三十五歳でお悟りを開かれ、そのお悟りの世界をそのまま、ありのままに説かれたもので、お聞きした者は誰一人として了解出来ませんでした。そこでその内容を人々に出来るだけ分かり易く説かれたものが、今日存在するその他多くのお経だと言われます。

 当時、その華厳経の世界に直接迫る学問と修業に取り組まれた人の代表が明恵上人でした。この明恵上人の肖像では人里離れた山の松の枝の上で座禅しておられる姿が有名です。座禅はお釈迦様がお悟りを開かれた時のお姿です。ですから上人はお釈迦様の生まれられたインドを慕い、インドへの渡航を何度も計画されますが果たす事が出来ず、そのことを終生嘆かれたということも伝えられています。ですから明恵上人には法然上人のような時代は五濁悪世(ごじょくあくせ)の末法(まっぽう)であり、わが身は愚鈍の凡夫(ぼんぶ)であるというようなお考えは無いのです。

 たとえどのような時代であれ、むしろ、そうであればあるほどお釈迦様の歩まれたその道をその通り求めるのが明恵上人にとっての仏教でした。ですから法然上人の、明恵上人が実践されているような聖道自力(しゅどうじりき)の仏教を廃して、ひとえに他力浄土(たりきじょうど)を願うべき時であるという考えがどうしても承知出来なかったのでしょう。

 

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2014年9月

   法然上人の「選択本願念仏集・せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」(選択集)をめぐって、仏教界に賛否両論が激しく飛び交う中、やがて比叡山や奈良の諸寺が動きだし、かつて法然上人や親鸞聖人が流罪になられた法難のような状況が現れました。特に比叡山の動きは厳しく、専修念仏の中心的指導者である隆寛(りゅうかん)と幸西(こうさい)などの処罰を朝廷に要求し、あらためて専修念仏の禁止を強く迫りました。そしてそれが受け入れられ嘉禄三年(1227)、隆寛は陸奥(青森県)、幸西は壱岐(長崎県)に流罪になります。後世「嘉禄(かろく)の法難」といわれる既成教団による専修念仏に対する弾圧です。

  特に比叡山の弾圧は激しく、僧兵の手によって、都の周辺の山麓に点在した念仏聖たちの草庵が悉く打ち壊され、専修念仏の重だった指導者は、ことごとく都から追放されました。さらに「選択集」の版木が朝廷によって没収され、比叡山に渡されたのですが、比叡山の大衆はこれを大講堂の前庭で「三世の仏恩に報ぜんがため」と叫びながら焼却してしまいます。それだけではありません、彼らは上人の墓を発(あば)いてその遺体を加茂川に流すという暴挙まで企てました。しかし事前にそのことが分かり、その前夜に法然上人の弟子たちの手によって上人の棺が掘りおこされ、荼毘(だび)に付して他所に移され難を逃れたと伝えられています。「死者に鞭打つ」と言いますが、そこまで法然上人は比叡山に憎まれ、その教えは既成教団に大きな恐れを与えていたのでありましょう。

  表面的には朝廷も、長い伝統の中で宗教的権威としての既成教団を尊ぶ形で政治も支えられ、教団は政治の後ろ盾によってその権威を誇り、政治と宗教とが両々相俟って来ていました。しかし、宗教本来の目的である「人間の心の根本的救済」という意味において、個人的には法然上人の説かれた専修念仏の教えに深く帰依していた人は、関白・九条兼実(かねざね)をはじめとし、貴族の中にもその教えに帰依した人は多く、又、鎌倉幕府の尼将軍北条政子をはじめ、先に紹介しました熊谷直実(くまがいなおざね)など関東の武士に念仏行者が多くいました。そして今までは仏教とは縁の遠いと思われていた多くの名もない民衆が、この専修念仏の教えに深く帰依し、その勢いは測り知れぬものがあったのです。その勢いが感じられれば感じられるほど、それを真の仏教と認める事のせきない比叡山をはじめとする既成教団の専修念仏に対する恐れは、非常に大きなものであったと思われます。

  その頃、親鸞聖人は遥か遠い関東で、聖人の主著「教行信証・きょうぎょうしんしょう」の著作に心血を注いでおられました。それは法然上人の専修念仏の教えは、都で論じられているような諸行か念仏か、つまりあれか、これかということを説かれている教えではない。人間は、いかなる人間も人間である限り、すべて「人間であることの愚かさ、人間であることの罪、又人間であることの悲しみ」をもち、それによって苦悩している。然し、人間が人間の知恵や人間の努力で、その人間を超えることは当然不可能である。

  しかし、そこに阿弥陀如来という仏があり、その人間のありさまを大悲し、その苦悩のもとを見通して、その救済のために本願をたて浄土を建立して、その浄土往生を果たさせるために名号を成就し、我が名を称えて浄土を願えと呼びかけておられるというお釈迦様の教えがある。その教えを信じ、その真(まこと)に帰依する道が専修念仏の一道であり、その道においてはじめてその矛盾から解放され、苦悩から解放されることを明らかにされた教えであることを、力を込めて述べられています。そして、すべての人が専修念仏の教えに帰すべきことを勧められています。それが親鸞聖人にとっての法然上人のご恩に報いられる道でありました。