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​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2015年5月

  前回まで、親鸞聖人が京都にお帰りになり、後世の為に多くの書物を書くことに専念される一方、関東に残した人々の信心の問題を終生念じておられたことについて述べました。しかし、そうした中でも、関東では権力者による念仏の弾圧や、日蓮上人(にちれんしょうにん)による念仏批判などがあいつぎ、そのために関東の念仏者の間に信仰上の動揺が絶えなかったと言われます。

 権力者の立場からすれば、民衆がただ権力者の意のままに、おとなしく従ってくれることを望んでいます。ところが、その民衆が特別の教えを信じ、その教えを中心とした集団を結集して動き始めることは見過ごせぬことでしょうし、念仏者の中には如来の本願は悪人こそお目当ての教えであるから、どんな悪も障りにはならぬのだと、自ら悪を肯定するようなことを言いだす者もいて、念仏が反社会的宗教という誤解をまねくこともあったようです。     

 又、日蓮上人は千葉県小湊(こみなと)の方ですが十六歳で出家し、やがて比叡山で天台宗を学び、上人独特の教義である「南無妙法蓮華経・なむみょうほうれんげきょう」というお題目(だいもく)を称えて悟りを開くという教えを、故郷である関東を中心に辻説法をしながら熱心に布教されました。然しその布教は同じ仏教の教え総てを否定し、お題目だけが真実の仏教だという激しいものでした。そして、多くの人々が信じている念仏の教えに対しての批判が特に激しく、念仏するものは無間地獄(むけんじごく)に堕ちると非難をされました。そのため親鸞聖人の教えを信じていた人々に少なからず動揺を与えたことは事実であります。

 親鸞聖人はその人々に対して、お手紙をもって惑いをただされるとともに、長男の善鸞(ぜんらん)さまを関東に送って、人々の力ぞえとされました。善鸞さまは関東から聖人と共に京都に帰られ、如信(にょしん)さまというお子様もおられました。ですから幼い時から聖人の御側で成長され、成人されてからは聖人のお仕事の手伝いをされていたのでありましょう。年齢はまだ二十代で若い人ですから、聖人は関東の厳しい、然し活き活きと動く教団の中で育って欲しいというお考えもあったと思われます。

 「しかし使命を荷負った善鸞は、関東の教団を統一しようとして、かえって、有力な門弟と対立するようになっていった。そのため善鸞は、聖人の子という立場を強くおしだし、また権力者たちとも妥協し、それを利用しようとした」と本山出版のテキストは述べています。くわしいことは分かりません。然し結果として関東教団にむしろ新しい混乱を生み出すことになったようです。

 親鸞聖人は一貫して「すべての念仏者は如来の御弟子、親鸞は弟子一人もなし」と述べ、人々を御同行・御同朋といただかれたのですが、善鸞さまには自分は親鸞聖人の子、聖人から使命をうけてきた特別の人間という気負いがあったのでしょうか。そこに仏法を語りながら、仏法を見失った人間の愚かさと、自信のなさが感じられます。親鸞聖人の大悲心が完全に裏目に出たのでした。親鸞聖人と善鸞さまとが御手紙でやりとりされた様子は、残されている親鸞聖人の御手紙でわずかにうかがい知る事が出来るのですが、若さとは言いながら、善鸞さまは親鸞聖人の親心が本当に分かっていらっしゃらなかったように感じられます。

そして、善鸞さまは権力者が一番問題にしている教団の反社会的発言が出るのはその指導者の問題であるとして、親鸞聖人が一番信頼され、関東教団の中心である性信房(しょうしんぼう)という弟子を鎌倉幕府に訴えているのです。そのため性信房は鎌倉に引き出されるという事件まで起きています。それらのことをすべて知らされて親鸞聖人は仏法のため、遂に善鸞さまを義絶されるという問題にまで発展しました。親鸞聖人の晩年における一番大きな痛恨事でした。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2015年7月

 前回まで、親鸞聖人が京都にお帰りになり、後世の為に多くの書物を書くことに専念されたことを述べてきましたが、その聖人の一族の方で、帰洛後の聖人に深く帰依され、聖人の著作の仕事を手助けされた人のあった事が伝えられています。

 その人は日野信綱(のぶつな)という人と、そのお子さんの日野広綱(ひろつな)という人です。お父さんの信綱という人は、親鸞聖人が九歳の時、京都青蓮院で慈円和尚(じえん)のもとで出家された時、聖人を伴って行かれた日野範綱という人のお子さんです。日野範綱卿(のりつな)は親鸞聖人の父上、有範卿(ありのり)のお兄さんですから、この信綱という人は聖人の従兄にあたるわけです。日野家は代々貴族の家柄ですから、信綱卿は朝廷に仕え上野介(こうずけのすけ)、従三位(じゅさんみ)でありましたが親鸞聖人に深く帰依(きえ)して出家し、法名「尊蓮・そんれん」と名乗っておられます。この方は親鸞聖人自筆の「教行信証」を書写されています。又そのお子さんの広綱卿も朝廷に仕えて官職にあった人ですが、やはり聖人に帰依し出家して聖人から「宗綱・しゅうこう」という法名をいただき、聖人の著作のお手伝いをされ、この広綱卿は親鸞聖人の一番末娘の覚信尼(かくしんに)さんと結婚されています。この覚信尼さんは関東で生まれられ、聖人に伴われて京都に帰られますが、広綱卿と結婚された時は十六歳でした。お二人の間には、後に覚恵法師(かくえほうし)と呼ばれる男と、光玉尼(こうぎょくに)という女と二人の子供が生まれましたが、不幸にも広綱公は覚恵法師が七歳の時に亡くなられます。主人を失った覚信尼さまはお子さんと一緒に聖人の所に帰られ、その育児と、お母さんと共に聖人の御世話をされることになりました。

 聖人の家族は聖人が京都に帰られた時、皆一緒に京都に引上られたのですが、長男の善鸞(ぜんらん)夫妻と末娘の覚信尼さまを除き、他の四人の子供さんは皆お母さんの故郷である越後に下って、それぞれ独立され、出家して僧侶になられた男の方が二人、また越後で結婚されて家庭をもたれた女の方が二人おられます。又前回述べましたように、長男の善鸞さまは関東に行かれましたから、聖人夫妻は夫を失った娘とその子供二人、そして善鸞さまの子、如信(にょしん)さまは聖人の手元において育てられましたから、孫三人という家族でその晩年を過ごされたことになります。

 その後、奥様の恵信尼さまは聖人が八十歳を過ぎられた頃、故郷の越後に帰られています。その理由は、幼い子供を残して奥さんが亡くなり苦労している息子さんがあり、その孫の養育の為という説や、恵信尼(えしんに)様の名義で残された財産の管理の為の帰郷という説もありますが、どちらも本当のようで、御帰りになって随分御苦労があったようです。結局、恵信尼様は聖人が九十歳で亡くなられた時、越後に居られて、その臨終(りんじゅう)に遇っておられません。これらのことは、大正時代、西本願寺の蔵から発見された恵信尼さまが覚信尼さまに出された十通ほどの手紙によって明らかになったことでした。

 改めて思います事は、僧侶でありながら結婚して妻子をもたれた親鸞聖人の後半生は、我々と全く同じ妻子の為に思い患う煩悩具足の凡夫としての喜びと悲しみを経験しながら、むしろ、それを通して本願念仏の仏法を深くいただかれ、その命を仏道に捧げつくして生きられたことを改めて思わされます。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2015年9月

   弘長(こうちょう)二年(1262)十一月二十八日、親鸞聖人はその命を仏道に捧げつくして、九十年の生涯を閉じられました。その時の御様子を「御伝抄」(ごでんしょう・聖人の伝記)には「仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします」とありますから、十一月下旬の頃から、何となく気分がすぐれなくなり、やがておやすみになられます。

 「自爾以来(それよりこのかた)、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし」とありますから、おやすみになられてからの聖人は、ただ静かにお念仏を称えられ、その間も仰せになることは、仏様に救われた喜びのお言葉ばかりでありました。「しこうして、同第八日午時(うまのとき)、頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥(ふ)し給いて、ついに念仏の息(いき)たえましましおわりぬ」とあります。「同じく第八日」とありますから、おやすみになって、一週間ほどの十一月二十八日の御昼ごろ、頭北面西右脇とありますのは、お釈迦様が涅槃(ねはん・亡くなる)に入られた時の姿を表しています。それにならわれ「ついに念仏の息たえましましおわんぬ」とありますから、もっぱら念仏しておられた、その念仏の声が絶えた時が聖人のご臨終であったと述べられています。本当に静かな尊いご往生のお姿を拝察することができます。「時に、頽齢九旬(たんれいくじゅん)に満ちたまう」即ち御年九十歳であられました。学者の中には当時の平均寿命は三十八歳であったという方もいらっしゃいますから、驚くほどの御長命であられ、また聖人の年譜には八十八歳まで書物を書かれた記録がありますから、一切を如来の大悲に乗托(じょうたく)されたご生涯であられますが、非常に強靭な精神の持ち主の方であられたことがわかります。

   ご臨終(りんじゅう)には聖人の晩年を御世話なされた末娘の覚信尼(かくしんに)様、越後から上洛されていた聖人の三男益方(ますかた)様、聖人の弟の尋有(じんう)様、関東時代の弟子、顕智(けんち)、専信(せんしん)など、わづかな人々にみとられた静かなご往生(おうじょう)であったと伝えられています。お亡くなりになった場所は、聖人の弟、尋有さまが住職をしておられた善法坊(ぜんほうぼう)という御寺の離れであったと伝えられています。もともと長年住んでおられた家は聖人が八十三歳の年末火災にあわれ、それ以来、同じ京都市内の善法坊に身をよせておられました。

 越後に居られる奥様の恵信尼(えしんに)さまは覚信尼さまからの御手紙で聖人のご往生をお知りになりました。前回書きましたが、大正十年西本願寺の蔵から発見された文書は、その覚信尼さまからの知らせに対する恵信尼さまの返礼の御手紙だったのです。

 その御手紙によりますと、「こぞ(去年)の十二月一日の御ふみ、同二十日あまりに、たしかに見候ぬ」とありますから、聖人が十一月二十八日に亡くなられ、三日後の十二月一日に覚(かく)信(しん)尼(に)様が御手紙でそのことを御母さんの恵信尼さまに知らされ、その手紙がその手元に届いたのが十二月二十日であったことが分かります。「たしかに見候ぬ」とあります。そしてそれに対して娘の覚(かく)信(しん)尼(に)さまに出された、恵信尼さまのお手紙は、年が明けて書かれたものですから「こぞの」という言葉が入っているのです。ともかくそのお手紙はその全文が、現在「真宗聖典」の中に「恵信尼消息・えしんにしょうそく」として載せられているのですが本当に素晴らしい内容のものでした。

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