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​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2014年11月

  親鸞聖人は六十二歳の頃、関東の地を後にして家族と共に京都にお帰りになったといわれています。念仏で結ばれた多くの人々を後にして、しかも六十二歳といえば当時は既に老齢にかかっておられる身をもって何故帰洛を決心されたのか、くわしいことは何一つ分かっていません。多くの学者の方々が色々推測されていますが、私は「教行信証・きょうぎょうしんしょう」完結の為の帰洛であったと考えています。

いままで申してきました通り、法然上人の専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えが、比叡山や奈良の仏教からこれだけ非難され、誤解されて多くの念仏者が苦難を被っていることを思われる時、法然上人から特に信頼され、選択集(選択本願念仏集・せんじゃくしゅう)の書写(しょしゃ)を許された数少ない弟子の一人として、法然上人の念仏宗興隆(ねんぶつしゅうこうりゅう)の意義を明らかにする責任を自覚され、その為に書き始められた「教行信証」の完成が聖人一代の大事業でした。その為にはやはり京都に帰らねば、現代的にいえば当時の関東には多くの書物を蔵した図書館が無い。その為にはやはり都である京都でなければならなかったのでしょうし、念仏弾圧が行われている都の真ん中で、その事実をこの目で見、その空気を肌身に感じながら、法然上人の専修念仏の意義を明らかにしようとされたのだと私は考えています。

「教行信証」というのは通称で、正式の名称は「顕浄土真実教行証文類・けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい」といい、六巻にわたる大部の書籍です。全文漢文で書かれている親鸞聖人の思想の根幹が表された根本聖典です。それは現在東本願寺に蔵され、国宝に指定されています。この「教行信証」はもと坂東の報恩寺(東京都台東区東上野)に蔵されていました。この寺はもと下総(茨城県)の横曽根にあり、親鸞聖人第一の高弟であった性信房(しょうしんぼう)が開基したものですが、慶長七年(1602年)江戸に移り、移転を重ねて文化三年(1806年)に現在の地に寺基を定めたといわれています。ここに伝えられていた坂東本(ばんどうぼん)が、親鸞聖人が関東で一応完成された「教行信証」だと考えられています。ところでその「教行信証」を親鸞聖人が京都に帰られた後、聖人が書かれた真筆は残っていませんが、それを、その弟子によって書き写された写本が、例えば西本願寺や、高田派の本山専修寺に蔵されているものなど幾つか存在しているのですが、これらの内容が坂東本からみると、あちこち随分多く筆が加えられたり、書き直されたりしており、そこに、聖人帰洛後のその思想の深まりが強く感じられるわけです。特に西本願寺本は聖人滅後間もない文永十二年(1275年)に書写されたものと言われており、これが、聖人が最後に筆を置かれたものを写したものと考えられています。現在我々が真宗聖典で見る事の出来る「教行信証」はこの西本願寺本が定本になっているのです。

又聖人には此の」教行信証以外にも「浄土文類聚抄・じょうどもんるいじゅしょう」「愚禿抄・ぐとくしょう」「入出二門偈・にゅうしゅつにもんげ」など漢文で書かれた書物もあり、又これは関東のご門徒の為と考えられる「尊号真像銘文・そんごうしんぞうめいもん」「一念多念文意・いちねんたねんもんい」「唯信抄文意・ゆいしんしょうもんい」など、平易な文章で書かれた解説書など多くの書物を書かれています。然し現在私たちに最もご縁の深いものは正信偈(しょうしんげ)と和讃(わさん)でありましょう。正信偈は教行信証の中の偈文で、これを引き出し和讃と組み合わせて朝晩のお勤めの聖典とされたのは蓮如上人ですが、その和讃は親鸞聖人が京都にお帰りになって、その晩年にわたって御作りになった仏の徳、高僧の徳を讃歎された歌です。その最晩年のものは八十五歳の年から作り始められたことが記されています。全部で三四六首も残されています。 

「親鸞」の小説を書かれた五木寛之さんが、テレビでこの和讃はすべて七五調の今様という当時の流行歌の調べで書かれている。現在でも演歌の歌詞の調べはみなこの七五調で書かれていて、これが一番日本人の心情に直接訴える調べなので、当時聖人はこれをご門徒の人々に歌ってほしかったのであろうと言っておられたのが印象に残っています。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2015年1月

前回述べました通り、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は六十歳を過ぎて家族と共に関東を起ち京都にお帰りになりました。しかし、京都では関東でなされたように、縁ある人々に念仏の仏法を伝えるために活動されるということはほとんどなく、ただひたすらその教えを後世(こうせい)に伝える為に、「教行信証・きょうぎょうしんしょう」をはじめとする数多くの書物を著し、和讃(わさん)をお作りになることに心血を注がれました。そのお心を御察ししますのに、私はその「教行信証」の最後のところに「安楽集・あんらくしゅう」という書物の言葉を引かれ、このように述べておられます。そこに帰洛後の聖人のご精神が尽くされているように感じています。

「真言(しんごん)を採り集めて、往益(おうやく)を助修(じょしゅう)せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくば休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり、」とあります。この最初の言葉は「真実の言葉を採集して、人々の往生(おうじょう)の利益(りやく)を助け、その道を修めさせよう」という意味です。そして、「何故かと言えば、前に行く者は後に来るものを導き、後に来る者は前に行きし者にたずね、伝え伝えて窮まりなからしめんことが我らの責任であり、願いである。そうして涯(はて)しない生死の海(迷いの大海)に迷える衆生(しゅじょう)をして、ことごとく真実の道に出でしめ、阿弥陀仏の浄土に到らしめんがためである」という意味になります。即ちこの「安楽集」の言葉そのままの実践が、京都にお帰りになられた後の聖人晩年の年月であり、正に聖人の知恩報徳の実践そのものでありました。聖人御自身、自ら愚禿(ぐとく)と名乗られた如く、「いずれの行も及びがたき、地獄一定の身」でありながら、不可思議(ふかしぎ)の因縁により、法然上人という「前にうまれた」善知識(先生)によって本願念仏の仏法を授けられ、永い迷いの世界を離れる事が出来たのであります。聖人はそのお陰を和讃に                            

「曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも、出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき、本師源空(ほんじげんくう・法然)いまさずは、このたびむなしくすぎなまし」

とそのご恩を深くいただいておられます。

「この親鸞は生まれ変わり、死に変わり、迷いを重ねながら、その迷いの世界から出で離れる教に遇うこと事が出来なかった。もしこの生も法然上人にお会いせず、お念仏のみ教えに出遇っていなければ、また空しく迷いを繰返していたであろう」と、何物にもかえることのできないお陰、ご恩を喜んでいらっしゃいます。

そして、この尊い教えを「後にくる者」に伝えることが、念仏の教えにお遇い出来た者の責任であり、願いであると言われるのでありますが、然し、その願いは単なる聖人個人の願いではなく、聖人自身を救済(きゅうさい)され、一切(いっさい)衆生を救済せずにはやまれぬ阿弥陀如来の本願そのものの「うながし」でありましょう。その「うながし」に起ち上がられた姿が聖人晩年のお姿でありました。

 私達が常に歌う「恩徳讃・おんどくさん」は聖人の作られた和讃の一つであります。聖人自身がこのように詠われているのです。

如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳は 身を粉(こ)にしても報ずべし、

師主知識(ししゅうちしき)の恩徳も ほねをくだきても謝すべし。

 我々のような迷い深く、罪業重き者の救いを思いたって下さった阿弥陀如来の恩徳、その如来の本願を我々の為に説いてくださったお釈迦(しゃか)様、その教えを信じ、それを我々に伝えてくださった高僧の方々の恩徳は、我々が身を粉にし、骨をくだくほどに報じても、報じ尽くせぬ御恩であると、聖人は最高の表現で詠っておられます。

 私達後世の者はこうして残してくださったお書物のお陰でその教えを有り難くいただく事が出来るのであります。

​浄土真宗の歴史

 40 ​

紙面掲載年月:2015年3月

 現在、親鸞と言えば「歎異抄」、「歎異抄」と言えば親鸞と言われるほど世間一般にも有名な書物が「歎異抄・たんにしょう」です。つまり、親鸞聖人の教えを知るには先ず「歎異抄」を読みなさいと言われているわけです。また実際人生の苦悩に直面した人でこの「歎異抄」を通して親鸞聖人の教えに遇い、そこに光を見出し、生きる力を与えられた人は少なくないと言われています。ただこの「歎異抄」は親鸞聖人がお書きになったものではなく、その高弟の一人であった唯円(ゆいえん)という人が書いた聖人の言行録です。聖人自身がお書きになった書物は仏教の教義を中心にお書きになったものが多く、一般には難解で敬遠されがちですが、この「歎異抄」は人生において遭遇する色々な問題について、聖人が信心の教えを通して語られたことを、そのまま美しい文章で書かれていますので分かりやすく、例えば岩波文庫の中にも入っており、長い間、多くの人々に読まれてきました。

 その歎異抄の第二章にこのような文があります。

 

おのおの十余か国(こく)のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽(おうじょうごくらく)のみちをといきかんがためなり。」

 このように関東からしばしばお弟子や門徒の人達が聖人に教えを受ける為に訪ねています。現在聖人が関東の人々に出されたお手紙がたくさん残されていまして、ご消息集としてまとめられています。その中に聖人を訪ねてきた人のことを書かれたものも多く、中には上洛の途中で病気になり亡くなった人もあったようで、その旅はまさしく命がけと言う意味をもった旅で、聖人がそのことを非常に悲しんでおられるお手紙も残されています。

 それらのお手紙はみな教えについてのものです。又関東から教えについて質問しているものに対してお答えされているお手紙も多くあります。それを読みますと残された関東の人々のことを聖人が常に念じておられるお心がうかがえるものばかりです。また、聖人はご門徒のために分かり易い仮名書きの書物を何冊も書かれ、皆に読むように勧められています。例えば聖人が吉水時代の先輩として大変尊敬されていた聖覚法印(せいかくほういん)という人が書かれた「唯信抄・ゆいしんしょう」という書物があり、それを読むことを門徒に勧めておられるのですが、その中の難解な聖典の言葉を中心にその解説をされた「唯信抄文意・ゆいしんしょうもんい」という書物を書いて関東に送られたり、その他、現在我々も大切に拝読している書物が何冊もあるのです。それらの書物の奥書に「いなかの人々の、文字のこころも知らぬ人にやすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえし書きつけたり。心あらん人はおかしく思うべし。」と書いておられますが、現在私などその書物を拝読してなかなか難解で恥かしい思いをしています。むしろ関東の人々はよくそれが分かったのでしょう。だからこそ「歎異抄」を書いた唯円のような人が出たのですから。

 こうして聖人は京都に帰り後世(ごせ)の為に大切な書物を書かれることに専念されたわけですが、関東に残した人々の信心の問題を終生念じておられたことが感じられます。

ただ、お手紙の中に「御こころざしの銭五貫文たまわりてそうろう云々」という文面のものがあり、当時としてそれはかなり高額の金子(きんす)であったといわれているのです。そして歴史の専門の先生の書物など読むと、関東の人々は京都の聖人の生活費や、当時は大変貴重であった紙や筆にいたる費用まで賄っていたのではないかと言われています。もしそうであるなら関東の人々は聖人の念仏の仏法に対する深い願いをよく理解し、それを支え切っていた。つまり関東と京都と隔たっていながら、念仏で結ばれた心は全く一つであったのでしょう。感動させられる出来事です。

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