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​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年5月

 親鸞聖人の滅後、その末娘の覚信尼(かくしんに)さまと、関東のご門徒との深い願いによって、京都の東山に聖人のご影像(えいぞう)を安置した廟堂(びょうどう)が建立され、その廟堂が関東をはじめ多くの聖人の教えにご縁のあった念仏者の心の拠り所となったことを今まで述べてきました。そして、日常の廟堂護持の役目である「留守職・るすしき」は覚信尼さまがあたられ、その滅後はそのお子様が後を継承され、代々続けられていきましたが、三代目の覚如上人(かくにょしょうにん)の時、上人はその廟堂を「本願寺・ほんがんじ」という寺院にされます。

 もともと、廟堂はご門徒の心の拠り所という意味の施設ではありますが、寺院ではありません。寺院はその教えに基づく本尊(ほんぞん)が安置されます。親鸞聖人の教えならば本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。廟堂は親鸞聖人のご影像(えいぞう)が安置されただけの施設ですから寺院ではないのです。ですから寺院になった「本願寺」は中央に本尊阿弥陀如来を安置し、親鸞聖人のご影像はその脇に安置されることになります。(現在の寺院はその形式になっている)それを国家から公認された勅願寺(ちょくがんじ)にされます。

 これについては、何といいましても、廟堂のある京都と関東は余りにも遠隔であります。そして、覚如上人が留守職を継がれた頃は、聖人滅後約五十年、各地の門徒を導いていた高弟は既にほとんど亡くなり、毎年遠路をしのいで京都の廟堂に参詣する人々も次第に少なくなっていったであろうことが想像されます。そして、聖人の関東布教(ふきょう)の時代に高弟を中心にした道場が多く生まれていますが、その各地で聖人を偲ぶ仏事が行われるようになったことも関係したでありましょう。覚如上人は自ら関東に足を運んで人々と接しておられ、そうした事情をよく理解され、廟堂を各地に点在する念仏道場の本山という意味をもった「本願寺」の名乗りであったと思われます。

 覚如上人は生まれつき極めて聡明な方で、幼いころから勉学を志し、比叡山・三井寺(みいでら)、奈良にと仏教の学問を重ねられ、京都に帰られてからは、親鸞聖人の教えについて如信上人(にょしんしょうにん、親鸞聖人の孫)から厳しい指導を受けられ、非常にすぐれた学者でありました。この覚如上人が著(あらわ)された書物は、親鸞聖人の教えに次ぐものとして、その後の真宗教団の教学(きょうがく)に非常に大きな影響を与えているのです。覚如上人の目指されたものは、本願寺が単なる地方の道場の中心ということだけでなく、聖人の教えの根本を示し、間違いがあればそれを正す根本道場であることを表されたのでありましょう。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年7月

  親鸞聖人の滅後、その末娘の覚信尼(かくしんに)さまと、関東のご門徒との深い願いによって、京都の東山に聖人のご影像を安置した廟堂(びょうどう)が建立され、その廟堂が念仏者の心の拠り所でありましたが、三代目の留守職であった覚如上人(かくにょ)の時、その廟堂を「本願寺・ほんがんじ」という国家から公認された勅願寺(ちょくがんじ)にされ、その「本願寺」が地方の念仏道場の本寺・本山であることを宣言されたことを今まで述べてきました。それは単なる念仏者の集団ではない、公(おおやけ)から認められた念仏教団である意味を確立しようとされたものと思われます。こうした歩みを通して今日の「本願寺教団」の基礎が創られていきました。

  然しその本願寺の歴史の中で私たちが決して忘れることの出来ない方が八代目の住職であった蓮如上人(れんにょ)でありましょう。蓮如上人と言えば今日お寺では法要の時、お勤めがおわった後、住職によって必ず拝読される「あなかしこ、あなかしこ。」という言葉で結ばれる、あの「御文・おふみ」を書かれた方と言えば真宗門徒であれば誰でもすぐ思い出すあの方です。又真宗寺院では中央に本尊が安置され、その脇の右側には親鸞聖人の御絵像(ごえぞう)が架けられ、左側には歴代の本願寺住職の代表として、必ずこの蓮如上人のご絵像が架けられています。そして、教団では蓮如上人のことを特に「中興上人・ちゅうこうしょうにん」と申し上げています。それは蓮如上人の生涯かけての御苦労と、その御恩に感謝する呼称でありましょう。

  蓮如上人は応永(おうえい)二十二年(1415)二月二十五日、本願寺第七代住職存如上人(ぞんにょ)の長男として本願寺で誕生されました。親鸞聖人滅後百五十四年目にあたります。その時御父さんの存如上人は弱冠二十歳。本願寺は御祖父さんの巧如上人(ぎょうにょ)が第六代の住職で、御父さんはまだ部屋住みの立場でした。しかも御母さんは御祖父さんの召使いで、西国生まれというだけの、後世その名前さえ伝わらぬような女性でしたから、晴れて結婚できるような立場の人ではなかったと言われています。

  然し御祖父さんにとっては初孫の男児誕生で「幸亭・こうてい」と名づけられましたが、丸々と太っていたので「布袋々々・ほてい」と呼ばれて皆に愛されて成長されました。

しかし、その布袋が六歳の時、御父さんの存如上人と、当時の室町幕府の将軍足利義満(あしかがよしみつ)の側近であった海老名(えびな)氏の娘との婚約が成立します。それを知った布袋の御母さんは、自分がここにいてはこの子の将来が闇になると考えられたのでしょうか、出入りの絵師にたのんでわが子の姿を描かせ、その肖像を胸に抱きしめて応永(おうえい)二十七年が終わろうとする師走二十八日に、いずこともなく姿を消されたと伝えられています。その時御母さんは布袋を抱きしめて「御流(いんりゅう)を興(おこ)したまえ」と言いふくめられたとも伝えられています。彼女は素性こそ卑しい人でしたが、思慮深く、克己(こっき)心の強い人だったのでありましょう。布袋は長じて本願寺第八代蓮如上人になられるのですが、この御母さんの犠牲がなかったらその人生はどうなっていたであろうかと考えさせられる局面が何度もありました。

 蓮如上人は生涯このいわば「瞼の母」を忘れることが出来ず、「西国の人」ということで側近の人を使って色々その消息を尋ねさせておられます。然し結局無駄に終わるのですが、件(くだん)の絵師を訪ねられたところ、その絵師が幼児の時の例の画像をもう一幅蔵していたことを知り、さっそく譲りうけてそれを母の形見として、そしてお母さんが出て行かれた二十八日を命日と定め、追慕の法事を続けられました。そして、上人は常に母は観音(かんのん)様の化身であると語られていたとも伝えられています。

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