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​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年7月

 蓮如上人(れんにょ)が本願寺第八代の住職を継承されたのは上人四十三歳の時であります。その年六月御父上の存如上人(ぞんにょ)が六十二歳で亡くなられました。当時本願寺は長子相続とは限らず生前譲状をしたためておくのが通例であったのですが、しかし存如上人はそれを残されていませんでした。それは前回述べていましたように、その生前から存如上人は蓮如上人をその後継者として考え、その為の教育を重ねておられましたし、蓮如上人もそれによく応えられ、上人は若くして父上人に代って聖教を書写して門徒に下附(かふ)されるまでになっておられたのです。それで存如上人の後継者は蓮如上人で問題は無いと考えられ、敢えて譲状を書かれなかったのでありましょう。然しそれが結果的にはその後継者を廻って大問題になりました。

 蓮如上人の継母如円(にょえん)さまにしてみれば、素性も分からず、正式な結婚もしていない母の子である蓮如に由緒ある本願寺住職を継がせてはならない。将軍足利義満の側近、海老名氏の娘を母に持つ我が子応玄(おうげん)こそ、その後継者に最もふさわしい者である。彼はすでに二十五歳になっていて、青蓮院で修学して阿闍梨(あじゃり)という位を持つ立派な僧侶になっていると考えられたのであります。周囲を説得して存如上人の葬儀も応玄さまが喪主となり、住職気どりでとりしきり、参列の親族や諸国門弟の代表もしごくもっともな顔をしていたといいます。それに対して蓮如上人は自分が庶子である立場を承知されていて、敢えて反対されませんでした。蓮如上人が後継者に最もふさわしいとは誰も思っていましたが、口には出せなかったのです。これによって如円さまも確実に我が子応玄が継職できると確信されていたのであります。

 ところで、亡くなられた存如上人の弟に如乗(にょじょう)という人がおられました。この人は北陸加賀国と言いますから、現在の金沢に本泉寺(ほんせんじ)という寺を建て、北陸一帯の真宗寺院の中心にある実力者でした。この人は蓮如上人の叔父にあたられるわけですが、わずか三歳年上でしたから、この如乗さまと蓮如上人は、如乗さまが北陸に行かれるまでは本願寺で一緒に暮らしておられます。ですから如乗さまは蓮如上人の人間性や、その器量をよく知っておられ、また存如上人が蓮如上人にかけられた願いを一番よく分かっておられたのであります。そして母親の言いなりになっている応玄と、庶子としての立場を守っている蓮如上人の姿を見比べ、蓮如上人の度量の大きさを再確認されたのにちがいありません。葬儀の終わったあと、如乗さまは決然と蓮如上人こそが本願寺の後継者たるべき人間であり、それが兄存如上人の願いであったのだと周囲の人々を説得されました。それによりそれまでは如円さまに遠慮して黙っておられた人々も多く如乗さまの意見に同調され、結局、蓮如上人が本願寺第八代住職を継承されることが決定されました

 然しこの結果は如円様にとっては全く意外な、そしてどうしても受け入れることの出来ぬ事でありましたでしょう。結局、如円様と応玄様は本願寺を出て行かれます。記録によりますと、その時二人は無念さの余り倉に納められていた文箱・経論・聖教などを総て、また親鸞聖人が使われたと伝えられる袈裟(けさ)・数珠(じゅず)・脇息(きょうそく)までも奪い、後に残されたものは一尺ばかりの味噌桶一つという有様であったと伝えられています。蓮如上人はそうした人間業の渦巻くまっただ中で本願寺第八代住職を継承されました。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年9月

  前回は、蓮如上人が悲劇的な人間関係の中で、叔父如乗(にょじょう)様の強い推挙により本願寺第八代の住職になられた事情についてくわしく述べました。しかし、その当時の本願寺は現在のような本願寺ではありません。それは親鸞聖人(しんらんしょうにん)の末娘覚信尼(かくしんに)様が聖人没後関東の御門徒と諮(はか)って建てられた親鸞聖人のご影堂(えいどう)の場所、現在の京都東山の浄土宗本山知恩院の塔頭(下寺)崇泰院(そうたいいん)のある場所で、五間四面の御影堂と三間四面の本堂と住坊があるだけの小さな寺院でした。五間四面といえば現在の光善寺の本堂を少し大きくしたぐらいの規模です。しかも当時本願寺は青蓮院(しょうれんいん)の末寺という立場でした。青蓮院という寺は代々天皇家や摂関家の子弟が住職を勤められるいわゆる門跡寺院(もんぜきじいん)といわれる由緒ある寺院ですが、比叡山延暦寺の別所、つまり天台宗の寺院で、現在も東山粟田口(あわたぐち)に存在します。ということは本願寺は、浄土真宗の本山とはとても言えないありかたで、本願寺歴代の住職は親鸞聖人によって明らかにされた本願念仏の仏法を熱心に説いておられます。然し肝心の本堂には本尊阿弥陀如来が安置されてはいますが、天台宗関係の経典や仏画がなんの不思議もなく並べられ、内陣の真ん中には比叡山では常時行われる護摩木をたいて息災・延命を祈る護摩壇まで据えられていたといいますから、これはまさしく天台宗の寺院なのです。

 法然上人や親鸞聖人はその天台宗の教えを捨てて本願念仏の仏法に生きられ、その教えを広く多くの人々に伝えられたのです。そのため法然上人も親鸞聖人も比叡山によって流罪になられました。比叡山はお二人が念仏の教えを人々に勧められることを非常に憎みました。しかしお二人は決して本願念仏の教えを捨てられるということはなかったのです。しかし、親鸞聖人の子孫はいつの間にか天台宗の寺院の住職になっていました。また蓮如上人もそうですが、歴代の住職は僧侶になる得度を青蓮院で受けておられますから、天台宗の僧侶であったわけです。この矛盾に歴代の住職も悩まれたようですが、比叡山の仕打ちを恐れて独立出来ませんでした。

 然しその問題に正面から立ち向かわれた人が実は蓮如上人です。しかしその困難は想像を絶するものでした。蓮如上人を宗門は「中興上人・ちゅうこうしょうにん」を呼んでいますが、名実共に浄土真宗を再興された上人だったのです。

 上人が住職として最初になさったことは、その本堂から護摩壇をはじめ天台宗関係の経典、仏画を取り除き、また天台宗僧侶の着る黄袈裟・黄衣など総てを風呂のたびに焼き捨て、功徳湯(くどくゆ)と称して自ら入浴されます。次に「御亭・ぎょてい」いう本堂の上段の間を撤去して平座とし、参詣した同行と膝を交えて親しく仏法を語られるようにされました。又、「上﨟・じょうろう(身分や地位が高い)ぶるまいを捨てよ」と常に側近を戒め、参詣した同行に寒い冬には酒の燗を熱くし、暑い夏には冷やしてもてなしたとも伝えられています。そうして、門徒のために出された皆さまよく御存知のあの「御文・おふみ」に、「聖人一流のご勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候」というものがありますが、正しく「聖人一流・しょうにんいちりゅう」親鸞聖人独自の念仏の教えをいかに伝えていくかということに心血を注がれ、特に現在の滋賀県から北陸地方を中心に上人自ら足を運んで伝道に専念され、その影響は大きく、各地に多くの真宗門徒が生まれました。

 しかし、こうした蓮如上人の動きを比叡山がだまって見ている筈はありません。寛正六年正月、蓮如上人が五十一歳つまり上人が住職になられて八年目の正月、比叡山の衆徒が本願寺を襲い、坊舎を破壊し、財物を奪うという事件が起こっています。蓮如上人は難を逃れられましたが、たまたまそこに居合わせた正珍という僧侶を蓮如上人と間違えて捕えて引き揚げるという事件が起こっています。更に彼らはそれに飽き足らず、同じ年三月には遂に本願寺に火を放ち、蓮如上人は親鸞聖人の御影を抱えて避難されねばならぬというような、暴挙に及びました。こうして本願寺は遂に灰塵に帰します。然しそれ以後蓮如上人はその本願寺の跡地に二度と御帰りになることはありませんでした。むしろ、それを機縁に真の本願寺の再興を考えられたように感じられます。

 その時彼らが送りつけてきた牒状には「本願寺が一宗をたて、愚昧の男女、卑賎の老若に布教し、村々で群をなし、党を結び、仏像や経巻を焼き、さらには神々を軽蔑しその悪行は目にあまる。これは仏敵である。仏法の為、国の為に征伐すべきである」と書かれていました。然し、これは当時蓮如上人の教化による影響がいかに大きなものであったかということを物語っているともいえましょう。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年11月

  前回まで蓮如上人(れんにょしょうにん)が本願寺第八代住職を継職され、それまで本願寺は浄土真宗の本山でありながら実際は比叡山を本山とする天台宗の寺院として存在しており、その在り方から脱して、名実ともに浄土真宗の本山として存在するための御苦労を重ねられます。然し、それは比叡山にとっては到底許すことの出来ないことで、遂にはその衆徒(しゅうと)によって本願寺が焼き打ちに遇うなど、蓮如上人は親鸞聖人の御影(ごえい)を奉じて避難されねばならぬような数々の困難に遭遇されたことを述べました。その時彼らが送りつけてきた牒状(ちょうじょう)に「本願寺が一宗をたて、愚昧(ぐまい)の男女、卑賎(ひせん)の老若に布教(ふきょう)し、村々で群をなし、党を結び云々」という文言がありました。ということは蓮如上人が自ら足を運ばれ、熱心に親鸞聖人の念仏の教えを布教されている影響が、比叡山から見て容易ならぬ危機感を感じさせるものであったことがうかがわれるのです。

 その頃上人が最も熱心に教化されたのは近江、現在の滋賀県の金森(かねがもり)や堅田(かただ)を中心とした地方であったといわれます。金森は現在の守山市、堅田は大津市にあたり、琵琶湖の湖南地方です。そして、金森は道西(どうさい)、堅田は法住(ほうじゅう)という熱心な念仏行者を中心にした門徒(もんと)集団が形作られ、あらゆる面で蓮如上人の教化を支えていたことが知られています。

 金森の道西という人は、上人より十六歳年長ですが、上人が本願寺住職になられる以前から御縁が深く、上人を非常に尊敬し、その教えによって信仰を深めた人でした。蓮如上人といえば、われわれにもっとも御縁の深い聖典(せいてん)は「あなかしこ・あなかしこ」という言葉で終るあの「お文・おふみ」ですが、その最初に出された「お文」の宛先はこの道西を中心にして開かれていた念仏講(法話会)に出されたものでしたし、又、蓮如上人のお文以外の唯一の著作である「正信偈大意・しょうしんげたいい」という書物はこの道西のたっての要請によって書かれたものでした

今一人の堅田の法住という人は、現在も大津市本堅田町に存在する本福寺(ほんぷくじ)という真宗寺院の三代目の住職でした。この寺は法住の祖父にあたる善道(ぜんどう)が真宗に深く帰依して開基した寺院ですが、三代目の法住が蓮如上人に深く帰依しその教化をあらゆる面において助けた人でありました。

もともとこの堅田というところは、特に中世に入り琵琶湖に面した漁労の村から水運・商業の町として発展したところといわれます。その中で特に全人衆(まろうどしゅう)と呼ばれる商業・手工業あるいは「宿」(宿屋)や「浦」(船主兼船乗り)いわば海運業などに従事した新興階層の町人の進出がめざましく、彼らが中世の堅田の繁栄をもたらしたと言われます。

法住は特にそういう人たちを念仏の教えに引き入れ、「十二ヶ月之念仏御講」という、月に一度の念仏講を開いて、その人たちに深い精神的な拠り所を与えました。

道西は本当の妙好人(みょうこうにん)という感じの人ですが、この法住と言う人は勿論熱心な念仏者ですが、何か多くの人を引き付ける組織者的な魅力をもった人であったようです。

ともかく京都の本願寺を追われた蓮如上人はこの近江(おうみ)門徒に迎えられます。

そしてこの二人に代表される近江門徒の力によって非常に困難な事態に追い込まれた蓮如上人が、その逆縁を全く新しい念仏教団に生まれ変わる出発点に変えていかれます。上人は翌年の十一月、金森で親鸞聖人の御影(ごえい)を安置し近江門徒と共に親鸞聖人の報恩講を勤められました。

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