浄土真宗の歴史
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紙面掲載年月:2017年1月
前回まで蓮如上人(れんにょしょうにん)の比叡山からの本願寺独立運動は、遂に比叡山の衆徒(しゅうと)による本願寺焼き打ちにまで発展し、蓮如上人は親鸞聖人の御影(ごえい)を奉じて各所に避難されねばならぬような困難に遭われますが、その上人を支え続けてくれたのが金森の道西(どうさい)、と堅田の法住(ほうじゅう)に代表される近江門徒(おうみもんと)であったことを述べました。
近江は上人が今まで長い間自ら足を運ばれて熱心に布教され、多くの念仏者が生まれており、その中心が道西と法住でしたから、上人はこの困難をご縁にして、その近江に腰をすえて今まで以上に熱心に念仏の教えを弘めておられます。そして、それはただ近江地方だけでなく、以前からご縁の深い北陸地方にも度々足をはこばれたのは勿論、親鸞聖人の旧地関東にも赴(おもむ)いておられます。関東は上人が三十三歳の時と三十五歳のときと二度父存如上人(ぞんにょしょうにん)に伴われて出かけておられますから、今回は本願寺住職としては最初の布教の旅であったことになります。
蓮如上人は比叡山衆徒による本願寺焼き討ちという困難にあわれますが、それでへこたれるというようなことでなく、蓮如上人にとっては、ご門徒の人々と仏法を語り合い、念仏申しておられるところに親鸞聖人が生きておられ、そこが本願寺なのでありましょう。念仏の教えに自ら生き、一人でも多くの人にその教えを伝える、そのことにいのちをかけておられた上人のお姿をそこに頂くことが出来ます。
ところで比叡山の衆徒が出した牒状(ちょうじょう)に蓮如上人が「無碍光宗・むげこうしゅう」という一宗を建立し、愚昧(ぐまい)の者たちにすすめていると言っているところがあります、これは上人が門徒の為に名号本尊(みょうごうほんぞん)として「帰命尽十方無碍光如来・きみょうじんじっぽうむげこうにょらい」という十字名号を書いて与えられました。門徒はそれを表装して掛軸にして床の間にかけ、それを本尊として朝夕の勤行をしたのです。そのことを指して「無碍光宗」といったのです。
現在は皆仏檀に絵像の本尊をかけ礼拝するのが普通ですが、それが一般になったのは近年のことであろうと思います。親鸞聖人にも「南無阿弥陀仏」と書かれたものはなく、みなこの十字名号のようです。口に称える名号は言うまでもなく「南無阿弥陀仏」です。然し、この阿弥陀仏という仏名の阿弥陀は、もともとインドの「アミタ」という言葉に中国の学者が漢字をあてはめたものです。インドの天親菩薩はその「アミタ」と言う言葉の意味を「十方を尽して碍(さわ)りなき光の如来」と表現されました。その仏は我われ衆生の我執煩悩(がしゅうぼんのう)に閉ざされ日夜苦しんでいる心に働き、その闇を破って平安を与えて下さる光の仏で、それの到らぬ所はないと教えてくださっているのです。
それで親鸞聖人は常にこの十字名号をご門徒に与えておられました。蓮如上人もそれにならわれたのであります。多くの御門徒(ごもんと)がその十字名号を掲げ念仏申して生きていたのです。それを見て比叡山の衆徒が「無碍光宗」と呼んだと思われます。
浄土真宗の歴史
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紙面掲載年月:2017年3月
前回まで蓮如上人(れんにょ)の比叡山からの本願寺独立運動は、遂に比叡山の衆徒(しゅうと)による本願寺焼き打ちにまで発展し、蓮如上人は親鸞聖人の御影(ごえい)を奉じて各所に避難されねばならぬような困難に遭われますが、その上人を支え続けてくれたのが近江(おうみ・滋賀県)門徒であり、上人はその近江を拠点にして、この近江は勿論、特に北陸方面に教化を進められたことを述べました。
近江門徒の中心は堅田(かただ)で現在の滋賀県大津市にあたります。その当時堅田は琵琶湖に面した水運・商業の町として非常に発展していました。そしてこの町は比叡山の玄関口にあたり、堅田と比叡山はもともと経済的にも精神的にも切っても切れぬ深い関係にありました。その堅田の真宗門徒が、比叡山衆徒が一番敵と考えている蓮如上人を奉じて堅田を上人の教化の拠点にしていたのですから、色々深刻な問題も起こり、又そうあるのは当然でした。
当時、比叡山では多くの出家僧が厳しい修行をしていたわけですが、その比叡山延暦寺は官寺(かんじ・伽藍(がらん)造営費をはじめ、一切の経営維持費を官府(かんぷ)が支出する寺)として、朝廷は勿論、貴族、堅田の経済的に豊かな商人などによって支えられていました。そして、その体制の中で、あらゆる面での比叡山の拠点が堅田でありました。そうした比叡山とは切っても切れない関係の中で尚堅田の人々は蓮如上人を通して浄土真宗の教えを求めたわけであります。
「仏教」即ちお釈迦様の教えは生死(しょうじ)に迷う人間のその迷いを転じて悟りを求める教えであります。比叡山で修行している多くの僧侶はその悟りを求めて修行しているわけですが、その教えは出家して修行できるその人たちだけのもので、同じように生死に迷い苦悩しながら、修行の出来ない一般の人々に対しては、それら僧侶の加持祈祷(かじきとう)による鎮護国家(ちんごこっか)、つまり仏法に依って国家を守護(しゅご)し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、全ての穀物が実ることを祈るという在り方でそれに対し、具体的には地震、大火、飢饉、疫病等の発生した時、人々を苦しめる原因を悪霊(あくれい)・悪魔の祟りと考え、その退散・折伏(しゃくぶく)の祈祷(きとう)をして人々の平安を祈る仏教として存在していました。
堅田の人々は比叡山の仏教は仏教としてそれを支えながらも、一人の苦悩する人間としての根本問題に対して、出家・在家を問わず全ての者の救われる仏道として、浄土真宗の念仏の教えにその拠り所を求めていたのでありましょう。 こうした矛盾の中で、蓮如上人は堅田や金森(かねがもり)の門徒たちの熱烈な支持に感謝しつつも、比叡山の麓での伝道の限界を自覚されることになります。そして蓮如上人の心は次第に北陸の地に向かって動き始めました。そして文明(ぶんめい)三年五月、上人五十七歳の時、上人は越前吉崎(よしざき)の地に坊舎(ぼうしゃ)を建て教化の拠点をそこに移されることになります。
浄土真宗の歴史
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紙面掲載年月:2017年5月
前回まで比叡山衆徒(しゅうと)による本願寺焼き討ち以来、蓮如上人(れんにょ)を支え続けてくれたのが近江(おうみ・滋賀県)門徒であり、上人はその近江を拠点にして、この近江は勿論、特に北陸方面に教化を進められましたが、蓮如上人はその近江門徒たちの熱烈な支持に感謝されつつも、比叡山の麓での伝道の限界を自覚され、文明(ぶんめい)三年五月、上人五十七歳の時、越前(福井県)吉崎の地に坊舎(ぼうしゃ)を建て教化の拠点をそこに移されたことを述べました。
もともとこの北陸の地は祖廟(そびょう)を本願寺にされた覚如上人(かくにょ)の時代に教線が切り開かれ、それ以後歴代の法主(ほっしゅ)の教化によって本願寺の末寺(まつじ)がかなり存在していました。それは、蓮如上人の本願寺八代目住職を強力に推し進めて下さった叔父如乗(じょうにょ)さまが創立された現在の金沢市二俣(ふたまた)の本泉寺(ほんせんじ)をはじめ、その他第五代綽如上人(しゃくにょ)創立の富山県井波町(いなみ)の瑞泉寺(ずいせんじ)など、現在は大谷派の井波別院(いなみべついん)ですが、これらの方々の熱心な教化によって北陸一帯には多くの真宗門徒が存在していました。蓮如上人みずからもかつて父存如上人(ぞんにょ)と共にこの北陸の伝道に努力され、それ以来近江に居られる時も当然この北陸地方は最も熱心に布教された所であります。そしてこの度、越前吉崎に坊舎を建て北陸教化の拠点にされました。
この吉崎は現在の福井県金津町吉崎にあたり、福井県も北の最も石川県に近い所にある町です。その地に東・西本願寺の別院が置かれ、その坊舎跡には記念碑が建てられ、その一番奥まった所に蓮如上人の銅像が建てられています。ところで当時のその吉崎御坊(よしざきごぼう)の様子について蓮如上人はその御文(おふみ)に次のように述べられています。
「抑(そもそも)此(こ)の三ヶ年の間に於いて、(中略)細呂宜郷(ほそろぎごう)の内、吉崎とやらんいひて、一つの聳(そび)えたる山あり。その頂上を引き崩して屋敷となして、一閣(いっかく)を建立す。とき(時)こえ(声)しが、幾程(いくほど)もなくして、加賀(かが・石川県)・越中(えっちゅう・富山県)・越前(えちぜん・福井県)の三ヶ国の内のかの門徒の面々寄り合いて、他屋(たや)と号して、いらかを並べて家を造りしほどに、今ははや一・二百軒の棟(むね)かずもありぬらんとぞおぼへけり。さるほどに、此の山中に経廻(けいかい)の道俗男女(どうぞくなんにょ)その数幾千万という事なし。しかれば、これ偏(ひとえ)に末代(まつだい)今の時の罪深き老少男女において聞かしむるおもむきは、何のわずらひもなく、ただ一心一向(いっしんいっこう)に弥陀如来をひしとたのみたてまつりて、念仏申すべし、とすすめしむばかりなり。あら殊勝(しゅしょう)の本願や。まことに今の時の機(き)にかなひたる弥陀の願力(がんりき)なれば、いよいよ尊(とうと)むべし、信ずべし。あなかしこ、あなかしこ。文明五年八月二日」
この御文は、吉崎進出後、わずか二~三年の間に於ける吉崎御坊の様子を物語っておられるものですが、実に驚くべき様子です。ここで多屋と言われているのは、諸国の門徒が参詣(さんけい)して居る時宿泊するために境内(けいだい)に設けた家屋です。