浄土真宗の歴史
59
紙面掲載年月:2017年11月
蓮如上人(れんにょしょうにん)の教化(きょうか)によって、吉崎御坊を拠り所にされたことを今まで述べてまいりました。蓮如上人が吉崎(よしざき)で活発に布教活動を行われている頃、足利将軍家の相続問題をきっかけとした「応仁の乱・おうにんのらん」によって、京都は戦乱の巷になります。そして、その戦乱は各地に波及し地方の武士勢力が強まり、幕府の権威は地におち、北陸でも争乱が絶えぬ時代になります。
そうした時代の中で生まれたこの教団は、宗教団体でありますけれども、その門徒には農民だけではなく、土地の豪族や武士もおり、それまで、幕府の権威によって立っていた守護(しゅご)や領主(りょうしゅ)の立場が不安定になるに従って、吉崎教団に近づきその力を利用しようとする動きも現れ、吉崎教団がどう動くかということが大きな問題になるような状況に追い込まれていきます。
そうした中で、蓮如上人は吉崎教団が浄土真宗の教えに基づく念仏教団であることを「お文・おふみ」などを通して誡められますが、状況は非常に厳しい方向にむかいます。
然し丁度その頃吉崎は失火に見舞われます。南大門の多屋・たや(宿坊)から発した火は北大門まで一気になめつくし、九つの多屋と本坊一つが全焼し、繁栄を誇った吉崎寺内町も南風にあおられて、時の間に灰燼に帰しました。蓮如上人はお文の中で
「當年文明第六、三月二十八日酉(とり)の刻(こく)とおぼへしに、南大門の多屋より火事出でて、北の大門にうつりて焼けしほどに、已上南北の多屋九つなり。本坊を加えてその数十なり、南風にまかせて焼けしほどに、時の間に灰塵となれり。中々言葉もなかりけり」(帖外39)
とその大火の状況と、上人の深い悲しみを述べられています。酉の刻とありますから、今の午後六時頃のことです。文明六年は上人六十歳の年で吉崎に進出されて三年目の事です。
又その時に起きた悲しい出来事が伝えられています。丁度上人は部屋で読書をされていましたが、火事ということで上人は御側の者に導かれて安全な場所に避難されます。然し今まで居られたその本坊に火が移り燃え上がります。それを見ながら、その時、上人がはっと気付かれたのは,今まで読んでおられた書物のことでした。
それは親鸞聖人がお書きになった直筆の「教行信証・きょうぎょうしんしょう」という書物でした。あわててそれをそのまま机の上に残してきたということで、あれが焼ければ取り返しのつかぬことになると考えられた上人は、燃え上がった本坊の部屋に引き返そうとされます。
驚いたのは御側の人と避難していた周囲の人達です。あわててそれを止めにかかります。皆で上人を引きとめていたその時、その中の一人の僧侶が燃え上がる本坊に向かって走り出しました。それは上人の門弟(もんてい)の一人本向坊了顕(ほんこうぼうりょうけん)という人で、誰もそれを引きとめる遑(いとま)もない出来事でした。やがてその本坊は焼け落ち、本向坊は出て来ません、焼死したのです。やがて上人は焼け落ちた本坊の火の状態が収まった頃、御側の人と本向坊の名を叫びながら上人の部屋のあたりまで来られます。そして、そこで倒れた本向坊の死体を見つけ、駆け寄ってその死体を抱き起こして驚かれました。本向坊は自ら割腹(かっぷく)し腹中に油紙に包んだ大切な聖典を納めて、うつ伏せになって焼死していたのです。上人はその死体を抱きしめて号泣されました。
然しそうした悲しい出来事を経て、親鸞聖人自筆の教行信証の中の一冊、証巻(しょうかん)が焼けずに護られたのでした。この教行信証六巻の書は現在西本願寺に残されています。そうゆう歴史を歩んできた物であることを思うと深い感動を禁じ得ません。
浄土真宗の歴史
60
紙面掲載年月:2018年1月
前回まで蓮如上人が吉崎で活発に布教活動を行われていた頃、京都では足利将軍家の相続問題をきっかけとした「応仁の乱・おうにんのらん」が起こり、その戦乱は各地に波及して地方の武士の勢力が強まり、幕府の権威は地におち、北陸でも争乱が絶えぬ時代になり、それが吉崎教団に色々な影響を与えることになった事を述べました。
今まで幕府の権威によって立っていた守護(しゅご)や領主(りょうしゅ)の立場が不安定になるにつけ、宗教団体である吉崎教団ですが、その内容は農民だけでなく、土地の豪族や多くの武士も抱えた一大集団でした。そしてその農民も嘗ては封建制度のもとで黙々とただ大地を耕していただけの人々が、時代の急激な変化の中で、念仏の教えを通して初めて人間としての自覚が与えられ、世の有様をはっきりと見定める事の出来る人間になっていて、それが教団という嘗てない組織の後ろ盾をもった自信にあふれた、今までの農民とは全く違う人々になっているのです。それが蓮如上人(れんにょしょうにん)のひと声でどちらにでも動くであろうことを考えると、これに近づきその力を利用しようとする動きも現われるのです。
もともと吉崎御坊(よしざきごぼう)はその在所、越前の守護朝倉氏との関係は極めて良好でしたが、隣国加賀の守護富樫(とがし)家が家督争いで兄政親(まさちか)と弟幸千代(ゆきちよ)が争い、その政親方に越前の朝倉氏が助勢して結局兄政親方が勝つのですが、その朝倉方に本願寺門徒が助勢しているのです。蓮如上人は政治との関係を極力避けておられたことは前回詳しく述べましたが、上人の側近であり教団の対外的なことは一切任されていた下間蓮崇(しもつまれんそう)が「教団安泰・きょうだんあんたい」を銘打って、越前守護の朝倉氏に助力したといわれています。そして、その時が吉崎御坊大火災の直後でした。
ともかくそれで富樫家の内紛は決着し兄正親が加賀の国の守護に収まります。ところで、この乱に参加した門徒の中には「国中の武士の輩(たぐい)」が目立って多かったといわれます。これらは国人(こくじん)といわれる在地の武士ですが、その者たちがおのれの支配下にある門徒農民を掌握し、それと提携して守護の支配に抵抗するような動きが出てきたり、また門徒農民は農民で績年の重課の負担をこの際とばかりに拒否したりするような動きが出てきました。然しこのような事態が重なると、当然守護体制そのものへの脅威となります。そこで正親は政策転換をはかり本願寺門徒を圧迫し、それに対して門徒国人が蜂起して正親軍と戦うという事態となり、所謂「一向一揆・いっこういっき」と言われるものの発端となります。それらは下間蓮崇がひそかに蓮如上人の名をかたって後ろで指揮していたといわれ、蓮如上人は何も知らされていなかったと言われています。
然しこうした事態は、ただひたすら親鸞聖人の本願念仏の教えの布教の為に苦労された事が、全く思いもかけぬ結果になったことを非常に悲しまれ、やがてこの地から上人は退去されることを決意されます。
浄土真宗の歴史
61
紙面掲載年月:2018年3月
前回まで蓮如上人の献身的な布教活動によって生まれた吉崎御坊を本山とする真宗門徒が、「応仁の乱」に端を発し、北陸の各地に生じた争乱に巻き込まれ、門徒の一部が吉崎御坊を拠点として、後世「一向一揆・いっこういっき」と呼ばれる権力者と対立する武装集団になり、蓮如上人を非常に悲しませることになった事情を述べました。
「一向一揆」について辞書によりますと「室町末期、越前・加賀・三河・近畿などで起こった宗教一揆。一向宗(真宗)の僧侶や門徒が大名の領国制支配と戦った」とあります。また「加賀の一向一揆」では「本願寺門徒が加賀国守護富樫政親を攻め、これを同国高尾城で自殺させた。以後およそ九十年にわたって加賀は『門徒持ち』の国となった。」とあります。
この「加賀の一向一揆」とありますのが、前回少し詳しく述べました吉崎御坊を拠点として結集した真宗門徒の一揆であります。
ただひたすら親鸞聖人の念仏の教えを一人でも多くの人に知って欲しいと、その事一つの為に苦労された蓮如上人です。それは阿弥陀如来の本願を信じ念仏して浄土往生を願う教えです。その教えは権力者、一般庶民のへだてなく、総ての人間は小さな自己中心の欲望に翻弄され、争いを繰り返して生きている。その己の人間業そのものに目覚めしめ、念仏して浄土往生を願わせる教えです。その根本を見失い、あたかも現代的表現でいえば、自由と平等を求める「世直し運動」の宗教集団のようになっていったのであろうと思われます。そうした全く思いもかけぬ成り行きに、蓮如上人は非常に悲しまれます。
然しそれは上人の力ではどうすることも出来ぬ状態に追い込まれ、又御坊の大火災とも重なり、そのうち上人自身の身の安全も案ぜられるような状況になります。上人は遂に多くの門徒の行く末を案じながら、身近かなわずかな人に護られて吉崎から脱出されます。それは文明七年八月廿一日で上人はすでに六十一歳、吉崎御坊を建立されてわずか四年目のことでありました。
上人達は海路若狭の小浜(福井県小浜)に上陸し、そこでしばらく逗留の後、そこを出発しやがて河内の出口(大阪府枚方市出口)に落ち着かれます。この地は以前から蓮如上人の御縁の深い法地でしたが、石見入道光善という念仏者を中心とした出口門徒に迎えられ、やがてこの地に光善寺という寺院も建立され、ここを根拠地として改めて蓮如上人の仏法宣布の御苦労がはじめられました。