浄土真宗の歴史
62
紙面掲載年月:2018年5月
前回まで蓮如上人(れんにょしょうにん)の御苦労によって生まれた吉崎御坊(よしざきごぼう)が一部の門徒によって「一向一揆・いっこういっき」の拠点となり、念仏教団としての精神が失われたことを悲しまれた上人が吉崎御坊を脱出され、以前から念仏の法地で特に蓮如上人に深く帰依した石見入道光善という念仏者を中心とした出口門徒に迎えられたことを述べました。
出口(でぐち・大阪府枚方市出口)は淀川に臨む河港で、淀と難波の中間に位置し、京街道の宿駅として発展し経済の要衝(ようしょう)として栄えていた所でありました。その地を拠点に蓮如上人の近畿一帯にわたる教化活動が始まりました。この地方は言うまでもなく奈良・京都を中心にして佛教の長い歴史と伝統をもつ所ですが、その関係もあり、旧聖道門や禅宗の僧侶であった人が回心して真宗の僧侶になった人が多くいて、その人達が盛んに親鸞聖人の教えを人々に伝えているのですが、その教えが転宗前にその宗派で身に付けた仏教の基礎的教養を基にして、真宗の教えを自分流に解釈して、念仏は人間の内にある仏性を開発する道で念仏すれば仏になるというようなことを説いて人々を惑わす異義が多く、特にこれを正す為の御苦労が多かったことが伝えられています。又この近畿地方でも奈良を中心に真宗門徒による一揆の動きがあった為でしょうか、この時代に出された御文の中に
「当流門徒中においてこころうべき次第は、内心には信心を深くたくわえ、まづ外には王法をもって本とし、諸宗・諸法を謗せず、国・ところにあらば、守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢・所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもて本とし、後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつれ。(中略) かかるわれらごときのあさましき一生造悪のつみふかき身ながら、ひとたび一念帰命(いちねんきみょう)の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすく助けたまえる、弥陀如来の不思議にまします超世の本願のありがたさよと深く思いたてまつりて、その仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなえて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるばかりなり。このうえには、後生(ごしょう)のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもてのほかみな人の何の不足ありてか、相伝もなきくせ法門を言いて人をまどはし、また無上の法流をけがさんこと、まことにもてあさましき次第なり」
というようなものがあります。そこに「内心には信心を深くたくわえ、まず外には王法を本とすべし。」というようなものがあります。然しここに書かれている事などは、決して蓮如上人の権力者に対する妥協ではないのです。
念仏の教えに目覚めるということは現代に言う人間はみな平等という人権思想に立つということではありません。仏教でいえばそれは我執に立つ人間の理想主義にすぎず、その世界は結局「自己を是とし、相手を非とする」争いの終わる時はありません。その世界の平和は結局妥協です。阿弥陀仏はそうでしかあり得ぬ人間の世界を穢土として、その人間の世界を超えた阿弥陀仏の浄土への往生を呼び掛けておられるのです。阿弥陀仏の大悲本願の前に立てばすべての人間は、それぞれ職業も違い立場も違いますが、結局「独生・独死・独去・独来、誰も代ってやれず、代ってもらえない人生において、与えられた人生を尽くしていくより外はない孤独な一生造悪の凡夫なのです。」その人間が如来の本願を信じ、念仏申して、それぞれが因縁によって与えられた立場でお互い支え合いながら生きているのです。そういう道理をどこまでも信じて、お互い励ましあって生きて行くのが念仏者なのです。そこに立ってもらいたいという蓮如上人の切実な呼びかけであったと思います。
上人の教化は近畿一帯に及ぶものでしたが、その御苦労の間にもやはりもともと本願寺の存在した京都に本願寺を再興したいという願いがあられました。然し当時の京都は足利将軍家の相続問題をきっかけとして始まった十数年に及ぶ「応仁の乱」の為に京都は戦乱の巷となり、都全体が焦土に化していたと言われます。
浄土真宗の歴史
63
紙面掲載年月:2018年11月
前回まで蓮如上人(れんにょしょうにん)が北陸吉崎(よしざき)を退居され大阪出口(でぐち)を拠点として近畿一帯の教化に専念されながら、本願寺再興を念じ続けてこられたこと、然し都の京都は応仁の乱の為に焦土に化していたことなどを述べてきました。然しその状況の中で蓮如上人の願いがやがて京都の東、山科(やましな)の地に実を結ぶことになります。応仁の乱が終結した翌年文明十年の一月、蓮如上人はこの山科に本願寺を建立する決意をされ出口を起ち山科の野村の地に居を移されます。
この地は地理的には東海道にも東山道にも通ずる喉首(のどくび)にあたり、上人が比叡山の衆徒の迫害から逃れて最初に落ち着かれた近江門徒の拠点である大津に最も近く、北陸・東海・畿内南部に広がった門徒地域の中心に位置する盆地であったといえます。ただこの山科の地を選ばれたについてはこんなエピソードが伝えられています。近江門徒の中に金森の道西(どうさい)という人がいました。蓮如上人が本願寺住職になられる以前から上人とのご縁が深く上人が最も信頼されていた人で、一番最初の「お文」はこの道西の要請によって出されたものでした。その道西が出口における上人の法縁に参詣し、金森に帰るため輿に乗ってこの山科を通りすぎる頃、彼が輿から降りて、のちに山科の本願寺が建つことになった野村の方を指して「この通りにて仏法がひらけ申すべし」と言ったというのです。人々は道西が年をとって耄碌(もうろく)してこんなことを言うのだと思っていたのですが、のちにこの地に本願寺が建って仏法が栄えた。もしかしたら上人は道西のこの話を聞いて、それがヒントになり、のちに山科の地に本願寺建設を定められたのかもしれないと言われています。
蓮如上人は居を山科に移されてから足かけ五年にわたる大工事の指揮をとられました。上人が最初にかかられた工事は御影堂(ごえどう)建設でした。その工事が終わり新しい御影堂に親鸞聖人の御木像を安置され、十一月二十二日から二十八日まで報恩講をお勤めになります。上人はこの御影をかついで逃げ回った時のことなどを思い出し、深い感慨にひたられ、如来・聖人に対する謝念を捧げられたのでありましょう。そして、その上人の願いを受け止め上人を支え続けてくれた近江門徒を始め、出口門徒に代表される近畿一帯の門徒、また吉崎時代の北陸門徒など多くの門徒に対する深い感謝の念を捧げられたのであります。十五年の間、本願寺の名前はありましたが、実体はありませんでした。それは文明十二年、上人六十六歳の時であります。翌文明十三年には阿弥陀堂の工事も終え、寝殿、庭園、大門、寺を取り巻く堀など一切が完成したのは文明十五年八月です。本願寺のその壮麗な伽藍(がらん)は応仁の乱からまだ立ち上っていない京都にくらべ人々の目を奪ったといわれます。足利将軍夫人として権勢をほしいままにした女性として名高い日野富子が本願寺に参詣して、本願寺伽藍の壮麗なすがたを激賞したという話は有名です。
又山科本願寺はその建物だけの問題だけでなく、やがてこの山科に本願寺を中心とした本格的な「寺内町」が出現したという意味で、日本の都市の歴史で大切な意味をもったものでした。それは「真宗の信仰を共有する宗教的連帯感によって構成された都市」として発展したものでありました
浄土真宗の歴史
64
紙面掲載年月:2019年2月
前回まで蓮如上人の長い間の念願であった本願寺再興が京都山科(やましな)の地において実現したこと、そして、それは本願寺を中心とした真宗の信仰を共有する宗教的連帯感によって構成された「寺内町・じないちょう」の出現であったことを述べてきました。この本願寺の工事総てが完成したのが文明十五年八月でありますから蓮如上人六十九歳の時であります。それは上人が比叡山衆徒(しゅうと)によって京都の本願寺を焼きはらわれ、近江門徒に援(たす)けられて京都を離れられたのが上人五十一歳の時ですからそれから十八年目にあたりました。
ある書物には「すべての作事を終えた文明十五年の八月下旬には疲れが一気に噴き出したのであろう。その月の二十九日有馬(ありま)の温泉(兵庫県)に湯治に出かけていて、八首の歌をちりばめた紀行文が残されています。その中の一首に
さかこえてゑにし有馬の湯船には
けふぞはじめて入(い)るぞうれしき
というものがあることが記されています。
上人の本当に安堵されたお心持ちを詠われたことが窺われます。然しその間も上人の教化活動の休まることはありませんでした。そして本願寺が建設されたことが教団に新しい動きを生みだした事が伝えられています。
現在も真宗は「真宗十派」といい東西本願寺以外に本山が八つあります。本願寺は、蓮如上人は勿論親鸞聖人の血筋の方が住職をしておられますが、他の八つの本山はそれぞれ親鸞聖人のお弟子であった方が開かれたもので、その血筋の方が住職をしておられ、蓮如上人の時代も北陸や近畿地方でそれぞれ教化に励まれ多くのご門徒がそれに帰依されていたわけです。
その中でも特に京都市内に本山があった仏光寺(ぶっこうじ)派では派内の寺院門徒の多くが蓮如上人の教化(きょうか)に深く帰依し、仏光寺を離れ本願寺に帰依したことが伝えられています。
この仏光寺は以前から布教伝道の手段として、「絵系図・えけいず」と称して熱心な門徒の氏名とその絵姿を師と弟子との関係を表わす絵系図として現わす台帳を作製し、これに載せられれば浄土往生間違いなしというような事が実際に行われていた事が伝えられ、蓮如上人はそのことの間違いを度々批判されています。
蓮如上人の教化は常に自ら身を運び、地方の有力者を中心に「講」を立ち上げ、本尊の名号を自ら書き、皆と共に正信偈・和讃のお勤めをし、自ら書いた「お文」を拝読(はいどく)して、親鸞聖人の教えを「南無阿弥陀仏の信心」の教えと共にいただき、自らその喜びをひたすら語られる、それは皆を導く導師ではなく、同行・同朋と共に歩まれる正に捨身の歩みでありました。そのありかたが人々に伝わらぬ筈はありません。本願寺派・仏光寺派というような派を超えて蓮如上人のもとに人々が集まって来たのは、すべて如来のおはからいであったと言えます。
しかしその蓮如上人も延徳元年上人七十五歳になられて住職をお子さんに譲られ隠居されます。