
浄土真宗の歴史
65
紙面掲載年月:2018年7月
前回まで蓮如上人の長い念願であった本願寺再興が京都山科の地に実現し、その教化がいよいよ広くゆきわたりますが、上人は七十五歳の時住職をお子さんに譲られ隠居されたことを述べてきました。
その上人が隠居されるについて、上人晩年の言行を記録した「空善記・くうぜんき」に
「延徳元年(七十五歳)八月二十八日、南殿へ御隠居の御事とて御うつり候。その夜のたまはく、功なり名をとげて身しりぞくは天の道とあり。さればはや代をのがれて心やすきなり。いよいよ仏法三昧までなりと言へり」
とあり、当時の上人の心境を残しています。
その後継者についてですが、上人が最も信じ頼りにしておられたご長男の順如上人(じゅんにょ)が、文明十五年五月つまり山科本願寺造営中完成間近な頃病気の為に亡くなっておられます。まだ四十二歳でした。蓮如上人の深いお悲しみが察せられます。
上人には何人もお子様が居られたのですが、長男の順如上人が亡くなられ、その後を誰にするかという事になったわけでありますが、何と言いましても、総てに於いて余りにも偉大な蓮如上人の後継者として住職になるということは、その責任の重さは言うまでもなく、どうしてもその人格において、またその能力において、蓮如上人と比較されることは当然で、それを受け止め、自らの総てを尽くす覚悟がなければ本願寺住職を勤めることは不可能です。そこで我こそはという人は誰もなく、みな息を潜め緊張した空気がお子さんの中にありましたが、結局最後は蓮如上人自らの指名によって五男の実如(じつにょ)さんが本願寺住職に決定します。
実如上人はその性格は謙遜・実直で人々から信頼され愛される人物で、忠実に蓮如上人の教えを遵守し、乱世にあっても怯まず教団の守りに徹する人物と上人は考えられたのであろうと言われており、その上人の眼に狂いはなかったと伝えられています。実如上人はやっとのことで得心して引き受けられたと言われていますが、この実如上人の時代に現在も受け継がれている「御文・おふみ」を通しての伝道法式が確立し、実如上人の次男円如(えんにょ)さんの時に「五帖の御文」の編集が出来あがりました。
蓮如上人は住職を譲られた延徳(えんとく 1489年)元年八月二十八日の逮夜の席から、本堂の住職の席を実如上人に譲り、自ら脇の横畳に着座されました。然し蓮如上人は隠居されてからも以前と変わらず、正しく「仏法三昧」各地の門徒教化に励まれ、御文を書かれ、門徒の求めに応じて名号を書き、各地に寺院を建設されるなど、その活動はとても七十代後半の人とは思えぬ姿でありました。
このようなエネルギーに満ちた蓮如上人の最晩年の事業として石山御坊の建設があることを忘れる事は出来ません。石山というのは現在大阪城があるあの場所といわれていますが、上人が隠居寺として建設されたものでした。
浄土真宗の歴史
66
紙面掲載年月:2018年10月
前回まで蓮如上人の長い念願であった山科本願寺が実現し、上人は七十五歳の時ご子息実如上人(じつにょ)に住職を譲られ隠居されたことを述べてきました。
然し上人は隠居されてからも以前と変わらず、正しく「仏法三昧・ぶっぽうざんまい」各地の門徒教化に励まれ、その活動は以前に勝るおすがたでありましたが、その上人の最晩年の事業に石山御坊(いしやまごぼう)の建設があります。
それは上人の隠居寺として建てられたものと言われているものですが、明応六年上人八十三歳の時に完成しそこに移られています。然し上人は八十五歳の三月に命終されていますから、そこでの生活は最晩年のわずかの間でした。
もともと上人が隠居された時は山科御坊(やましなごぼう)の中の南殿と呼ばれている所を隠居所とされていましたが、何と言いましても御坊の中での上人の存在は大きく、隠居され住職はお子様に譲られても、門徒の眼は結局蓮如上人の方に向いてゆき、住職が軽んじられる状態であることを上人が心配され、御坊から離れた所に隠居所を移すことを考えられたのであろうと言われています。
ところで、その石山というのは現在の大阪市の真ん中、大阪城の三の丸の場所だと私達は教えられていましたが、色々の調査の結果それより少し南側の地であったと言われています。当時は摂津国東成郡生玉庄内(ひがしなりこおりいくだましょうない)というところで、北は淀川、東は大和川に囲まれた丘陵地の一部で石山と呼ばれる景勝地で、非常に閑静な場所であったようです。
上人はどういう因縁でこの地を選び御坊を建てられたかは不明ですが、そこに隠居所を建てそこに移られます。ただ隠居所といいましても、周囲に塀を廻らした立派な寺院で、その御坊はこの地方の門徒教化の拠点でありました。
然しその頑健そのものであった蓮如上人も石山御坊に移られた翌年明応七年の春頃から身体の異常を感じられるようになります。そして、その五月七日には山科御坊の親鸞聖人の像においとまごいに行きたいと言って上洛されています。上人は自身の死期の近づいたことを感じておられたのでありましょう。又、十一月の石山御坊の報恩講に参集されたご門徒の為に出された御文には
「愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。
ついには当年寒中には必ず往生の本懐をとぐべし。存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。」 聖典(第二判)P1000
と書かれて、自身の命終の覚悟と門徒の信心決定を案じておられた事がうかがわれます。
やがて翌明応八年二月二十日上人自らの希望で山科御坊に帰り、翌日御影堂にお参りされ、二十五日には輿に乗って御坊の周囲を廻りこの世の名残を惜しみなどされています。
三月一日には住職の実如上人を始め兄第たちと雑談したり、それらを支える門徒たちと対話しながら本願寺の将来について更なる援助を願ったりされています。こうした所に石山御坊での命終を選ばず、山科での往生を考えられた上人の心中を察する事が出来ます。
おそらく自分の死後の実如上人を中心とする本願寺教団の体制を堅めておきたいという事が蓮如上人の最大の目的であられたことがうかがえます。
明応八年三月二十五日正午「いかにも静かに御ねむりあるがごとくにて、念仏の御息はとどまり」八十五年間の多難の生涯を多くの子供や門徒に見とられながら浄土へ旅立たれたのである。
我われは上人を「中興の上人」とお呼びし、その恩徳を讃えているのですが、正にその通りのご生涯であられた事を改めて感じさせられるのであります。