01

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2008年7月

   今月から、光善寺が拠り所にしている「親鸞聖人の教え・浄土真宗の歴史」について考えてみたいと思います。今日私たちはこの「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)という言葉を聞くと、すぐ本願寺を本山にする宗派のことを思い出します。それが間違いでありませんが、もともと親鸞聖人が「浄土真宗」という言葉を使われるときは、お釈迦さまによって明らかにされた「阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願(ほんがん)を信じ、念仏申して浄土往生(じょうどおうじょう)をとげる真実の佛教」をあらわす言葉として使われています。

 佛教は皆様よくご存知のように、今から約2500年前にインドに出られたお釈迦さまによって説かれた教えがその始まりです。釈迦の誕生は紀元前463年(諸説あり)といわれていますが、もともと、インドはエジプト、メソポタミアや、中国などと共に、世界で最も早く文化の開けた土地の一つでした。そのインドで佛教はおこり、多くの人びとの心を潤しながら、やがてインドから、その教えと文化は、「佛教東漸」(ぶっきょうとうぜん)の言葉の通り、次第に東へ東へと進んでいきます。そして中国に入ります。その広大な地域と高い文化をもったこの国で、伝統的な中国文化と融合しながら、非常な発展をとげました。現在、我々が拝読している多くの経典(きょうてん お経・お釈迦様の教え)は、もともとサンスクリットという古いインドの言葉で書かれていましたが、中国で中国の言葉(漢字)に翻訳されたものです。その経典と仏像が、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたのが、欽明天皇の7年(西暦538年)と言われていますから、1470年前のことです。そして、日本の仏教は、多くの高僧が、みな中国に渡って佛教を学ばれましたから、漢字になった中国の佛教が日本に伝えられました。しかし、そうして日本に入った佛教は、その受容自体が国家的事業であった関係もあり、当時の日本の国家体制と完全に一体となった、「鎮護国家」(ちんごこっか)という理想のもとに、王朝の権威を宗教的・思想的に名分づけ、それを支える宗教と考えられ、佛教本来の人間苦悩の解脱(げだつ)という精神は長くかくされていきます。皆様よくご存知の奈良の「東大寺」は、聖武天皇(しょうむ)の願いによって創建された寺院ですが、正式には「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)と呼び、全国に網の目をめぐらすように造られた「国分寺」の総本山で、その中心にあるのがあの大きな本尊、「大仏さま」です。あの仏の力によって、「五穀豊穣」(ごこくほうじょう)「鎮護国家」(ちんごこっか)が祈られました。そして後には、後白河法皇(ごしらかわ)のように、天皇も出家して上皇となり、院政という権威をふるい、また出家である僧侶が国政にかかわるようなこともおこりました。やがては、戦勝祈願をしたり、天皇や皇后、貴族の病気平癒の祈願、はては安産の祈願までするようになり、佛教の本来性は次第に曲げられてゆきました。その佛教が日本の伝統文化にしっかり根をおろしつつ、しかも新しい精神生活や価値観を生み出していくような、日本人のものとなった佛教としてよみがえるのは、伝来から600年の時がながれた、鎌倉時代になってからです。

 鎌倉時代というのは、天皇を中心とした王朝貴族の政治が、鎌倉幕府という、武士によって取って代わられる、日本の歴史の上で、画期的な大転換の時代でした。源平の争い、やがて平家の滅亡、それにからむ奈良の僧兵たちの争いによって、奈良仏教の象徴であった東大寺は焼け落ち、大仏さまも台座の一部を残して熔け崩れてしまいます。しかも、その大混乱の中で、地震・大火があいつぎ、さらに飢饉や疫病などのために、都でさえ死者があふれ、捨てられた死体のために加茂川が堰き止められ、死臭が都に満ちたといわれるような惨状でした。そうした中での人々の不安と苦しみは言いようの無いものでした。その時代の中から鎌倉仏教を代表する、法然上人(ほうねんしょうにん)と親鸞聖人(しんらんしょうにん)が出現され、その教えが「浄土真宗」と呼ばれるのです。その教えは、知的に優れた、限られた人たちだけでなく、むしろ民衆の心に分け入って、ただ「吉凶禍福(きっきょうかふく)」に迷うだけの、暗い精神生活の中に明るい自覚の智慧をあたえ、大悲の中に生きる安らかさを知らしめるおおらかな佛教でした。それが南無阿弥陀仏の佛教です。

           

 

 02 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2008年9月

   第1回において、鎌倉時代までの日本の仏教は、国家体制と一体となって、ひたすら「鎮護国家」(ちんごこっか)「五穀豊穣」(ごこくほうじょう)を祈る宗教になり、佛教本来の人間苦悩の解脱という精神が発揮されなかったことを述べましたが、これは国家であれ、個人であれ、全く新しい文化を、他から受け入れる時、どうしても、今まで持っていた観念とか、常識で理解して行くということは、仕方のない面があります。それまでの日本人の持っていた宗教は「鎮護国家」と「五穀豊穣」を祈る神様だけだったのですから、その観念によって、佛教の「ほとけ」を「神」に置き換えて、新しい「ほとけ」に祈るということが行われました。しかし、まだその権力が脆弱であった大和朝廷は、この全く新しい文化である仏教を、受け入れることの出来た優れた王朝であることを、内外に誇示し、又自ら自信を深めたことも事実でした。当時、奈良の寺院のほとんどは、現在でいえば国立の佛教大学で、そこで多くの僧侶が佛教の深遠(じんえん)な哲学(東大寺は華厳(けごん)、興福寺は法相唯識(ほっそうゆいしき))などの研究を重ね、厳しい戒行(かいぎょう)に励んでいました。しかし、その僧侶は国家の統制の内にいる国家公務員で、そこで佛教を学んだ僧侶が一般民衆に親しく仏教を説くことは禁じられており、限られた王朝貴族がその佛教の精神に触れるだけでした。しかし、今から考えて見ても、それまでの日本では想像も出来ないような、壮大な、また華麗とさえいえる寺院の建設や、多くの、美しい仏像の彫刻が為された事は、本当に驚くべき事でした。それは、当然中国や朝鮮からやってきた工人や、彫刻家の指導を受けた日本の大工や彫刻家によって作られたものですが、現在残されているあの美しい寺院や、そこに安置されている仏像を拝しますと、それは単なる中国や朝鮮の模倣(まねごと)ではなく、日本人独特の優れた芸術的感覚と、深い宗教性が感じられます。現在奈良の寺院に参拝し、仏像を拝するとき、そこに日本人の仏教の原点、心の故郷が感じられます。千年の歴史をこえて、私たちと同じように、そこで跪き礼拝したであろう先人に出会うような懐かしさを感じます。

 日本の神道は、大自然の大きな恵みを感謝して生きる生活の中で、自然発生的に生まれた宗教です。然し、その大自然は大きな恵みを与えだけでなく、大地震や、大洪水。台風、天候不順から来る作物の不作など、多くの災害をもたらすものでもあり、その災害の前には人間は全く無力です。長い間努力して作り上げた人間の営みも、一瞬のうちに無に帰し、多くの死者を出し、飢餓と流行病が蔓延して、人間を絶望のどん底に落すのも、また大自然の働きです。そこで災害の無いことをひたすら祈り、またその恵みを感謝するのです。

 そうした宗教風土の中で、佛教は、私たち日本人に何を教えたのでしょうか。

例えば、ここに、社会的地位もあり、経済的にも、家庭的にも非常に恵まれている人がいるとします。しかし、その人にも老・病・死は必ずやって来ます。ある程度それを慰める道はあるでしょう。しかし、誰にも「代(か)わってもらえぬ、また代わってやれぬ」その人が、ただ一人受けてゆかねばならぬ、孤独と不安と苦痛は「感謝と祈り」の宗教では包めないのです。それは誰もどうすることも出来ぬ、人間自身が持っている根本的課題なのです。また、我々を一番苦しめるのは、愛する人との別れではないでしょうか。生き別れもそうですが、死によって愛するものが引き裂かれてゆく苦しみは、時間とともに忘れ去ることのできぬ、深い苦悩です。又、人間が生きるということは、限りない欲望の満足を求めて生きることを意味しています。そうすれば、大なり小なり、(国家的・個人的)お互いの欲望(物欲・愛欲・名誉欲・権力欲)の衝突からくる争いは免れません。そこから当然勝ち、負けがあり、善、悪が伴います。勝てば勝って、負ければ、負けて、どちらになっても、「将来に対しての不安」と「後悔」。そして「恨み」「憎しみ」が無くなることはありません。そうした心の葛藤を抱え、深い憂いを抱いて人間は「ただ一人」の死を迎えます。  

 この問題は、時代を超え、人類を超えて、人間であるならば、誰一人逃れることの出来ぬ根本問題なのです。その問題を明らかにし、それに正面から答える宗教が佛教です。神道の祈りは、この佛教によって「本当の祈り」に高められるのです。  

           

 

 03 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2008年11月

前回まで、鎌倉時代までの仏教は、国家体制と一体になって、ひたすら「鎮護国家」「五穀豊穣」を祈る宗教になっていたと述べましたが、その間、例えば皆様によく「お大師さん」と呼ばれてなじみの深い、高野山を開いた弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)や、又比叡山を開いた伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)などで代表されるような立派な高僧が多く現われ、仏教の興隆に努められたことは言うまでもありません。特に、このお二人は平安時代の方で、遣唐使の留学生として中国に渡り、空海は真言宗(しんごんしゅう)を、最澄は天台宗(てんだいしゅう)を学び、それまでは、奈良の諸寺によって栄えてきた旧来の日本仏教界に、全く新しい仏教をもたらされました。そして、仏教本来の「人間苦悩の解脱(げだつ)」という大目的を掲げて、多くの弟子を育てられました。この二大師によって代表される平安仏教は、仏教の本来の精神をまもるために、都の真ん中で政治体制と一体になって発展した奈良仏教と、たもとを分かち、高野山・比叡山という、人里離れた聖地である山上で、世俗を捨てた出家の僧侶が、厳しい学問と修行を重ねて解脱を求める仏教でした。そして、特に伝教大師の開かれた比叡山からは、鎌倉時代に入って、皆様もよくご存知の禅宗の栄西禅師(えいさい)や道元禅師(どうげん)。日蓮宗の日蓮上人(にちれん)など有名な高僧があらわれます。そして、これは皆様ご存知の通り、浄土宗を開かれた親鸞聖人(しんらん)のお師匠さんである法然上人(ほうねん)も、また親鸞聖人ご自身も子供のときに出家され、比叡山で長い間ご修行されました。然し、ここで考えさせられることは、これらの高僧が、みなその比叡山を下りて庶民の中に入り、今まで学んだ比叡山の天台宗を布教されたのではなく、それぞれ、その天台宗を超えて、一宗一派を開かれて、多くの人々に仏教を弘められたということです。それが鎌倉仏教の誕生です。

 奈良時代の仏教は、その教えを専門に学んだ僧侶と、地位も知的レベルも高い王侯貴族に受け取られ、信仰された仏教でした。そこには、一般民衆の姿は余り見えません。しかし、新しい平安仏教は先に述べた如く、山の上で世俗を捨てた出家(しゅっけ)の僧侶によって護られていた仏教でした。しかし、その仏教も、長い間に僧侶自身、また教団自体として、多くの矛盾を抱えるようになってゆきます。中には、空也上人(くうや)のように、山に篭らず諸国を遍歴して、庶民の中で、貴賎男女(きせんなんにょ)を問わない口称念仏(くしょうねんぶつ)を勧めて、仏の慈悲(じひ)を説かれた高僧もでておられますが、それが大きな民衆の動きにはなりませんでした。やはり国家が君臣によって治められ、あえて民衆の自覚を必要としない時代は、教界も僧侶の修道だけで十分であったともいえます。

 しかし、この(1)で述べていましたように、時代が下がり鎌倉時代を迎えて、天皇を中心とした王朝貴族の政治が崩壊し、鎌倉幕府という武士による政治がはじまります。その画期的な大転換の中での、政治的混乱、それに加えて地震,大火、飢饉、疫病の発生による人々の苦難と不安は、筆舌にも尽くしがたい状態でした。そして、そのことを通して「山の仏教」が根本的に問われることになりました。しかし、それに答えることの出来る教えと、その力がはたして存在するのか。これは日本仏教の存在自体が真正面から人々に問われた最初であったともいえます。そして、そのことに真に答えられたのが法然上人の浄土教(じょうどきょう)、すなわち念仏の仏教でした。そして、その教えを更に民衆そのものの教えとして純化されたのが親鸞聖人で、その教えを聖人は「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)と呼ばれました。

 

 04 ​

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年1月

 「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)というのは、単なる宗派の名前ではなく、お釈迦さまによって明らかにされた「阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願を信じ、念仏申して浄土往生(じょうどおうじょう)をとげる真実の仏教」をあらわす言葉です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)はこの仏教が、インドでは、お釈迦様から竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)へ、更に天親菩薩(てんじんぼさつ)へと伝えられ、中国では曇鸞大師(どんらんだいし)、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)、善導大師(ぜんどうだいし)らの高僧によって継承され、それが日本では平安時代の源信僧都(げんしんそうず)の教えになり、やがて、法然上人(ほうねんしょうにん)に受け継がれたことを述べられています。そして、日本におけるその浄土真宗の開花は、ひとえに、師法然上人の生涯かけてのご苦労によることを高く讃えられ、そのご恩を深く感謝されています。真宗門徒(しんしゅうもんと)が朝夕お勤めしている正信偈(しょうしんげ)の中には、そのことがくわしく述べられています。

 法然上人は長承2年(1133)4月、現在の岡山県、昔の地名では美作(みまさか)の国、久米南条の稲岡庄にいた漆時国(うるまときくに)という武士の子として生まれました。父親の漆時国という人は、押領使(おうりょうし)という、兵を率いて部内の盗賊を捕らえたり、治安の維持にあたるという警察権を握る官職を、中央から任されているような地方豪族でした。ところが上人が9歳のとき、お父さんがかねて犬猿のなかにあった、源内武者定明(げんないむしゃさだあき)の一党がしかけた夜討ちにあい討ち死します。その場に居合わせた上人、幼名、勢至丸(せいしまる)が瀕死の状態であった父親にとりすがり、子供心にもその復讐をちかうその時、勢至丸にむかって、父親は「お前は決して敵人をうらんではならない。私がこういうことになったのは、すべて前世(ぜんせ)の宿業(しゅくごう)なのだ。もしお前が定明に遺恨をはらせば、相手の子供がまたお前を敵とつけねらうにちがいない。そうすれば、互いの恨みは世々(せせ)に輪廻(りんね)してつきることがないであろう。お前は出家して仏の教えを求め、敵味方ともに救われる道を明らかにせよ」と言い残して非業の死をとげます。この出来事は、幼くして神童のほまれがたかく、両親の寵愛を一身にあつめて、やがて地方豪族の総領として順調に育つべき勢至丸の運命をがらりと変えることになります。 

 父親の死後間もなく、父の遺言に従い、勢至丸はお母さんの弟、すなわち叔父さんである観覚得業(かんかくとくご)が住職をしていた菩提寺(ぼだいじ)という山寺にあずけられます。それから数年して勢至丸は、叔父さんの薦めにより比叡山に登り、天台宗の学僧としての研鑽をつまれることになりますが、私はいつも上人の人生を変えた、お父さんの遺言のことを思います。武士の子供ならば「父親の敵を討つ」のはむしろ当然の務めの筈です。それを抑えて「怨讐(おんしゅう)の世界」に救いのないことを教え、それを超える道が仏教であることを、出家でない一介の庶民に過ぎない父親の心の中に、自覚として生きてはたらいていたことに深い感動を覚えるのです。

「やられたから、やり返す」という、止まることのない繰り返しの人間業は、現在も個人はもちろん、世界の国際関係のなかでも繰り返えされている人間永遠の課題です。

 

 05 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2009年3月

 前回は、法然上人(幼名、勢至丸)がお父さんの「恩讐を超えた世界」を仏教に求めよという遺言によって、勢至丸の叔父さんにあたる観覚得業(かんかくとくごう)が住職をしておられた菩提寺(ぼだいじ)にあずけられたことをのべました。しかし何といいましても長男でひとり子であった勢至丸はまだ九歳の子供、お母さんにしてみれば、夫を失い、その夫の遺言とはいえ、今又その子と別れねばならないということは、言いようも無いほどの深い悲しみであったにちがいありませんが、お父さんを討った一味がひそかに勢至丸をつけねらっていたという事情も伝えられています。然し、事情はどうであれ、もっとも、感受性の鋭敏な少年勢至丸は、父親の非業の死によって、消すことの出来ぬ深い心の傷を刻み付けられたにちがいありません。父親の無残な死は、仏の教えによって「恩讐の世界」を超えるべく必死の格闘をする其の間も、勢至丸の念頭を一刻も離れることのない深い悲しみでした。

 ところで、叔父さんの観覚得業(かんかくとくごう)という人は、当時、その地方の山寺の住職(じゅうしょく)をしておられましたが、若い頃は、はじめ比叡山で学問と修行を重ね、更に奈良に移って法相(ほっそう)を学んだ人で、学識の深い僧侶であられたようです。この人は甥の勢至丸を非常に愛し、まず仏教の基本的な学問を教えこもうとしましたが、勢至丸の神童ぶりは、文字通り一を聞けば十をさとり、また一度理解したことはすべて記憶して忘れない。叔父さんもその勢至丸の非凡な才能に舌をまいたと言われています。そしてこの天才的少年をこのまま田舎にうもれさせるにしのびず、比叡山に送って、本格的に学問をさせなければならないと考えられました。

 伝教大師によって開かれた比叡山は、当時修行の点ではともかく、学問のうえではまぎれもなく日本仏教の中心地でした。多くのすぐれた学匠(がくしょう)をかかえ、研究図書もととのい、あたかも仏教の総合大学の観をなしており、本格的に仏教学を学ぼうとするものは、必ず比叡山に登る必要がありました。法然上人から四十年後に出られた親鸞聖人もまたこの比叡山で学ばれました。

 こうして勢至丸が比叡山に登ったのが十五歳の春で、はじめ叔父さんの比叡山時代に師事した持法房源光(じほうぼうげんこう)という先生にあずけられますが、先生がしばらく比叡山の宗学(しゅうがく)である天台宗の入門的学問を伝授するうちに、この少年の持つ天性に早くも気づき、これは自分より優れた碩学(せきがく)につけて天台学の奥義を学ばせるべきだと考え、当時一山にきこえた碩学である阿闍利皇円(あじゃりこうえん)のもとに入室させます。勢至丸はここで教育をうけることになり、その年の秋剃髪(ていはつ)して、法衣をつけ、戒壇院(かいだんいん)で大乗戒(だいじょうかい)を受け、正式の天台宗の僧侶(そうりょ)となり、比叡山における学問と、厳しい修行が始まります。ところが、特にその学問においては師皇円の期待をはるかにしのぐ、師をしてまことに目をみはらせるものがあり、近い将来、山上一の学匠の誕生を夢見せしめる状態であったと伝えられています。

 しかし、そうして三年を過ぎたころから特に法然の中に隠遁(いんとん)の志(こころざし)が強くなったことを伝記は伝えています。隠遁というのは当時比叡山の上で、仏教界における出世とか名利(みょうり)を求めず、山上の政治的空気に流されることをいさぎよしとせず、山陰の庵室に篭ってひたすら出離生死(しゅつりしょうじ)の道を行ずる人びとがあり、それらの人を「聖」(ひじり)と呼び、こうしたありかたを隠遁と呼んでいました。しかし、世俗(せぞく)を捨てて出家した人が、今何故重ねて隠遁をせねばならないのか、ここに当時の比叡山の抱えていた矛盾があるのです。このことについては次回に詳しく述べますが、法然上人がまだ十八歳と年齢も若く、しかも、師匠を始め周囲から将来の大学者として嘱望されながら、その期待を裏切ってまで隠遁を望まれた上人の心の中に動いたものが何であったのかそれが大きな問題ですし、そこで上人の人生が大きく変わります。選ばれた人だけの仏教ではなく、むしろすべての人が平等に救済される仏教としての浄土真宗を日本に興された上人はこうして厳しい道を歩み始められるのです。

 

 06 

​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2009年5月

 前回、法然上人は十五歳の春比叡山に登り、当時叡山第一といわれた碩学(せきがく)、阿闍利皇円(あじゃりこうえん)という師につき、天台教学の勉学に励まれました。しかし上人の神童ぶりは師をしてまことに目をみはらせるものがあり、三年を経た頃にして既に将来師をしのぐ山上一の学匠の誕生を感じさせるほどの学業をつまれながら、師皇円の反対を押し切ってまで、法然上人は学者としての栄達の道を自ら捨て、山陰の庵室にこもって、ひたすら出離生死(しゅつりしょうじ)の道を行ずる隠遁(いんとん)の道を選ばれたことを述べました。そして、世俗(せぞく)を捨てて出家した人が、今何故重ねて隠遁という特別な道を選ばれねばならなかったのか、そこに当時の比叡山の抱えていた矛盾があったことを述べましたが、そのことを少しくわしくお話します。 

 伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が遣唐使の留学生として唐(中国)に渡り、天台宗(てんだいしゅう)という仏教を日本にもたらされたのが延暦二十四年(805)大師三十八歳の時であります。大師は五十五歳で亡くなられますが、その後、この比叡山から歴史に残る多くの高僧が出られました。親鸞聖人のお言葉にも「南都・北嶺」(なんとほくれい)という言葉が出てきますが、南都は奈良仏教の諸寺、北嶺がこの比叡山です。つまり比叡山は当時の仏教界を代表する教団でした。ところが、その比叡山も伝教大師の死後三百四十年を経た久安三年(1147)法然上人が出家された頃には、大師が奈良の仏教のようになることを恐れて、世俗を離れた山上に出家の道場を開かれたにもかかわらず、年代を重ねるに従って、結局奈良の仏教が歩んだと同じ道を歩んでしまいます。表面的には大乗菩薩道(だいじょうぼさつどう)の根本道場として、その使命を自負し、権威を誇っていましたが、現実は奈良の仏教と同じように、現世の祈祷(きとう)や、現実の生活とは無関係な学問の場に成り果てていました。しかも、事あるごとに、加持・祈祷(かじ・きとう)をもとめることができたのは、つねに社会の上層を占める人々で、そのため、次第に貴族社会と結びつき、その寄進をうけて、広大な荘園を支配する領主になっていきます。そしてその荘園の自衛のためと称して僧兵(そうへい)と呼ばれる武力集団さえ持ち、やがて世俗の政治に大きな影響力を与えるようになり、時代の乱れをいよいよ甚だしいものにしました。白河法皇(しらかわほうおう)が「ままならぬは鴨川の水と双六(すごろく)の賽と山法師」と言われたと伝えられていますが、まさにそれが比叡山の実情でありました。

 権力と結びつくことで、次第に世俗化した比叡山は、さらにその内部にも身分的対立をうみだし、その重要な地位は、その修道生活の純粋性以前に、すべて藤原氏(貴族)の子弟で占められ、世俗化とともに貴族化が進み、教団内部の対立抗争は世間のそれよりも激しく、また寺院と寺院が利害のために僧兵を動かしての大騒動が日常のことになっていたのでした。

 法然上人はそうした山の現実を見るにつけ、その中で天台の学問を究めることも、結局は世俗的な意味での高僧であるという名誉と、その地位を求めるための方法に過ぎないのではないか、真にお父さんの遺言にこたえる道とは何かという大きな課題のまえに、深く苦しまれ、遂に学匠(がくしょう)の道を捨てて隠遁(いんとん)の道に進むことを決心されたのでありましょう。                          

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