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浄土8

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月: 2009年11月

 法然上人は、四十三歳の回心(えしん)を契機として、長い間学問と修行を重ね、多くのご縁の深い師や友とも袂を分かち、ただ一人比叡山を下り、京都に出てこられたと伝えられています。その理由としては、法然上人は中国の善導大師(ぜんどうだいし)の教えの導きによって眼を開かれた、即ち、人間の知恵才覚によらず、一切の学問も、すべて投げ捨てて、ただわが身は罪深き愚悪(ぐあく)の凡夫(ぼんぶ)という自覚にたって、一心に阿弥陀仏の本願を信じ念仏申して浄土往生を願うばかりだという上人の信心が、当時の比叡山の人々に受け入れられなかった為だと言われています。

 例えば法然上人が十八歳の若さで黒谷に隠遁されたとき、それを非常に喜んで受け入れてくださった師、叡空上人(えいくうしょうにん)さえも、法然上人の考えには強く反対されました。叡空上人は勿論善導大師の教えはよくご存知なのです。しかし、上人のお考えでは、出家して学問を重ね、思索を重ね、念仏申して阿弥陀仏をその心に思い浮かべ、仏と同じ心になる静かな境地を獲得することが、善導大師の教えであって、如来の本願を信ずるといっても、ただ口に念仏申すことが善導大師の本意ではないと仰るのでした。

 法然上人もその叡空上人の言われることもよく分かるのですが、しかし、時代は正に釈尊(しゃくそん)がのちの仏教徒のために予言し警告しておかれた「末法」(まっぽう)のときが到来している。世も人も罪悪に濁り、僧はあれども形と名のみで戒律は守らず、修行の能力もなく努力もせず、いわんや悟り得ている者とて一人もいない現実である。その現実をわが身のうえに直視(ちょくし)された法然上人から見ると、叡空上人は、山上の出世や名利(みょうり)を求めない「聖」(ひじり)の代表であるけれども、その心の中にある、あの堕落坊主たちと自分は違うという自負心と理想主義が、時代はすでに末法であり、人間すべて愚悪の凡夫であるという、法然上人の自覚に立たれた信心を理解してもらえなかったのでありましょう。

 こうして法然上人は比叡山をあとにされます。法然上人はすでに比叡山におられる意味がなくなりました。しかし、そうして京都に出られた法然上人には、家もなく、寺もない教団をはなれた一介の僧侶になられます。しかし、上人の心には、その臨終(りんじゅう)に「討った者も討たれた者も共に救われる道を仏の教に求めよ」と言い遺された、お父さんの遺言の通り、出家・在家を選ばない、老少善悪の人を選ばれない如来の本願を信じ、念仏申して浄土往生(じょうどおうじょう)を願う一道をあらゆる人々と共に歩む生き方においてのみ、その願いが成就するという確信と、その道を歩み始めることが出来た喜びに満ちておられたのです。

 ここに、出家(しゅっけ)し聖(ひじり)として学問を重ね、修行して仏の悟りを求める仏教と袂を分かち、老少善悪男女を選ばない、すべてのものが平等に救われる仏教・浄土教の独立が法然上人によって果たされた瞬間であります。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年1月

 教団を離れて京都に下った法然上人が、落ち着いた先は京都西山の遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)という熱心な念仏行者の庵でした。法然上人叡山時代の弟子の一人信空(しんくう)が、身を寄せる住所を持たぬ法然を案じて、彼の縁者であるこの遊蓮房を紹介したと言われます。

 この遊蓮房という人は・少納言藤原通憲(みちのり)という貴族の子供に生まれながら、二十一歳で出家し法然上人と同じく、善導大師(ぜんどうだいし)の教えを深く信じた遁世の念仏者でした。人々から「尊ばれること仏の如く」言われ、ちりばかりも俗に交わらず、経一巻も書籍一巻も身にもたず、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の一筋を守り通した人でした。そして、その庵は縁ある人びとが集う念仏道場でした。この遊蓮房と法然上人はそれ以来深い因縁が結ばれ、遊蓮房はやがて三十九歳の若さで命終しますが、その臨終(りんじゅう)に際しては、法然上人みずからが、その枕もとに善知識(ぜんちしき)としてつきそい、十念の高称(こうしょう)念仏をとなえさせて息をひきとらせたと伝えられます。

 法然上人はつねに「浄土の法門(おしえ)と、遊蓮房とに会えるこそ、人界(にんげんかい)に生をうけたる、思い出にては侍(はべ)れ」 と浄土の法門と、遊蓮房との出会いを、同列にして、生涯の思い出を追憶し感謝されていたといわれます。

 私たちは法然上人の念仏道場といえば、必ず思いだすのが京都東山の吉水(現在の知恩院)ですが、この吉水の草庵は、遊蓮房の生前の願いにより、彼の草庵を移築したものです。

法然上人が西山から吉水に移られたのは、遊蓮房が亡くなった治承(じしょう)元年から間もない年であったろうと思われますが、やがてここで法然上人の、仏教の歴史において画期的といえる「浄土宗の独立」という大宣言がなされることになります。

 改めて法然上人と遊蓮房との関係を思い合わせてみますと、年齢は法然上人が六歳年上ですから、遊蓮房が三十九歳で亡くなったときに法然上人は四十五歳です。上人下山の年齢が四十三歳ですから、二人の交わりは僅か二、三年でしかありませんが、それが両者の歴史的な出会いになっていることに深い驚きを感じます。法然上人は遊蓮房の厳しい道心(どうしん)と、その純粋な人柄を深く敬愛されたと思われますし、遊蓮房は法然上人の偉大な人格と、高遠な学識に浄土教の将来を託したのであろうと思います。

 考えて見ますと法然上人は下山の最初において、まことにふさわしい人と所との出会いがあったことになります。不思議というより外に言いようのない出来事です。因みに親鸞聖人は法然上人と四十歳年下ですから、遊蓮房が亡くなった時は五歳でした。

 同じ京都の洛南、伏見の東、日野の里に住む藤原有範(ありのり)という貴族の子供として生まれられましたが、法然上人とこの吉水の草庵で出会われるのは、それから二十四年後になります。 

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年3月

 法然上人は故人となった遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)の草庵を吉水に移し、そこを拠点にした、一介の念仏行者としての活動を始められました。しかし、その坊舎(ぼうしゃ)は簡素な住居であり、法然に法を聞き、ともに念仏行をはげむ門人や信者の宿舎や、道場であって、旧来の寺院仏教のような屋内を天蓋(てんがい)・瓔珞(ようらく)で飾りたて、そこで僧侶が厳粛な勤行を勤め、そこに善男・善女が参詣するというような、きらびやかな寺院ではありませんでした。

 もともと法然上人は、生涯堂塔を(どうとう)建立してその主となることを求めず、そのような財ももたず、自ら阿弥陀如来の本願を信じ、念仏して浄土往生を願い、その道一つを人々に伝えられた方でした。ですからその坊舎は正に出家・在家、貴賎(きせん)、男女・善悪を選ばない、ただ法然上人の教えに従い、如来の本願を信じて念仏申す人々の念仏道場でした。遊蓮坊の草庵のあった西山と違い、この吉水は東山で人も多く、法然上人の名声が伝わるにつれて、この草庵を訪れる人が次第に多くなっていきました。しかし、法然上人が吉水に移られて数年間は、旧佛教界の教学(きょうがく)を修めた僧侶からも、また都の教養の高い知識人からも、必ずしも、新浄土教学の偉大な学者であり、時代を導く指導者としては認識されていなかったようです。しかし、その法然上人が旧仏教界から大きく注目される出来事がおきたのは、文治(ぶんじ)二年、上人五十四歳の時、後世「大原談義」(おおはらだんぎ)と呼ばれている事件があってからでした。

 それは京都、洛北、大原の勝林院(しょうりんいん)という寺で行われた、当時の佛教界を代表する学匠(主催者、天台座主、顕真)と法然上人との談義で、それは公開され、多くの僧侶が参集する中で行われました。それは法然上人の唱道(しょうどう)される教え(浄土教を「ただ念仏する」称名念仏ばかりに限定している)に対する糾弾の意味が強いものであったようです。談義は一日一夜に及ぶ長いものでしたが、法然上人は、上人がその教えに帰着された信念は、単なる自らの独断ではないことを、自らの比叡山における長い修学の苦悩を通して諄諄(じゅんじゅん)と語られたといいます。仏教諸宗の法が、みな深い道理をもち、それを修すればその利益(りやく)の優れていることに疑いはないけれども、自分のような根気つたない人間には、悟り難く、まどい易い道であった。苦しみ惑うている中で、比叡山の大先輩源信僧都(げんしんそうず)の著書「往生要集」(おうじょうようしゅう)の導きによって、中国の善導大師(ぜんどうだいし)の浄土教、即ち弥陀の願力を強縁(ごうえん)とする念仏成仏の教えに触れて、我ら如きの愚鈍(ぐどん)の身が、愚鈍のままで救われ得る道のあることをはじめて教えられ、自分はその教えの通り、弥陀如来の本願を信じ念仏申すばかりである。ただこれは我が体験を述べただけであって、すぐれた能力のある方の学問と、修行を妨げる気持ちは更に無いということを真剣に述べられました。

 ところが、その場に居あわせた僧侶はその上人の説かれるところに強く共鳴し感激して、主催者であった顕真(けんしん)自らが立ち上がり、高声念仏しながら堂内を行道(歩いて回る)し、それにならってそこにいた多くの僧侶が念仏を称えてそれに従い、三日三夜その念仏の声が山谷にひびき、それがご縁で、その後、上人に従ったものが多かったと伝えられています。この大原談義は法然上人にとっても、当時の仏教界にとっても画期的な出来事でした。

       

 

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2010年5月

 法然上人(ほうねんしょうにん)とその念仏往生(ねんぶつおうじょう)の教えが、当時の仏教界に大きな反響を与え、多くの念仏者が生まれたのは、後世「大原談義」(おおはらだんぎ)と呼ばれる、比叡山の学僧たちとの教学論争(きょうがくろんそう)の結果であったことを前回述べましたが、それ以上に法然上人の名声と吉水(よしみず)教団の存在を多くの人々に知らしめることになったのは、当時の関白・九条兼実(くじょうかねざね)公の法然上人に対する深い帰依(きえ)でした。法然上人が五十七歳、兼実公が四十一歳の時、兼実公はみずから上人を邸にまねいて法を聞き、戒を受け、念仏に励むようになりました。それ以来、兼実公は生涯念仏行者として生き、その晩年には上人を戒師(かいし)として出家しました。そのことは、やがて多くの貴族が法然上人の教えに帰依するきっかけとなり、遂には、後鳥羽(ごとば)天皇の中宮が上人を戒師として受戒(じゅかい)されるなど、朝廷までも招かれ念仏をすすめられるようになりました。しかし、当時、法然上人のように、比叡山では「智慧第一の法然坊」と言われるほどの学匠(がくしょう)でありながら、敢えて叡山における栄達の道を振り切り、「聖」(ひじり)として学行を重ねられ、比叡山を捨てられてからは、教団を離れた一介の念仏者として民衆の中で生きておられる人ですから、まさに、無位・無官の黒衣(こくえ)の僧侶に過ぎない人で、その方が、宮中に参内(さんだい)するというようなことは、嘗てあり得ないことでした。貴族社会の中から非難の声もあったと伝えられています。しかし、法然上人にとってみれば、貴族であれ、帝(みかど)であれ、阿弥陀如来の大悲の前には、ともに斉(ひと)しく苦悩の凡夫であり、ともに浄土往生を願う同朋として、接しられたので、いわゆるの栄達(えいたつ)を求められたのでないことはいうまでもありません。然し、このことは当時の宗教界における法然上人及び吉水教団の地位を高めることになり、嘗て比叡山や奈良の諸寺で学行に励んでいた僧侶は勿論、社会各層の貴賎(きせん)・男女が法然上人を慕って吉水に集まることになりました。

 しかし、ここで法然上人を考えるとき決して忘れてならないことは、上人は叡山を下り民衆の中で生きられましたが、その生活のありようは、決して民衆と同じではありませんでした、それは戒律を守って学行に励む、比叡山の生活そのもので、妻は娶(めと)らず、肉食(にくじき)はせず、一日に六万遍の念仏を励まれ、一日として聖教(しょうぎょう)を読まれぬ日はなかったと伝えられています。上人は比叡山における自力聖道(じりきしょうどう)の学行は捨てられましたが、他力念仏行の実践と、浄土教々学の研鑽(けんさん)においては、叡山時代をしのぐ厳しい戒行堅固(かいじょうけんご)の日々を過ごされながら、多くの人々に念仏の教えを伝えられましたから、人々に心から尊敬され、その念仏の教えは人々の真の依り所となりました。無位無官の法然上人が朝廷に参内されることに非難が起こったとき、九条兼実公が反論される根拠にそのことをあげ「近代の名僧たち、一切戒律(いっさいかいりつ)を知らず」ただ体裁(ていさい)だけを守っているに過ぎないではないか、それに対して法然上人こそが真の名僧であり、その念仏の教えこそが時代相応(じだいそうおう)の教えであり、真の仏教であると述べています。

 丁度この頃親鸞聖人は比叡山で天台宗の僧侶として学行に励んでおられます。やがて親鸞聖人が比叡山の仏教に行き詰まられ、比叡山を下りて吉水の法然上人に会い、その弟子になられるのが二十九歳のときですから、法然上人は六十九歳でした。それは、こうして隆盛を極めた吉水教団に危機感をもった奈良の諸寺や、比叡山が色々と難題を持ちかけて、その圧迫に動きはじめた頃でした。 

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