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浄土23

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2012年5月

   私達真宗門徒は昔から親鸞聖人のご生涯を考えるとき、越後(新潟県)に流罪になりご苦労されたということは知っています。然し何故流罪になられたのか、その事情などについては、必ずしもはっきり知っていないのが実情でしょう。歴史では「承元の法難(じょうげんのほうなん)」と呼ばれていますが、朝廷(政府)の命令によって、聖人は越後に流罪になられました。又お師匠様の法然上人も四国の土佐(高知県)に流罪と決まっていましたが、上人に深く帰依されていた前関白、九条兼実公(くじょうかねざね)などのご苦労によって、讃岐(香川県)までは行かれますが、やがて摂津(大阪府)の勝尾寺(かつおじ)まで帰られ、四年間許されるまでそこで留まられました。死罪になった人もいます。それは、法然上人の弘められた念仏の教えが原因でした。現在のように信教の自由が保障されている時代では考えられぬ事件ですが、朝廷から出た命令は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の禁止でした。つまり「念仏すれば首が飛ぶ」という時代もあったのです。

   然し専修念仏の教えは、まぎれもなく、お釈迦様によって説かれた仏教です。然しその当時までは仏教はお釈迦様と同じように出家して、仏教について徹底的に学び、戒律(かいりつ)を護り修業をかさね、人間の欲望を断ち切って真理を悟るのが仏教と考えられていました。然し、そうなれば、仏教はすぐれた一握りの人の特別な、大衆とは関係のない教えと考えられるので、人々に対しては、仏の教えには出家しなくても、阿弥陀如来という仏を信じて念仏すれば、来世(らいせ)浄土に往生して、やがて仏になれる教えもあるから、浄土往生を願って念仏しなさいと出家が大衆に説いたということがあったのです。しかし、その場合念仏の教えはどこまでも、出家できない大衆のために説かれた仮(かり)の教えと考えられていました。例えば法然上人より約百五十年前に出られた念仏聖(ひじり)として有名な空也上人(くうやしょうにん)などがその代表的な人です。自ら念仏の教えを信じ、出家の仏教がほとんど顧みなかった、多くの人々に念仏を勧められました。そのため京都を中心に多くの念仏者が生まれたと言われます。然し空也上人は流罪にはなられません。それどころか、中々出来ぬことをなさる人として、他の出家からも尊敬されました。然し法然上人は流罪になられました。親鸞聖人もその高弟の一人として流罪になられたのです。では何故法然上人は流罪になられたのでしょうか。

   それは、法然上人が念仏の教えは、出家仏教の仮の教えではない。本来仏教には二つの教えの流れがあり、一つが出家仏教であり、今一つが念仏の仏教で、共に等しく仏教である。そして、既にお釈迦様が予言されているように、今日のような末法(まっぽう)の時代は、出家の仏教で悟ることの出来る者は既に一人もなく、ただ阿弥陀仏の本願を信じて念仏して浄土往生を遂げ、仏になるより外に道はないのだとはっきり宣言されました。そして、自ら愚かな凡夫の一人として浄土往生を願って念仏され、人々にその教えを勧められました。つまり、専修念仏の教え、「浄土宗の独立」を宣言されたのです。法然上人は十三歳から四十三歳まで比叡山で修業を重ねられ、智慧(ちえ)の法然坊と称され、学問においてこの人の右に出る人は無いと言われたほどの大学者でした。その方が念仏の教えより外に本当に救われる道はないと決して専修念仏に帰し、比叡山を降りられた人ですから、それは、当時の仏教界を知り尽くしての宣言でした。このことは、当時の仏教界に大恐慌を与えました。

   そこに空也上人と根本的な違いがあり、それは出家仏教の立場の人からは到底見過す事の出来ぬことで、出家教団はこぞって法然上人を非難し、朝廷に訴えて法然上人の念仏教団の息の根を止めようとしたのが、この承元の法難でした。

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​浄土真宗の歴史

​紙面掲載年月:2012年7月

   親鸞聖人が越後にご流罪になられたのは、聖人が三十五歳の時です。しかし聖人が二十九歳で法然上人の念仏教団に入られたころ、吉水教団に対する仏教界からの圧迫のはげしさは、当時すでに、前途に容易ならぬものを感じさせるものがありました。比叡山延暦寺の僧たちは度々念仏の禁止を天台座主(てんだいざす)に訴えています。それに対し法然上人は七ヶ条の制戒(せいかい)をつくって、門弟を厳しく戒められたこともあります。門弟の中には出家教団を批判してトラブルをおこす者がいたり、また庶民の念仏者の中には、念仏の救いにはどのようなことも障りにはならないと、平気で悪事をおこない、吉水教団にたいする無用の非難をひきおこす者もありました。ところが、元久(げんきゅう)二年、親鸞聖人が三十三歳の時、笠置寺(かさぎじ)の学僧・解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)が九ヶ条に及ぶ問題点をあげ、奈良・興福寺の名で専修念仏の禁止と、法然上人をはじめとする念仏運動の中心人物の処罰を朝廷に迫りました。

  「興福寺奏状(こうふくじそうじょう」と呼ばれているものですが、これは全仏教界を代表するものとして差し出され、しかも、法然上人たちの処罰まで訴えているのですから、極めて厳しいものでした。さすがに朝廷も暫く保留して様子を見ていましたが、たまたまある事件がきっかけになり、この「奏状」がにわかにとりあげられ、承元の法難になりました。

   その事件について言い伝えられていることは、法然上人の弟子に住蓮房(じゅうれんぼう)と安楽房(あんらくぼう)という人がいて、その草庵で念仏の教えを説いていた。ところが、たまたまそこを通りかかった後鳥羽院(ごとばいん)の後宮に仕える若い二人の女官(じょかん、松虫・鈴虫)がそれを聞き、非常にその教えに感銘を受け、また出家も庶民も、男も女も共に等しく念仏して法悦(ほうえつ)に浸っている姿に感動し、自らも出家して尼になり、生涯念仏して生きたいという決心をするのです。それを後鳥羽上皇(じょうこう)が知り、これは極めて希な仏縁の発露なのですが、上皇は法然上人の若い弟子が二人の女性を誘惑したものと受け取って激怒し、それがきっかけとなって、にわかに興福寺奏状がとりあげられ、承元の法難になったのです。事件の中心人物と目された住蓮・安楽は死罪となり、法然上人とその門弟の数人が流罪に処せられることになったのです。親鸞聖人もその中の一人です。

 法然上人はすでに七十五歳。土佐へ配流が決まり、念仏停止の命が出て、専修念仏教団にとって壊滅的大法難でした。すでに都の警察、検非違使(けびいし)が上人の草庵を取り囲んでいる夜中、上人の日課の称名念仏の声が聞こえてくる。弟子が検非違使を恐れて「少し声を小さくなさるよう」とお願いしたところ、上人は「念仏して首切ららば切られ」と言われ、泰然として通常の如く念仏されたと伝えられています。上人にとっては念仏が命なのです。 

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2012年9月

   承元(じょうげん)の法難により住蓮(じゅうれん)・安楽(あんらく)は死罪、法然上人は土佐に流罪・親鸞聖人は越後に、その他数人の高弟がそれぞれ各地に流罪になり、専修念仏(せんじゅねんぶつ)禁止の勅命が出たのですから、吉水の念仏教団は壊滅的打撃を受けました。

 しかし、流罪になる法然上人は全く違う気持ちをもっておられたのです。後に残された弟子や門徒(もんと)の人々が、ご高齢の上人の身を案じ、また念仏禁止の勅命がある中で、残された我々はどのように生きて行けばいいかを上人にたずねました。その時上人は「念仏の教えを今までは京都を中心に多くの人々にご縁を結んで来たが、遠く離れた田舎の人々にもこの教えをお伝えしたいと思いながら果たせずにいた。しかし、この度のことでそれが果たせるのだから、むしろ不思議なご縁と感じている。私は決してこの流罪を恨んではいない。念仏は人に止めろと言われて止められるものであろうか」と遠流(おんる)の不幸を年来の本意をとげる好機と喜びに転換して、喜んで流されて行かれたと伝えられています。

   この法然上人のお姿に親鸞聖人は深い感銘をもたれたのでしょう。聖人にも「大師(だいし)上人、源空、もし流刑に処せられたまわずは、われまた配所に赴(おもむ)かんや、もしわれ配所に赴かずは、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化せん。これ猶(なお)師教の恩致(おんち)なり」というお言葉が残されています。そして、法然上人も親鸞聖人も流された各地で人々に念仏をすすめられ、それが全国に広がることとなり、念仏の息の根を止めようとした流罪は出家教団の意に反して、逆に虎を野に放つ結果となったのでした。

   法然上人は僧名(そうみょう)を奪われ俗人藤井元彦(ひじいもとひこ)として、舟で大阪に下り、瀬戸内海を西向して、やがて四国に送られたわけですが、途中の泊まりでは、近辺の漁民や農民の老若が、上人の下られることを聞きつけ、その宿に集まってきて、上人から親しく教えを聞き、感涙にむせびながら、念仏したと伝えられています。その中で特に有名な話では、当時、瀬戸内海一の良港で、遊女町で繁盛した播磨(はりま・兵庫県)の「室の泊まり」(室津)で友君という名で伝わる遊女が小船に乗って上人の船に近づいてきて「私どものようなけがれた生活に罪を重ねるものはどうしたら救われましょうや」とたずねたのです。上人は深く同情され「もし遊女を止められるのなら、止めたがいい。しかし、外に生きる道がないのであれば、そのままでひたすら念仏なさい。弥陀如来はそのような者のために誓願をおこされたのです。深く本願をたのみ、あえて卑下することはないのだ。」とさとされ、友君はそのおさとしにあい、その場に泣き伏したと伝えられています。こうして上人は改めて名もない庶民の中にある深い苦悩と、それに応える念仏の仏法が、一人でも多くの人に伝わることの大切さを痛感されたことでありましよう。上人は先に述べましたが、前関白、藤原兼実(かねざね)公の必死の運動により、流罪を止めることは出来ませんでしたが、一応四国の讃岐(さぬき・香川県)まで行き、許されるまで、摂津(せっつ・大阪府)の勝尾寺(かつおじ)で四年間過ごされます。

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2012年12月

   承元(じょうげん)の法難(ほうなん)によって専修念仏(せんじゅねんぶつ)禁止の勅命(ちょくめい)が下り、法然上人は土佐に流罪、親鸞聖人も高弟の一人として越後に流罪になられました。然し法然上人は遠流の不幸を、京都を遠く離れた人々に念仏の教えを伝えることの出来る好機であると、喜びに転換して流されて行かれました。親鸞聖人もその法然上人のお姿に深い感銘を受けられ、自らも、僧名(そうみょう)を奪われ俗人藤井善信(ふじいよしざね)として越後に流罪になられましたが、「この流罪によって、都から遠く離れた辺鄙(へんぴ)の人々に念仏を伝えるご縁がひらかれる。これはひとえにわが師法然上人の教えのお陰である」と喜んで刑に服されました。しかし、聖人は同じ仏教を奉ずる者でありながら、このような聖道諸教団(しょうどうしょきょうだん)が政治を利用して法然上人の専修念仏の教えを禁じたことに対して強い怒りと、憤りを感じておられました。

   後に公(おおやけ)にされる聖人の主著「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)の中でこの承元の法難のことに触れられており、その中にこの法難の本質は、法然上人の専修念仏の問題ではなく、奈良の諸寺や比叡山などの諸教団が、立前は釈尊(しゃくそん)のように出家(しゅっけ)し戒律(かいりつ)を護って悟りをひらくことにしておりながら、実際に戒律を厳格に護り、修業(しゅぎょう)をしている者はおらず、いわんや悟りを開いている者など一人も居ない。即ちすでに釈尊の予言の通り末法(まっぽう)そのものの姿を僧侶(そうりょ)自身が露呈していながら、それを自覚せず、ただ政治と癒着して権威を保っているだけに過ぎないために、法然上人がその末法の自覚に立ち、専修念仏以外の仏法による救いのないことに自ら目覚め、人々に勧められた。それが同じ自覚に立った僧侶は言うまでもなく、これまで仏法とは無縁のものとされた一般庶民をはじめ、貴族や武士など、あらゆる階層の人々に道心(どうしん)を呼び起こし、専修念仏が燎原(りょうげん)の火の如く広がっていったため、ただ世間的権威主義に立つ聖道の僧侶が恐れをなして起こしたあがきであり、彼らの不安と自信のなさが生み出した法難であると断じておられます。そして、朝廷までがその本質を見誤った裁断を下されたと「主上・臣下(しゅじょうしんか)、法に背き義に違(い)し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ」と述べられています。つまり天皇も臣下の人々も、国法に背き、教えに違(たが)うて怒りをなし、怨みをむすばれた、とはっきりと自分の考えを公にする著書に書かれているのです。

   親鸞聖人はわが身に降りかかった遠流(おんる)の不幸は、辺鄙の人々に念仏の教えを伝えるご縁として喜びに転じて行かれましたが、この法難のもっている意味、その本質については決して妥協のない、むしろ冷徹とさえ感ずる眼でそれを見定め、著書として後世(こうせい)に残しておられることに、私は深い感銘をうけています。

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