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​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2015年11月

 親鸞聖人は弘長(こうちょう)二年十一月二十八日、聖人の弟、尋有(じんう)さまが住職をしておられた善法坊(ぜんほうぼう)というお寺の離れで九十年の生涯を閉じられました。当時、越後に居られた奥様の恵信尼(えしんに)さまは聖人のご往生を、その臨終(りんじゅう)を看取られた末娘の覚信尼(かくしんに)さまからのお手紙でお知りになります。その覚信尼さまからの手紙に対する恵信尼さまの返礼の手紙が、大正十年、西本願寺の書庫から他の恵信尼様の書簡(十通)とともに発見され、大きな話題になりました。

 

 そのお手紙は恵真尼さまが聖人のご往生(おうじょう)を通して改めて感じられた、聖人さまと恵信尼さまとの仏縁を通しての、深く尊い因縁と喜びを覚信尼さまに語られているお手紙でした。そこには先ず親鸞聖人が比叡山(ひえいざん)を出て京都の六角堂に百日の参籠(さんろう)をされ、その九十五日の明け方、観音菩薩(かんのんぼさつ)の夢のお告げを受けられ、それに導かれて、後世(ごせ)の助かる縁にお遇いしたいと法然上人を訪ね、六角堂の参籠と同じように百日の間、降るときも、照るときも、どんな支障があるときもお訪ねして、そのみ教えをお聞きし、そこではっきりと心が決まり、たとえ人がどのように申しても迷わず、法然上人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」との仰せを信じて生きてゆこうと決心したのだと、親鸞聖人は色々機会あるごとに、人々に申しておられました、と聖人が法然上人の教えによって念仏者となられた因縁を述べられ、そこで恵信尼さまは筆を改めて、次のような恵信尼さまの不思議な夢の事を書かれています。

 

 それは常陸(ひたち・茨城県)の国、下妻(しもつま)というところに境の郷という所があり、そこに居た時、このような夢を見られたというのです。何か御堂の落慶供養(らっけいくよう)らしく、その初日の宵(よい)に御堂の前には「立て燭(あか)し」が明るく輝いている。その御堂の前に鳥居のように、横木を渡したものがあり、そこに仏さまの御影(ごえい)がお掛けしてありました。そして、その一体は仏のお顔ではなく、ただ光の真ん中が仏の頭光(ずこう)のようで、はっきりしたお姿はお見えにならず、ただ光ばかりが輝いておいでになる。もう一体ははっきりとした仏のお顔でおいでになるので、「これは何という仏様でございますか」と申すと、どなたかはわからぬが、「あの光ばかりでおいでになるのは、あれこそ法然上人(ほうねんしょうにん)でおいでです。つまり勢至菩薩(せいしぼさつ)でいらっしゃいますよ」と申しますから「ではもう一体は」と申しますと、「あれは観音菩薩でおいでになります。あれこそ善信(ぜんしん・親鸞の別名)のご房(ぼう)です」と申されるのに気がついて、眼が覚めたのですが、そんな夢をはっきりと見ました。しかし、こういうことは人には言わないものだと聞いていましたし、全く人には言わないで、法然上人の御事だけは殿(親鸞)に申しましたところ「それこそ『正夢』である。上人のことをあちこちで、勢至菩薩の化身(けしん)と夢に見た人は数多いと言われている。勢至菩薩は智慧のもっとも勝れた方であって、その智慧(ちえ)は光明(こうみょう)としてあらわれておいでになる」と申されたことでした。その時、私は殿を観音菩薩と見た事は申しませんでしたが、心のうちだけでは、その後はけっして世間普通の方と思ったことはありませんでした。と夢のことを書いておられます。

 これはこの手紙の最初にも触れられている、親鸞聖人の六角堂の夢の告げと全く符合するものであります。それは宿縁(しゅくえん)によって出会った配偶者は実は観音の化身であり、その観音はその人とその人生の苦楽を共にしながら、その人生の歩みそのままが、実は「往生極楽の道・おうじょうごくらくのみち」であることを知らしめてくださる方であるというお告げでした。そして、そのことを教えられた仏教が法然上人によって明らかにされた本願念仏の仏教であったということを恵真尼様は覚信尼さまに伝えたかったのでありましょう。

 

​浄土真宗の歴史

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​紙面掲載年月:2016年1月

 弘長(こうちょう)二年十一月二十八日に親鸞聖人はお亡くなりになりました。御伝抄(ごでんしょう・聖人の伝記)によりますと、「洛陽東山の西の麓、鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺(えんにんじ)に葬したてまつる。遺骨を拾いて、同山の麓、鳥部野の北、大谷(おおたに)にこれをおさめたてまつりおわりぬ」とありますから、入滅(にゅうめつ)された聖人の御遺体は、二十九日東山の延仁寺で荼毘(だび)に付され、三十日収骨され大谷の墓所に納められました。

 京都東山の鳥辺野は古来徒然草の中にも出てくる「京の葬送地」でしたが、延仁寺は現在も大谷派の寺院として存在し、聖人の荼毘所として知られています。聖人の最初の墓所はごく簡単なもので宝珠(ほうじゅ)の下に笠があり、その下に四角いほそながい石柱を檀の上にたてたもので、それを柵で廻らした、いわば普通の御墓でした。

 それから十年目の文永(ぶんえい)九年、親鸞聖人のご臨終を看取られた末娘の覚信尼(かくしんに)様は、関東の門弟と諮(はか)り別の場所に聖人の廟所を造り遺骨を移されます。それは現在、東山の、浄土宗の本山知恩院山門の北にある崇泰院(そうたいいん)がその地にあたるといわれています。この崇泰院は知恩院の末寺ですが、かなり広い境内地をもった寺院です。

 その当時は覚信尼様の二度目の御主人であった小野宮禅念という人の土地でありました。覚信尼様は聖人滅後この小野宮禅念(おのみやぜんねん)という方と再婚されていました。その屋敷内に六角堂の廟堂を建て、そこに聖人の御木像を安置し遺骨を納められました。それは単なるお墓ではなく、あたかも生ける聖人がそこに居ますが如く、関東の御門徒の心の依りどころとしての廟堂の建立でありました。そして、現在京都の本山は勿論、全国の末寺で聖人の御命日を勝縁(しょうえん)として聖人の報恩講(ほうおんこう)が年々勤められていますが、その原型ともいえる集いがここで始まったわけであります。

 覚信尼様ご夫妻の屋敷が現在の御寺の庫裏(くり)の役目を果たしたわけでありましょう。はるか関東の各地から聖人の御徳を偲び、聖人のお陰で念仏の仏法にお遇い出来た御恩を思うて、はるばる京都の廟堂に足を運ばれたであろうご門徒の人々の深い喜びを思わずにはおれません。

 小野宮禅念様は亡くなる前年、その廟堂が創立された土地の権利を妻の覚信尼様に譲っておられます。そして、土地を譲られた覚信尼様は、それから三年先の建治(けんじ)三年にその土地全部を門弟に寄進されます。そこで、この廟堂を永遠に保つために、私はご門徒皆さんの共有にするのだという意味のことを、その譲り状に書かれています。そして、その譲り状には父を異にする実子覚恵(かくえ)様と、小野宮禅念様との間に生まれた唯善(ゆいぜん)様の此の事に異義のないことを表す署名が添えられていました。

 そして同時にその廟堂を護り、日々その給仕をする役目を「留守職・るすしき」と名づけ、門弟の承認を得て、必ず覚信尼様の子孫の者が継ぐことを約束してもらわれました。その時もたとえ私の子孫であっても、田舎の同行の心にそわない、むしろそれをないがしろにし、教えに背く者は皆さんの考えで選ばないでほしい。親鸞聖人の御弟子たちの心に叶う者を撰んでほしいと譲り状には書かれています。この廟堂は特別な誰かのものではなく、どこまでも仏法領(仏法の領分、仏祖から拝領したもの)のものであることを明らかにされ、それが父聖人の願いであることを覚信尼様は深く信じておられたのでありましょう。

 このかたちが時代を経て今日の本願寺教団に発展したのであります。本願寺住職は親鸞聖人の子孫であられ、日々仏祖のお給仕がその役目であられます。

​浄土真宗の歴史

 46 ​

​紙面掲載年月:2016年3月

 前回は、聖人滅後その末娘の覚信尼(かくしんに)さまと、関東のご門徒の深い願いによって、京都の東山に聖人のご影像(えいぞう)を安置した廟堂(びょうどう)が建立され、かつて、聖人ご生前中、十余カ国の境をこえて聖人をおたずねし、念仏の教えをお聞きしていた如く、特にその御命日を中心にして、関東のご門徒が数多くその廟堂に参詣され、生前の聖人を偲び、聖人によって教えられた念仏の仏法を改めていただき直し、わが身が聖人のお陰で仏法に遇い得た喜びを人々と分かち合う、現在でいう報恩講(ほうおんこう)が営まれるようになったことを述べました。

  そして、その廟堂の日常のお給仕は、覚信尼さま御自身があたられ、最初の「留守職・るすしき」をお勤めになりました。しかし、その覚信尼さまもそれから数年後、弘安(こうあん)六年十一月二十四日、六十歳でお亡くなりになります。丁度聖人の御命日、十一月二十八日が迫っており、御参詣になる御門徒宛のお文を遺しておられました。それによりますと「喉の病に冒されて」とありますから、食道癌のような病気であったかもしれません。そのお文には、「毎年聖人の御命日に皆さまとお会い出来、今年もそれを楽しみにしていましたが、病に倒れ今年はそれが叶わぬありさまで非常に残念でございます。そこで、後の廟堂の留守職は長男の専証坊(せんしょうぼう・覚恵 かくえ)に申しつけておきます。私に変わらぬ皆さまの御力添えをお願い致します」という文面のものでした。

  又私はここで御門徒と書きましたが、そのお文には「いなかの人々」という言葉が使われています。もともと、覚信尼さまは親鸞聖人が五十二歳の時、関東で生まれられた方です。そして、家族と共に京都にお帰りになった年齢は十歳ごろと考えられますから、関東は覚信尼さまにとっては文字通り故郷でありました。その関東からはるばる京都の聖人の廟堂に参詣される人々に対しては特別なお気持ちがあられたのではないでしょうか。   「いなかの人々」という言葉にはそうしたことが感じられます。そして、後を託された専証坊さまは、覚信尼さまが十六歳で結婚され、やがて死別された日野広綱(ひののりつな)さまとの間に生まれられた最初のお子様です。専証坊さまの名前は覚恵と申されますが、この方が七歳の時父上が亡くなられ、母上の覚信尼さまは、この覚恵さまと、その妹の二人の子供を連れて親鸞聖人の所に帰っておられますから、覚恵さまは、幼い頃から祖父さまである聖人の御側で親しく訓育を受けられ、その青年期は京都大原の三千院などで、広く仏教全体についての学業にはげまれ、やがて聖人によって本願念仏の教えに眼を開かれ、お母さまを後ろから支えておられた方で、年齢も四十歳を超えられ、母堂から廟堂の留守職をゆだねられる、もっともふさわしい方でした。恐らくいなかの人々からも厚い信頼を寄せられておられたと思われます。。

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