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​正信偈に聞く

 8-1 

​平成20年11月10日

 今月は十二光のところを勉強いたします。

 

普放無量無辺光  あまねく、無量・無辺光、

(ひろく、はかり知れない光・かぎりない光、)

無碍無対光炎王    無碍・無対・光炎王、

(さえぎられることのない光、対比のない光、炎のような光、)

清浄歓喜智慧光    清浄・歓喜・智慧光、

(清らかな光、喜びの光、智慧の光、)

不断難思無称光  不断・難思・無称光、

(とぎれることのない光、考え難き光、はかれない光、)

超日月光照塵刹  超日月光を放って、塵刹を照らす。  

(日月を超えた光を放って、数かぎりない国々を照らされる。)

一切群生蒙光照  一切の群生、光照を蒙る。

(一切の衆生はこの光の輝きを受けて照らされる。)

 

 これが十二光でございます。今まで皆さんと勉強してきましたことは、法蔵菩薩が世自在王仏の所で四十八願をお建てになって、さらに重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)と、兆載永刧(ちょうさいようごう)の修行によって成就された名号(南無阿弥陀仏)によって一切を救おうとなさる。その南無阿弥陀仏を十方に伝わるように願われたというお話でございました。それを「因」といいます。つまり阿弥陀仏が法蔵菩薩であられるときに、一切の衆生を憶念なさり、一切衆生が業に流されて苦しんでいる姿をご覧になって、どうかして一切衆生を救いたいという本願を起こし、そのための手立てとして五刧の間思惟なさって、南無阿弥陀仏の名号を成就された。そして、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られるわけです。そうすると阿弥陀仏は「果」でございますね。

それを『正信偈』では十二の光であらわしてあるわけです。つまり阿弥陀仏の徳を十二光であらわしてあるわけです。光というのは闇を照らして破るはたらきが光でございます。だから、阿弥陀仏を十二通りのお徳で阿弥陀仏をあらわしてあるわけです。光というのはお徳ですね。闇を破ってくださる徳でございます。ですから法蔵菩薩を因としますと、それによって成就なさった果を、十二の光で阿弥陀仏をあらわしてある。『正信偈』はそういう順番でできておるわけでございます。十二といいましても、十一ではない十三ではないという意味ではないんですね。阿弥陀仏の徳を光であらわすとき、無量の徳があられるわけでしょう。つまり『大無量寿経』はそうなっておりますから、それにもとづいて十二の光で阿弥陀仏の徳をあらわしてあると、こういう意味でございます。

 

(1)「普放」(あまねく、放つ) 阿弥陀如来は苦悩する人々を救うために、広く十二種の光を放っておられるということ。「十二光」は「大無量寿経」による。

(2)「無量」(むりょう)無量光 如来の真実の智慧のかぎりない輝き。 「仏説無量寿経」「光明無量の願」(第十二願) 「たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を 照らさざるに至らば、正覚を取らじ。」

(注)那由他(なゆた) 古代インドの数の単位。諸説あって一定しないが、一千億とする説が有力。「浄土和讃」「智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相ことごとく 光暁(こうぎょう)かむらぬものはなし 真実明に帰命せよ」

 

つまり、私たちが智慧といっておりますのは分別の知恵でございます。対立の知恵、相対

の知恵でございます。だから、どうしても対立を免れませんから苦悩も免れない。我われはなぜ苦悩しておるのかというたら、人間の知恵で苦悩しているわけです。

例えば犬や猫には「苦」はある。しかし人間のように「悩」はない。痛いとか暑いとか寒いとかあります。しかし「悩」がありませんからノイローゼにならんわけですね。なぜかと言ったら対立の世界ではない。だからそのままを生きているわけです。だから犬や猫の世界は、食べることと子孫を残すということだけで生きています。人間のように「俺が」という我執はない。人間以外の動物は我執分別する知恵がありませんから、そのままを、ただ食べるということと子孫を残すということだけで生きている。そして、その生きている事実が、あらゆるものと繋がっているわけですね。

植物が生える。そうすると植物は自分の子孫を残そうとする。その時に美しい花を咲かせ、花の蜜をわざわざ出す。そうすると、それに惹かれて蜂が来る。その蜂が蜜を取ることで、そのまま触媒の働きをする。そして、今度は花が実ったら鳥がその実を食べる。食べたら排泄しますから、そうすると甘い実の種子が入っているわけです。そうするとそれが大地に落ちて子孫が残るわけです。こういうかたちで生態系が保たれている。命自体は循環になっているわけです。ところが、人間だけが知恵ができて人間だけが立ち上がってしまった。

それで人間の知恵でもって、そういうものを相対化してしまう。自分の向こうにおいて見る。そうすると、あの人は美しいが私は美しくないとか、あの人は背が高いが私はそうでないとか、自分は能力があるとかないとか、そういう人間の知恵が人間自身を縛って、それが悩みになるわけです。犬や猫は人間と同じように悩んでいるかというたら悩んでいないわけです。あるがままを生きているわけです。しかし人間も本来はあるがままの自然から出てきたけれども、人間だけが知恵をもち文化をつくった。だから千年前の生き方と今の生き方は違います。そして将来も違うでしょう。そういうことを人間は進歩といっていますけれども、はたしてただ単純に進歩といっていいのかという問題があるわけです。それは人間の知恵によって生み出された人間の文化のもつ矛盾です。

生と死を相対化していく。そして対立の世界を自らつくって苦しむ。それを仏教では「生死・しょうじ」といいます。生と死を分けてしまう。これは人間の知恵です。生に執着する。そうすると死が生を否定するものに見えてしまう。しかし生まれたものが死ぬるというのは自然なんです。生老病死というのは自然なんです。人間に限りません、一切のものは生老病死があるわけです。生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは衰えると。生身をかかえておれば病は免れない。他の動物もみなそうです。しかし動物は、それを対立的に向こうに見ないわけです。人間の知恵は向こうに見てしまう。相対化してしまう。そうすると生に執着し、死は生を否定するものとして受け取れるわけですね。犬や猫には死はないんです。死にますけれども、人間のように考えるような死ではない。あるがままです。それによって悩むことはありませんから、対立的にものを見ません。犬や猫には死はありません。死があるのは人間だけです。そこに人間の苦悩のもとがある。それをどう超えていくのかということを教えるのが仏教です。これは口で言うほど簡単ではありません。人間は生老病死に苦しむ。だから四苦と言うでしょう。四苦八苦という。例えば、私も老病ですね。膝がどうかありますよ。老病です。歳を取ったんだから何が出てきても不思議じゃないわけですよ。

親鸞聖人や蓮如上人は「自力の心」といいなさいますけれども、何か自力の心というと、仏教の専門の言葉ですから、世間の話と全然違う話をしておられるように考えがちですけれど、そういう意味ではありません。自力の心というのは、わが身をたのむと親鸞聖人はそういう言い方をなさいます。そして、わが心をたのむ。ですから対立の中で、自分と他を比べて、あの人と私は歳は同じばってん、あの人は元気か。なんで私ばっかり苦しまねばならんかといって、わが身をありのままに受け取れん。仏教は基本的に自業自得をいいますよ。だから、そうなるように私は生きて来たということです。生きて来た結果がいま私が、例えば膝が痛いということになっているわけです。自分がそうしてきたんだから、それが分かればいいのですけれども、そこに善悪をつけていくわけですよ。あの人は元気で、何で私ばかりがこんなんやろかと。そこに道徳的な善悪までつっこんでいよいよ迷いを深めていく。こんな目に会わんとならん悪い種を蒔いた覚えはないと。人間の分別というのは無限に苦悩していくわけです。

そういうことをきちんと解明してくださったのが仏教でしょう。私たちは自業自得ということは頭ではわかっていますが、我がことになるとわからん。他人に自業自得と言われると腹が立ちますよ。なんであんたに私が言われんとならんかと。だから、そういうかたちで人間は苦しむようになっている。しかもそのことがわからん。これが闇ですね。つまり迷いです。迷いということは、ありのままがありのままに見えない。自分の都合のいいようにしかものが見えない。それが「自力の心」です。しかしそのことが分からん。そのことをどこまでも分からせようという、そういうはたらきを光といいます。

如来の光というのは闇を闇と知らせる。頭の中でパッと光が差すという意味ではなくて、救われてみようのない私が、救われようのない私として生きて来た。そして今まで何十年、本当に我執・我慢の心で生きて来たということに、はじめて気づかされ、そのことにうなずく。そういう我が身を我が身として知らせてくださった如来のまこと。しかも、それを如来は責めておられないんです。如来は大悲であって、我執・我慢の心で生きて来た私を責めておられない。そういうはたらきです。

日本の神様は罰を与えなさるですよ。いや神様が本当に罰を与えなさるかどうか知らんけれど、よく世間で罰が当たったといいますから、罰が当たったと思う人には罰が当たったわけです。キリスト教の教えでは、地獄は神が落とすといいます。ハルマゲドンといいまして、この世が終わる時に、神が墓に入っているものも全部蘇らせて、自分の前にずらっと並べて、お前は神を信じているから天国、お前は信じなかったから地獄と、そういうことを最後の審判と言います。こういうことはキリスト教でもイスラム教でも一緒です。ところが仏教の場合は大悲というでしょう。つまり自業自得なんですよ。しかしそのことが分からんために、いよいよ悪を重ねていく。そういう人間の在り方を悲しまれる。しかし、ただ可哀そうとおっしゃるんでなくて、仏の智慧でもって迷いを迷いと知らせて、そのことを大悲なさるわけです。しかし、その人がなかなか目を覚ましてもらえない。真実のまことというものに目を覚まさないということを背負われるわけです。自分の責任として背負われるわけですね。

そういう意味でいうなら、阿弥陀如来という仏様は永遠に救いのない仏様ですよ。つまり、阿弥陀如来は、俺はもう悟ったと。あいつの所業は困ったものだと。だから、阿弥陀様たすけてくださいと言ったら、よしよしといって引き上げてくださったと。こういう教えではありません。阿弥陀如来はどこまでも悟りの智慧をもって、そして智慧と慈悲がひとつなんですね。大悲をもとにした智恵です。そして智慧をもとにした大悲です。だから「果」というのは今の姿でしょう。そのもとに法蔵のご苦労というものがあります。だから、私たちが本当に救われるということができるならば、どれだけ自分が迷い迷って来たかということと、その迷いをたすけようとして、どれだけ如来様のご苦労があったことか。つまり本願のご苦労ですよ。そういうものを頂くということが信心の中身になっているわけです。

 

                             

正信偈 8ー2

​正信偈に聞く

 8-2 

​平成20年11月10日

 阿弥陀如来は光です。その光は限りない無限の光ですけれども、十二通りの光で説かれるわけです。光は智慧です。その智慧のはたらきによって、私たちは迷いを迷いと知らしていただいて、南無阿弥陀仏申せるんですね。私が称えて光に遇うということでなくて、如来の光が私にとどいて、私が南無阿弥陀仏申すかたちになるわけです。如来と私というものが離れない。そういう意味をここであらわそうとなさっておられます。ですから、阿弥陀如来の徳を『正信偈』では十二の光であらわしてあるということです。それでまず一番初めが「無量光」でございます。だから、(如来の真実の智慧のかぎりない輝き)と書いてあります。そして『仏説無量寿経』は、その本願の根拠です。「光明無量の願」と書いてありますのは、四十八願の中の第十二願に光明無量の願といってあります。

 

「たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を 照らさざるに至らば、正覚を取らじ。」

 

「那由他・なゆた」というのは、そこに(注)が書いてあります。「古代インドの数の単位。諸説あって一定しないが、一千億とする説が有力」と書いてあります。非常に大きな数でありますけれども、法蔵菩薩が四十八願をお建てになったときに、十二番目の願に、私が仏になっても「光明能く限量ありて」と。つまり仏になった光明です。「限量」というのは限りがあって、そして「下、百千億那由他の諸仏の国を」というのは、一千億という数に百千積むわけですから、とてつもない数字になりますが、そこにそれだけの諸仏がいて国があるというんです。「照らさざるに至らば、正覚を取らじ。」とは、その国を照らさないならば、私の悟りは悟りと言えないと。それが根拠だと。だから、先ず阿弥陀の徳を上げるのに「無量」であげてあるんだと、こういうようにおっしゃるわけです。そして次に「浄土和讃」というのがございます。

 

「智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相ことごとく 光暁(こうぎょう)かむらぬものはなし 真実明に帰命せよ」

 

これが「光明無量」ということをあらわされる和讃なんです。意訳がありまして「智慧の光明は無限であって 有限のすべての人間に 光明をこうむらせる 真実明の仏に帰順せよ」、そこで大事なことは、光明の徳ということは、有量のすべての人間に光明をこうむらせるとなっています。ここに「有量・うりょう」という言葉が大事です。有量というのは我われのことです。宿業を生きる存在です。人間のことです。

 ところが、私たち人間の分別の知恵というのは、自分の知恵で全てが尽くせるという迷いをもっております。特に現代という時代は、人間の力は偉大だと。だからこのままいけば何でも出来るというように考えてしまいます。そういうかたちで人間はどんどん迷いを深めていっている面があるでしょう。世の中の進歩をどんどん進めていっている。しかし今度は複雑になってきています。だから五刧思惟という時間をかけて、法蔵菩薩はその複雑になる人間の知恵の一番もとにもどるわけです。仏教というのは人間の考えを根源にもどす教えです。ところが人間の知恵の作った世界は、どんどん複雑になってきています。そして我が強くなって来ています。我の上に人間の知恵というものは立っていますからね。そうすると差別観念が非常に強くなってきます。人間の知恵がどんどん進んできて、その上に建った文化は差別観念をどんどん増やしていきます。そういうことを我われは感じます。それはどういうことかと言いますと「孤独」ですよ。言いようのない孤独感を深めていきます。

東京の秋葉原で無差別の殺傷事件がありました。あれは孤独から来ていますでしょう。知恵がないわけじゃないんです。馬鹿じゃないんです。どんどん孤独感が強くなってきているわけです。それは、社会がそういう仕組みになってきていますからね。その谷間に落ちていくわけです。だから、あのような事件を起こした人は、誰も自分を認めてくれないと。そして最後は、携帯電話(SNS)だったといいますね。携帯電話にメッセージを入れさえすれば全てのものに繋がっていると。一種の錯覚ですけれど、いわば電波でもって世界中に繋がっているという錯覚です。だから秋葉原へレンタルで借りたトラックに乗っていくわけでしょう。その一刻、一刻にメッセージを送っていたそうです。だから、そのメッセージを読んで誰かが返事して、やめろと言ったらやめとったというわけでしょう。メッセージを送るということで、世界中に自分の思いを発信しているという錯覚ですよ。それは通信ですから世界中に発信しているでしょう。誰かがとめてくれたら自分はやめたかもしれないと。電波で世界中に発信しているなら広い世界でしょう。しかし、本人がおる世界はまったく孤独です。誰も分かってくれない。自分はこれだけの能力があるんだぞということを知らせたい。秋葉原は電気器具などを売るところだそうです。そこに行っている人間を殺す。僕はこれだけのことができるんだぞという、一種の自己顕示ですね。それが人殺しだったというわけでしょう。そのもとは何から出ているのかというと孤独感ですよ。限りない孤独です。

しかも、そういう自分を自分と知らせる智恵がないんですね。現在は無限に人間の知恵が広がっていきよるわけですよ。広がっていると思っている心、それが闇です。現在はそれを照らす教えがないわけです。ですからお寺で話している仏教は、人間の根源をおさえている教えだということを思っている人は少ないんじゃないでしょうか。何か年寄りをつかまえて坊主がぶつぶつ言っておると、そういうものは世の中で通用せんと思っているんじゃないですか。今からの時代は超能力だということを麻原影晃はいったわけですね。そして頭にヘッドギヤなんかをかぶって、どうかしたら人間の能力はどんどん延びてくるんだと。今の人間の科学的な文化を超える。次の新しい文化を私は知っているんだと麻原影晃はいうわけでしょう。こういうことも一つの妄念ですよ。しかし、妄念の大きなもとは何かというと、人間が自然から立ち上がってしまった。そして人間の知恵をたのむようになってしまった。それがどこまでも広がっていっている。だからもう迷宮入りなんですよ。今の人間の文化が進んでいくということは、どんどん迷宮入りなんです。それが20世紀にきて、人間はこのままいっていたら、人間の知恵で人間自身の首を絞めるんじゃないかということを気がついたわけでしょう。だから環境破壊を止めねばならないと皆一生懸命考えています。これは人間の知恵ですけれども、しかし背に腹はかえられませんね。結局人間が可愛いわけですから。ともかく、我ら一人ひとりが本気で足下から考えていかねばなりません。

だから、人間が人間として、すべてのものと生きていく智慧です。それが十二光という。ここでは「有量の諸相」といってあります。有量というのは「量りある」でしょう。有量を有量と知らせるはたらきが無量光です。だから煩悩具足の凡夫ということでしょう。毎日の日暮らしの具体的なかたちが煩悩具足の凡夫ということでしょう。孤独ということでいいますと、一番私たちが信じられる関係は親子じゃないですか。今まではそうだったんじゃないですか。最後は結局親子の関係だったんじゃないですか。それが崩れていっているわけでしょう。親は子を信じられん。子供は親を信じられん。現在の我執にとらわれた孤独な心は、我が子さえ包めないわけですよ。そうすると子供のほうが親に背くわけです。そういうところに、無差別殺人を起こした子供でも、親に何の相談もしていないんですね。そして親もこういう問題が起きてくると結局どうしようもないですよ。その時に親が悪い子供が悪いではすまないわけです。その一番のもとに問題があるわけです。

そういう問題を十二光というかたちで説いてある。だから「有量の諸相」といってありますね。「光暁かむらぬものはなし」、光の徳です。「有限のすべての人間に 光明をこうむらせる 真実明の仏に帰順せよ」と名畑先生という方が、親鸞聖人の三帖和讃の講義をなさっている書物が岩波から出ています。そこで、そのように言ってあります。ですから仏様の徳は量り無いものであると。それをただ頭で考えて量り無い仏様の徳だということを考えるわけではなくて、そこに「有量の諸相ことごとく」ということを照らしてくださる。照らしてくださることによって、私たちは有量ということを有量と知ることができるということです。宿業の身だということを知らしていただくということですよ。そういうことが大切です。その次が、

 

3)「無辺光」(むへんこう) 辺(さかい)がなく際(きわ)もない如来の光明

「浄土和讃」では「解脱の光輪きわもなし 光蝕(こうそく)かぶるものはみな 有無をはなるとのべたもう 平等覚に帰命せよ」

 

「有量」といった時には「真実明」と表現されます。そして「有無」といった時は「平等覚」と表現されます。全部阿弥陀如来です。ですから「解脱の光輪きわもなし」と書いてありますね。「解脱」は業の繋縛(けばく)を脱した徳と。仏の徳は、宿業の悪業煩悩を除く。「際・きわ」は極まり。だから、解脱の徳ある無限の光をその身にこうむるものは、すべて有無の偏見を離れる、とお説きになる。だから「平等覚(の仏)に帰命せよ」と。人間の知恵は有無になるわけです。『正信偈』の中で、竜樹菩薩のお徳を、親鸞聖人がおほめになるのに「悉能摧破有無見」というところがあります。

 

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見

釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、

  南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。

宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。

 

そこに「有無の見」とあります。つまり有る無しということですね。

私が若いころ、ご本山の教学研究所で研修を受けていた時、教学研究所の先生の話ですが、研究所主催で大阪教区で、大阪は商売の街ですから、そういうことに関わっておられる若い人に集まってもらって勉強会があったそうです。その人たちは仏教の話を聞くのは初めてだったそうです。大阪は大きな問屋のようなところが沢山ある所ですから、そういうところに勤めているような人たちでしょう。その人たちが一緒に『正信偈』のお勤めをして、その後、座談会があったときに、「和讃では「有無をはなるとのべたもう」と書いてある。我われは朝から晩まで有るとか無いとかいって苦労しておる。これは人間の業として免れられないだろう。しかし、そうでありつつ有る無しを超えた世界があるならば、その世界から有る無しを見るのと、そういうことを知らないで、ただ有る無しに執われているのとは生き方が違うのではないか。親鸞聖人の仏教というのは、そういうことを教えるんですね。」とある人が言ったそうです。先生の方がびっくりしたそうです。毎日お勤めはしておるけれども、そういうことを思ってお勤めはしとらん。ところが初めて教えを聞いた人が、お勤めをして、その中に「有無をはなるとのべたもう」と書いてある。あっそうか。これを知ることによって、有るとか無いとか、そういうことに毎日苦しんでいるけれども、そういうものを超えた世界に出会うのか。そしてそこから有る無しの世界を生きれば、生き方が変わってくるのでないか。本当に大事なことを聞かせてもらったと言って、初めて教えを聞く若い人が言ったということを、本山の教学研究所で聞いたことがあります。

そういうかたちで、なかなか仏教というものを聞かないわけですよ。死んだら極楽にいくというような恰好でしか、それは嘘でないですよ、方便ですから。たとえどのような生き方をしておっても、やっぱり身体が動かなくなって命終わる時に、人はどこに帰っていくのかということが問われるわけでしょう。誰かが問うというのでなくて、その人の人生そのものが問うてくるんですよ。その時にその人はどうすればいいんでしょうか。そういう問題は皆あるわけですよ。つまり、今まで仏教を聞かなかった人でも、その人の人生そのものの問題を問わねばならないようになっている。それを「願力自然・がんりきじねん」と親鸞聖人はおっしゃるんですね。つまり、この人生は如来様の本願がはたらいているんだと。その人が信じるとか信じないとかいっておるけれども、その人の思いと関係なくはたらいている。だから結局そこにいってしまう。

 

自然(じねん)というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。・・・・・・自然というは、もとよりしからしむということばなり。・・・ 

正像末和讃 字釈 聖典P510~511

 

「おのずから」「しからしむ」と書いてあります。そうせしむるものが如来の本願力。つまり、浄土に生まれさせようという。その浄土とは有無を離れた世界ですよ。そういうことを言ってあるわけです。大阪のサラリーマンの人がおっしゃったというのは、とても大事な問題です。私たちのように長く聴聞しておるものが、案外問題がはっきりしていない。だから、そういう人がはっきりさしてくださるという面があるだろうと思います。私たちは有る無しに執われておりますよ。

 

〇「親鸞和讃集」 岩波文庫  名畑 應順 校注

  

                             

正信偈 8ー3

​正信偈に聞く

 8-3 

​平成20年11月10日

それから次が、

 

(4)「無碍」(むげ)無碍光 何ものにも碍(さまたげ)られることのない光明

「浄土和讃」「光雲無碍如虚空(こううんむげにょこくう)  一切の有碍にさわりなし

  光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき  難思議(なんしぎ)を帰命せよ」

 

とあります。意訳では、

 

「光雲無碍如虚空」 普遍の光明は 何ものにもさまたげられることなく。「無碍光」すべてのものに恵みを与えたまう。「難思議」不思議のみ名をたのみとせよ。

 

と、このように言ってあります。「一切の有碍にさわりなし」といってありますね。だからこれは曇鸞大師ですが、何ものにもさまたげられないということは、つまり我われが、結局は煩悩にさまたげられるんですね。私たちは一生煩悩から離れられませんよ。しかし離れられないということを思いません。例えば、腹を立てることに値打ちをつけるでしょう。俺が腹を立てるのは、お前が悪いからという。しかし本当は、向こうをご縁にして、私が腹を立てたのであって、向こうはご縁ですからね。それによって腹を立てている私がおるわけです。ところが私たちは、そのことを忘れて、俺が腹を立てるのは当たり前。向こうの出方が悪いんだと。こういうかたちで向こうの問題にするじゃないですか。清沢満之先生の「絶対他力の大道」の中に、

 

「請うなかれ、求むるなかれ、汝何の不足かある。若し不足ありと思わばこれ汝の不信にあらずや、如来は汝がために必要なるものを賦与(ふよ)したるにあらずや。

もしその賦与において不充分なるも、汝は決してこれ以外に満足をうること能(あた)わざるにあらずや。けだし、汝自ら不足ありと思いて苦悩せば、汝はいよいよ修養をすすめて如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。

之を人に請い、之を他に求むるがごときは卑(ひ)なり陋(ろう・みにくい)なり、如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱をうくることなきも汝の苦悩いかがせん。」

 

こういうように言われるでしょう。「絶対他力の大道」というのは、清沢満之先生が皆にわからせるために書かれたものじゃないんですよ。この言葉は日記の中にあったんですよ。それをお弟子さんがまとめたんです。だから清沢満之先生は、「請うなかれ、求むるなかれ」というのであれば、自分自身にいってあるんですよ。

 

無限他力はいずれのところにかある。自身の稟受(ひんじゅ)においてこれを見る。自分の稟受は無限他力の表顕なり。之を尊び之を重んじ、もって如来の大恩を感謝せよ。然るに自分の内に足るを求めずして、外物を追い他人に従い、もって己をみたさんとす、顛倒(てんとう)にあらずや。外物を追うは貪欲(とんよく)の源なり、他人に従うは瞋恚(しんに)の源なり。

 

稟受(ひんじゅ)というのは、いま受けているということです。理屈も何もない。自分が現に受けているわけですから。ですから「自分の稟受は無限他力の表顕なり」と。つまり無限なるものは、あなたという有限なるものになっているということです。「然るに自分の内に足るを求めずして、外物を追い他人に従い、もって己をみたさんとす、顛倒にあらずや。」外のものによって満足しようとするわけでしょう。例えば自分が腹を立てた。腹を立てたということを悲しまないで、向こうの問題にしようとする。向こうが私の思うようになってくれれば、私は何も腹を立てることはいらんと考えてしまう。それが迷いだと。それが人間のもっている深い闇だというんでしょう。だから「自分の内に足るを求めずして、外物を追い他人に従い」、他人というのは身内・他人という他人じゃないです。私以外のものを他人といってあるわけです。外の物や他人によって「もって己をみたさんとす」、つまり人間の欲望は切りがないわけです。それに何かがあれば安心満足できると思い込んでしまっている。それは「顛倒にあらずや」と。逆さまごとになっている。それが闇です。そういう私を私と知らされるものが光です。だから光に遇うということは、私が分かるということです。どういう私が知れるかというたら、外物他人によって満足しようとしている私が私とわかるということですよ。その信心を懴悔と感謝というんです。

大石先生は信心の中身を、そういう言い方でなさるでしょう。懴悔ということは恥じるということですよ。そして回心(えしん)懴悔ということですから、自分の今までの思いがひっくり返るということでしょう。それをより具体的に書いてあるわけです。そして、そういう私を如来は捨てないわけです。そこにはたらいておってくださるものが、念仏申せと呼びかけておってくださる仏のまことですよ。だから、私たちはいつも呼ばれておるわけでしょう。だからそれは具体的でしょう。

「外物を追うは貪欲の源なり、他人に従うは瞋恚の源なり」と。外物を追うのは、人をあてにする。外のものによって満足を得ようとする。そうすると貪欲というのは人間の限りない欲望のことでしょう。欲望はどこまでいっても無くなるということはないわけですから、いつの間にか人間は振り回されているわけです。だから外物によって私が満足を得ようとすることは、いかに人間の愚かな姿かということを言うてある。外物を追うことは貪欲の源ですよ。「「他人に従うは瞋恚の源なり」と。瞋恚というのは腹立つということです。他人に従うということは、他人は身内に従うというということではない。私以外はみな他人です。他人に従うは瞋恚の源なりということは、向こうをあてにしたら腹を立てんならん。ご縁があればこちらのいうことを聞いてもらえますよ。そしたら腹を立てんですむ。ところが、縁がなければ聞いてもらえないですよ。そうすると腹が立ちますよ。他人に従うということは、他人をあてにすれば腹を立てんならん。そういうことがはっきりする。当たり前のことでしょう。その当たり前のことを当たり前と分からんということが迷いということです。だから仏教というのは非常に具体的だということです。だから皆さんと一緒にこれを読むのは、清沢満之先生の言葉は具体的だからです。どこかで私たちが照らされるということです。私のそういう生き方は逆だなと気づかせてくださる。

 広島の田舎では「後生参りのところに嫁はやるな」という話があるんですよ。仏教というものをきちっと受け取らないで、自分なりに受け取って、それを根拠にして相手を責めたりする。いつのまにか人のせいにしてしまう。つまり仏教を武器に使うわけです。これが一番恐ろしい。責められるものは、その人の言っていることが仏様の教えですから、普通の人間のものの考えでは対抗できない。世間同士の考え方ならお互い様ですからね。ところが「後生参り」の人のところにいったら、世間の考えが通じないですよ。何故かというたら、後生参りの仏教者は、自分は仏教がわかっているというところに立って相手を責めるから、ああいうところは嫁ぐとやかましい。「後生参りのところには嫁にやるな」と、面白い言い方がありますけれど、そういう面があるんですね。それは悪いというよりも、仏法を聞いておるものが問題なんです。それは念仏の教えでは二十願の問題かもしれませんね。仏法をたのみにする。自分を守る武器に使うという、そういう問題があるでしょうね。そういうことを思いますとね、光というかたちで仏の徳をあらわしてあるということは非常に大事です。それは、私たちが光を出すというんじゃなくて、逆に闇が闇と知らされるということです。闇を闇と知らずにおった私が、実は私が闇だったということに、はじめて気づかされるということが、仏の光に遇うということです。如来様というかたちでいわれると、かえって分からないですけれども、十二光というかたちで表現されているということは、とっても大事なことでございますね。こういうことがひとつございます。

 曇鸞大師様は、阿弥陀様を表現なさるのに「無碍光仏」で表現されております。親鸞聖人はご門徒の人から名号をたのまれる、その時に蓮如上人は南無阿弥陀仏と書いて渡されたのが多いですね。しかし親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」が多かったといいます。「蓮如上人御一代記聞書・れんにょしょうにんごいちだいきききがき」という書物があります。これは自分が生きているとき、こういうことを聞いた。蓮如上人が生きておられるときに、こういうことをおっしゃった。またある人がこういう教化を受けたと。そういうものをメモしていたものをもとにして、「蓮如上人御一代記聞書」という本をつくるんですね。その中に、蓮如上人が「この間お前が名号を書いてくれというもんだから、私が書いたけれどもあれはどうしておろうか」と聞いたら、「表装して大切にして箱になおしておる」と。そうしたら蓮如上人が怒られまして、「お前に何のために書いてやったか」と。

 

蓮如上人、仰せられて候う。「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と、対句に仰せられ候う。 「蓮如上人御一代記聞書」 聖典P868

 

その名号を何時も掛けて掛けやぶれと、聖教は読みやぶれといっておられます。聖教は大事にしておったら何もならん。何時も聖教は読みやぶれと、名号は掛けやぶれと。掛けておれば傷むじゃないですか。表装して箱に入れて骨董品にしているといって蓮如上人が怒んなさるところがあるんですけれども、そういう人が多かったんでしょう。そういう物が現在も残っておるのかもしれませんがね。親鸞聖人の名号は南無阿弥陀仏は少なかったようです。南無阿弥陀仏もあるんです。だけど少なかったようです。「帰命尽十方無碍光如来」の方が多かった。これは天親菩薩の『浄土論』の一番はじめに書かれている言葉なんですね。

 

「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」  (浄土論 聖典P135)

世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。

 

となっています。「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)、十方を尽くして さわりなき光に帰命する。「十方」というのは東西南北の四方と四隅で合わせれば八方。四方八方というでしょう。それに上下で十方です。だからあらゆる方向をあらわしておるわけです。だから十方を尽くしてさわりないとなっております。さわりなき光の如来に帰命すると。この十字名号をほとんど書かれたようです。大谷派ではお内仏の中央は阿弥陀如来、向かって右側にこの十字名号を掛けます。左側には南無不可思議光如来(九字名号)を掛けます。この十字名号を親鸞聖人は門徒さんに書いて渡されたそうです。南無阿弥陀仏はインドの言葉そのものですからね。だからあれを見ただけでは意味が分かり難いでしょう。十字名号は意味が分かります。十方を尽くしてさわりなき光に帰命すると。親鸞聖人は天親菩薩の教えにもとづいて、十二光の無碍光を中心において見てこられたということです。阿弥陀如来さまは無碍光如来だというかたちで受け取っておられたということが分かるわけでございます。今日はこれで終わります。ありがとうございました。

 

〇親鸞聖人の「浄土和讃」の最初は、曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」によって製作されている。

〇清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日文久3年6月26日)- 1903年明治36年)6月6日)は、日本明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶哲学者宗教家。 岩波書店「清沢満之全集」

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