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​正信偈に聞く

 12 -1 

​平成21年3月10日

 皆さんこんにちは。今日は「本願名号正定業」からになります。テキストをご覧下さい。

 

本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり。

(本願の名号は正しく(往生を)決定するはたらきをする。)

至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす。

((第十八の)至心信楽の願が(往生の)因となる。)

 

(16)「本願名号」 阿弥陀仏の本願によって衆生に施与された名号。

「南無阿弥陀仏」「阿弥陀仏に南無(帰命)する」という名号。

「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来が愚悪の凡夫を救済する願いから、凡夫に施与された名号。本願という他力によって回向された名号。

 

『大無量寿経』第十七願(「諸仏称名の願」)

「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」

 

(17)「正定の業」正しく決定する業(行為)、まさしく凡夫の浄土往生を確定させるはたらき。

 

と古田先生は「注」を書いていらっしゃいます。今日は「本願の名号は正定の業なり」と言われるのは、どういう意味かということから、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 ここに書いてありますように、「本願の名号」は南無阿弥陀仏のことだと。なぜ本願の名号というかと言ったら、阿弥陀仏が本願をおこして、その本願によって衆生に施された名号と書いてあります。親鸞聖人の教えに限らず、仏教というのはどういう教えであるかということがありますが、もともと宗教といいますと、私たちには目に見えない仏様や神様の存在を信じるのが宗教を信じる人の在り方であり、そんなものはないと信じない人は無宗教の人だと一般的に考えるのが普通です。人間は何もないときは祈るということはしませんけれども、「かなわぬ時の神頼み」という言葉がありますけれども、かなわぬ時というのは、常日頃の生活は自分自身がいろいろ努力して、経済を支え健康に気をつけて、家庭を作り、家庭の中で争いを起こさないように力を合わせていく。そしてまた、いろいろなことを人間は予想し予見して、そして災難に遭わないように都合よく日暮らしが出来るように生きていくけれども、しかし人間ではどうにもなんようなことが人生にはあります。そういうことを運命といったりしますけれども、そんなときに人間の力を超えた、特別な力のある神仏に加護をもらい、私が災難に遭わないように祈る。そしてまた、毎日の日暮らしが都合よくいくことは、陰ながら神仏のご加護があってのことだろう、だから感謝をする。そういうのが宗教だという一つの常識といいますか、考え方があるのでないでしょうか。先祖のご加護、だからそういうものに祈ることを祈願といいます。祈り願う、そして感謝する。祈願し感謝して生きる。そういう人は信仰心の篤い立派な人という考えが一般的にある。それに対して、自分の能力だけを信じて人間の力以上のものを信じない。そういう人に対しては、何か不安といいますか批判的なものを感じますね。努力もし、能力のある人ではあるけれども、いつも神仏に手を合わせ祈って感謝していく生き方をする人は、非常に円満な人だと。あるいは非常に謙虚な、人格的に完成に近いといいますか、そういうことができておる人だというような考え方。また評価。そういうものがだいたい日本人には強いんではないでしょうか。 

 だいたい若い時は、そういうことはあまり信じないでしょう。ある程度歳を取ってくると手を合わせることの大切さ、そしてまた感謝ということを考える人が増えてくる。そういうことを宗教と考えているのが普通でないかと思いますね。その時に仏教という宗教はどうだろうか。今いったような面がないではないのですが、表面は同じように見えるけれども、仏教はそういう教えではないんですね。祈願と感謝という意味で言いますならば、仏教はそういう宗教ではないんですね。

 これは、仏教の勉強をしていきます時に、基本的に考えておかねばならない問題だと思います。じゃあ、仏教と宗教はどういう宗教なのかというときに、仏教大学で私が一番はじめに習ったのは、「転迷開悟・てんめいかいご」という、迷いを転じて悟りを開く。つまり迷いと悟りということを、仏教は教えている宗教だと習いました。そういう意味で言いますと、人間以上のものを何か信じて、それに祈ったり感謝したりする宗教とは違う。仏教は「仏の教え」という意味と、もう一つは「仏に成る教え」。この二つの意味がある。そして仏というのは何をあらわしている言葉かいったら、迷いを転じて悟りを開く、つまり「お悟りを開いた人」という意味があるわけです。だから、迷いを迷いと知らない、そういう生き方をしている者のことを、仏教では迷いの凡夫と。それに対して迷いを超えて悟りを開いた人を「仏」というのだと習いました。これは基本だろうと思っています。だから、仏様というのは、極端にいいますと人間なんですね。何か目に見えない何かというようなものではなくて、仏様というのは人間なんです。これが基本です。

 お釈迦様は2500年前にインドに生まれられた方です。お釈迦様の教えは、お釈迦様自身が迷いを離れて悟りを開かれた。そこから我々に対して、あなた方の在り方は迷いだと。だから迷いを離れて悟りを開いてほしいということから、悟りの教えを説かれる。それが仏教です。お釈迦様自身は文字を書いておられないわけですね。お釈迦様が亡くなった後に、お釈迦様の教えを文字にした。それが経典です。インドの言葉で「スートラ」といいます。そのスートラはインドの古い言葉で書いてあったんですね。サンスクリットといいます。サンスクリットで書かれていたお釈迦様の教えスートラが、やがて東へ東へ伝わって広がっていくわけです。中央アジアを通って仏教は中国へ来ます。今イラク戦争があっていますが、あのイラク、チグリス・ユーフラテスという河を中心に開けたイスラム文化。そして、エジプト・インド・中国というのは、世界で一番早く文化の開けた国です。ですから、インドで起こった仏教が、中国という非常に文化の発達した国に入っていって、中国の人たちに受け入れられます。その時に、サンスクリットで書かれていたスートラが漢字に翻訳されるわけですね。そこで、中国ではインドのブッダという言葉を、仮名のない国ですから漢字を当てました。音を漢字で当てたわけです。それが仏陀です。つまり悟りということです。

 目覚めた人。インドでは仏陀というのは目覚めた人。具体的には仏教というのは釈迦教なんですね。釈迦という聖者が現れて、釈迦が悟りということを教えた。つまり、釈迦が目覚めた、覚者になった。その教えですから、仏陀の教えということで、仏教といっているわけです。仏教は覚者の教えということです。仏は目覚めた人。そして我われも教えによって覚者になることができる。だから仏教というのだと大学で習いました。歴史上はじめて覚者になった人、仏陀になった人がお釈迦様です。だからお釈迦様が教えた仏陀の教え、迷いを離れて悟りを開くという教えが仏教の基本なんですね。だから、祈ったり拝んだりということはないわけです。私たちはお寺で手を合わせたりしますけれども、祈るんじゃなくて、仏陀に帰依するわけです。そして、そのことを教えてくれた仏様、仏陀に帰依するわけです。日本で言いますと、禅宗という宗派が一番お釈迦様の原型に近いでしょう。だから禅宗の人は、衣もきらびやかなものは着られない。そして禅を組まれるでしょう。これはお釈迦様が29歳で出家して、35歳で悟りを開かれますが、その時の姿でしょう。禅宗の人が礼拝するときは、ただ礼拝するのでなく、身体を投げられて五体投地をなさいます。こういうかたちが仏教の原型です。

 私たちは幸せだとか不幸だとか言いますが、どこでものを言っておるのか。それは、私たちの都合でいっているわけです。都合がよければ幸せ、都合が悪ければ不幸です。そして不幸だと言っている人を見ると気の毒に思うし、幸せを喜んでおるとよかったねと思う。これは人情ですね。こういう思いは大事ですよ。ところが悟りといった場合は、幸、不幸を言っている手元を押さえるわけです。何をもって幸せといっておるのか。何をもって不幸せといっておるのか。その手元を押さえるのが仏教です。だから向こうを拝んで、そして自分をどうにかしようと「かなわぬ時の神頼み」をしている貴方とは何か。一体何を思って幸せ不幸せといっておられるのかということを、その手元を押さえるのが仏教の教えの基本です。

 前回申し上げましたけれども、私が教えを受けた藤解照海先生が、あるお寺にお説教に行かれるのにお伴をして、バスに一生に乗ったんですね。そうしたら、たまたまバスが高校生で満員だったんです。試験があっていたと思いますけれども、学生が皆教科書を開いたり、参考書を開いたりしてるわけです。そうしたら、先生が一人の女子高生の側によって、見ず知らずの彼女に「せいぜい勉強しなさい。勉強は知識だけど知識は大事だから、一生懸命勉強して知識を得なければなりません。だけどそれだけでは人間はだめです。知識を得ようとしている貴方とは何か。人間とは何かということを学ばなかったら、本当に幸せにはなれない。そのことを忘れないように。」と先生がおっしゃるんです。その子はポカンとしてましたけども、先生はやっぱり偉いと思いました。私は高校生の孫がいますが、そんなことは言いませんね。勉強せろと親が言いますから、私はあまりいいませんけども、「知識は大事だ。しかし、知識を得ている貴方とは何かということを知らなかったら、人間は本当に幸せになれん」と。私は家の孫に言った覚えはないですね。

 不幸のときは祈る。幸せのときは感謝する。そうじゃなくて、何をもって幸せといいい不幸といっておるのか、その手を押さえてお釈迦様は生涯生き続けた人です。そして、人間にとっての幸、不幸は自己の問題だから「人間とは何か」という問題を明らかにする。私たちは、自分のことは自分が一番よく知っていると思っていますが、本当は何もわかっていないのではないですかね。むしろ他人の方がよくわかっているということがあります。だから、夫婦だと、奥さんが旦那さんをよく知っているということはあります。しかし、自分のことは自分が一番知っていると思っていますから、そういうことを言ったら、人間というのは決して立派じゃないんです。

正信偈 12ー2

​正信偈に聞く

 12-2 

​平成21年3月10日

 この間もご門徒の家に法事に行きましたら、その方は私と同じくらいの歳の男性です。ご飯を食べながら倒れたそうです。今まで健康そのもので生きてきた人ですよ。病院は縁のなかった人です。その人が倒れた。そして大騒ぎになって救急車で病院に担ぎ込んで、見てもらったら悩閉塞だったそうです。断層写真を撮って脳閉塞の場所も分かったそうです。本人は自分が脳閉塞ということは知らないわけですよ。誰が知っているかといったらお医者さんが知っている。だから、自分のことは自分が一番知っていると思っていますが、倒れるまで自分は健康と思い込んでいた。人間の思いというのはそんなもんです。その思いで幸せを祈る。しかし、幸せだ不幸だと言うているけど、自分とは何なのか。今の健康ひとつとってみても分かりません。そういう時に病気になったら不幸せ、健康になったら幸せだと言うておりますけれども、じゃあ健康を本当に喜べるのかといったら、「病気になってはじめて健康のありがたさがわかった」と。何か人間というのはおかしなことを言うんですね。健康な時に健康のありがたさを喜べないで、病気になって健康のありがたさを喜ぶ。これも可笑しいですね。若い時は元気そのもの。歳を取ってくると、いろいろ病気が出てくるのは分かっています。分かっているけれども分かっていない。分かっているようでわかっていない。何かそういう曖昧な問題を人間は持っている。そういう問題を明らかにしていくというのがお釈迦様の教えでしょう。

 お釈迦様は、自己に目覚め、人生に目覚めて仏陀になった。だから目覚めた人の教えを聞くことによって、私たちも目覚めていく。仏教の問題は人間の根本的な問題なんです。だから、祈ったり拝んだりする宗教を迷信だと否定はしません。その人が幸せであればそれでいいのですけれども、先生がおっしゃられるように知識の勉強はせねばなりません。やっぱり勉強は一生涯せねばならんですよ。しかし一番大事なことは、「自己とは何か」、「人生とは何か」といことをはっきりさせることです。これは例えていえば、建物でいうなら基礎工事です。どんなに立派な家を建てても、基礎がしっかりしていなければ、どんなにお金をかけた立派な家であっても傾いてくる。基礎工事がきちっとしてあれば、その上にどんな立派なものを造っても、立派なものになるんですけれども、基礎工事がしっかりしていなかったならば、非常に不幸な形になっていきます。人生も同じなんです。祈ったり感謝したりすることを否定しているのではありません。もっと人間には本当に大事なことがあるということを教えているのだということです。その時に、仏教は迷いを転じて悟りを開く。これがお釈迦様の教えです。だからかつてお釈迦さまも迷いの存在であった。迷いの存在は、所詮苦悩なんですね。苦悩を免れない。これは非常に可笑しいですよ。何がおかしいかといったら、金がなければ困りますよ。安易に金は要らないなんてことは言えません。しかし、金が有ればあったで苦悩するんですね。無ければないで苦悩する。金のない苦悩と金のある苦悩と、ちょっと矛盾するけれども、金を持っている人は持っている人で苦悩しているわけです。ですから、有るか無いかというかたちで苦悩の問題はかたづかないということです。金のことは、いま困っているだけの金があれば、それだけで一応たすかりますけれども、しかし本当はどうなっても苦悩を免れません。だから、

 

問題は常にあり、問題は常に内にあり。

 

 これは、住岡夜晃(すみおかやこう)という人の言葉ですけれども、つまり「問題は常にあり」ということは、この人生というのはどうなったって問題がないということはないということです。本当にそう思いますね。例えば、子供がおらねばおらんで問題、いたらいたで問題。子供が小さい時は大変、じゃあ大きくなれば大変さがなくなるかといったら、大きくなったらなったで大変。そして、子供を一人前にしてほっとして、気づいてみたら老化。これは代わってももらえないし、代わってもやれん。そして後に残っているのは棺桶。死ぬが死ぬまで問題がないということは絶対にないんですね。金があろうとなかろうと関係ないんです。だから社会的地位や名誉のある人は、ない者からすると羨ましいといいますが、その人たちはその人たちで、我われにない苦悩を持っておられる。だから、人生は苦悩のない人はいないんです。どこで何をしておろうと苦しみのない人は絶対にいないんですね。どんな家でも表面は何もないようであるけれども皆ある。それが人生の常です。「問題は常にあり」です。その時に「問題は内にあり」ということはどういうことか。これを外に置き換えていえば、金さえあれば、物さえあれば、そして子供さえ持っておれば、健康でさえあればと、全部外に向かって条件が適えば幸せというけれども、そうじゃない。問題は自分の考える条件を満たして、安心しようとしているお前が実は問題だと。「問題は内にあり」と。そうしますと、何時でもどこでも、どのような境遇の中にいても、そういうものに振り回されない生き方があるだろうか。

 仏教は悟りを求める教えにふたつの道があると教えます。一つは聖道門(しょうどうもん)、二つには浄土門(じょうどもん)。どちらもお釈迦様の教えです。聖道門の聖は「ひじり」という意味ですから聖の道。門というのは「教え」ということです。聖道の教えという意味です。門というのは「入出の義」といいます。門は出たり入ったりしますでしょう。迷いの世界から悟りの世界へ。悟りの世界から、今度は迷いの世界に帰って来て迷いの人を悟りの世界へ導く。そういう一つのはたらきが入出です。その時に教えを門で表現してあるわけです。その門に聖道の教えと浄土の教えがあるんだと、これはお釈迦様がおっしゃっているわけです。インドでは、昔からこういうかたちで出家して人生を尋ねていくという伝統があったんですね。今もあるようです。年齢で分けて、一生懸命子供を育てる時期と、そういうことが一段落したら山に籠って道を究めていこうとする生き方が、今もインドにはあるようです。お釈迦様は皇太子殿下だったわけですから、お父さんの後を継がねばならなかったわけです。奥さんも子供もいたわけですが、お釈迦様が人生において人間はどこまで行っても苦悩である。金があっても物があっても、地位や名誉があっても、人間は深いところで苦悩する。その愚かさをどう超えていけるかということで、お釈迦様自身が悩むわけですね。そして29歳の時にお釈迦様は出家されたと言われております。出家というのは、社会的地位や名誉、そして親や妻子供を捨てて家を出るわけです。これはインドの伝統にもとづいているわけです。そして、お釈迦様は「勤苦六年・ごんくろくねん」といいますから、六年の間、学問をし修行を重ねて、35歳の時に悟りを開いたといわれます。これは、お釈迦様独自の悟りだといわれておりますね。80歳で亡くなっておられますから、45年間教えを説かれた。それが仏教のはじまりです。だから、聖道門というのは、お釈迦様と同じように真似をするわけです。お釈迦様は出家をして、後は家に帰ってこなかったわけです。だから、お釈迦様の聖道の教えというのは、出家の仏教として伝わってきておるわけです。日本に伝わった仏教も、出家の仏教として伝わってきています。

 「捨家棄欲・しゃけきよく」といいますから、家を捨て欲を棄てる。これは公式的な言葉ですけれども、家というのは家庭という、夫婦とか親子という問題がありますが、日本の歴史では家柄ということもいいます。戦前の私たちの生きた社会では、結婚などは家柄が非常に問われました。今はあまりそういうことは言わなくなりましたけれども、私たちの時代は二人が愛し合っていても、家柄が違うと文句が出る。文句が出れば結婚できませんでした。家柄に誇りを持つこということは悪いことではないですね。自分も誇りをもって人生を生きていく励みにもなりますし、自分自身を律していくという意味でも悪いことではないと思います。しかし、差別観念が強い。そうなれば人を不幸にしてしまいます。結果的に自分も不幸にしてしまうことだってあると思います。そういうものを捨てるという意味です。だから世間的な価値観ですからもとは欲です。そういう欲を棄てるということです。だから、家を捨て欲を棄てる。人間はなぜ苦しむかといったら、欲があるから苦しむわけです。その欲を棄てる。しかし本当に捨てられるかという問題です。家を捨て欲を棄てきったらたいしたものです。聖道門はそれを目指していく教えということです。だからお釈迦様と同じように、そういう道を目指して生きていく、それが出家の仏教です。親鸞聖人も九歳で出家されます。徹底して家や欲を離れて、本当の心の自由、精神の自由、何ものにも執われない精神の自由を明らかにして、多くの人びとにその道を知らせていこうとする道が聖道門です。これは限られた人の道です。特別な人の道です。しかし、現実にはそういうことができない家庭の事情もあれば、いろいろな問題もある。お釈迦様は家庭を捨てましたけれども、お父さんやお母さんは悩みましたよ。一番苦しんだのは奥さんでしょう。生まれて間もない子供を残して、お釈迦様は出て行ってしまうんですからね。そして、その子は後にお釈迦様の弟子になります。「ラフラ」といって、漢訳では「羅喉羅」(らごら)といって、後に釈迦十大弟子のひとりになりますけれど、奥さんにしてみたら主人は道を求めて家を出て行って、本人はいいかもしれないけれども、一生懸命子育てをしてものが分かるようになったら、お釈迦様帆子供を連れて行ってしまうんです。そして子供を弟子にしてしまう。奥さんには何も残らないという。お釈迦様のしていることは非常に世間的にいえば冷たい。やっぱり常識的ではないですね。しかし、世界は愛欲の生涯で、人間が迷いを繰り返しているだけだというのが、お釈迦様にはわかるわけです。だから、出家の道を得て家庭には二度と帰らないで八十歳で亡くなっていきます。それが聖道門の仏教という伝統をもって、今日ここまで来ておるわけです。しかし、これは特別な人の道です。

正信偈 12ー3

​正信偈に聞く

 12-3 

​平成21年3月10日

 それに対して、浄土門という浄土の教えがある。そこに阿弥陀如来という仏様のことを、お釈迦様は説いておられる。「アミダ」というのは中国の学者が、「阿弥陀」という字を当てただけで漢字に意味はありません。音を合わせただけです。これは「光明無量・寿命無量」という意味が、インドの言葉でアミダという意味です。「寿命」は、時間的な意味を表す。時間的ということは「いつでも」ということですね。「光明」は、どこまでも輝いている、照らしているという。闇を照らすという意味がありますから、寿命は時間的な意味を表し、光明は空間的な意味を表します。光明というのは「どこでも」という意味だから、「いつでも」という意味が寿命の意味だということです。いつでもというのは三千年前も三千年後もということです。どこでもということは、インドであろうと、日本であろうと、アメリカであろうと関係ありません。だから広い。全ての者の上にはたらいておる真という意味ですね。

それは、どこまでも迷いを迷いとも知らずに、ただああでもないこうでもないと虚しく一生を終わろうとしている私にはたらいて、どんな境遇に中にいても、そういうものに障られない無碍の世界を、阿弥陀という光明無量・寿命無量のはたらきを光に譬え、そして、そのもとは阿弥陀如来の本願にあるということを、お釈迦様は私たちに説いておられるわけです。阿弥陀如来の本願は、全ての者を平等に救いたいと、全ての者の上にはたらくわけです。いつでも・どこでもはたらくわけです。そしてその人に本当の救いを与えたい。それは、どういうものにも障られない。そして「無碍自在」という境地を与え、その境地を浄土といった。南無阿弥陀仏の浄土といわれます。その浄土に生まれさせて、その人に無碍自在の世界を与えたいと。

 浄土というのは、この世を浄土にするという教えではないのです。私の上にはたらいている真の世界という意味です。ただ私たちはそれを知らないで、ただ目先のことだけで生きている。俺が、俺がで生きているんです。そういう私たちに、そこには救いはないと知らせて、その在り方を翻させようとする。そういう一つの大きな計らいが、願いがはたらいている人生だということを、私たちに知らせようとして、阿弥陀仏の本願ということをお釈迦様は説いておらるわけです。お釈迦様は、いろいろ迷ったけれども出家して、本当の自分に目覚めた。つまり35歳の時に悟った。しかし、気づかされてみると、自分の妻子供まで捨てて真実を求めて出家したと考えていたけれども、実は私を超えて、私をしてそうせしめた大きなはたらきがある。そしてそのはたらきが、実は阿弥陀如来の真実のおはからいであった。しかも実は、そのおはからいは釈迦ひとりにはたらいているだけでなくて、全ての人の上にはたらいているものである。そのことに私は気づいた。その目覚めを南無阿弥陀仏という。阿弥陀に南無する。ナムというのもインドの言葉ですが、徹底的に依っていく。南無阿弥陀仏と。人によってはお釈迦様と同じように出家して修行する人もいる。それはそれでいいわけです。しかし、そういう者も含めて、全て者を包んでおる阿弥陀仏の本願というものがあるのだということを、お釈迦様は『仏説無量寿経』というお経の中で説かれます。

 お釈迦様の教えは五千余巻あるそうです。今は書物としてありますから、漢字は「とじる」というかたちを表して一冊、二冊といいますが、お経は巻物になっていますから、一巻、二巻といいますね。それは今でも言います。その中から、この浄土三部経は浄土の教えが主題として説いてあるんです。この浄土の教えは、どのお経にもあるのですが、浄土の教えを主題にしたお経は三つしかない。三部経というのは、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』です。『仏説無量寿経』は『大無量寿経』ともいいます。大経ともいいます。これは、上下二巻あります。『仏説観無量寿経』は観経ともいいます。これは一巻です。『仏説阿弥陀経』は小経ともいいます。だから大経・観経・小経という言い方があるわけです。ここにお釈迦様が説いておられるのは、正しく浄土の教えということを説いておられます。阿弥陀如来の本願を主題に説いておられる。それを浄土の三部経といっておられます。浄土の三部経の中で、阿弥陀如来の本願を根本命題にして説いてあるのが『大無量寿経』です。そして、お釈迦様の教えによってはじめて気づいた人が「韋提希・いだいけ」という人です。韋提希という一人の婦人が、自分の子供に背かれて苦悩している。その苦しみの渦中に、この本願の教えを聞いて、南無阿弥陀仏申して救われなさったことが書かれてあるのが『仏説観無量寿経』です。だから観無量寿経は非常に特殊な経典です。阿弥陀経というのは、お釈迦様と同じようにお悟りを開かれた仏様。諸仏が、そのことを非常に褒められて、すべての者の救われる道は、この南無阿弥陀仏という本願の教えだということを説いてあります。

 聖道門にはいろいろな修行の道が教えてあるわけです。諸善万行といいますけれども、諸々の善根、万の行を聖道門は説かれるわけです。宗派というのは、修行の方法なんです。行によって宗派が分かれます。行には諸々の善根ということと、万の行というのがあって、修行をして悟りへ登っていこうとする。だから、これは非常に暇がかかるわけです。そして本当に悟ったことに成っているのか、成っていないのか、誰が証明するのかという問題も当然あるわけです。これは戦後間もないころの話ですが、京都には禅宗の本山が沢山あります。その中である本山の老師が癌になられた。今と違いますから、ガンという病気に対して医学的にはそんなに知識がなかったでしょう。それで当然ガンということは、今は本人に教えますけれど、当時は教えなかったでしょう。ところが老師ですから、お年寄りでもあるし、長い間修行なさった方ですから、自分でお医者さんにおっしゃったそうですね。「どうも私の病気は重大な病気のようである。だからありのままに教えて欲しい。私は修行をしている身だから、どんなことが起こっても、それによって私の心が乱されるような事はありませんから、どうぞはっきり言ってください。私自身の身の処し方がありますから、はっきり教えてください」と言われたそうです。当時は普通なら言わないわけですが、相手が偉いお坊さんですから、お医者さんが「あと半年」とおっしゃったそうです。あと半年といわれて、そのお坊さん喜ばれたそうです。「ありがとうございます。そのつもりで私も生きていきます」と言われたそうです。ところが月日が経つにつれて、心に動揺が起きて精神的に不安定になってその人は亡くなるわけです。当時これが話題になったことがあります。こういうことは一般の人には関心がありますよ。悟った人と思っておった人が、自分の死と向き合わされた時に、必ずしも安心ではなかった。そういう意味ではいかにも凡夫ですよ。凡夫ですけれども、悟りの世界を知っていると本人も思っておったし、皆もそう思っていたけれども事は簡単ではなかった。そういうところに、人間の持っている業の深さ、愚かさと言いますか、闇の深さは底知れないものがあるわけです。そういうものを克服する道が聖道門としてあるわけです。だから特殊な道だというわけです。

 浄土の教えというのは、私たちが悟るということではなくて、私が帰らなければならない世界を、浄土として阿弥陀仏が成就したという教えなんですね。同じ悟りでも「浄土のさとり」といいます。そして阿弥陀仏の浄土に生まれる道は、自分の力とか自分で計らうということではなくて、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の名を称えて欲しいと。結局どこまで行っても、人間はそんなに立派になり切れないのだと。見れば見るものに執われ、聞けば聞くものに執われて、そして罪をつくることしかできない自分。そのことがなかなか分からん。自分が自分を反省したくらいでは分からんわけです。だから、寧ろそのことを徹底的に私に知らせて、そして南無阿弥陀仏と我が名を称えよと呼びかけてくださる。それが阿弥陀如来の本願です。だから仏様がここにはたらいているということです。どうかなって来いというのではなく、南無阿弥陀仏と我が名を称えて、私を信ずることができれば浄土に生まれる。そのことが、ここで確信がとれるということです。凡夫のままで、普通の日暮らしのままで、この世界が確信がとれるという。これを他力の教えと言っていますけれども、ここでは「本願の名号は正定の業なり」と書いてあるんです。

 本願の名号というのは、南無阿弥陀仏と申して我が国に生まれよと呼びかけてくださっておる、仏のまことの教えの意味ですね。そのことが私の日暮らしの中で、なるほど私のために阿弥陀仏のご苦労があったと気づかされる。だから、私がどうかなるというのでなくて、どうにもならんということを知らんで生きていた者が、どうにもならん私を私と知らされて、そこに「一心一向に弥陀をたのむ」という道が「今」起こる。その時に、凡夫のままで凡夫の心を超えた心をいただくことができる。

 そういう教えがある。そして、そこにお釈迦様の教えの究極があるのだということを、はじめてはっきりさせた人が、インドでは龍樹・天親。中国では曇鸞・道綽・善導、日本では源信・源空という方がおられたということを、親鸞聖人は『正信偈』でおっしゃっています。そして、自分も比叡山で二十年も修行をした。しかし問題は片付かなかった。片付くどころか本当に救われようもない我が身が嫌と言うほど知らされた。しかし、我われは分からんですよ。修行したことがないんですからね。毎日の日暮らしを有るがままというのは恰好がいいのですが、出鱈目ですよ。だから自分がいかに愚かだったか、業の深いものだということは、なかなか分かりません。人のことばかり気にかけて生きてきていますからね。ところが人の姿を通して我が身、そして自分に困難なことが起これば起きるとき、かえって我が身を知らん自分が自分と知らされる。その時に本願の教えがなかったなら慌てますよ。そういう自分が分かってくると嫌になります。だから中には自殺をしたり、介護で疲れたら相手を殺したりという人が出てきます。それは寝ておる人も大変でしょうけれども、看病する人も大変です。嫌になりますよ。嫌になるものが自分の中から出てくるんです。しかし、それを受け取る力が私らにはありませんからね。見ると自分がつらいですから、そうするとやっぱり逃げます。自分で自分の気持ちを晴らそうとするかたちで一旦逃げようとするわけです。しかし解決にはなりません。現実には介護せねばならんわけですから、だから問題は介護している自分の問題です。

 「問題は常に内にあり」ですから。その心をどこで受け取ればいいのかということは、私たち凡夫にはわかりません。無理じゃないでしょうか。しかし、そのことを「仏かねてしろしめして」と言ってあります。仏様の方は分かっている。それが貴方だと。あなたがどんなに苦しんでいくかということも分かっている。結局は誤魔化すか、相手を責めるかということになってくるでしょう。テレビで「どうかなってもらわにゃ困る」と、ばあちゃんが言っているのがありましたね。それは分かる気がしますね。今は老人が老人を介護する世の中ですからね。縁によってそういう心が出てくる。そこに救われん我が身を、この人のお蔭で知らしていただいた。この人を私が介護することがなかったなら、私は私のことなど思わなかった。思う力はないですからね。だから、ほっとしている時が気が楽というか、そういうものしか私たちにはないですからね。それを、そのままきちっと受け取って、しかも、それを受け取るということは、そのことをご縁にしてこの道に遇う以外に、私が救われる道はなかったんだと、改めて気づかしていただく。そういう道が全部ついているわけですよ。私が気づいていく道がちゃんとついているわけです。如来によって建てられた道がついているわけです。その道を私が聞いていくことによって、自然に私は浄土に向かっての歩みがはじまるわけです。だから、そこに「本願の名号は正定の業」と言ってある意味は非常に大事です。そして「光明」、つまり阿弥陀仏の大きなはたらきの中、光のはたらきの中にいながら、そのことに気づかずにいる。今、私たちはその中におるわけです。だけど、そのことに気づかされる道は、南無阿弥陀仏より他にはないのだということを教えてあるわけですね。今日は初めてお参りされた方もおられるもんですから、「本願の名号」のところに入る前にひとつの筋道として話しておかねばならんことを中心にお話ししました。

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