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​正信偈に聞く

 14-1 

​平成21年5月26日

今月もテキストは「本願名号正定業」のところからになります。

 本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり。(本願の名号は正しく(往生を)決定するはたらきをする。)

 至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす。((第十八の)至心信楽の願が(往生の)原因となる。)

 

(16)「本願の名号」 阿弥陀仏の本願によって衆生に施与された名号。

   「南無阿弥陀仏」「阿弥陀仏に南無(帰命)する」という名号。

   「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来が愚悪の凡夫を救済する願いから、凡夫に施与された名号。

    本願という他力によって回向された名号。

 

「大無量寿経」第十七願(「諸仏称名の願」)

「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」

 

(17)「正定の聚」正しく決定する業(行為)。まさしく凡夫の浄土往生を確定させるはたらき。

 

 先月から「本願の名号は正定の業なり」というところを中心にお話を申し上げております。本願の名号というのは、南無阿弥陀仏だと。それは我われが浄土に往生する、往生を決定するはたらきであるということで、本願の名号の意味、そして名号といわれる意味について、先月は詳しくお話を申し上げたと思うのでございます。ところが、「本願の名号は正定の業なり」というにつきまして、『大無量寿経』第十七願(諸仏称名の願)ということが述べられておるわけでございます。これが非常に大事でございまして、

 

「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」

 

という、四十八願の中の第十七願がここに述べられておるわけでございます。この本願の名号、つまり、名号によって十方衆生を浄土に往生せしめて仏にしたいと願われる如来様のご本願を、特に十七願に求めておられる。第十七願に説かれておるのが、その意味をあらわしておるのだと、親鸞聖人は教えてくださるわけでございます。

 阿弥陀仏が法蔵菩薩であられた時に、世自在王仏のみもとにおいて四十八の本願をおこされ、そして、その本願にもとづいてすべての衆生を救うための行、つまり願いが単なる願いでなくて、その願いを成就するための修行を法蔵菩薩がなさって、その修行が成就して法蔵が阿弥陀如来になられるわけですね。法蔵菩薩がなぜ阿弥陀如来になられるかというと、阿弥陀如来は自分が仏になるために、つまり法蔵菩薩であられた阿弥陀如来が、自分が仏に

なるために修行なさったのではないのですね。それはどこまでも一切衆生を平等に救いたいという願いにもとづいて、そして、その願いによって修行され阿弥陀仏という仏になられたわけです。だから他の仏様と違うわけです。阿弥陀仏はどこまでも、すべての衆生を浄土に生れさせて仏にしたいという、その事のために阿弥陀仏は修行なさり、そして浄土を建立されたわけです。だから、すべての十方衆生のためというところに、法蔵菩薩の本願といわ

れる意味があるわけでございます。そのために、先ず法蔵菩薩は阿弥陀仏にならねばなりません。つまり、一切衆生を救うことのできる仏とならねばならないわけです。そのことを誓われたのが第十二願と第十三願でございます。第十二願は「光明無量の願」といわれております。そして第十三願は「寿命無量の願」ですね。だから、仏の体といいますか、徳を誓われたものが十二願と十三願でございます。ですから、この『阿弥陀経』の中には

 

舎利弗、汝が意において云何。かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす。また、舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇刧なり。かるがゆえに阿弥陀と名づく。『仏説阿弥陀経』 聖典P128

 

 光明無量のゆえに、また寿命無量のゆえに阿弥陀と名づくと。何故阿弥陀様といえるのか、それは光明無量・寿命無量であるがゆえに、阿弥陀といえるのだと『阿弥陀経』の中に説かれています。アミダというインドの言葉が光明無量・寿命無量というかたちであらわされているということでございます。この光明というのは空間的、そして寿命ということは時間的ということです。空間的というのは広がりをあらわしておる。光は広がりをあらわしているわけですね。だから「どこでも」ということです。寿命無量ということは時間的、時間的ということは三千年昔であろうと、現在であろうと、三千年後であろうという意味でございます。だから、寿命無量という意味は「いつでも」ということでございます。「いつでも・どこでも」と。そこに無量ですから限りなくはたらいている、そういうまことがアミダといわれる意味でございますね。阿弥陀さんという仏が、どこかにおられて、それぞれに光を放っておられると私たちは考えてしまいますけれども、それで悪いというわけではございませんけれども、阿弥陀という意味は、「いつでも・どこでも」限りなくすべてのものの上にはたらいておられるまことという意味が阿弥陀という意味なのですね。

 光明ということは、衆生の心の闇を破ると。どこまでも私たちの無明という小さな自我に執われて、そして自己中心にしか思うことができない、また生きることができない。そのために結果的には自業自得の道理です、結局は暗闇に沈んでいく他ない。そういう私たち衆生のために、その闇を破って下さるはたらき。こういうことにつきましては、十二光のところで詳しく話しました。今度は、その仏は何のために仏になられたかといったら、先ほどから申し上げておりますように、無明に苦しむ一切衆生を救うために、光明無量・寿命無量の阿弥陀になられた。そうしますと、その徳を衆生に届けねばなりません。そして衆生をして、光明無量・寿命無量のまことに遇わしめて、その世界である浄土に生まれさせねばなりません。そのための手立てが「名号」でございますね。南無阿弥陀仏という名号でございます。その名号の中に光明無量・寿命無量の徳をすべて含めて、我われ衆生に回向してくださる。それが「本願の名号は正定の業」という意味だと、古田先生は書いておられますでしょう。つまり、阿弥陀仏の本願によって「凡夫に施与された名号」。南無阿弥陀仏と書いてございます。じゃあ南無阿弥陀仏自体を四十八願ではどのように誓われておるかというと、第十七願に誓われている。つまり、第十二願・十三願の仏の徳のすべてを、南無阿弥陀仏の六字に込めて私たちに与えようと。そして我が名を称えさせて浄土に迎え取ろうと、そのための手立てといいますか、それが南無阿弥陀仏を成就して私たちに与えてくださった意味ですから、その与えてくださる意味を、本願の上では第十七願に誓ってあるのだと、親鸞聖人はおっしゃるわけです。そこから十七願を親鸞聖人は見ていかれます。もう一度見ていただきます。

 

「大無量寿経」第十七願(「諸仏称名の願」)

「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」

 

『大無量寿経』第十七願ですね。そこに「諸仏称名の願」と書いてあるのですね。諸仏が名前を称える、つまり南無阿弥陀仏申すということですね。そういう願の名前が書いてあります。内容を少し丁寧に見ていきますと、法蔵菩薩が誓われるわけですね。たとえ我、仏を得んに、仏になりましても、十方世界の無量の諸仏が、ことごとく咨嗟してと書いてあります。

 咨というのは讃嘆の讃ですね、嗟というのが嘆ですね。だから咨嗟というのは讃嘆という意味になります。辞書を見ますと「咨嗟」の咨はほめる、嗟は嘆。どちらも「ほめる」ですけれども、声を上げてほめるわけです。ほめたたえるというような意味です。だから十方世界の無量の諸仏が悉くと言うんですから、漏れなくです。あの仏様はほめるけれど、この仏様はほめないということはないということです。すべての仏様がほめたたえて「我が名を称せずんば」、つまり、南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀仏の徳をほめたたえなかったならば、私は正覚を取りませんと。それが第十七願になっておるわけですね。ただここで十七願が、十方の衆生が私の名を称えて讃嘆してくれることを誓うと、そうならなかったならば仏にならないと、こう言ってあるなら分かりますよ。ところが諸仏ということでみてあるわけです。その名号を成就して、一切衆生に名号を称えさせて救いたいというんでしょう。ところがそのために、諸仏にほめたたえられたいと述べられているのが十七願です。ここに阿弥陀仏の大きな願いが感じられるわけです。

 

正信偈 14ー2

​正信偈に聞く

 14-2 

​平成21年5月26日

 そこで諸仏と書いてある諸仏とは何だろうかと、こういうことが一つはございます。だから諸仏というのは、いうならば阿弥陀仏以外の仏といえますね。阿弥陀仏の名を称えて、阿弥陀仏の徳をほめたたえるのですから、諸仏というのは阿弥陀仏以外の仏といえます。そして称えるものが仏であるということは、単なる凡夫ではないということであります。仏ですから。仏教では、そういうとらえ方がありまして、仏の名のつくものはさとりは等しいと。諸仏同証といいますが同じ証だと、諸仏と名のつくものはみな同じ証であると。そして、諸仏が南無阿弥陀仏を称えるということは、阿弥陀仏の徳をほめたたえて南無阿弥陀仏申すという、そうならなかったら私は仏になったとは言えないということを誓ってあるのが第十七願です。それを親鸞聖人は、阿弥陀仏の徳自体を誓ってあるのが十二願・十三願、そして一切衆生を救うために南無阿弥陀仏の六字の名を成就なさって、それを私たちに与えら

れるということが説いてある、そのことを誓ってあるのは十七願だとおっしゃるわけです。ところが十七願の願いが、すべてのものに南無阿弥陀仏を称えさせよう、また称えぬものが一人でもいるならば私は仏にならないとおっしゃるならば分かります。ところがそうおっしゃらないで、諸仏にほめたたえさせたいと。こうおっしゃるところに、十七願の深い思し召しというものがあるであろうということが考えられるわけでございます。

 諸仏にほめたたえられたいということは、別の言い方をしますと、一切衆生のために阿弥陀仏が光明無量・寿命無量の徳を成就なさり、その徳の一切を衆生に与えたいということで、南無阿弥陀仏という六字のみ名を成就して、衆生をして南無阿弥陀仏を称えさせたいという大きな願いにたっておられる。そういう阿弥陀仏の徳を、阿弥陀仏と同じ覚りをもっておられる、阿弥陀仏以外の仏がほめておられるということです。ということは覚りは同じなのですが、要するに方便ですね。方便というのは手立てだということです。つまり他の諸仏もみな覚りを開いておられるわけでしょう。しかし自分がただ覚りを開いておるというだけなら仏とはいえないのです。仏というのは自利利他の徳をもっているものを仏という。自ら覚り、他をして一切衆生を覚らしめるという。自利と利他のないものは仏とはいえないわけです。

 仏というからには必ず自利と利他があるわけです。その時に、すべての仏が諸仏同証ですから、同じ覚りを開いておられるのだけれども利他に問題があるわけです。利他に問題があるということは、そのまま自利に問題があるということですが、つまりどんな覚りを開かれても、それによって一切衆生をして目を開かせるということは容易なことではないわけです。例えば他の諸仏は、仏教は自力聖道門。自力聖道門はお覚りを開かれた人が、私と同じになって欲しいと、成りたいならばこの道を歩んでおいでといって与えた行でしょう。これは凡夫のいう話ではないのです。仏でなければ言えないのです。我が身が覚って、今度は一切衆生の苦しんでいるのを見て、どうにかして私のようになって欲しいと願うから仏です。その時に諸仏は、修行をして来い、布施をして来い、欲を棄てて来い、心を静めて来いと、いろいろあるわけですね。諸善万行と言っています。つまり諸々の善は善根ですね。その万の行を徹底して、私の世界に生まれて来いというのが諸仏の方便です。手立てです。そういうかたちで、諸仏は自利と利他を成就しているわけですね。しかしこの道によるならば、一部の人はこの仏と同じようになられるでしょうけれども、すべてのものがなれるというわけにはいかないわけです。すべてのものが平等に救われるように、しかも衆生の得るべき覚りの世界を阿弥陀仏が成就して、ただそこに生まれるために南無阿弥陀仏申せと、だから易行というわけでしょう。易行という言葉でいうならば、諸善万行は難行です。それに対して、阿弥陀仏は五劫兆載の間、永い間ご苦労を重ねて、そしていわゆる方便ですね。利他を成就するために六字のみ名を成就して、我が名を称えしめようと誓われた。南無阿弥陀仏申すのであれば誰でも言えます、言えることが大切です、だから称名は易行といいます。

 諸善万行というのは、誰でもできるというわけにはいきません。だから南無阿弥陀仏申させたい、そこに我が名を称えさせて、私が成就した阿弥陀仏の浄土に生れさせる道として、六字のみ名を成就して、それをすべての諸仏にほめられたいというのが十七願です。自利利他の上にたっている諸仏ですから、その諸仏が阿弥陀仏の名号によって、一切衆生が仏になる願であり行ですから、一切の諸仏がほめざるを得ないわけです。そういう意味で言うならば、諸仏の場合は利他に問題があるわけですね。それを五劫の間思案を重ねて、南無阿弥陀仏申せという行を成就した、それが利他です。そこではじめて阿弥陀仏も仏になるわけでしょう。何故かといったら、皆がたすからなければ、自分もたすかったことにならないわけですから。私は仏になったと、だからあなたたちもたすかって来いと言ったって、たすかるものがおらなかったなら、それでは仏も仏になったと言えないわけですよ。自利と利他は離れたものではありません。自分だけたすかったということだけでは仏にはならないわけです。そうすると、本当に自利と利他というものが円満に成就する道をあきらかにしたのは阿弥陀仏だけです。そういう意味において、諸仏にほめたたえられたい、そこに本当の仏道があるわけですね。自利利他が円満する本当の仏道があるわけですね。そういう意味を、この阿弥陀仏は第十七願において誓うわけです。誓っておるという意味があるわけです。

 松原祐善という先生がいらっしゃいました。大谷大学の学長までなさった方です。「無量寿経に聞く」という書物を書いておられます。そこに十七願の問題は「公開性」ということと、「普遍性」ということと、「絶対性」という三つを上げ、それを証明されたものだと。だから親鸞聖人は、特に第十七願を「大悲の願」とおっしゃっておられるのだという事を書いておられます。親鸞聖人は、わざわざ大悲の願という言葉を使われるのは十七願だけなんです。

 

正信偈 14-3

​正信偈に聞く

 14-3 

​平成21年5月26日

謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。 教行信証 聖典P157

 

 いま言うように、名号を諸仏に称えられたいという意味ですね。公に開かれている公開性。普遍性というのは、すべてのものに開かれている。ある人にはできるが、ある人にはできないというのは普遍性がないということです。そして、あらゆる仏がそれをほめるということは、あらゆる仏がここに極まる、こういう意味です。それは自利利他の問題です。自利利他の問題を抜きにすれば仏道は成り立ちません。そして、我われの生活でいつも問題になるのは自利利他の問題です。私はよくても家族が一人でも犠牲になるのであったならば、自利利他にならんわけです、だから仏道は必ず自利利他円満と。だから親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の仏道は自利利他円満とおっしゃいます。私が喜んでおっても、誰かが犠牲になっておるならば、やっぱり本当の私の喜びにはなりません。だから、家族でもあんまり我が儘していると、いい気になってと喧嘩になるわけですから、結局誰かが我慢するわけですから自利利他円満ではないのです。だから、その人がたすかるままが皆たすかる、そういう事が成り立つのは南無阿弥陀仏だけだと。こういうことを親鸞聖人は仰るんですね。

 大石先生は「貴方がたすかればいいんですよ」とおっしゃるんです。私がたすかっても向こうがたすからなければだめじゃないかと思うけれども、そうじゃない。「貴方がたすかりなさい」ということは、私の力でたすかる道ならば自利利他円満にはならないんです。本当に私がたすかるというのは、私をして浄土に生れさせたいという願力、他力によって私がたすかるんですから、願力、他力によって私がたすかったときには皆もたすかるんです。そういう道として、私に救いが成就するということが、お念仏の仏法の真実の相です。でも私たちは、自分のことをほっといて、棚に上げて他人のことばかりを気にしている。自分だけたすかればいいという時は、誰かが犠牲になる。そうすると本当に自利利他円満ということが、この人生において成り立たなかったならば、人間に救いはないのですね。そのことが具体的にはっきりするのが、南無阿弥陀仏以外にはないのだということを、親鸞聖人は教えてくださるわけですから、そういう意味で言いますと、十七願において南無阿弥陀仏の成就が誓ってあるわけです。つまり、阿弥陀如来だけが独りよがり、私だけがこれで行くんだというのであれば公開性・普遍性にならないわけです。だからすべての諸仏が、阿弥陀仏の徳をほめて、念仏申されるというところに、阿弥陀仏も本当に阿弥陀仏になる。他の仏もみんな仏に成りえるのです。そういう意味を誓ったのが十七願で、諸仏に咨嗟されたいというかたちで、名号の徳を、名号をすべてのものに称えさせたいという仏の願いが成就すると、こういう意味です。こうゆうことが十七願という願のもっておる深い意味ですね。こういうことは非常に大事でございます。だから「本願の名号は正定の業なり」と。本願の名号とおっしゃっても、本願の念仏とはおっしゃっていない。名号といわれる。その名号、南無阿弥陀仏に大きな意味があるのだと。そして、私たちが救われるのは称名念仏において、私の上にまことの念仏が成り立つと、こういう意味を中心に前回はお話を申し上げました。 そして、今回は十七願の成就と、「本願の名号は正定の業」ということは、十七願成就という意味があるのだと、こういうことを親鸞聖人が教えてくださっておる。その十七願の意味について、今日は申し上げたわけです。

 そして、これは「至心信楽の願を因となす」というところで触れていかねばならんのですが、十七願成就ということが『大無量寿経』下巻のはじめに説いてあります。これは『大無量寿経』上巻に十七願が誓われておるわけですが、それを読みますと「諸仏」ということがよく分からないわけです。ところが、『大無量寿経』下巻の十七願成就文を見ますと、諸仏とは善知識なんです。具体的な人になっています。親鸞聖人は南無阿弥陀仏のいわれを誰に聞かれたかといったら、お経を読んで分かったのではないのです。法然上人の教えにっよってわかったのです。法然上人の教えによってわかったということは、法然上人という一人の人格ですね。親鸞聖人より四十歳年上の、そして比叡山で長い間ご苦労なさって、そして比叡山を捨てて吉水で念仏ひとつと、こういうことを勧めておられた、それが法然上人でしょう。これは歴史的に言えばひとりの人格です。ところが、その法然上人の教えによって親鸞聖人が念仏申す身となった。これは親鸞聖人二十九歳の時です。法然上人は六十九歳の時です。そういう法然上人と親鸞聖人のいうならば絶対の出遇いというものが吉水であっているわけです。だから今、私たちが親鸞聖人と申し上げている親鸞聖人は、法然上人との出遇いによって、念仏ひとつという本願のまことに目覚められた親鸞聖人が生まれていなければ、私たちは親鸞聖人を存じ上げません。また浄土真宗というものは成り立たないのです。そういうことを成り立たせたのは、法然上人との絶対の出遇いです。その時に法然上人は念仏申せといわれ、我に依れとは言われなかったのですね。ただ念仏して弥陀にたすけられよと仰っています。念仏して如来様にたすけられなさいとおっしゃる。私は分かっている、だから私の後をついて来いと言っておられんのですね。ただ念仏して弥陀にたすけられよと仰っているということは、法然上人という一人の人がいっているのだけれども、法然上人をして言わせておる。それは法然上人自身が念仏ひとつという身になれた。誰がそうならせたかというと如来の本願です。それがずっと伝統されているわけです、それが七高僧です。だから、お釈迦様自身も『大無量寿経』を説かれたときに、弥陀三昧に入られたと書いてあります。ということは、釈迦と弥陀が一体になっている。お釈迦様は阿弥陀を念じ、弥陀と釈迦が一体になっている、弥陀というのは法ですからね。その法に、南無阿弥陀仏の本願に立つと言いますか、本願によって阿弥陀仏の本願のまことを説かれたのが『大無量寿経』です。だから単なる古典ではないのです。『大無量寿経』というのは、そういう真理の書です。だから、そこでは釈迦も消えるわけです。ただ弥陀の願力にはからわれてお釈迦様は説かれるわけです。それを弥陀三昧と言っています。そして、それがずっと伝統されていくのが七高僧の伝統なのです。だから、法然上人と親鸞聖人の出遇いがあるわけです。そこに十七願というものがある。十七願が阿弥陀さんが誓っておられる具体的な相です。単なる願でないのです。願が成就している、それが歴史をつくっている、そこに十七願という本願の意味があるわけですね。

 そうしますと、諸仏にほめられたいという諸仏が、本願成就文では人になっている。善知識という人になっているということが、親鸞聖人の『大無量寿経』を拝読なさる具体的なかたちになっています。そういう意味が十七願にあって、そして南無阿弥陀仏という本願の名号が、すべての人びとの上にはたらくことを願われ、それが次第に広がっていって、そして皆が念仏申して救われていく。そういう世界を四十八願の中の第十七願はあらわしているのです。こういうことを、私たちはいただかしてもらわねばなりません。その大きな本願のはからいの中に、私たちはいろいろな方々のご縁を通して参加させていただく。そして念仏申させていただくときに、そこにお釈迦様も七高僧も、そして蓮如上人とか多くの念仏申してくださった人たちと一つになって出遇っていく、そういう世界が十七願に誓われたままの姿ですね。すべての諸仏がほめたたえられていると阿弥陀仏が願われた。この願は無駄でない、こういう意味があるわけでございます。前回は本願の名号といわれる意味を中心にお話し申しました。そして、今日は本願の「名号は正定の業なり」という、特に十七願の心を述べておられるのだという意味で、十七願について申し上げたわけでございます。そこに、南無阿弥陀仏という六字のみ名の深い思し召しがあるのだということと、次の「至心信楽の願を因とする」ということと相対しているのです。別なことではないのです。そのことは、次回から「第十八願の心」ですけれども申し上げることに致します。

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