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​正信偈に聞く

 18-1 

​平成21年9月23

   皆さんこんにちは。今回は「証」に入っていきます。真宗における証、さとりとは何かということを、ここでは「等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願 成就なり」という二句に納めておられるわけでございます。古田先生は

 

成等覚証大涅槃 等覚を成り、大涅槃を証することは、

(仏と成って、大涅槃のさとりに至ることは、)

必至滅度願成就 必至滅度の願 成就なり。

((第十一の)必至滅度の願の定聚による。)

 

このように仰っておられます。そして、

 

(18)「等覚」 阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)の訳。

 

これは、サンスクリットの音を漢字に当てたわけですから音訳です。意味は、

 

「無上正等正覚」(最高の普遍の完全な覚り)と訳す。仏の覚り。

「等覚を成る」は、仏に成ること。

 

次に、

 

(19)「大涅槃」 「涅槃」は、ニルヴァーナの音写。「滅度」と訳される。

 

インドの言葉のニルヴァーナを漢字に当てたのが涅槃です。意味は滅度でございます。

 

「(火を)吹き消すこと。吹き消された状態」。煩悩を火に喩える。

 

ニルヴァーナというインドの言葉。ちょうど燃え盛っている火がぽっと消える、その時に静かな状態がある。そういう状態をニルヴァーナという。

 

「大涅槃」は、マハー・パリ・ニルヴァーナの音写。「大般涅槃」(偉大な完全な涅槃)

 

「偉大な完全な涅槃」という意味だといっておられます。だから、大涅槃ということは「偉大な・完全な」涅槃です。涅槃ということは、煩悩の火が消えた静かな世界、だからそれを滅度と訳されておると古田先生はいっておられます。古田先生は仏教学の専門の先生ですから、そのことを注意しておってくださるわけですが、涅槃ということをいうのに、仏教の歴史の中で、いろいろな言葉で表現され考えられてきたということを述べてあるわけです。

 

「涅槃」の語義

  • 原始仏教 「阿含経」・・煩悩を滅し尽くした状態。「断惑証理」「涅槃寂静」

  • 部派仏教 「阿毘達磨・あびだつま」・・死を意味する。「有余涅槃」「無余涅槃」

  • 大乗仏教 「涅槃経」「維摩経」など・・覚りの境地。「不断煩悩得涅槃」

  • 大乗仏教 「涅槃経」・・「法性」(真実そのもの)と同義。「仏性を見るを以ての故に、即ち大般涅槃を安住することを得。」

 

仏教の歴史で、お釈迦様存命の時代、またはお釈迦様が亡くなってしばらくの間の時代を、仏教学では「原始仏教」と言っています。そして原始仏教時代の代表的な経典が『阿含経』というお経だといわれております。『阿含経』というのは、キリスト教のバイブルのように、イエス様がいろいろの人に対して具体的に指導なさっておられるように、哲学的な理念をいっているんじゃなくて、教えを語っていかれるのに、女の人には女の人に対して、苦しんでいる人に対しては苦しんでいる人に対して、お釈迦様が具体的にいろいろお話をなさっておられるのが『阿含経』というお経です。『阿含経』というのは四阿含といいまして沢山あるのです。そこでは涅槃ということを「煩悩を滅し尽くした状態」と、煩悩が全くなくなった状態。我われが生きておっても煩悩が全くない、煩悩を滅し尽くした状態のことを涅槃と原始仏教ではいっておったようです。「断惑証理」と、惑を断じて理を証(さとる)。道理を覚る。「涅槃寂静」の涅槃というのは寂静という意味です。先ほどは「滅し尽くした状態」という言葉を使っておりましたが、ここでは寂静という言葉が使われております。

 仏教では三宝印ということをいいます。三つの旗印にしておるものが仏教だという意味で三宝印という言葉が使われております。現在の日本には沢山の宗派が分かれておりますけれども、お釈迦様の時代には当然宗派というものはないわけです。現在の元は中国にありますけれども、今では日本は宗派仏教になっています。だけど、どんな宗派であっても、この三宝印だけは外せません。そういう意味が三宝印という意味なんです。仏教の旗印ですから、これがなくなれば仏教でなくなるわけです。

 

諸行無常(しょぎょうむじょう) 諸法無我(しょほうむが) 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) 

 

「諸行は無常である」、そして「諸法は無我である」、そして「涅槃は寂静である」と。これを三宝印と古来から言っておるんです。ですから原始仏教の原型です。仏教では法ということをいいます。その法の原型です。仏教はサンスクリットで「ブッダ」を仏陀と、これは言葉に漢字を当てただけです。ですからこれは音写です。意味は「覚者」といっています。つまり目覚めた人という意味です。何に目覚めたのかというと、法に目覚めた。ですから仏教は仏法なのです。目覚めたというのはお釈迦様が発明したということではないのです。お釈迦様が言おうというまいと事実がそうなんです。

諸行の行というのは現象という意味です。つまり形あるものは全て因縁によって生じ、因縁によって滅す。一切は因縁生です。だから原因が結果になる。結果にはすべて原因があるわけです。それを因果律といいます。これがなかったら化学だって法律だって成り立ちません。すべて因果ということで仮説を立てて、それが証明されたら真理だといわれるのは因果律で立っているわけです。しかし仏教だけ縁ということをいいます。だから因縁ということをいうわけです。因縁果です。あらゆる現象は因縁によって生じたものは、必ず因縁によって滅するという意味です。例えば籾がある、これは因ですね。そうすると果は稲ですね。籾から稲が出てくる、因果です。しかし籾があれば必ず稲になるかというとそうではない。俵に入れて蔵に放り込んで置いたら百年たっても籾は稲にはなりません。それは何故かといえば縁によるからです。縁というのは現在の言葉でいえば、条件とか環境ということだろうと私は了解しています。なんぼ籾がありましても、籾は生きておりましても、条件である大地とそして太陽と水など、数限りない条件がいい方向にはたらくのを順縁といいます。悪い方向にはたらくのを逆縁といいます。ですから籾がありましても、俵に入れて蔵に放り込んでいる状態は、籾にとって籾が稲になるためには逆縁になるわけです。それを大地におろして太陽の光や水分や、そしてそれは直ぐに稲になるわけではありません。時間が当然はたらきます。そういう条件がいい方向にはたらけばいい結果が出てきます。だから、どんなに因があっても縁がはたらかねば結果は出ない。そしてまた縁が結果に非常な大きな影響を与えます。氏より育ちと言うでしょう。殿様の子供であっても庶民の中で育てば庶民になってしまいます。教育においても当然縁というものは、非常に大事になってくるわけですね。だから、因縁果と仏教はいうわけです。だから、因果だけではものは正しく把握できません。縁という概念を入れることによって法が明らかになる。それにお釈迦様は目覚められた、だから仏陀です。完全に在りのままにありのままを見通す智慧を得たから仏陀です。それを諸行無常といっておるのです。漢字はいろいろ意味をもっております。普通行という字は行くという意味ですが、諸行の行は形あるものという意味です。ですから字は同じでも内容が違います。あらゆるものは因縁によって生滅する。そして生滅しながら新しい種(果)になって永遠に続いていくわけです。だから諸行は無常といいます。因縁によって生じ、因縁によって滅する。だから、生まれ変わりして、ずっと生滅していくのが、すべてのものだというのが諸行無常です。それを歌にしたのがいろは歌です。

 

いろはにおえどちりぬるをわがよたれぞつねならむ有為のおくやまきょうこえてあさきゆめみじえいもせず。

 

 これは、弘法大師が造られたとなっておりますけれども、いろいろ調べてみると、皆弘法大師ではないと書いてあります。言葉使いが弘法大師の時代よりも遅れていると言語学はわかりませんが言われております。あさきゆめみじえいもせずとは酔っぱらったような人生ですね。浅き夢をもう見まいと。酔っぱらったような人生を終わりにしようということです。

 次は諸法無我です。一切のものは移り変わりして生滅していくのだから、あらゆる存在は我として握れるものは何もないという意味です。ここで言われておる我というのは実体ということです。永遠不変の実体は何一つとしてないというのが仏教です。人間は、藤代先生にいわせると、生まれて三十三カ月とおっしゃいますけれども、三歳になる前に自我ができる。それを我執といっています。それが迷いのもとです。だから、それは執われです。一切の存在は諸行無常であれば、我として握れるものは何一つとしてない。無いのに有ると思っている。死んでも死なない何かが存在すると思っている。それは我執であり迷いだと、こういう意味です。だから、その事がはっきりすれば、永遠不変というものは何一つないんだと。我われも縁あってこの世に生まれて来た、だから生まれた時からどんどん変わっていく。身体も変わる、考えも変わる。自然はもちろんですけれども、人間も変わっていく。あらゆるものが変わっていくわけです。世々流転といいますか、どんどん生々流転している中で、人間だけがいつのまにか自分だけ変わらんものがあると握って、その執われで苦しむことになっている。俺を馬鹿にして、俺を何と思っておるのかと言って、そこから人間の業がはじまる。業といった時には惑がもとになるのです。

 業というのは行為という意味です。惑というのは我執です。ですから業といった場合には、必ず我執がそのもとにあるのです。諸行無常ということが見えない、見えないから惑です。その惑によってつくられている行為を業といいます。業を身口意の三業といいます。身業・口業・意業。まず心で何かを思う、そして思ったことを口に出して言う、そして身体で行うのです。我われが普通行為といった場合は、身業をいうのですが、仏教の場合は意も口も業に入っています。そして、その業はすべて私たちの心の深いところにある識に全部、薫習(くんじゅう)され残るというのがインドの人のものの考え方です。仏教では心を八つに数えています。

 眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びんしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)を前五識といいます。つまり、我われの五感です。そして五感を統括している心が意識が第六識です。その意識されたものがすべて第八識(阿頼耶識・あらやしき)に蔵される。ヒマラヤ山脈というでしょう。あれはヒマ・アラヤです。ヒマというのはインドの言葉で雪のことです。そしてアラヤというのは積もるということです。ヒマラヤ山脈は一年中雪が積もっている。だからヒマ・アラヤ山脈と。それが詰まってヒマラヤになったんです。雪がアラヤしている、だからアラヤというのは積み重なっているという意味です。中国の人は、この阿頼耶識のことを蔵識(ぞうしき)と訳しました。

​正信偈に聞く

 18-2 

​平成21年9月23日

正信偈 18ー2

 前五識、つまり我われの五感から外のものが入ってくるわけです。見る、聞く、匂いを嗅ぐ、味わう、そして皮膚感覚で熱いとか冷たいと感じる。それを五感といいます。それを第六識が統括して、それが全部第八識に入るんです。薫習(くんじゅう)といっています。例えば樟脳を洋服箪笥の中に入れておくと樟脳の匂いが着物につくでしょう、それを薫習といってます。五感で見たものは、ただ見たということです。そういうものが第六識のところで、何を見たかと意識するわけです。つまり、心で思ったことも、口で言ったことも、身体でしたことも、それが五感を通して第六識が意識して、それがそのまま第八識に蔵する。ですから全部入る。だから人間とは何かといったら、経験の積み重ねだといいたいんだと思います。経験したものが縁によって現行(げんぎょう)と薫習と、出たり入ったりするわけです。薫習は入る方、現行は出ていく方です。つまり第六識で意識するわけですけれども、前五識から入ってきたものを第六識が意識するのは、第八識の中に過去に見たという経験が入っていなければ、第六識は意識できないわけです。だから今まで過去で見たものが入っていますから、それが今度は第六識を支えて前五識を生かすわけです。それが習慣性です。だから、全部消えないで第八識に入ってくる、そういうものを業というんですね。

 そのときに第七識の末那識というのが面白いんですね。末那(まな)というのは意という意味ですけれども、特別に第六識と違う意味を持たせています。この末那識を我執識といっています。つまり、あらゆる経験は「私の経験」と捉えるわけです。つまり我執をもってものを見ていく。我執で感覚し、我執的な人生にしていくもとは第七識だというんです。第八識は第六識から受け取ったものを蔵するだけです。ところが、ただ蔵するのではなくて、それを俺の経験にしているというのが人間にはある。そこで第七識というものを考えたのが仏教の特徴だと思います。ですから第八識は第七識によって汚染される。我執的な経験になっていくというわけです。だから、普遍的な経験であるべきものが、単なる普遍的な経験でなくて、我執的な経験になっていく。どこまでも自分の経験になっていく。執われた経験になっていくということを、末那識を我執識とみるところに仏教の一つの特徴があると思います。だから、我執的な経験として全部薫習されていく。次に見るときには、それを通してしか、それを見ていきませんから、どこまでも我執的な経験として、その経験が汚染されていく。そこから対立の世界が、隔てる世界が出てくる。そかも、それが迷いだとは思わない。何かそれがいかにも普遍的なというか、私の思うことは全部小さな私の経験でなくて、全てのものが同じように見えているもんだと考えてしまう。そういうところから、いろいろな争いとか差別する世界が出てくる。そういう思いを翻す、迷いだったと翻すということが無我ということです、それは容易なことではありません。だから、それが本当に翻されていく、本当に執われを離れた認識(真実の智慧)、そういうことを覚りというんですね。だから、諸行は無常であり、諸法は無我であると。俺がといって握るものは何ひとつとしいてない。本当に目覚めた世界が涅槃寂静という世界になるわけです。

 涅槃というのはニルバーナというサンスクリットですから、意味は寂静という静かな世界だと、執われを離れた静かな世界、それがさとりだと。だから仏教は諸行無常を諸行無常と受け取り、諸法無我と本当に受け取ったところに涅槃の世界がある。それが覚りです。だから仏教は涅槃寂静の世界を三宝印というかたちで教えておるわけです。その涅槃寂静の世界に入った人を仏陀といい、具体的にはお釈迦様です。仏教は仏法であり、仏法の法というのは三宝印だと。そこに無常とか無我ということを通して、人間の執われを離れた広い世界。人間の煩悩のない静かな世界を求めるのが仏教だということを原始仏教は言ったわけです。だから、本当にそういうことを実現した人が目の前にいる。そういう人を通して、初期仏教の教団は軽やかなといいますか、明るい、しかも生き生きとした教団が当時あったんだというような気がします。我われは諸行無常ということは気分としては分かりますよ。特に日本人は長い間感情的に受け取って「おごる平家は久しからず」と、こういうかたちで受け取って来ました。しかし、無我ということになってきますと、何も思わんというのが無我だというような漠然とした感じで受け取ってしまいますから、仏教が気分で受け取られているように思います。それだけに、仏教によって生き生きと人間が本当に明るく、しかも今々自分を尽くして生きるようなかたちに中々なりません。

 ➁は部派仏教ということが書いてあるのですが、つまり理論的になっていくわけですね。原始仏教で非常に極めて悪く言えば、単純な、非常に生き生きとしたお釈迦様の教えというものが、今度は論理的になってくる。お釈迦様が亡くなって、今度はお釈迦様がこうおっしゃっている、どうおっしゃっていると。そしてお釈迦様の教えを経典として文字にしていく。スートラといいますが、そうすると言葉尻につかまっていきます。どうしても人間はそうなってしまいます。一つは教団を守ろうとする、そして他の宗教との違いをはっきりさせようとしていく。そうすると、お釈迦様の教えが極めて明るくて健康な、そして非常に厳しい教えだったものが、今度は観念的になってくるんですね。それが人間が持っている業ですね。そういうところから部派として分かれていきます。自我をもっていくつもの学派ができてきます。そういうのが部派仏教(アビダツマ)といいますが、理論派ということです。そこには煩悩を尽くした状態が、自由な、そして生き生きとしたものではなくて死です。無我が人間の上に成り立つということは死ぬるということだと。無余涅槃といいますが、無余というのは余りが無いということですから、完全な涅槃という。それは死だと。人間は生きている時は、涅槃というようなことはお釈迦様には成り立ったかもしれないけれども、我われには成り立たんのではないか。そうすると我われにとって涅槃というのは死の世界じゃないかというような考えまで出てくるんです。それだけ観念的になって実践性が失われるということです。そして、仏弟子が中心です。理論派ですから信者の人が排除されていくということになります。それで普通の在家の信者の人には分かりにくい。そういう学問的観念的な仏教になっていく。

 今度は、そういう仏教を批判して新しい動きが出てくるのが③大乗仏教です。大乗というのは大きい乗り物。つまり部派仏教的な動きを小乗仏教といって、限られた人の、それは理論ですから一種の観念の遊戯ではないか。そういう教えはお釈迦様の本当の精神を逸脱している。本当のお釈迦様の精神は、もっと明るくてのびのびとして、もっと活動的なものであったはずだと。部派仏教を否定して、新しい大きな仏教運動が起きてきます。それを大乗仏教といいます。そして大乗仏教を支えた人は在家の信者の人たちです。その大乗仏教に依った人たちが、部派仏教を小乗仏教だといったのです。部派仏教に対して、あの人たちのやっていることは、ただ観念的で自分の救いだけを考えている。だから小乗仏教だ貶めて、我われは大乗仏教だと。そういう運動が仏教の中で起きてきます。そういう運動を支えたのは、在家の人たちだといわれております。お釈迦様の教団は在家出家を選ばない、非常に生き生きとした、そして特別な人にだけお釈迦様は教えを説いたのではなかったという、そういう運動が出てくるんです。そして大乗経典が出てきます、そのお経の名前が「涅槃経」・「維摩経」と書いてあります。涅槃ということは、煩悩が全然なくなってしまうという、死というのが理想だというようなとらえ方ではだめだと。だから大乗仏教では覚りの境地という意味だと。無我とか涅槃というのは覚りの境地をあらわす言葉だというんです。それをあらわす言葉が不断煩悩得涅槃という言葉です。これは『正信偈』の中に出てきます。煩悩を断ぜずして涅槃を得ると。煩悩がなくなった時が涅槃じゃなくて、煩悩に即して涅槃が覚られねばならない。だから煩悩を断ぜずして涅槃を得る。親鸞聖人も当然そういうことを仰います。だから死んだら煩悩がなくなるというような考え方と違うわけです。

 そして④番目に、大乗仏教として涅槃経を上げておられます。そして「法性(真実そのもの)と同義。」「仏性を見るを以ての故に、即ち大般涅槃に安住することを得。」と、『教行信証』の中に引いてあるのですが、それは「不断煩悩得涅槃」という意味なんです。単なるさとりの境地というようなことでなくて、法性ということを涅槃経では言ってあるということでございます。法の性ということです。だから真実そのものという意味だと。古田先生は仏教学の先生ですから、こういう丁寧な言葉で言っておられるのですが、要するに涅槃ということは、我われが気づかない間に我執に執われ、我執をもとにした業を繰り返し、そこから人間の世の悲惨な人生が現れてくると、そのことを無くすことは事実できませんし、死ぬればなくなりますが、それでは教えというものは何の意味もないわけですから。その差別動乱の中で、どう涅槃を見ていくのか、受け取っていくのかということが、大乗仏教のいおうとする涅槃になるわけです。それを親鸞聖人は「煩悩を断ぜずして涅槃を得。」と仰っておられるわけです。それをこの『正信偈』の「等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願 成就なり」という言葉の上にどう受け取っていくのかということが問題になるわけです。

次に、

 

⑳「必至滅度の願」 阿弥陀仏の本願の第十一願

 

そして、願文が書いてあります。

『大無量寿経』第十一願

「たとい我、仏を得んに、国の中の天人、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。」

 

たとい私が仏になりましても、私の国の中の人天が、定聚に住し必ず滅度に至らなかったならば正覚をとらんと、

 

「定聚に住す」ということと、「滅度に至る」ということの二つが言ってあります。

 

「定聚に住する」は、この世でこのまま仏となるのでなく、また死後に成仏するのでもない。必ず大般涅槃を証して仏に成ることが、現生において確定すること。自分自身が本願の道理にぴたりと合致すること。

 

 定聚に住して、滅度に至るわけですから、第十一願のことを親鸞聖人は「必至滅度の願」といわれるわけです、ということは必ず滅度に至らしめる。滅度が涅槃です。覚りです。至らなかったら仏に成らんというわけですから、今はまだ至っていないわけです。それが「正定聚に住す」です。住するということは、必ず滅度に至るということですから、正定聚に住したら必ず滅度(涅槃)に至るわけです。そこを古田先生は、

 

「定聚に住する」は、この世でこのまま仏となるのでなく、また死後に成仏するのでもない。必ず大般涅槃を証して仏に成ることが、現生において確定すること。自分自身が本願の道理にぴたりと合致すること。

 

 こういうように書いておられます。ですから現生正定聚と必至滅度が誓ってあるのが第十一願です。それが親鸞聖人の証の中身です。要点は「等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願 成就なり」という、これだけなんです。つまり必至滅度の願というのは定聚に住する者は、必ず滅度に至らしめるということです。そのことを誓ってあるのが第十一願です。

 教卷には、如来の本願ということが説いてあります。行巻には本願の名号が説かれておるわけです。本願というのは、阿弥陀如来からいえば涅槃の世界です。阿弥陀如来の涅槃の世界です。阿弥陀如来は浄土におられるわけですから、浄土は涅槃の世界でしょう。ところが涅槃の世界と、私たちのおる世界は全く隔絶しておるわけです。完全に隔絶しているわけです。だから違った言い方をしますと「有限と無限の対応」と。これは清沢満之先生の言い方ですが、我われは全て形あるものは無常です。有限なものはみな無常なものです。無限というのは阿弥陀です。阿弥陀という言葉自体が無限という意味です。有限と無限の対応というのが宗教だと。仏教もそのことをいってあるのだと清沢先生は仰るわけです。私たちは知性をもっていますから、限りなく可能性を探るんです。そこから科学技術も発達してきます。テクノロジーですね。知性をもって可能性を探っていくわけです。そしてそこに限りなく理想を求めて行く。それは何かといったら有限ということを知らないからです。私たちは思うようになれば幸せになれるとか、お互いがお互いを認め合っていけば平和になると思っています。しかし、そういう私たちは仏教でいう無我であれば、私たちには平和が来るでしょう。しかし、お互いが自我を抱えている間は平和は来ないでしょう。我執というのは自己中心という意味もありますから、科学技術というものが自己中心に利用されていくということになってきます。そうすると自然破壊も起きてきます。しかし、人間の知性というものは限りなくそういうものを押し広げていって今日まで来ました。しかし、そういう在り方は、常にどこに不安と空しさ人間はもっています。人間の一生は有限ですから、その一生を積み重ねて人生としたところで、結局は無常です。そういうことを何処かで知っておるわけです。そうしますと人間は不安と空しさを離れることはできません。そして、知性をもとにした可能性を追求していけば、それでいけるかというと本当はいけないでしょう。しかし止まらないでしょう、もしかすると破滅しかないかもしれません。

正信偈 18-3

​正信偈に聞く

 18-3 

​平成21年9月23日

 そういう時に、宗教というのは何を教えるのかといったら、人間は有限である、だから有限を有限と気づかなければ人間は危ない。そういう事に気づく人がいるわけです。それは無限なるものにふれた人です。普通の言い方でいいますと、我われはみな凡夫だと、欲望の凡夫、煩悩具足の凡夫だという自覚というのは、有限を有限と知ることです。我われは無限なる理想を求めっていき事を通して気づかされる。そこに無限なる阿弥陀に遇うことによって、私たちが自己というものを知る。人間とは何かということを宗教的にまた哲学的に気づいていく方向がある。そうすると人間の知性をもとにしていく生き方に大きな影響を与えるはずです。現在のところはなかなかそうなっていませんね。

 今ふと思い出しましたけれども、人間が初めて月に行ったでしょう。ソ連が先だったかな、アメリカも行きました。そこに行った人たちが戻って来て宗教家になっている人が多いんですね。地球の中にいて、地球を地球の外から見たことのない人間が、初めて月から地球を見て、地球は小さい天体だと気づいた。月に行っていかに人間は小さいか、そしていかに大自然というものが広大かということを感じた時に、何か向こうから神が呼びかけたように感じたということを地球に帰って来て語っているんです。これは体験ですが、有限を有限と知ったわけです。お月さんに行ったことを通して、初めて地球を超えて大きなものにふれた。それをお釈迦様は阿弥陀といっておられるわけでしょう。地球を出ないで地球を超えた無限なるもののはたらきにふれ、それを阿弥陀如来の本願と教えられた。そして、その本願が名のる南無阿弥陀仏というのは、我に依れということでしょう。大いなる我に依れと、小さな人間の知恵をたのむ心をふり捨てて、我に依れというはたらきが本願の名号でしょう。有限から無限への方向は閉ざされています。無限からこちら、つまり有限にはたらいているはたらきを『大無量寿経』では、お釈迦様が「阿弥陀如来が本願をおこし、名号を成就して私たちに呼びかけている」という教えとして説いておられるわけです。それはどういうことかと言ったら、無限なるものが有限なるものを包んでおるわけでしょう。包まれておる者は気づかないわけです。包んでいるものに気づかんわけです。そうすると、包んでいるものが包まれている者に、どうにかしてそのことを知らせたい、知らせねば始末がつかん。だから、今度は知らせるということは、言葉を超えた世界から言葉をもって、人間にその言葉を通して言葉を超えた世界に気づかせようという。それを阿弥陀の無限なる自己限定という言い方をします。本願というのは自己限定なんです、それを四十八通りにわたって説かれているわけです。

 曽我先生は、四十八願は「浄土の憲法」だといっておられます。それは喩えですが、日本人は気づこうと気づくまいと日本国憲法のはたらきの中におって守られておる。あるいは義務化も受けておる。ちょうど我われもそれと同じように四十八願という浄土の憲法の中で生きている。それがどこかで私の思いとは違う大きなものに触れるということがある。それは浄土の憲法がはたらいているからだと、だから四十八願が私たちの事実になるということが南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏ですから、阿弥陀仏に南無する。南無ということは帰命でしょう、礼拝です。自分の思いの中ではない何か身を投げるような世界です。自分の全存在を、そのもの中に投げていく世界です。南無阿弥陀仏というのは。そうせしめたものが向こうにあるんです。そのはたらきによって、せしめられたというのが南無阿弥陀仏でしょう。それを回向と言うてあるわけです。それがどこまでもはたらいているわけです。そのはたらきに対して、どこまでも抵抗するのが私です。南無阿弥陀仏がなくても生きていけると、自分の理性や知性が抵抗しよるわけです。しかし、どんなに抵抗しても、その者を捨てない。摂取不捨ですから。南無阿弥陀仏と呼びかけ続けるということです。そのことに目が覚めたということが信心ということです。それが正定聚に住すということです。

 ああそうだったと。私の今まで生きて来た世界は、それは私に代表される全人類全体の迷いなんだと。だからお釈迦様が人類の代表なんです。それをお釈迦様がお説きになったことで、人類の中で「なるほど、南無阿弥陀仏」と申してきた歴史が、今の時代まで来ているということです。それが有限と無限の問題です。有限と無限の対応と、有限と無限が対しておるけれども応じておる、包んでおる。私という有限は無限にはならない。無限が何を知らせるかといったら、有限なるものを、有限なるものと知らせようというのが無限のはたらき。その無限なるもののはたらきが、私にとどいた時に、限りあるものだと気づく。気づく心は無限なるものからもらった心ですよ。回向の信心と親鸞聖人がおっしゃる信心は、そういう意味です。しかも、それはどこまでもはたらいているはたらき、それを行といい、それが念仏でしょう。それに目が覚めたということが信です。だから本願から南無阿弥陀仏という呼び声となって、その呼び声にはじめて目が覚めた。自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事の後生御たすけそうらへとたのむのが信でしょう。その信を得た位を正定聚といってあるわけです。それが証です。そして、この証というのは道なんです。だから止まってられないわけです。命終わるまでといっていいと思います。人生の究極に至るまで、ことあるごとに南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と生きていく生活がはじまるということですよ。そうすると、南無阿弥陀仏の信心によって得られる覚りが日暮らしの中にあるに違いない。なるほど、こういうことだったのだなと、人生はこのこと一つを知らせてもらうためにある人生だったんだなと。これは、その人の表現ですよ。そうせしめたものは本願の名号です。それに目覚めた私の信心が、その起点になっているわけです。それが歩みになっていくわけです。そして命終わる時が必至滅度です。信を得たものは必ず滅度に至る。滅度の世界が証大涅槃ということです。それは真の報仏土です。証巻は道ということを説いてあるわけです。

 

謹んで真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。 『教行信証』 証巻 聖典P280

 

 必至滅度ですから、必ず滅度に至るというのは、至っているのではないわけです。至る必要がないのです。仏に成る必要はないのです。命終わる時に浄土に生まれるという人生がはじまっていればいいのです。それが証になるのです。そして生まれる世界が真の報仏土です。滅度の世界が、私の今の日暮らしの内景になればいいわけです。あなたはどこに行きよりますか、お浄土に向かって往きよりますと。往くという日暮らしになればいいわけです。不足を言い愚痴を言いつつ、南無阿弥陀仏に帰っていく。それが信でしょう。南無阿弥陀仏のところに帰っていけば信です。

 金子大栄という先生が大谷大学におられた頃に、お母さんからお手紙が来て、お母さんが病気になられたのでしょう。思うようにならないわけです。だから口から出てくるのは不足と愚痴と不満の心しかない。そういう中で「「切な念仏」をしておると、しかし有難い心にはなり切れない、本当に情けないことだと思うと書いておられる。そこで「切な念仏」という言葉を使っておられるのですね。金子先生はそういう心をどう受け取っていったらいいのだろうかということです。それに対してお母さんに出された手紙があるんですね。これは有名な手紙なんですけれど、切な念仏こそ有難いということを金子先生は仰ったんです。これはどういうことかといいましたら、私たちは苦しい時は苦しいことしかない、辛い時には辛いことしかない。その辛い心に喜ぶ心を入れ込もうとすることは無理だと。ところが、人間は辛い心に喜ぶ心を入れ込もうとしたり、苦しい心の中にお慈悲を考える心を入れ込もうとする。それは無理だと。そんな無理をお念仏の教えは教えてあるのではない。そうじゃなくて、切な念仏でもいい、念仏の出てくださることがお蔭だといっておられます。なかなかこれは有難いですよ。何故かというたら、念仏は本願から出てくる、私の称える念仏ではないのです。念仏は本願から出てくるんです。だから切な念仏といっておるけれども、切ない、切ないといっておる心の中に本願のみ名がはたらいておる。南無阿弥陀仏と。だから切な念仏が尊いと金子先生は仰っておられます。普通念仏は出ないんじゃないですか。切ないしか出てこないじゃないですか。誰でも念仏申しておるとは言えないですよ。真宗の門徒だってね。

 以前、ご門徒の家で誰だったか忘れましたけれども、お念仏が出てくださればねと言ったら、念仏が出ればよかばってんといいなさったことを憶えておりますけれども、なかなかお念仏は出んですよ。そこに南無阿弥陀仏と出てくださることが有難い。こちらから出ておるんではないですよ。向こうから出てくる。私たちは念仏を手段化しようとするわけです。南無阿弥陀仏称えたら喜べるようになれるかどうかと、手段化しようとするわけです。それは不定聚(ふじょうじゅ)というんです。親鸞聖人は信心を三つに分けておっしゃられます。

 

  • 邪定聚(十九願)

  • 不定聚(二十願)

  • 正定聚(十八願)

 

 こういうように、信心を願文によって教えられるのですね。邪定聚(じゃじょうじゅ)というのは念仏が分からんわけです。一種の独断論といって、邪(よこしま)に決めるわけですから、定は自分で決めていこうとする。決まらないのですから決めていこうとする、これは十九願だと。つまり念仏以外の人間の努力でしょう。努力によって安心しようとする人々という意味です。聚という言葉は人々という意味です。

不定聚(ふじょうじゅ)というのは念仏が入るのです。二十願というのはお念仏申す。他のことではだめだと、念仏以外に救われる道はないというけれども、やっぱり念仏を自行となす。他力の念仏を自行にする、自分の念仏にする。親鸞聖人はそういう言い方をなさいます。自力となすと。そこに人間の我執が残るんです。本願からはたらいている南無阿弥陀仏を、自分のものにして、自分が称えてどうかしようとする。せっかく念仏にご縁があったのに、念仏して安心しようとしている。だから切な念仏ということを言わんならんわけでしょう。念仏するばってん喜べんというわけですから、それは、念仏を自行とするからといって、念仏がどうこうというわけではないんです。自分自身がたすからんということです。だから不定聚の信心です。不定聚はいい心で念仏申されている時はたすかるような気になる、それかといって切ない時はたすからんような気になる。定まらないということです。正定聚は必ず定まる、これが正定聚。これが必至滅度です。正定聚は必ず滅度に至る道がはじまったということです。不定聚ははじまらないわけです。

来月は現生正定聚と必至滅度ということの関係についてお話をいたします。例えば、蓮如上人は二益(にやく)ということを仰るんです。現生正定聚はこの世の益・必至滅度はあの世の益だという。だから、ややもすると真宗は死んでからという言葉で表現されるような了解があるのですね。ですから古田先生は、そのことを注意なさって「此の世で仏になるのではなく、また死後に成仏するのでもない。」と、わざわざ仰っておられるんです。だから一益(いちやく)か二益かという問題が、こんなことはどうなんだろうかな思いますが、蓮如上人は『御文・おふみ』の中に二益という言葉で書いておられるんですね。この世とあの世というような意味です。そういう問題もありますから、次回は現生正定聚ということと、必至滅度ということの問題を中心にお話申し上げたいと思います。

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