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​正信偈に聞く

 19-1 

​平成21年10月27

   皆さんこんにちは。「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」という四句についてお話をしておるわけでございます。先月から「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」というところのお話をしております。

 

成等覚証大涅槃 等覚を成り、大涅槃を証することは、

必至滅度願成就 必至滅度の願成就なり。

(仏と成って、大涅槃のさとりに至ることは、第十一願の必至滅度の願成就による。)

 

と古田先生は訳をつけておられるわけでございます。

 

(20)「必至滅度の願」 阿弥陀仏の本願の第十一願(「必至滅度の願」)

衆生を必ず滅度(涅槃)に至らしめるという願。

『大無量寿経』第十一願 「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住して必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。」

 

「定聚に住す」と。そして「必ず滅度に至らずんば正覚を取らじ」というところは、願文の内容になっているわけです。そうならなかったならば仏になりませんとおっしゃるわけですから、そういうところから親鸞聖人は「必至滅度の願」と『正信偈』で仰っておられます。必至滅度ということは第十一願だと。十一願というのは「定聚に住し、必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ」という言葉をおさえて「必至滅度の願」と。このようにおっしゃるわけです。じゃあ、定聚に住するという事はどういうことかということを、古田先生は、

 

「定聚に住する」は、この世でこのまま仏となるのではなく、また死後に成仏するのでもない。必ず大涅槃を証して仏に成ることが現生において確定すること。自分自身が本願の道理にぴったりと合致すること。

 

このように書いておられます。つまり「定聚に住する」ということは、正定聚に住する。それは、この世で仏になるということでもないし、死んでから仏に成るということでもない。現生において自分自身が大般涅槃を証して仏に成るということが決まる。だから、「必ず滅度に至る」というのですから、必ず至るということは、まだ至っていないわけです。しかし必ず至る身になると。こういう意味で十一願の「定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ」と親鸞聖人は読んでおられるわけです。こういうことを前回まで、皆さんと一緒に勉強をしたわけです。

 今日は少し面倒になるのですが、一応親鸞聖人の教えについて、骨格をはっきりさせるために三願転入という問題があるのです。親鸞聖人が信心ということを言われるのに、三願転入ということを言われるわけです。三願ということは三つの願ということです。三つの願に転入するということを仰るわけです。三願転入は『教行信証』化身土巻に書いてあります。

 

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門(けもん)を出でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る、善本・徳本の真門(しんもん)に回入(えにゅう)して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択(せんじゃく)の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂(かすい)の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要(かんよう)を摭(ひろ)うて、恒常に不可思議の徳海を称念(しょうねん)す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴(ちょうだい)するなり。 (教行信証 聖典P356~357)

 

   親鸞聖人が書かれた『教行信証』のなかでも非常に大切な言葉といわれておる文章です。言葉の意味を拾っていきますと、「ここをもって」ということは、前の言葉を受けているわけです。「愚禿釈の鸞」というのは、親鸞聖人は自分自身のことを仰るときには愚禿釈の鸞とおっしゃいます。次に「論主の解義」と書いてあります。論主(ろんじゅ)というのは天親菩薩のことなんです。天親菩薩の教えで親鸞聖人が特に大きな影響を受けられたのが、「本願力回向」という教えです。この本願力回向ということを「他力」とも言われます。他力という言葉は曇鸞大師の言葉なんです。「宗師の勧化に依って」と書いてありますが、この宗師とは善導大師のことです。「久しく万行・諸善」と書いてありますが、それは万の行、そして諸々の善根です。そういうものを修行し、善根を振り向けて、その功徳でお浄土に生まれるということはできない。我われがお浄土に往生する道は称名念仏だと。万行諸善の修行による浄土往生ということを否定して、我われが浄土に生まれる道は唯ひとつ。称名念仏に依る以外にないのだということを、はっきりさせたのが善導大師なのです。

なぜ称名念仏で我われが浄土に往生できるのかといったら、それは本願のみ名だからです。南無阿弥陀仏というのは阿弥陀如来の本願力回向。つまり一切衆生を平等に浄土に生れさせたいという願われるご本願のはたらき。そのはたらきが回向です。我われに振り向けられておるということなのですが、具体的には何を私たちに振り向けられているのかといったら南無阿弥陀仏だと。つまり、六字のみ名を称えて浄土に生まれんと欲えというのが如来様の本願なのだと。だから曇鸞大師が本願他力ということを教えられる。それは具体的にはどういうことかといったら、万行諸善を棄ててただ南無阿弥陀仏、称名念仏に依って浄土に往生するのだということを教えてくださったのが善導大師だと、こういう意味です。だから「論主の解義」というのは、天親菩薩の教え。「勧化」というのはお勧めということですが、これは善導大師の教えです。そういうものを通して、

 

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門(けもん)を出でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る、善本・徳本の真門(しんもん)に回入(えにゅう)して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択(せんじゃく)の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。 教行信証 聖典P356

 

   親鸞聖人は、天親菩薩や善導大師の教えを通して、このことがはっきりしたということを仰るのです。これまでに「本願名号正定業」というのは、第十七願成就だということを勉強してきました。親鸞聖人は、如来の四十八願をどのように見ていかれたかということに関係があるわけです。その時に親鸞聖人は法然上人の依られたということはたびたび申しました。法然上人は「偏依善導一師・へんねぜんどういっし」といわれまして、偏に善導一師に依るのだと。そして、善導大師は念仏申して浄土に生まれると。他の修行や学問によって浄土に生まれるのではないということを偏に仰った。だから、如来の本願を信じて念仏申すということが善導大師の教えです。そしてそこに、老少善悪の人を選ばない仏道があるのだということを、法然上人は生涯かけておっしゃったわけでしょう。だから法然上人の教えは「一願建立・いちがんこんりゅう」という言い方をするわけです。それは四十八願を第十八願の一願で見ていくということです。如来の本願は四十八あるけれども、要するに第十八願が中心だと。これを法然上人は「選択本願・せんじゃくほんがん」といわれます。これは善導大師の教えによっておられるわけです。そしてまた「王本願・おうほんがん」ともいわれる。他の四十七願は欣慕(ごんぼ)の願と。これは、ねがう・慕うという意味です。だから、他の四十七願というのは、第十八願の心を支えるといいますか、だから第十八願が中心なんだと。四十八通り説いてあるけれども、要するに第十八願だということを知らせる、指し示す願が他の四十七願。だから四十八願は第十八願に極まるというのが、法然上人の教えなのです。だから親鸞聖人は、

 

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて(蒙りて)、信ずるほかに別の子細なきなり。 歎異抄 聖典P627

 

法然上人は「ただ念仏」とおっしゃった。念仏が誓われてあるのは第十八願だけ。だから第十八願の仰せに従って「ただ念仏」。それが四十八願の中心、後はそれを補うといいますか、それを知らせるための願が四十七願だと。だから第十八願がこの四十八願の中心である。だから選択本願。選びに選んだ本願だと。そして王様の本願だと、こういう言い方です。これは法然上人の基本的な教えです。蓮如上人の『御文』も、

 

信心獲得(ぎゃくとく)すというは第十八の願のこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。 聖典P834

 

となっています。蓮如上人の教化は法然上人に近いのです。

 

『大無量寿経』第十八願 「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」

 

「至心信楽欲生我国」 心を至し、信楽して、我が国に生まれんと欲うてと。この三つの心を三心といいます。だからこれは信心をあらわしております。次に「乃至十念」となっています。乃至十念というのが念仏のことです。南無阿弥陀仏と称えるということです。十念というのは十称ということだと。つまり十回称えるということだというのが善導大師の教えです。十八願文は「乃至十念」になっているんですが、十称とは書いてないんです。ところが、それは十回称えるということだと、善導大師はお受け取りになっています。法然上人は、それをそのままお受け取りになっておるのです。十回でもいいと。ただ一生涯も含むわけです。それが「乃至」という意味だと。こういうように善導大師は言われます。だから一声でもいい、十声でもいい、そして生涯も含むわけです。ともかく南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と念仏申すということです。しかし、ただ申すのじゃないんです。至心信楽欲生で乃至十念です。至心というのは真心をもって、信じ楽(ねが)って、心から仏の国に生まれたいと欲(おも)って称えるのです。それが「ただ念仏」という意味です。「ただ」という意味です。

ただ口で言えばいいという意味ではないのです。ただひたすらです。他のものに依らない。このことひとつに依るという意味を、法然上人は「ただ念仏」とおっしゃっておるわけです。「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と『歎異抄』にありますから、親鸞聖人は法然上人から多くのことを学ばれたでしょう。学ばれたけれども、それをお弟子に言われるときには、念仏ひとつとおっしゃるわけです。それが法然上人の教えの要になります。そして要とおっしゃるのが第十八願です。称えるということは、ただ称えるということでなくて、善導大師の「順彼仏願故・じゅんぴぶつがんこ」という言葉を法然上人はよりどころにされます。つまり如来様は、第十八願の中で南無阿弥陀仏と称えて来いとおっしゃっている。「至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。」とおっしゃられる。それが如来様の本願でしょう。それが四十八願の中の根本の願でしょう。それに順(したが)う。念仏申すということは、私が念仏申してどうかしようとか、なんぼ申したって何もならんとか、そういうものは人間の計らいです。ひたすら彼の仏願に順ずるというのは、順うですから、南無阿弥陀仏と申せとおっしゃるから南無阿弥陀仏と申す。こういう意味です。だから南無阿弥陀仏は「ハイ」でしょう。申せとおっしゃるからハイでしょう。南無阿弥陀仏、そこに仏と私の心が通うわけでしょう。どのように申せばいいでしょうか、沢山申しましょうか、善い心で申さないといけないでしょうか、そういういらんことを言わないで、ただ念仏申す。申せとおっしゃるのですからハイでしょう。それがただ念仏申す意味だと法然上人はおっしゃっています。それに極まるわけです。それを真受けになさったんです。だから、そこに法然上人の教えの基本があるということです。ところが親鸞聖人は、法然上人の教えを受けながら、法然上人の問題を深めていかれるわけです。法然上人は「一願建立」といいましたが、親鸞聖人は一願ではないのです。

​正信偈に聞く

 19-2 

​平成21年10月27日

正信偈 19ー2

十一願「必至滅度の願」  証

十二願「光明無量の願」 真仏土

十三願「寿命無量の願」 真仏土

十七願「諸仏称名の願」  行

十八願「至心信楽の願」  信

十九願「至心発願の願」 化身土

二十願「至心回向の願」 化身土

 

親鸞聖人は四十八願をこういうかたちで見ていかれます。この十一願は「必至滅度の願」ですね。これは証です。十二願・十三願というのは「光明無量・寿命無量の願」ということが説かれておりますから、これは仏様自体(真仏)であり、お浄土(真土)ですから、真仏土になるわけです。十七願は「諸仏称名の願」です。南無阿弥陀仏です。これは行です。そして、これは親鸞聖人の特徴ですが、十八願と十九願と二十願は独特な見方をされます。「説我得仏、十方衆生」と書いて、

 

第十八願は 至心信楽 欲生我国

第十九願は 至心発願 欲生我国

第二十願は 至心回向 欲生我国

 

十八願は至心信楽欲生我国となっているのですが、十九願は至心発願欲生我国になっているのです。そして二十願は至心回向欲生我国になっています。そうしますと「至心」と「欲生我国」は三願とも同じですが、違うのは第十八願の「信楽」、第十九願の「発願」、第二十願の「回向」、ここに親鸞聖人は注目されたわけです。そして第十七願の「諸仏称名の願」、こういうところに注目された人は親鸞聖人のほかはいないのです。親鸞聖人は、阿弥陀仏が光明無量・寿命無量の徳を成就なさった、そして、そのお浄土に衆生を生まれさせたいという願いをおこされた。そのとき衆生をどうして救っていこうとされたのかというと、南無阿弥陀仏申すものを救おうと。

 

誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと御約束あることなれば、 聖典P630

 

というお言葉が『歎異抄』の中にあります。つまり、南無阿弥陀仏は称え易い。南無阿弥陀仏は誰でも称えられる。たもち易いというのは、道を歩いておろうと、仕事をしておろうと、夜の目覚めでも南無阿弥陀仏といえる。そこに「易行・いぎょう」ということを言われるわけです。そして、そこに大悲がはたらいておるわけです。南無阿弥陀仏でたすけようという大悲がはたらいておるわけです。しかし、それを私たちにどうとどけるか。本願といっても、例えば四十八願は浄土の憲法だと。これは曽我先生の言い方です。我われが気づこうと気づくまいと、日本人であるということは、日本の憲法のはたらきの中にいる。またそれによって護られているという面と、また義務という面も当然あるわけです。だから、義務を果たさねば罰せられますからね。知りませんでしたでは済まないわけです。それが憲法というものでしょう。だから、南無阿弥陀仏もそうだと。お浄土の憲法は四十八願なのだ。だから、私たちは、そのはたらきの中に人間として生きている。犬や猫はそれがはたらいていても受け取る能力がないわけです。だから、人間に生まれてきたということは、そういう如来様からの因縁をいただいているということをあらわしているのだと、こういうことを曽我先生は仰るわけです。だから、どうしてそういうことを私たちにとどけるかという時に、十七願が誓われておるということに目をつけられたのが親鸞聖人です。

 今まで十七願をそういう目で見た人がいないわけです。光明無量・寿命無量の徳を衆生に与えたい。そのためにどうすればいいかという時に、十七願で諸仏に名号の徳をほめられたいということが説いてある。無量寿仏のみ名を称えて、その徳をほめられたいということが十七願あるわけですから、ここが要だと。だから十方の諸仏に阿弥陀仏が願いとしてたてた念仏を称えてほしいと、諸仏にほめてほしいと願われた。そうすると、衆生がそれを聞いて受け取る受け取り方ですね。それが十八願と十九願と二十願の問題だと。こういうように親鸞聖人は考えられたわけです。それが十八願は至心信楽に、十九願は至心発願に、二十願は至心回向になっている。この違いですね。

そうしますと、本願がはたらいておりますからね。親鸞聖人も比叡山に二十年おられました。しかし多くの優れた人々が出家して、お寺に籠ったりしているでしょう。ああいう姿は何かあるだろう。例えば人生の無常を感ずるとか、自分自身の人生の限界を感ずるとか、そういうものがきっかけになって、そして山に籠って修行をしたり、学問をしたりする。これは伝統に基づくわけですが、比叡山とか高野山に登っておる人がいる。それは十九願が願われておるからだと。つまり、光明無量・寿命無量という徳を阿弥陀仏は本願として建てて、それを多くの人びとに与えたいと思って本願を建てた。つまり憲法を発布した。それに促されて、そして出家して道を求める人がいるというかたちが本願の発動だと、親鸞聖人は見られるわけです。

 だから、親鸞聖人は比叡山での20年の修行は、俺がしたというのでなくて、やっぱり本願の促しによったのだということを、実は法然上人に遇い、天親菩薩の教えを読んではじめて分かったという意味です。それが分かって法然上人に遇ったというのではなくて、法然上人に遇って南無阿弥陀仏のおいわれにはじめて目が覚めた。それを本願でいうならば、第十八願の事実が私の上に起きたのだと。それじゃ私は本願の外におったのかというと違う。やっぱり私は親を失い、いろいろな社会状況の中で出家して道を求めたということは、いうならば、如来の本願が私の上にはたらいておった姿なのだと、こういう見方です。

 親鸞聖人は四十八願を非常に大きな眼で見ておられるわけです。だから南無阿弥陀仏申す人だけの問題ではなくて、全ての人の上にはたらいているのが本願です。それで縁あって、先ず出家して修行してというかたちで入った人は、十九願(発願)がはたらいておる。ところが十九願に行き詰まる。自力によって人間が救いを得るということは不可能だということを、頭で分かるんじゃない。修行を尽くして分かるわけですからね。そのことを通して二十願(回向)、これは諸善万行を棄てて念仏ひとつを選ぶ。しかしこれは南無阿弥陀仏を称えて、それを往生のために振り向けるという在り方です。だから自力回向です。如来様の方からはたらいておる本願のまことを受けながら、自力修行を棄ててお念仏ひとつになる。おお念仏ひとつになりながら、念仏によってどうかなろうという心がはたらいておる。それが二十願だと。そして、それが間に合わんという。そこに如来に対して大きな反逆といいますか、罪があるのだということに目覚めたのが十八願(信楽)。つまり信心の中にそういう問題があるのだということを明らかにされた。親鸞聖人はこういう、本願を見る目というものがあるわけです。そして至心信楽によって、はじめて第十一願の必至滅度という証。「等覚を成り、大涅槃を証することは必至滅度の願成就なり」ということでしょう。

 

次に三願転入のところに入ります。三願というのは、十九願・二十願・十八願です。法然上人も善導大師も浄土三部経は同じです。他のお経はお念仏のことを説いたお経もあるけれども主題ではない。本願念仏の教えを主題にしたお経は三つしかない。それが浄土三部経だということを仰ったのは法然上人です。しかし、法然上人は三部経共に真実とみておられます。ところが親鸞聖人は、この十九願・二十願・十八願の三願転入ということから、三部経の中にも方便と真実があるとみていかれます。十九願は、お経に当てたら『観無量寿経』だと。『観無量寿経』は何が説かれてあるかといったら万行諸善が説いてある。こういうように仰るんですね。。『観無量寿経』に中には、お念仏も説いてあるのですが、そのお念仏は万行諸善の中の一つのなのです。善導大師や法然上人は『観無量寿経』が中心です。念仏申せという中心は『観無量寿経』です。しかし、『観無量寿経』も『阿弥陀経』も方便。真実経は『大無量寿経』だとおっしゃったのは親鸞聖人だけです。

念仏は、『観無量寿経』の中に下品下生(げぼんげしょう)というのがあって、不善造悪(ふぜんぞうあく)の凡夫(ぼんぶ)が善知識の導きによって、臨終に念仏申して救われたということが説かれてあるわけです。それが、お念仏の拠りどころになっているわけです。それを四十八願の中の十八願に見ていかれたのが善導大師や法然上人です。ところが親鸞聖人は違うんですよ。十九願が『観無量寿経』で万行諸善を説いてある。そして二十願は『阿弥陀経』、これは執持名号ということが説いてある。「執持名号 若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不乱」に、お念仏を称えなさいと説かれている。そして十八願というのは『大無量寿経』。

 

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門(けもん)を出でて、

 

「要門・ようもん」です。

 

永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る、善本・徳本の真門(しんもん)に回入(えにゅう)して、ひとえに難思往生の心を発しき。

 

「門」というのは教えという意味なんです。

 

しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択(せんじゃく)の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂(かすい)の誓い、良に由あるかな。

 

これは「弘願門・ぐがんもん」です。

 

十九願 『観無量寿経』 諸善万行    要門 双樹林下往生  邪定聚 

                 回入                方便化土 

二十願 『阿弥陀経』 執持名号     真門 難思往生    不定聚 

           善本・徳本 転入 

十八願 『大無量寿経』         弘願門 難思議往生  正定聚

 

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要(かんよう)を摭(ひろ)うて、恒常に不可思議の徳海を称念(しょうねん)す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴(ちょうだい)するなり。 

 

 十九願(要門)から、二十願(真門)は「回入・えにゅう」と書いてあります。二十願(真門)から、十八願(弘願門)は「転入・てんにゅう」と書いてありますね。結局は十七願の問題でしょう。十二願・十三願は、光明無量・寿命無量。その阿弥陀仏は本願の中で、衆生の救済法としてお念仏を成就された。そのお念仏が成就されたことを、十七願にはどう説いてあるかといえば、諸仏に我が名をほめられたいというかたちで説いてある。この十七願成就の問題は、親鸞聖人にとって諸仏というのは、具体的には法然上人だと。つまり、法然上人という諸仏の一人が「念仏申せ」と、「念仏申して浄土を願え」と勧めてくださった。だから親鸞聖人にとって十七願というのは、法然上人という人の上に事実として出てきておるわけです。そしてその教えを聞いて信心歓喜したということです。親鸞聖人は法然上人に遇って、はじめて「ただ念仏して」という教えのもとに、我が身を投げて念仏申す人になった。念仏申す人になったということは、この三願転入でいうならば、十八願の世界に親鸞聖人はいっきに入るわけです。至心信楽欲生して、そして、ただ念仏してという世界を手に入れたわけです。しかし、親鸞聖人が法然上人に遇って念仏申す身になられた時点では、三願転入という考えは親鸞聖人にはありません。また、こんな教えは法然上人にもないのです。法然上人にもないのですから、親鸞聖人が十九願から二十願へ、そして十八願へ。そんなことは親鸞聖人にはありません。法然上人の仰せは「ただ念仏」ということです。三願転入という考え方は、親鸞聖人の晩年になって出てきているわけです。そして、本願を五願で開くとかいうようなことは、法然上人にないわけです。親鸞聖人が十九願から十八願、これは分かるわけです。この二十願の問題を問題になさったということは、信心の問題として出しておられるのです。至心発願は十九願、二十願は至心回向になっています。そうすると南無阿弥陀仏のおいわれを聞いて、親鸞聖人は直ぐに十八願の世界に入ったのですが、しかし、だんだんと年代が経つてくるにしたがって信心に問題があると。これは親鸞聖人自身の体験でもありますし、むしろ法然上人の教団にいる多くの人びとの問題でもあると見られたのでしょう。皆お念仏をしている。お念仏をしているから皆喜んでおるんですけれども、しかし、実はお念仏している心の中に問題があるのではないか。だから、十九願から十八願へというのは自力の行の問題です。だから万行諸善は、親鸞聖人でいえば比叡山の修行です。本願でいえば十九願に当たります。それを棄てて念仏ひとつということは、万行諸善の自力の行を棄てて念仏の行になったと、だから行の選択です。自力の行を棄てて本願念仏、つまり他力の行を選んだということになるわけです。

 ところが、二十願の問題ということが、親鸞聖人に問題になってきたのは晩年ではないか。こういうことを皆どの先生もおっしゃいますね。ということは、自力の行を棄てて他力の行に帰しながら、その念仏申す心の中になお自力の心が潜んでいると。行は棄てたが自力の心が潜んでいる。だから二十願の問題というのは自力の心の問題です。そういう問題があるのではないかということを、自分自身の上に見ていかれたのが三願転入の問題なのです。

正信偈 19-3

​正信偈に聞く

 19-3 

​平成21年10月27日

 曽我先生や金子先生は、自力の心という問題を、「倶生起・ぐしょうき」、そして「分別起・ふんべつき」と、こういう言い方をされているんですね。「分別起」というのは人間の考えです。自力ではもう間に合わんとか、私のようなものは自力の修行で悟りを開くという様なことは不可能だということが、はっきり決着がついたということなのです。それが、分別起の自力が廃ったということなのです。ところが、それで自力の心が全くなくなったかというと、自力の心というものは対立の心なんですね。俺が、お前がということでしょう。自力の心があるということは、人間の持っている深い迷いといいますか、我執の心といいますが、「倶生起」というのは生まれた時にすでに持って出て来たという意味だそうです。生まれたということは、そういうものを持ってきたということです。だからよく言いますが、赤ん坊には我執というものは無いか極めて少ないんでしょう。しかし、本当に生まれた時から何かあるのだけれども、そういうものが分別というかたちで、赤ん坊の場合ははたらいていないわけです。善い悪いははたらいていないんじゃないですか。しかし、何かあるに違いないと思うけれども、我われが考えるような善とか悪とか、出来たとか出来んとか、人と比べてあの人はどうだとかというようなものはないでしょう。

 藤代先生が人間は産まれて32カ月といっておられましたけれども、その時期に人間の上に分別が確立するのでしょう。だから隣のミヨちゃんは目がパチクリして背がすらっとして色が白いのに、私は何でこんなんやろうかという心がはじまる、これが分別。そこから世界がまったく違った世界になってしまう。対立の世界になる。だから、32カ月以前は、ワアワア言っておっても対立はないのでしょう。そして男も女もないわけでしょうね。真っ裸になっても恥ずかしい顔をしとらん。夏にたらいに水を汲んで裸でキャアキャア言っておるではないですか、聖書でいうとアダムとイブの世界でしょう。ところが禁断の木の実を食べたとたんに前を隠したというのは、なかなか面白い表現です。キリスト教ではそういうかたちで教えるんでしょうね、仏教は哲学的ですからね。ユダヤの人は非常に具象的です。物語として説いていくわけです。ちょうど日本の神話と同じですよ。旧約聖書というのは神話です。それをプロテスト(古期フランス語抗議する意味するラテン語公に宣言する意味する。批判的再定義?)して教義化し、特に愛ということを中心に説いたのがイエス様です。それが新約聖書ですから。だから旧約聖書をよりどころとしているユダヤの人たちは選民思想が強いといいますね。つまり、神によって我われは選ばれたものだと、だからあの人たちとは違うという思いが強いといわれます。そういうものを超えたのが愛でしょう。イエス様はユダヤ人ですから。そうして旧約聖書の中で育った人ですから、それを超えたのが新約聖書でしょう。愛というかたちでいうわけでしょう。それは選民思想を超えるわけです。民族主義を超えたわけでしょう。ユダヤ教は民族宗教です。しかし、アダムとイブの物語は面白いじゃないですか。蛇がアダムとイブを誘惑して禁断の実を食べろといったから食べた。だから神が蛇にいった、お前は俺に背いた、だからお前は大地を這いつくばって生涯生きるのだというんですよ。だから蛇は大地を這いつくばっとる。そこで神は、ここにおりさえすれば何の苦もないのに俺に背いたという、つまり人間の分別が出て来たということでしょう。男は労働、女はお産と言っていますね。やっぱり女にとってお産は大きな問題ですからね、そして苦を持つと。おもしろいですね旧約聖書というのは。仏教は哲学的ですから倶生起は、生まれた時にすでに持っている。分別起はやがて何歳かで出てくるわけですよ。だから、自力かなわんというかたちで自力の行を捨てるというのは分別起だと。ところが如来様のお慈悲のひとつだと、生きるものも死ぬものも如来様のお慈悲ひとつだとはっきりしたように見えて、いよいよ事あるごとに自分の中にふと変なものが出てくる。例えば『歎異抄』の中で親鸞聖人は、

 

いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)なり。 『歎異抄』 第九章 聖典P629~630^

 

 我執煩悩というわけですから、煩悩が我執のもとになっているわけです。法然上人は、病気になったときお浄土参りが近づいたといって喜ばれたそうだが、しかし、蓮如上人はそんな気になれんと『御文』に書いてありますから、法然上人はそうだったんでしょうね。しかし、親鸞聖人は喜べなかったのでしょう。「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」というのは自力の心でしょう。しかし、それも煩悩だと。「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」と。親鸞聖人は煩悩を目印にして、そこに大悲をいただかれたというような言い方を藤代先生はされていました。これは非常に当たっていると思いますね。だからどこまでもそうなんですね。どこまでもそうなんだけれども、しかし必ず浄土に生れさせようと言うてあるのは二十願です。だから二十願の問題は一生の問題なんですね。自分は十九願になって、そして二十願になった、そして今度は十八願に入った。だから一生涯お念仏ひとつになって春風駘蕩(しゅんぷうたいとう・何事もなく平穏であること)の日暮らしをしているということを言ってあるのではないのだと。そうじゃなくて、教えを聞けば聞くほど、やがて自力の執心が取れんことをいよいよ知らされる。知らせるものが本願ですよ、南無阿弥陀仏です。そこでいよいよ念仏の信心が深まっていく。だから必至滅度というのは、この世で仏にならないわけです。本当に自力のこころも煩悩も無くなれば仏ですよ。だけど、この世の中で自力のこころは廃らんわけです。しかし私の命終わるときに浄土に生まれるということは見えているわけです。何故かというたら、向こうから回向がはたらいておるわけですから。法然上人の教えだけでは、お念仏申しても自力のこころがどこかで残るのではないか。如来様の教えだから「順彼仏願故」、彼の仏願によるということですけれども、やはり自分で念仏を申すということがあるのではないか、それが二十願の問題なんです。ところが親鸞聖人は十二願・十三願から十七願を発見された。そしてそれが私たちにはたらいている。だから、私は念仏申さんわけにはいかんようなお手回しがかかっている。それが他力回向ということでしょう。だから、私自身はいつも如来に背くかたちでしかない。その私にどこまでもはたらいておるのが大悲だから、いよいよ事あるごとに大悲に依っていく、南無阿弥陀仏と帰っていく、それは先が暗いのではないのね。どこまでも大悲の中に生きて、しかも背く自分が照らされているわけですから、自分を見失わない。だから親鸞聖人は「悲しきかな・恥ずべし、傷むべし」と。

 親鸞聖人は「悲しきかな・恥ずべし、傷むべし」という言葉を、方便を説く化身土に書いておられるのでなく、真実信心を説かれる信巻におっしゃるのです。それは信心の喜び自体を書かれるときに「悲しきかな・恥ずべし、傷むべし」という言葉をいうておられるわけです。だから、「悲しきかな」という言葉がどこから出てくるのかといったら、大悲に遇った喜びと共に、それに背くことしかできん我が身がおる。しかも、そこにどこまでも大悲がはたらいておられるというかたちでひとつになっている。三願転入をわざわざ説かれる親鸞聖人の心です。だから、自力の行から自力の信の問題をどこまで誤魔化さずに生きた人が親鸞という人だということを私たちがはっきりさせる。二十願には果遂の誓いということがあります。遂に果たせずにはおかんという意味です。果遂ということは二十願の最後にあります。「果遂せずんば、正覚を取らじ」と。だから二十願の問題は、私たちに一生涯の課題になる問題だと。しかし、それはそのまま信心の喜びを深めていく問題だと。こういうかたちで言うてあるのですね。だから必ず滅度に至るというのはそういう意味です。私たちは、このまま死んだら極楽に行くんですかというような話ではないんですね。常に私たちは大きなお慈悲の中におりながら、それに背いておるということも知らずにおる。そのことをどこまでも知らせて、はたらき続けておってくださる大悲なんです。それが十七願の問題です。本願の名号は正定の業です。必ず私たちを救わずにおかんと願われる。だから、私たちの一生涯は「聞其名号・もんごみょうごう」です。

 親鸞聖人は、十八願の問題を、

 

聞其名号  その名号を聞きて

信心歓喜  信心歓喜せんこと

乃至一念  乃至一念せん。 『仏説無量寿経』巻下 聖典P44

 

というのが、十八願成就文です。「その名号を聞く」、その名号のおいわれを聞けば聞くほど、いよいよ大悲の偉大さと、それに背こうとするものが取れないんですね。そういう私。だからこそ大悲が頂けるという、そういう問題ですね。だから、そういう問題がはっきりしなかったら、いい心が出て来た時はたすかるような気が起こるし、そうでないときは、私はたすからんのではないだろうかというような心が起きてしまう、実はそれが問題なんですね。どういう問題かというと、そこに大悲ははたらいておるのだと。実は私は救われんのではないかと、自分に気づくということ自体が大悲の計らいの中の出来事です。だからどこまでも知らせて私を徹底的に尽くさせて、徹底的に救おうというのが他力回向の名号のもっている意味だということを、親鸞聖人は天親菩薩の教えを通していただかれていかれたということです。私たちはどうかすると、まだお前は二十願だ、私は十八願になったというような言い方をする先生もおられますが、それは誤魔化しだと思いますね。そこを徹底的に押していった人が親鸞聖人です。そのことがはっきりせんままで、喜びとひとつになっていこうとしたのが、法然上人のお弟子の中に沢山いたんでないでしょうか。しかし、そこに問題があるのだということを誤魔化さずに見ていって、そのことを一つの教えとしてきちっと押さえていかれたというところに、親鸞聖人のいうならば厳しさがあります。こういうことは法然上人も善導大師にもありません、これは親鸞聖人の教えです。ある人は、法然上人の教義を親鸞聖人が哲学的にしたという人もおられますけれども、そういう意味ではなくて、どこまでも法然上人の教えを聞いていかれた。法然上人はお亡くなりになっても、親鸞聖人は法然上人からこのように教えてもらったというかたちで、法然上人の教えを聞き続けられたのが親鸞聖人でないでしょうか。そこから三願転入というような問題が出てきて、そして真実と方便というようなことまで仰ったんだと思います。必至滅度の願成就ということについては、これで終わりにして、次回からは次に移りたいと思います。

親鸞聖人は『観無量寿経』や『阿弥陀経』ではなくて、『大無量寿経』で真宗の教えを明らかにしていかれた。「真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」と。それが念仏申して生きるという宗教生活なのだと。ここに私たちの生涯が尽くせる。必至滅度ですから、どのような宿業の中で生きても、その生活を尽くしていける。私たちは常に危機をもっている。精神的な意味で言いますと、とっさに動く心の中に危機があります。危機のない人なんていないと思いますよ。ムカッとするとか、不安をもつとかですね、相手に対して不足や批判をするとか、そういう心は私たちにない人はいないでしょう。信心喜ぶ人は、そういうことはなにも思わんと、そういうことを仏教がいうはずがない、そんなことで娑婆が生き抜けるはずがない。仏教は生き抜ける世界です。命終わるとき浄土に生まれるという生き方は、生き抜ける生き方です。いま今、本当に生き抜いていける、そういう願力です。そういうことを教えてあるのだということを私は思いますね。そういう意味で我われは常に危機をもっているということは、三十願的な問題をいつも抱えている。しかし私たちは必至滅度という正定聚の機です。これが親鸞聖人の教えの一応の骨組みです。先ほど書きましたのと、願の問題と、この三願転入の問題が骨組みになります。これがある程度了解できておりますと、どこからでも了解ができて来るわけです。こういうことを親鸞聖人は教えてくださっているのだなということが分かってきますから、ここのところの問題は大切なところだと思って、少し面倒ですけれども申し上げたことでございます。

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